表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
砂の星、響く声 外伝  作者: 理祭
悪魔の伏戯場
12/46

 帝都ヴァルガードは帝国の中心の一つであり、バーミリア水陸を形成する基水源の最有力とも目される水源の在り処でもある。

 純水量ではトマス水源以上といわれる豊富な水量がその何よりの証拠とされていたが、その是非はともかく、流れる砂の惑星にあって、人が腰を落ち着かせて生を満喫することの出来る稀少な存在であることは疑いようがない。


 帝都には多くの臣民が住み、大貴族と呼ばれる上流階級の邸宅が立ち並んでいる。彼らはそれぞれ下流に土地――より厳密にいうなら、治水権を持っていたが、そうした領地の運用は配下に任せ、自身はヴァルガードに居を構える者も多かった。より上流に住まいを持つことが、社会的地位の在り方でもあるからだった。


 帝国の興りから続くアルスタ家もそうした貴族の一つである。つい先日までは過去の傍流と蔑まれていた一族であるが、帝都の一画にはそれなりの邸宅を構えていた。

「お帰りなさいませ」

「ただいま」

 住み慣れたその屋敷に戻り、アルスタ家令嬢は幼くも凛とした表情で家の者の礼を受けた。頭を下げた家令がわずかに眉を動かしたのは、その声に不機嫌さがしのんでいたからである。当然、仕える身にあってそれを訊ねるような非礼はせず、代わって別のことを訊ねた。

「葉茶をお持ちいたしますか」

「お願い」

 心持ち憤然と廊下を去っていく背中を見送りながら、男は葉茶を持っていかせる人物について考えた。


 声を掛けられたのは、ファビオラという中年の女性である。古くからアルスタ家に仕える女中で、しばらく屋敷から離れており、最近になって再び屋敷仕えに戻ってきていた。

「お嬢様が?」

「ええ。あちらでなにかあったのかと」

 言外に共通された認識で、二人は含みのある視線をかわした。


 アルスタ家が中央政治、その社交の場に戻ったのはごく最近のことである。それまでは名こそあれど日陰者でしかなかったのに、とある有力貴族の計らいからそれが許されたのだが、そうした行いは当然、他からの妬み嫉みをかうことにもなった。

 ほとんどの貴族はアルスタ家を相手にしないことでその鬱憤を晴らしたが、中にはアルスタ家を指して剣しか触れぬ愚か者、と声に出して卑下する輩もおり、そうした連中が存在するのは令嬢の通いだした大学でも同じであろうと思われた。そこで何か因縁をつけられたのかもしれない。

「うちのお嬢様が、そんな連中に負かされるなんて思えないけどねえ。まあ少し、お話を聞いてみるとしようかね」

「ええ。よろしくお願いします」

 乳母として仕えていたこともあるファビオラなら、その役に適任といえた。


 葉茶道具の一式を受け取り、ファビオラは廊下を歩いて主人の私室へ向かった。扉をノックすると、中からどうぞ、と声が応える。なるほど、いつもよりやや声に硬さがあるかとフォビオラは思った。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

 さっぱりとした装いの室内で、彼女の仕える主人は窓際で外を眺めていた。

「ただいま」

 答えながら、表情には笑みもなく振り向くこともない。他家の深窓の姫君と異なり、無駄に愛想を振りまく人物でないことは知っているが、それだけでない様子でもあった。

「なにかございましたか」

 葉茶の用意を整いながら、ファビオラは単刀直入に切り出した。言葉の小細工もまた、この若い主人は好まない。


 ふと、それではじめて自分の行いに気づいたように、主人が瞳を瞬かせた。

「おかしな顔をしていたか?」

 口から出たのは貴族の令嬢にはふさわしからぬ言葉遣いだったが、それを聞かせる相手が自分だけであることを承知しているファビオラは、おおらかに笑って首を振った。

「いつもどおり、大変お可愛らしくございますが。どこぞのドラ息子と悶着でもありましたか」

「いや、そういうわけではないんだが……」

 眉をたわめて口ごもる。そうした仕草は、主人の清々しい性格を知るファビオラにも意外な表情だった。戸惑うような様子で主人が言った。

「今日な。クライストフ家のご子息と、会った」

「おや、まあ。それはそれは」

 クライストフ家といえば宰相を務める帝国の重臣、そしてアルスタ家にとっては大恩ある相手である。アルスタ家が社交の場に戻るきっかけとなったのが、なにあろう彼家の計らいであった。

