5
「砂の、鋼」
クリスは男から聞かされた単語を舌に転がした。はじめて聞く言葉が、ひどく耳になじむ思いがある。
「そう。いつの間にか出来ていたものなんでな、どうやったら出来るかさっぱりわからん。そのうちに、そういえばその時やたら炉の火力を高くしていたことを思い出した。しかし密閉式の炉で、人力ではそれがなかなか厳しい。水車を使った炉が必要だったのだ」
得心がいったクリスが頷いた。
「それで、今回の大学なのですね」
「そういうことだ」
イシクは渋面だった。
「あまり気は進まんかったがね。好きに研究をやらせてくれると、そこの男の父親がしつこく言ってくるから、講座を開かんでもいい条件で引き受けた。別に儂は誰かに教える為にやっているわけではないのだ。自分の好奇心の為だからな。まあ、自分から来る物好きな連中を追い払うほど狭い性根でもないが」
クリスはくすりと笑った。ここに自分を連れてきた男の知人であるが故に、とでも思えばいいのか。この老人もまた一風変わった人物であるようだった。
「しかしだ、必要だったのは炉と高温ばかりでもない。というより鉄は溶けるほど高温で熱すると、どうも脆くなってしまうようなのだ。それでまた、偶然これが出来たときの状況をうんうん唸りながら思い出してな。燃料と一緒にあったものに思い至った」
「特別なものだったのですか?」
「いやいや、どこにでもあるものだよ。鉄より身近なものだ」
答えを待つクリスに、男はあえて沈黙して相手の様子を楽しんでいるようだった。
困惑する様子を見かねたニクラスが口を挟んだ。
「……先生。女性を困らせて楽しむというのはあまりいい趣味では」
「なにを言う、教師が生徒に質問したのだ、待つのが当然だろう。それに、儂はとっくに答えを言っておるじゃないか」
そんなはずは、と思いながらクリスは答えた。
「まさか――砂。ですか」
「その通り」
イシクは大きく頷いた。
「砂海のきめ細かい砂を燃料、材料ともに程よく燻してみたところ、非常に近いものができた。今までの鉄よりはるかに硬度のあるものだ。なのだが……」
「製法に、他にも問題が?」
「製法とはまた別なのだ。あらかじめ想定されていたものではある。――ニクラス君、やはりあの炉は馬鹿食いするぞ。今の貯蔵量なぞないにも等しい」
「やはり、そうですか」
ニクラスが頷いた。隣のクリスへ説明を補足する。
「炉を燃やすのには木炭が使われています。あれだけのものをあの火力で用いるのには、途方もない木材が必要になるでしょう」
ああ、とクリスは思い至った。確かにそれは重要な問題になる。
「試運転の段階でこれだからな。一度つけた炉の火はなるべく消したくないのだ。しかし、あれでは五日ともたんだろう」
この惑星で鍛冶技術がいまだ発展しないでいる決定的な理由の一つだった。限られた水源、そこから得られる材木にも限りがある。安定したヴァルガードの水源に木々は育つとはいえ、伐採してすぐに次が生え育つわけではなかった。
「実はそのことで、クリスティナ様にお話があります」
ニクラスが言った。
「私に? なんでしょうか」
「アルスタ家の土地では、石の炭で暖をとられると聞きましたが、確かですか?」
「ええ、そうですが……」
頷くクリスに、イシクが目を丸めた。
「ほう。石炭が取れるのかね」
石炭とは青銅と同じく、一定の地域に偏在する地下資源だった。
この時代にはまだ判明していないことではあるが、石炭とは化石化した植物である。それが豊富にあるということはつまり、その近くには以前に安定した水源があったことの証といえた。
「その石炭を、この炉に融通してもらうことはできませんか」
髭の薄い顎をなぞったイシクが思案顔をつくった。
「ふむ。石炭を燃料に使ったことは今までなかったかな」
「燃えればいいというわけでもないでしょうが。石炭の火力は相当なものと聞きますので、ひとまず炉の温度は確保できます。それに、流れ着くのだけでもかなりの量になるのでしたよね?」
突然の申し出に戸惑いながら、クリスは答える。
「確かに、石炭なら近くからも上がってきますし、そのあたりの土を掘っても出てはきますが、しかしそうしたことは私の一存では。父に話を聞いてみなければ」
