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その日の水陸史の講座で議題として取り上げられたのは、過去にバーミリア水陸で広大な版図を築いたガヘルゼン王国の凋落を決定付けたとされる事柄についてであった。
この惑星においては、争いの多くが水の奪い合いに端を発する。国が成立する以前から、そしてその後もそれは変わらなかった。水陸という生息可能圏内で気まぐれに沸き、枯れる数多の水場を巡り、過去に流されてきた血の総量はあるいはそこに湧出する水と量、そのものであるかもしれなかった。
記録にはっきりと残る中で、最も古くバーミリア水陸における国家的な在り方の始まりとされるのは、ハペウス集合郡と呼ばれる。これは水場を転々としながら生きる、いわゆる部族的な人々が集まって成立した組織体であり、ツヴァイ帝国で国教として信仰されるのを中心に、水陸各地で強い影響力を持つ水天教が生まれたのもこの時代の頃だった。
その後、ハペウス集合郡は拡大と内乱、やがて衰退して各地に有力者が台頭する。その中で中央大水源を征した者の名をガヘルといい、その者が興した国をガヘルゼンという。彼は古に伝わる伝説から自らの国をガヘルゼン王国とし、自らをその王と自称した。バーミリア史において、王という呼称が正式なものとして用いられたのはこれが始めてである。物語として伝わるものならば、これ以前にも東征伝説で名高いガナ王の名などがあった。つまり神話に倣って王権を認めさせたのだった。
中央大水源の豊富で安定した水量を背景にしたガヘルゼンは、その一事をもって他を圧倒した。
後にツヴァイやその他の国で見られることになる、確かな水源を確保してそこに留まり、他に遠征して勢力を広げるという支配姿勢はガヘルゼンに通じる。人が水場を点々として砂に逐われることを克服したかのような、それは大きな転換であった。
その後、バーミリア水陸の西方に全く異なる水陸文化があることが判明し、両者は結局のところ戦火をまじえることになる。ガヘルゼンはその主導的な立場にたったが、戦争は互いの水陸の経路にあった中陸の枯渇、そこにあった街の消滅という悲惨な形で幕を閉じ、関わった全ての国あるいはそれに準ずる組織に疲弊と痛みだけを残した。この戦争で、国家としての水や物、人といった成果はほとんど皆無だった。
特にガヘルゼンへ与えた負担は深刻だったが、さらにそこに東方からの侵略が続いた。
遊牧騎馬民族バハム。ガヘルゼンを襲った集団が、疲弊していたとはいえ精強なガヘルゼンを打ち破った理由はその騎馬の運用にある。ガヘルゼンにも騎馬はあったが、あくまで補助的な役回りに徹していた。彼らにとっては、あくまで歩兵による戦列前進が戦術の根幹にあった。隊列を組み号令一下、正面から剣をあわせて押し勝つことが戦であると信じていた。
一方のバハムは軽装で、騎馬と弓を用いる戦術をとった。
密集している為に速やかな陣形の変更に遅れをとり、騎馬戦力も歩兵にあわせて鈍重な装備だったガヘルゼンは、軽妙な遊牧兵の動きに思うままに翻弄された。相手には槍と槍を突き合わせるつもりさえなかった。距離をとり、弓矢で射掛ける。後方に回り込み、戸惑う陣形の横を撫で切るように走りぬけることを繰り返した。
彼らとの戦いにおいて、ガヘルゼンは常に守勢に回らざるを得なかった。やがて業を煮やし、突出した騎馬兵が全滅した段階になって、ついに士気が崩壊した。崩れる砂山の如く、ガヘルゼン兵は散り散りに逃げ惑った。
遊牧民族バハムはそのままガヘルゼンの勢力内を荒らしまわり、財や人を略奪して去った。大いに味をしめた彼らは以後、度々ガヘルゼンへの襲撃と収奪を繰り返すことになる。
やがてガヘルゼンが衰退し、滅んだ一因は確実に彼らの存在にあった。その騎馬を用いた機動戦術が与えた影響も計り知れない。再び戦乱の時代に突入した水陸において、長き戦いの後に中央水源を手にしたある勢力にもそれは見て取れた。
彼らは東方の騎馬と自分達の騎馬の違い(運用方法以前に、品種として大きな違いがあった)を研究し、独自の戦術としてそれを昇華させた。ガヘルゼンから続く戦列前進戦術に、機動力を加えた装甲騎兵を主軸として水陸に覇を唱えたその勢力こそが現在のツヴァイ帝国である。