 そこの次男が今年から発足した大学に通うことは広く知れ渡っていた。それと連想して彼女は市井の噂を思い出している。


「宰相様のご次男といえば、相当に変わった方だと評判でございますね」

 主人が渋面になるのを見て、ああ、と彼女は得心した。

「やはり、お変わりで」

「ああ」

 少しばかり自分の好奇心も併せて、ファビオラは問いを重ねた。

「どういったところがです?」

 問われて天井を仰ぎ、主人は諦めるように息を漏らした。

「……よくわからん。とにかく、変だ。変人だ」

「はあ」

「挨拶に行って、そのまま一緒に昼食という話になったんだが。あの男、どこかの食堂ではなく、中庭に寝っ転がって食べるのが好みらしい。パンに肉やらを挟んだものを用意させて、そのまま布敷きもないまま、芝の上に座りこんでだぞ」

 ファビオラもしばし言葉を失った。

「それは、また。職人のような振る舞いをなさるのですね」

 職工は卑賤の身のものとされている。地べたに座っての飲食など、およそ貴族がするような行為ではなかった。

「そうだろう。戦場ならともかく。あのような真似、生まれて始めてだ」

「……お嬢様もそれを?」

 やや半眼になって問うと、彼女の姫君はたじろぐように顎を引いた。

「仕方ないだろう。恩ある相手からの誘いだったのだ、断るわけにはいかないじゃないか」

「はいはい、おっしゃるとおりでございます。それで?」

 む、と主人は眉をひそめた。

「それで、とはなんだ」

「それ以外にもお変わりなところが?」

 侍女の言葉に、苦々しい顔つきになって首肯する。


「……たった三日で、大学は既に各国入り乱れての派閥争いだ。徒党を組み、『団』などと名前をつけて闊歩する連中までいるというのに、そのどれにも加わっていない。一人でふらふら出歩いて、講座も好き勝手に受けているだけだ。しかも活気のある討論などはわざと避けているような節がある。仮にもツヴァイ宰相の子息がだぞ」

「お人嫌いということでしょうか」

 苦悩するように振られる主人の頭の動きに、絹糸の髪が追従した。

「そうでもない。幾らか顔見知りはいるようだった。しかしそれも皆、相手は他国や職工の者ばかりだ。別に名のある相手というわけでもない。そういう連中が向こうから話しかけてきた時には、つまらなそうにしていた」

「よく見ていらっしゃいますね」

「今日の午後、ずっと傍についていたからな」

「はあ。ずっと」

 女中の言葉に含められたものに気づかず、主人は重苦しい嘆息とともに言葉を吐いた。

「なんなのだ、あれは」

「なんなのでしょうねえ」


 つまりは相性の問題かとファビオラは総括した。真面目で堅物、そこがよいところでもあると思っているお嬢様とでは、話を聞く限りクライストフ家の子息とのあいだに友誼を結ぶことは難しそうに思える。腐っても宰相家、という思いもないではなかったが、一家人としてと同時に幼少から彼女を見知るファビオラは、乳母の行うべき忠言を迷わなかった。

「お嬢様、お気をつけくださいませ。アルスタ家を快く思わない連中はこの帝都に無数にございましょう。かかる火の粉をふりはらうは当然として、自ら好き好んで火元に近寄る必要もありません。そこにいるのが火の扱いも知らぬ阿呆ならなおのことです」

 名指しを避けた言葉の意味するものについて即座に理解の色を浮かべ、しかし彼女の主人は頷くのをためらったようだった。苦笑を浮かべる。

「わかっている。家名を汚す真似はしない」

 老婆の心配深い眼差しに、しかしな、と武門の令嬢は言葉を継いだ。

「それが阿呆なら見限るだけですむ。今はまだ、掴みきれていない気がするのだ」

「……くれぐれもお気をつけを」

 ファビオラは追言を控えた。目の前で腰かける主人がすでに自分を仰ぎ見るほど幼くないことを思い返したからであったが、もう一つの理由もある。微妙に歪められた顔色の中央、輝く清冽な眼差しに決して不快でない感情が踊っているのを見て取ったからだった。そこに潜むものについて詮索したい気持ちはあったが、恐らく本人にも自覚はないだろう。ならばこれ以上はまた後日にすべきだった。