ニクラスは頷いた。
「もちろん、それでかまいません。一度、お話してみてくださいませんか」
工房で使われる燃料として、アルスタ家から石炭を提供する。話を聞くだけでは断る理由がないものに思えた。土地に余るほどある石炭は無償でということにはならないだろうし、この炉を用いた鍛冶技術から得られるかもしれない成果を思えば、それが高値でなくとも一向にかまわない。しかし、だからこそという不思議はあった。
クリスはニクラスを見る。自然と落ち着いた眼差しには、なんの裏もないように思える。
透き通っているのに底が見えない、深い黒色をした相手の瞳に吸い込まれそうになっている自分に気づき、クリスはさりげなく視線を伏せた。自分一人での判断は避けるべきだ、と考える。
「わかりました。帰ったら父に話してみます。結果については、お約束できませんが――」
「本日の主役が、こんなところで悪巧みの相談か?」
楽しげな声が響いた。
振り返った三人はそれぞれの反応を見せた。ニクラスは片方の眉をあげて驚きを示し、クリスはあわてて礼の姿勢をとった。イシクは両手を広げ、大きく笑み崩れた。
「これはまた、今日は変わったお客が大勢くる日だな」
二人の供を連れた引き連れた女性が、壮美なドレス姿を軽く持ち上げて室内へと足を踏み入れた。
「ここまで辿り来るのに息が詰まりそうになった。鍛冶場というのは、どこもこのような暑さなのか」
「大抵がそうであるかと存じますな、皇女殿下。汗をかいて運動がわりになるかと思いますので、麗しい方々に大勢きてもらえると嬉しいのですが」
大仰に腰を折って臣下の礼をとりながらの軽口に、それだけで相手の性格を把握したアンヘリタ皇女が苦笑を浮かべた。
「アンヘリタでよい。老師のお名前も聞かせてもらえるか」
「イシクと申します、姫」
「ふむ。そなたは?」
「クリスティナ・アルスタと申します」
顔を伏せたまま、クリスは緊張した態で答える。
「そなたがか。一度話してみたいと思っていた。女だてらに並み居る男よりも華麗に剣を振ると、噂になっておった」
「恐れ入ります」
アンヘリタは眉をたわめた。
「今のわらわは同じ大学で学ぶ学友だ。そうかしこまらんでくれ」
「……はっ」
答える声がやはり硬い。アンヘリタの視線を受けたニクラスがとりなした。
「突然、皇女殿下にお声がけをされれば誰でも驚きます」
「そういう自分はもう平然としているようだな」
「この男はそういう性格ですからな。まったく不敬の極みですて」
自分のことを棚にあげてイシクが茶化した。アンヘリタは苦笑を浮かべた。
「まあよい。ニクラスの驚き顔なら先に見たしな。しかし毎度毎度、話しかける度に目を丸まれては悲しい。少しずつ慣れていってもらえると嬉しいな。これでも、そうそうひどい外面でもないと思っているのだ」
これも軽口だった。ひどいどころか、彼女の容姿は飛びぬけている。彼女を例えて下々が言う煙るような美貌、とは水源豊富にして霧靄のかかるヴァルガードならではの表現だが、水天教を信仰する者にとってその意味するところはさらに重かった。そう冠されるだけの魅力を目の前の相手は持ち合わせていた。
顔を持ち上げて間近に彼女を見たクリスは、納得と同時に別の感情を胸中に抱いた。毛先まで櫛の通った髪、決め細やかな肌艶。柔らかさのある肢体と物腰。あまりにも違いすぎる、と悲嘆する自分に驚いた。いったい自分はなんと大それたことを考えている。
「それで、わざわざこんなところまで如何されたのですか」
ニクラスを見上げた皇女が呆れたように言う。
「戯け。どこかの誰かが、講座が終わってすぐにいなくなるのが悪い。お前を囲んで雄弁を讃えたいとしておった者がどれほどいたと思っている」
「だからすぐ出たんですよ」
興味深そうにイシクが問いただした。
「そういえば、儂のところに来るのが遅れたと言っていたな。いったい何をしでかしたね、君」
「別にたいしたことは――ああ、クリスティナ様。これから御用があるのでしたね。どうぞお気になさらず」
声をかけられたクリスには用事などなかった。男へ口にしたおぼえもないが、明らかにほっとした心情でクリスは頷いた。