一方、東の騎馬遊牧民族達も、自分達の根城近くにあるその他の集団との争いを経て集合と分裂を繰り返し、やがて一大勢力となった。各地の有力者が協力して国家の体を成す国の名をボノクスという。両者の因縁は、直接の血が続くものではないにせよ、生き方や価値観の異なる者同士が古くから連綿として織り成すものでもあるのだった。
その両国に属する二人が論客に立ち、ガヘルゼン王国を襲撃して以降の衰退のきっかけを作った騎馬民族バハムの襲来について論を戦わせる。普段は軍事や討論に興味のないものでも心惹かれずにはいられない、これは催しだった。しかも論客の一人は最近の活躍で弁舌の巧みさを周囲に知らしめているボノクスのベディクトゥ・ラグゼ・アシアセレ、相手に立つのはあのニクラス・クライストフである。
講座の開かれる大教室には開始前から多くの人が溢れ、立ち見の者まで出る始末だった。普段は同じ時間に茶会を開いているような子女達の一団も陣取っている。中には勝負を賭け事の種にしている連中もいるらしく、あたりには異様な雰囲気があった。
騎馬遊牧民族バハムのガヘルゼン襲撃についての討論。学生達の出自と感情を考えれば、たかが講座とはいえあまりに思慮の浅い選択だが、仕掛けた講師はそ知らぬ顔で場に高まる熱気を眺めていた。もちろん、このような事態が予想できずにいるはずがない。講座の人気の為か、他に意図があるのか。いずれにせよ客寄せに使われた形のニクラスには迷惑でしかなかった。
講師が立つ教壇を中心に半円に囲んで作られた室内で、階段状に長机が並んだ教室の中ほどに座ったニクラスの隣では、心配げな表情でアルスタ家令嬢が横顔を見つめている。自分が強く勧めたことではあったが、あまりの盛り上がりぶりに少なからず動揺を隠せないでいた。
午後の開始を告げる鐘楼の音が打ち鳴らされた。
注目の講座で、先陣を切ったのはベディクトゥである。騎馬民族バハムのガヘルゼン襲撃において、最も注目すべき点はどこにあるかという講師の問いかけに、彼は格調高い弁舌で答えた。
「それはやはりバハム勢の、騎馬兵を縦横無尽に駆け巡らせた戦術ではないかと。ガヘルゼン王国兵の精強は間違いなくその時代において水陸一でしたが、いかに鍛えた槍の穂先も体に届かなければ意味を成さず。馬と弓を用いた用兵術には、いかなガヘルゼンの剛兵といえど辛酸をなめずにいられませんでした」
出自からすれば当然のことではあるが、ベディクトゥのとった立場はバハムの優秀性を褒め称えるものだった。それと同時、ガヘルゼンを決して貶めようともしていない。何もガヘルゼンの後継を標榜するわけでもないが、ツヴァイにとってはそちらのほうがより近しい存在であった。ガヘルゼンを避難されれば当然、その心証は悪くなる。相手への嘲弄が自らの論の優越を支えるものではないことを男は理解していた。
響き渡る声は低く深く、爽やかさがある。天性のものと、そうあろうと努力して得たものをどちらも兼ねそろえた語り手に対さなければならないニクラスは、その論調を聞いて普段の表情のまま変わらない。離れた位置に座った彼を得意げに見返し、ベディクトゥが続けた。
「新しい戦術。まさにこれに尽きます。当時のガヘルゼンにも騎兵はありました。しかしそれはあくまで歩兵に随伴する存在であり、単体で運用するものではなかった。東と中央で用いられていた馬種の違いももちろんあるでしょうが、それ以前にそうした意識がなかったことが問題でしょう。事実、自分達の地域にある馬の特性を生かし、精強な騎馬兵をもってこの水陸に覇を唱えていらっしゃるのが、ツヴァイ帝国騎士兵の勇猛な歴々なのですから」
またしても敵国を相手に持ち上げてみせるような台詞だが、耳にしたツヴァイ出身者の反応は微妙だった。ベディクトゥの言い分は、つまりツヴァイの誇る用兵術も、所詮は遊牧騎馬民族――その正当な後継であるボノクスの模倣に過ぎないのだともとれるからであった。
わかる者にだけわかる毒をまぜたベディクトゥからの挑発を受け、なおニクラスは沈黙を保っている。反論しようとする気がないのか、あるいは目を開けたまま眠ってでもいるのか。他国の者ばかりか自国の者までもが侮蔑と失望の視線を向ける中、堪えかねたように別の者が挙手をして立った。
ツヴァイの貴族某と名乗ったその若者は、遊牧騎馬民族の機動迂回を卑怯な行いであると糾弾した。彼の思考は遥かガヘルゼンの時代から全く進化していないようだった。
ベディクトゥは薄く笑った。