 会話をしながら止まることのなかった手つきが、主人の好みから寸分違わぬ淹れどきを計って葉茶を注いだ。陶磁の器からほのかに漂う香りに表情を和らげる主人へ一礼して部屋を辞し、屋敷の長い廊下を歩きながら老齢の女中は考える。

 頭にあるのは家令への報告と、今後のことへの思索だった。


 ニクラス・クライストフ。彼の人物の人柄について少し風聞を拾い集めてみるべきかもしれない。貴族の身でありながらたまに下街に見かけることもあるという程の変わり者と聞くから、少なからず話を入れることはできるだろう。情報を集めてどうするか。それはまだわからない。しかし必要になってから動いたのでは遅すぎる。主人が動こうという時には既に仕度を整えておくというのが家人の在り様というものだった。

 アルスタ家に仕える者達にとっては、その意識はさらに強い。彼らは自分達の主を愛していたし、かといって決して盲目的なわけでもなかった。血脈として引き継がれる、拭いがたい短所が内包されていることも重々承知している。だからこそ、それを補うべきが我らであるという自負をも抱いていた。

 それにしても、とファビオラは脳裏に浮かぶ主人の姿に皺を刻んで口元を緩めた。去り際に主人の顔に見た表情は、葉茶を楽しむだけのものではなかった。誰かを思い浮かべていた。その誰かが何者であるかはこの際、考えるまでもない。眉間に眉を寄せながら口には笑みを保ち、瞳にあった輝きは、まるで得がたい友人を前にしたかのようなものだった。いや、会って初日で友人というのは少し趣が異なるだろうか。それならば。いや、あるいは――


 自らの思考が飛躍しかけていることに気づき、彼女は思いついたその断片までかき消すように強く頭を振った。市井の者が囀るように、彼女達のような家人達のなかでこそ広まる類の話もある。件の人物についてのとある噂を耳にしていたからこそ、彼女の如き立場ではめったなことを夢想するわけにはいかなかった。

 あの小さな嬢様がそうしたお年頃になられたか。ふとした感慨に、年老いた女中は笑った。いかほど背が伸びようが、彼女にとって主人はいつまでも子どものころの印象が強い。剣の修行の辛さに泣くのを必死に堪えていた在りし日を思い浮かべ、それから艶聞を心配するようにまでなった時の流れを喜び、同時に少しばかりの寂しさを思いながら、何をはやとちりをしているのかと最後に自分のことを呆れた。これだから年をとるのは嫌なのだ。 

 まあいいさね、と鼻息を吹かして顔を上げる。周りの思惑がどうあれ、主人こそは彼女が乳飲み子の時分から育て上げた自慢の嬢様であった。そんじょそこらの深窓の姫様とは格が違うし、ドラ息子が相手ならほだされることもあるまいて。


 後日、これが予感というものだったのかと彼女はしみじみと思い返すことになるのだが、しかしもちろん、それはすでに成就のあとに明かされる予言と同じく、後から言ったところでなんの意味も失われてしまっているのだった。



 帝都ヴァルガードに設けられた大学が開講して一週間が過ぎた。

 各国の思惑と警戒、不安が錯綜したその開幕であったが、特に大きな混乱もなく、数日を経て関係者はひとまず緊張の糸を緩めている頃合である。その筆頭として挙げられるのはツヴァイ国宰相ナイル・クライストフだが、彼は個人の問題から周囲とは異なる心配もしていたから、その心中の複雑さは容易に他者がうかがい知ることは出来なかった。


 その物思いの種である当の人物は、父親の想いなど意も介さぬような振る舞いを続けている。気ままに講義を渡り歩き、水陸一の貯蔵を誇る図書館で好きに読書へと読みふける態度は、学生の本分としてまっとうな姿に見えるが、この大学の成立の経緯とその裏側にある事情を鑑みれば、そうとばかりはいえなかった。


 大学では、日を増すごとに人々が徒党を組んで歩く様子が見られるようになっていた。

 大勢の人間をある環境の中に押し込めれば、彼らがはじめにとる行動は集団を作ることである。人間行動学というのはこの時代、哲学の一部として研究の題目にとりあげられることもあったが、そこでいわれているとおりの現象ではあった。