「はい、申し訳ありません。それでは私はこちらで失礼致します。イシク先生、アンヘリタ姫」
「うん。また来てくれたまえ。いつでも歓迎するよ」
「今度、庭先の茶会にでも誘わせてもらってよいかな」
「ありがたく存じます。――ニクラス様、先ほどの件は後日にて」
「よろしくお願いします」
深く一礼して部屋を去っていく。部屋の出入り口で待機する二人の侍女の間を通った彼女の姿が消えたのを見届けて、アンヘリタが露骨な表情でニクラスを覗き込んだ。目が意地悪く笑っている。
「そう慌てて隠そうとせずともよいだろう」
ニクラスは首を振って否定した。
「違います。あの方を工房にお招きしたのはわたしですから」
「君が女性を連れてくるというのにまず驚いたな。石炭の件があったからかい?」
イシクの台詞には、最初から隠そうという気すらなかった。ニクラスは苦笑するしかない。
「あるいはとは思いましたが、最初からそう思っていたわけではありません」
「石炭? それはなんだ」
イシクから説明を受けたアンヘリタは、切れ長の瞳を細めた。
「あの火の鍋を燃やすのに、アルスタ家の石炭とやらをな」
相手の視線を自然とかわすよう、ニクラスは肩をすくめた。
「いくら立派な炉を作っても、利用できないのでは意味がないですから」
「色々と考えてはみたが、燃料だけは悩みどころでしたからな。儂には嬉しいことですが」
「それはなにより。老師の研究で帝国の民が豊かになるというのなら、文句もない」
しかし、と皇女は続けた。
「ニクラス。石炭をアルスタ家から賄うというのは、そちの考えか」
ニクラスは表情を変えなかった。
「ええ、そうですが」
「宰相殿は知らない話なのだな?」
一瞬の間も置かずに答える。
「はい。もし先方からいい返事をいただけそうなら、その時点で話そうと思っています」
「ふむ」
アンヘリタが面白がるように間を打った。汗を嫌ったのか、背に流れる長髪をすくう。音まで響きそうななめらかさで波打った。
「老師。炉というのは金属を溶かすものらしいな。石と金属は、つまりそこが違いか」
「いかにも。溶けて雑じる。石と違い、伸ばして曲げることができます。その変容こそが金属の真骨頂と言えましょうな」
「なるほど、そしてそれを可能にするのが、火。業火か」
アンヘリタがニクラスを見た。
「業といい、業という。そこに何をくべるのか、何が生まれるのか。興味深い」
口元には微笑のまま、眼差しだけが笑っていない。
「火も然り。あまりに強すぎる火は災いを招く。水天の教えでも、全ての水を干上がらせたのは狂火と言われておるよな」
その解釈は一般的なものだったが、ニクラスの考えは異なっている。しかしそれは本題ではなかった。
「そなたがしていることで、起こることは当然予想しておるのか。遠く水陸の未来をとはいわん、近くにいる人々のことを。そなたまさか、あの家を贄にするつもりではあるまいな?」
ニクラスは答えた。
「そんなつもりはありません。彼女は友人です」
「約せ。ならばここで見聞きしたものは秘めおく。巻き込むつもりではないのだな」
「まずわたしが巻き込まれたくありませんから。わたしはこの炉が動いているところを見たいだけです。いえ、影響についても、それなりに考えてはいますが。少なくともクライストフ家が動くよりはましでしょう」
「その分、風当たりはアルスタに向く」
アンヘリタは言った。ニクラスは首を振る。
「それで父が知らぬ顔をするというなら、この話は終わりです。結局は父と向こうのお父上での話になるでしょう」
「――そうして、アルスタをクライストフの剣とするか」
皇女が重ねた言葉には、その日ニクラスが他者から受けたものでもっとも切っ先の鋭さがあった。
帝国の重臣にあって、クライストフ家は貴族同士の政争から遠く高みにある。それはひとえに当主ナイル・クライストフの政治的手腕のなせるものではあったが、貴族でありながら騎士以上の爵位を持たない異色の存在、その孤高さ故に許されてきた部分もあった。帝国にある全ての貴族が、クライストフ家と懇意になることを望み、一方で他家がそうすることを恐れてもいた。
「その剣はただ国家に捧げられているはずです。そうでなければならない」
ニクラスは言い切った。