「これは驚く。自らの得意な手法をとることのどこが卑劣になるのでしょう。戦術とはつまり、自らを易く勝利させるものであるはず。まさか相手に自分のやり方につきあえというのが、ツヴァイの教えですか。自らを相手にあわすならともかく、相手に自らの立場を強要するというのは、少々、考え違いをしておられるのではありませんか」
痛烈な返しだった。駁論して語る振る舞いには、戦場で一騎討ちするかのような堂々とした華がある。反問者は抗論の一句もなく立ち尽くした。
ベディクトゥがぐるりと教室の座をみまわした。議論の一方を務めようとする者はない。このあたりが限界か、とニクラスは見切りをつけた。できればもう一人、二人つっかかってくれる誰かがほしかったが、白けきった空気ではそれは望めそうになかった。
静かな挙手に周囲が波立った。
上方の席でつまらなそうに片手を挙げるニクラスの姿を眺め、ベディクトゥが意を得たりと口元が歪めた。教壇の講師を見る。講師は厳かな面持ちでニクラスに頷いた。
講師からの指名を受けたニクラスは立ちあがり、淡々とした口調で告げた。
「騎馬兵の優秀さについてはお言葉のとおり。しかしバハムのガヘルゼン襲撃について最も注目すべき点、というのが今日の論点であるなら、一個の戦術を語るのは枝葉ではないでしょうか」
「ほう。それでは、ニクラス殿は本題をなんとお心得に?」
おもしろがるようなベディクトゥの問いに、ニクラスは言った。
「馬です」
それを聞いたベディクトゥとその取り巻きの周辺から失笑が起こった。
「なるほど。しかし、私もそれをお話していたつもりなのですが……」
「馬とは戦争の道具だけの存在ではありません」
揶揄の言葉をかわす。
「それは生活そのものです。軍事が先に立つ勢力など古今東西にありえない。人がいて、生活があり、そこから派生するものが軍であるのなら、注目すべきはその根幹にあるはず」
ニクラスはベディクトゥを見た。相手に口を挟もうとする様子は見てとれなかった。余裕のある微笑を浮かべたたまま、眼差しの輝きがやや鋭い。
「彼らの特徴である大きく柔軟な騎馬運用、その為に彼らは軽装騎兵だったが、当然それは大きな問題を内包します。水と糧秣なくして人馬は生きることはできない。彼らはそれを後ろではなく、前方――敵に求めた。彼らの長大な行軍は実は、そうしなければ彼らが生きることができなかったということでもある」
一拍をとり、ニクラスは周囲に語りかける気配に切り替えた。
「だから、彼らは集落を襲って収奪した。武器や財宝もだが、それ以上に彼らは水や食料を求めていた。収奪するために、収奪していた」
唇をなめて水気で潤わせる。ニクラスは言った。
「それが彼らの限界でした」
聴衆がどよめいた。ニクラスの放ったのは、ガヘルゼンを打ち破った遊牧民を否定する台詞とも取れたから当然の反応と言えた。
「……これはまた大きく出られたものだ。その深慮についてぜひともお聞かせくださいますか?」
不快げに眉をしかめるベディクトゥと正対に立ち、ニクラスは続ける。
「歴史的な事実として、バハム遊牧兵がガヘルゼン歩兵を打ち倒した。これは確か。しかしもう一つ、忘れてはならないことがあります。それは、打ち破った彼らが、ここ、中央大水源を征服しなかったこと」
ベディクトゥの表情から笑みが消えた。
「なぜ征服できなかったのか。彼らが少数であったからというのもあるが、それ以上に問題だったのが、輸送という概念や中継拠点というものを持たなかった彼らの拠点と大水源との間の距離です。そこには中継拠点が存在しなかった。いくら豊富な水源を占領したところで、東から人が移ってこれなければ意味がない。彼らには、襲うことしかできなかったのです。しなかったのではなく」
「征服する能力がなかったと?」
相手の舌鋒、その矛先を正確に見定める口調でベディクトゥが訊ねる。
「彼らは略奪者であって征服者ではなかった。だからこそ、今日の水陸の状況があるのでしょう」
押し黙るベディクトゥから再び周囲へと意識を戻して、ニクラスはさらに言葉を重ねた。
「つまり彼らはどこまでも点だった。目標を定め、襲い、次へと向かう。そこには中間というものがない。彼らの前には敵が、彼らの後ろには収奪された集落だけが残る。彼らが去ったあと、そこにはまた人が戻り、物が集まる。その繰り返しに過ぎません」
ニクラスが口を閉じると、室内に打ったような静けさが降りた。