 講師の立場であれば理論と実証の興味深い実例として見る事も出来るが、当の学生達にしてみれば他人事ではない。学内にどのような集団があるか。自分はその集団のどこに属するかということは、比喩でなく彼らの将来に強い影響を与えるからであった。


 集団は幾つかにわけることができる。例えば外的要因と内的要因に。一つの切り方で見られる切断面は一つでしかないように、概して全体を一種の分け方で捉えられるものではなかったが、やはり最もわかりやすく大きな派閥となったのは、それぞれの出身国である。

 ホストでもあり今現在、水陸に覇権を唱えるツヴァイ。その友好国や属国、敵対国に至るまで水陸の主だった国家の子息達が大学には参加していた。

 彼らの中で若く、血気のはやった一部の者達は、自らの国名を冠した集団を組んで他国の人間を牽制した。彼らが名乗ったのは例えばツヴァイであればツヴァイ団、などという無粋な名称ではあったが、名を飾ればどうなるものでもなかった。

 わかりやすい見方をすれば、それらは各国の持つ軍事的在り様の象徴であった。武力とは自らを主張する――主張のために自衛する、その根源である。品のない野蛮さ、と眉をひそめる者もいたが、しかしその暴力こそが各国の背景にあるのは事実だった。

 もちろんそればかりではない。各国の上級子弟は大学を構成する主要な人種ではあったが、名のある商家や見込みのある職工も大学には参加しているからだった。大学では水陸中の優秀な学者や技師を招いていた。同じ国を生まれにもっても、職や立場が違えば考え方も大きく異なる。個人的な嗜好というものもあった。


 さらに重要な属性がある。女性である。

 この時代、水陸での女性の立場は国によって多少の差はあっても、決して強くない。しかし、どのような勇者も全て女性の腹から生まれ落ちるという事実は覆りようがなかった。

 良家の子女として生まれた彼女達は貴族としての品を嗜み、その多くが社交場で浮名を流しつつ婚姻の機を待つことになる。そこに介在するのは当人の意思ではなく、親同士が決めた縁談であることがほとんど全てではあったが、だからこそ彼女達は社交場での振舞いに己の全てを費やしていた。

 結婚の後にもその必要性は劣ることはない。敵があれば戦場に立つ男達と違い、一部の例外をのぞいて剣を持たない彼女達は、夫の不在にも家を預かり、社交の場に立つ必要があるからだった。


 そうした意味でいえば、まさしく社交とは彼女達にとっての戦に他ならない。

 その複雑怪奇さは世の男の想像をはるかに越える。剣をもった戦働きを誇りにするような性分の者であればなおさらだった。例えばあのアルスタ家などが社交の主流から外れていたのも、悪いのは周囲だけとはいえない。ある意味で、そうした社交の蛇道を行きぬく為に必要な能力が彼の家に不足していたことは確かであるからだった。それは個人的な好き嫌いとは全く異なる話であった。

 ニクラスがそういったあれこれを頭に思い浮かべたのは、目の前にそのアルスタ家の令嬢が立ったからだった。

 貴族の娘にしては化粧気の薄い顔にまっすぐな視線をのせて、無言で彼を見下ろしている。怒っているようにも見えたが、それを聞いたところで素直に答えてくれそうにない気配があった。

「ああ。えと、それじゃあ、僕はこれで……」

 それまで話をしていた彼の知人が、居心地悪そうに席を立った。ありがたい心配りではあるが、なにか勘違いをされている気がしないでもなかった。

 とりあえず、ニクラスは口を開いた。

「こんにちは、クリスティナ様。ご機嫌が悪いようですね」


「――こんなところで何をしているのですか」

 低く押し殺した声で令嬢は言った。

「何、とは?」

 二人が相対しているのは中庭だった。先ほどまで一緒にいたのは職工あがりの若者で、一緒に昼食をとっていたところである。

「ああ、お昼はもうとられましたか。よければご一緒に――」

「いりません」

 怒気の孕んだ声で遮って、令嬢は深い嘆息を漏らした。

「……あまりこのようなことは申したくないのですが。私には貴方のなさりようが理解できません。ニクラス様、今日がどういう日かおわかりでしょう」

「何かありましたか」

 驚いた表情で目を瞬かせる。

「まさか、ご存じないのですか? ……ボノクスのベディクトゥという男が、あなたを午後の水陸史講座で、次の論客に名指しで指名しているのです」


 東の大国ボノクスは、長らくツヴァイと水陸の覇を競う間柄にあった。ここ数年、その戦端は収まってはいるが、いずれ再び必ず剣を交えることはほとんど確定している相手である。