「アルスタの剣とはまさにツヴァイの剣です。そうではないですか、姫」
言葉を交わすうちに場に冷えた気配が漂っていた。気温によらず体感するその雰囲気を、皇女の軽やかな笑いが振り払った。
「ならば問われるのは持ち手の技量になるか。そなたはそなたのやるべきことを、わらわはわらわのやるべきことを。つまりはそういうことだな。なるほど、たいした話術だ」
美味を堪能する表情で言う。
「うむ、楽しかった。こうした論舌を大勢の前で闘わせることができないというのは、女の身が歯がゆく思うな」
皇女は本気でそう思っているような口振りだった。
「社交の場で日夜繰り広げられるものを思えば、比較にならないのでは」
ニクラスの言葉に再び笑う。
「それもそうだが。しかしあちらは種類が異なるからな。まあいい。わらわの手元ではどの剣も粗末に扱わせはせんよ。それと、楽しませたもらった礼に忠告しておこうか。ニクラス、そなたは今日、二人の敵を作ったぞ」
ニクラスは眉をひそめた。一人は思い当たりがあるが、もう一人は誰のことかわからない。
「マヒート・メイジャン。ナトリアの中堅貴族だが、さすがに覚えはあるまい。そなたの前に論客に立って、さんざに叩き伏せられた男だ」
「……なるほど」
「怨み嫉みは理屈ではないな。わざと自分が負けてから壇上にあがった卑怯者――そういう見方をする者もおるというわけだ。他にも様々な者が、様々な物思いをしているだろう」
途端に嫌な顔になったニクラスの様子を笑い、アンヘリタは続けた。
「それが不満なら、講座に出るべきではなかったな。知人の受けた無礼を注ぐために出向いたなどと解釈してくれる者は滅多におらんし、したらしたでその人物はそなたの普段の行いを擬態と見る。警戒される」
中庭での一件を皇女が知っていることにニクラスは驚かなかった。
皇族としての生を受けた彼女は、間違いなく大学にいるどの人間よりも社交に長けている。様々な人から見聞きする情報の質も量もあるし、さらにお付きの者達がいた。目に見えている二人以外にも、彼女を護衛する役目の人間は配置されているはずだった。そうした者達から報告が入っていて不思議はない。
「目立ちたくないのなら、一粒の砂になって砂海の大流にまぎれておればよかった。それともうつけを演じるなら、最後まで貫かなければな」
言葉を返しかけ、相手の自分を見る眼差しに深みがあることに気づいて、ニクラスは小さく頭を振った。
「……普段から、意図があって行動しているわけではありません」
アンヘリタには逃げを打った男を逃すつもりはないようだった。
「ならばいっそう、そなたは警戒されよう。演じもせずにうつけをやってみせるなど、うつけ以外にはできん。普通はな」
自分の台詞の含みに自身で気づいた様子で口の端を歪める。苦笑した。
「まあよい。一言、言っておこうと思っただけだ」
不思議に思い、ニクラスは訊ねた。
「わざわざその為にいらしてくださったのですか」
「使い手が問われるのは、何も剣だけではあるまい」
答えるアンヘリタは当然といった顔だった。
「盾も筆も、ツヴァイのものであれば全て等しく相応の輝きをさせてやらねばならんだろう」
そうあるべしと生まれながらに決められ、それを自ら受け入れている口振り。間違いなく帝国を支配する者の態度だった。
ニクラスは頭を下げた。当然としてそうするべきと思えたからだった。
ニクラスがその場を辞去し、皇女はまだ鍛冶場の見学がしたいと言ってその場に留まった。
イシクから様々な説明を受けながら、アンヘリタは素直に興味深い表情でそれらを見回った。工場で働く者達にも気さくに声をかけて慰労する姿に、声をかけられた職工達は一様に感激した表情だった。
やがて一通りの説明を終え、イシクは質問の有無を訊ねた。
「聞きたいことがある、老師」
「なんなりと。皇女殿下」
さきほどは是正された言葉遣いが今度は流された。今からされる質問がどのような立場からのものであるか、お互いに理解しているのだった。聞かれる内容についても見当がついている。
「あの男をどう思う」
予想していた通りの皇女の言葉に、イシクは即答した。
「面白い男であると思います」
「面白いか」