誰もが彼の能弁さに驚きを隠せないでいた。式典も途中で抜け出して中庭で横になっていたあのニクラス・クライストフが、まさか口を開けばこうまで口が達者であったとは。その驚きは、彼の隣に座るアルスタ家の令嬢とて同様だった。
「――なるほど。素晴らしいご見識だ」
ベディクトゥが頷いた。やや苦味のある表情になっていた。
討論の担い手である以上、彼が沈黙することはつまり相手の正当性を認めたことになる。先日の講座で目の前の相手を指名したのは彼だったから、早々ひくことができるはずがなかった。
「人と生活、そして馬。一個の戦場の勝敗ではなく、その背景を見よということですね。バハムの遊牧民が中央大水源を占拠しなかった理由も、大変興味深い。しかしながら――」
息を吐き、続ける。
「いささか見方に偏りがあるようにも思えます。バハムに中央大水源の占拠が可能であったか否かは、彼らの拠点とする周辺状況に要因があったと考えます。もし彼らにその意思があったらなら。あるいは、それが可能な状況であったなら、拠点ごと移動することもありえたのでは? それを考えず、ただ能力の有無へと結論を急ぐのは、少しばかり論理が飛躍しているのではありませんか」
「その通り。遊牧民とは、確たる拠点をもたずに移動することが本来。それはそのまま、この惑星での人の生き方でもありました」
あっさりとニクラスは同意してみせた。
「一個の水源にこもる、ということがまずありえなかった。基水源を手にしたごく少数の勢力だけがそれを成しえた」
「しかし、その結果が鈍重な歩兵運用。そして遊牧民との戦での大敗に繋がったのなら、それはむしろ悪しき習性では? ニクラス様は先ほどおっしゃられました。生活の延長に軍があるのだと」
ベディクトゥがやりかえす。議論の焦点が二つにわかれていることに気づいていないのか、あるいは気づかない振りをしているだけなのか、ニクラスには判断がつかなかった。しかし、どちらでもいいことだった。相手は、釣り餌にひっかかってくれたのだから。
「そう、軍とは人と生活の延長にあります。遊牧民は攻め、勝ち、しかし征服できなかった。ガヘルゼンは守り、負け、しかし征服させなかった」
「まさか、負けても在り続けることができればそれでよいと、そうおっしゃるのではないでしょうね」
「いけませんか? ……この場合は少し違いますが。負けて学ぶことは多い、というべきですね」
「騎馬兵の有用性をですか」
「それもあります。しかしそれ以上に、水源を手にしている者が勝つということを」
ベディクトゥが奇妙に顔を歪めた。そんなことは、今さら語るまでもない常識以前のことでしかない。
ニクラスは続けた。
「ガヘルゼン衰退の後、覇権を争った各勢力はそれぞれ遊牧民の騎兵運用を取り入れましたが、しかし歩兵を捨てたわけではない。大水源を得て、さらにそれを独自のものへと進化させていった。一つが装甲騎兵。そしてもう一つが、補給」
「補給?」
「彼らは後方の備えを重視しました。それが点であったバハムとの大きな違いです。つまり、補給線」
「それはおかしい。砂海にあって安定した水場というものは存在しえない。いかに基水源と噂される大水源であろうと、それがどこにでもあるわけでは」
そこではっと言葉を切ったベディクトゥに、ニクラスは言った。
「水源はありません。しかし、伸ばすことはできる。恐らくここにおられる方も多くがそれを利用してヴァルガードにいらっしゃったでしょう。南方のトマスを通り、そこから水陸各地の水源へと伸びた――河川。そして、水路です」
歯軋りするように睨む相手を平然と見返し、
「点ではなく線。軍を進行させるのに確かな後方をつくる。補給線、領水線という線の在り方が、ツヴァイの特色です。そして、それをもたらした大きな要因にバハム遊牧民の存在があったのは疑いようがありません。点として動く彼らに対抗するために、今までの歩兵を生かし、さらに騎兵を活用する。そうしたものを背景に生まれたのが河川であるならば、バハム遊牧民のガヘルゼン襲撃でもっとも注目するべきなのは、その分岐点にあるのではないかと思います」
おお、とツヴァイ出自の者達が顔色を輝かせた。論説の細部まで理解しているかはともかく、バハムの真似事ではない、ツヴァイ独自のものであるというところが彼らの琴線を振るわせていた。
一方、ボノクスの一団は不快そうに顔をしかめている。沈黙するベディクトゥの取り巻きがなにか言いかけるのを、ベディクトゥが制止した。
「……戦術ではなく、戦略、さらに生活まで見る。ニクラス様、大変勉強になりました」
着席する。
室内のあちこちからため息をつく音が漏れた。
討論の終了を告げる台詞に、ニクラスは視線を教師に向ける。面白がっている眼差しを冷ややかに見返してから、自分も着席した。
「両者、異議ある意見をありがとう。いくつか面白い論点があった、それらについて一つずつ話していくことにしよう。まずはじめに――」
生徒達のやりとりを黙って聞いていた教師が解説を始める。
しばらく室内は騒然として落ち着かなかった。その中に埋もれがちな教師の言葉にニクラスは耳を傾ける。四方から自分に向けられる様々な視線には当然、彼は気づいていた。
講義の時間が終わると、ニクラスはすぐに席を立って教室の外に出た。
「どちらへ行かれるのですか?」
廊下に出たところで声がかかる。アルスタ家令嬢の声だった。ニクラスは足を止めないまま答えた。
「先約がありましたので。工房地区まで」
「……お邪魔でなければ、私もご一緒してよろしいでしょうか」
少し思案してからニクラスは頷く。貴族の令嬢が見て楽しめるものではないだろうと思ったが、そうとも言えないかもしれない。
「ありがとうございます」
「少し急ぎます」
「はい」
足を早めながら、隣に立った令嬢が言った。
「ありがとうございました」
「何か?」
「講座に参加してくださったことです。卑しい性分のようで恥ずかしくありますが、ニクラス様が勝たれて気が晴れました」
「別に、勝ってなんかいません」
ニクラスは苦笑した。
「討論は相手と論を交わすことで、勝敗云々ではありません。さっきのは相手が自分で自分の首を絞めただけですよ。侮ってくれていたのでしょうね。それに、とても優秀な人物だと思いました。引き際がよかった」
劣勢を知ると、すぐにそれ以上無駄な言葉を続けなかった。そうした行いは誰にでも出来るものではない。
そもそもが解釈の幅のある教師の問いかけに対して、戦術という小さな型にはめて論じたのがベディクトゥの失態だった。それに論点の異なる説を返してみせたのがニクラスであり、ベディクトゥはその内容を非難することで優位に立とうとしたことで策を違えたことに加え、騎馬運用の優位性に拘って罠にかかったのが致命的だった。しかし、そこでさらに頭に血をのぼらせず自らを抑えてみせたのだから、十分に冷静で優秀だと言える。
「しかし、少なくとも劣ってはいらっしゃらなかった」
苦笑のままニクラスは答えない。しばらくの沈黙の後、令嬢が言った。
「――優秀だと見られるのがお嫌なのですか」
「別にそういうわけではないのですが」
ニクラスは肩をすくめた。
「厄介事には、あまり関わりたくないと思っています」
「では。それでも先の講座に出られたのは、ご自身が快適に昼寝をする為に?」
「そうです」
それ以上の答えが彼の口から出ることはないとわかった表情で、令嬢が微笑んだ。
「貴方は変わった方だ」
「よく言われます。失礼を承知の上で申し上げれば、貴女もそう思えます。クリスティナ様」
「クリスとお呼びください。親しい者からは、そう呼ばれています」
歩きながら、ニクラスは探るような視線で相手を見る。
「わたしが厄介事を嫌うのは、どうしても厄介事がついてまわるからです。ご迷惑をかけることも多くありますが」
「かまいません。私には恩義があります。ご迷惑ですか?」
「迷惑ですね」
はっきりとニクラスは言った。
「父がやったことは父のことです。わたしには関係ありません。さっきの講座は昼寝のためにしか出ていません。そんなもので迷惑をかけてしまっては、それこそ気楽に昼寝が楽しめない」
クリスが足を止めた。
「でしたら言い換えます。私は、貴方に興味があります。ニクラス・クライストフ様。それでもご迷惑か」
ニクラスは足を止めた。クリスを見返す。真っ直ぐな眼差しが彼を見つめていた。
たっぷりと砂が流れるほどの時間が経ち、ニクラスは息を吐いた。どのような言葉を用いても、目の前の相手の意思を変えさせることはできそうになかった。
「――やはり、貴女こそ変わっていらっしゃる。クリスティナ様」
仕方なく答える。令嬢が再び微笑んだ。
彼のような人間から見ても、ひどく魅力的に思える笑みだった。