「左様。あれほど性根の曲がった者はそうはおりますまい」
「褒めている言葉に聞こえんが」
アンヘリタは笑みを漏らしたが、イシクは笑わない。冗談を言ったのではなかった。
「褒めも貶しも致しません。あれは面白い。同時に、不思議でもあります。不気味といってもいいでしょうな」
「どういったところがだ」
アンヘリタが訊ねた。
「一般的な貴族とまるで異なる見方をしているからです。そもそも、戦にも出ない貴族が、工房に来たりはせんでしょう。なんといいますか、あれの立ち位置は、むしろ我々に近いのではないでしょうか。よほど捻くれた教育を受けたせいかどうかはわかりませんが」
「教育。環境、あるいは血か」
「さすがはあの宰相殿の子、と思うところではありますな」
イシクは鼻を鳴らした。ツヴァイ帝国宰相ナイル・クライストフの奇矯さは他国も知るところである。
「変人か。確かにあの者は異色だ。……そうか、職工や学者に近い、か」
考え込んだ表情になるアンヘリタに、イシクは言った。
「的な、などという言葉は好きではありませんが。貴族的、という言葉を考えればもっともあの者には違和感が強く思えます」
「出世欲や名誉欲ではない。ならば、知識欲、探求欲あたりかな?」
男はゆっくりと頭を振る。
「そのあたりはどうにも。いずれにしても、信用はできても信頼はできない。信頼できても信用したくない。そういう男です」
「ほう、手厳しいな」
意外なようにアンヘリタが言う。イシクはちらりと向けた顔中に皺をつくり、言った。
「儂が性根が曲がっていると申しているのはですな、姫。それが、あやつ自身そう思われるように仕向けているように思えてならんからです。父親以上に年の離れた相手に向かって、まったく可愛げがないことこの上ない」
「なるほどな」
アンヘリタは笑った。そう考えれば、イシクの評はいかにも的確なものであるように思えた。
「すまぬ。もう一つだけ質問させてくれ」
「どうぞ、この老体にお答えできることでしたなら」
「もしもの話だ。そなたがそなた自身のまま、自侭に振舞える立場にあったら。このツヴァイを裁量できる立場にあったなら、何を望む?」
しばしの沈黙の後、男は答えた。
「――そうですな。水陸中の岩と土と砂を集め、炉を作り、資源を漁り、この水陸の地下にあるものを暴こうでもしますかな。どれほどの財貨を費やしてでも。学者というのはそうした生き物です。ひどく業が深く、自らの欲を満たすことだけを考えている」
「業欲か」
つまりはそこが肝要になるのだとアンヘリタは思った。
あの男がいったい何を求めているのか。そしてそれは、この国が与えることのできるものなのか。
それができるのなら、ツヴァイにとってあの男は益となる。この上ない人財であろう。それができなかったら――その場合には、そうした場合への対処があるだけだ。善悪ではなく、国家を在り続けさせる為にそれは必要なものだった。
皇家の者として当然の意識を彼女は持っていた。一個人に特別な感情を抱くことはない。それが上に立つ者の在り様だと躾けられてきたからだった。
「どのような首輪を用意するか、よくお考えになるべきでしょう」
イシクが言った。世間ずれした学者らしからぬ洞察に、アンヘリタは微苦笑で応える。
「首輪というもの自体に反発を覚える者もいよう。とくに男に多いと聞くが」
「なに、皇女殿下。男に犬や狼の違いがあるわけではございません。犬や狼にそれぞれ雄がいるだけです。当たり前ですがな。そして、何もかもから自由な者などこの世に存在しません」
彼女は続きの言葉を待ったが、男の言葉はそれで全てのようだった。意味深な言葉の意味を考えながら、イシクが年長者と教師を兼ねた表情でいることに気づき、微笑んだ。
そう、何もかもから自由など者などありえない。それを求めるのは傲慢だ。
誰も彼もが、一人で生きているわけではないのだから。
「ありがたいお言葉だ。老師、また遊びにこさせてもらってよいか」
「歓迎いたします。もう少し薄着の方がお体にはよいかもしれませんぞ。工場の連中も喜びます」
最後の言葉は、アンヘリタはあえて聞こえないふりをした。どう取り繕ったところで、不敬にあたるのは免れないものであるからだった。