 そのボノクスの将来を支える、有望な若手貴族達がツヴァイのひらいた大学に参加したのは意外ではあったが、むしろ当然と見る趣もあった。水陸中の国が集う場に、自称でも盟主を標榜する国の人間が参画しないのでは沽券に関わる。周辺国への根回しを欠かさなかった宰相ナイルの外交的手腕、その勝利といえた。

「ああ。いえ、その話なら聞いています」

「それなら、――いえ、では既に準備は終えられているのですね」

 ほっと安堵の表情を見せる令嬢に、ニクラスは心の底から不思議そうに首を傾げた。

「準備。いったいなんの準備が必要なのです」

 困惑したように令嬢は眉をたわめた。

「……するまでもない、ということですか?」

「いえ、そうではなく」

 ニクラスは苦笑して言った。

「講座に出るつもりはありません」


「出ない……? 何故です」

「初回の講座は拝聴しましたが。既に読んだことのある著書をそのままなぞるだけの内容だったので、目新しいことはないのかなと思いました」

「そうではありません! 講座の内容ではなく、ボノクスからの指名のことを言っているのです!」

 見るからに櫛通りのよさそうな金色の長髪を揺らしながら、令嬢は声をはりあげた。

「直接、自分が言われたわけではないですし」

「しかし、大学に通う全ての者が知っています! 先だっての議論を見ましたが、あの男、ベディクトゥは確かに弁が立ちます。我が国の者も既に三人、言いくるめられているのですよ。あの男がそのことについてなんと言っているかご存知ですか」

「知りませんが、まあ何を言っているかは想像できますね」

 この程度の人材しかいないのなら、ツヴァイなど恐れるにたらず――そういうところだろう。実際、連日の主役舞台に気をよくしたボノクスの論客の放言は似たようなものだった。そして、彼はそのあとに続けたのである。次回は、噂に聞く宰相ご子息の意見をお聞かせいただければありがたいですな。それとも、この時間頃は庭で寝転んでお休みのところでしょうか、と。

 風変わりな行動で有名な相手国の一人をひきあいに、ボノクス団の一同は大いに勝ち誇ってみせたという。それを聞いたツヴァイの貴族達は皆、歯を食いしばって屈辱に耐えたのだった。


 アルスタ家の若き令嬢はその場に居合わせておらず、後から事の顛末を聞いただけだったが、まるで目の前でその恥辱を受けてきた一人のように頬を高潮させて彼女は言った。

「それならば、なぜお受けにならないなどとおっしゃるのですか。勝てる見込みがないから逃げたのかと、そう声高に喧伝されてしまいます!」

「好きにさせればいいのでは」

 熱のない口調でニクラスは答えた。

「その相手に、我が国の者が敗北したということは事実なのですし。ならば好きに言わせておいて、悔しく思う者が屈辱を晴らすべきでしょう」

 もっともらしいことを言っているが、本音では何故、自分がそんな面倒くさいことをしなければならないのかと思っている。


「できるのなら、そうしています……!」

 抑えきれない感情の迸りが語尾に散っていた。強く握り締められた令嬢の拳を見たニクラスは、自身の失言を悟った。

 女性の立場ではいくら想いがあっても、論客の立場には立ち得ない。くだらないことではあるが、そうした風習がこの短期間のあいだに大学では成立してしまっているのだった。ツヴァイ一国の慣習の問題というよりは、多くの習いと考えがある各国の全てに配慮した結果だった。ツヴァイも決して女性の政治的立場を遇してはいないが、ボノクスなどではその傾向はさらに顕著にあった。

「……すみません。言葉が過ぎました」

 彼とて国の誇りを思う気持ちを決して軽んじているわけではない。個人としての嗜好はどうあれ、それが必要なものであるという認識は持っていた。特に国の大事を担う人間がその国に誇りを持てないことは致命的だろう。他ならぬ彼だからこそ、その想いは確信として強かった。

「いえ。――お恥ずかしいところをお見せしました。非礼をお詫びいたします」

 気を鎮めようと目を閉じた令嬢は、平静を装った声で訊ねた。

「では、講座には、参加されないのですね」

「ええ。その時間に訪ねようと考えていたところもありますので」

 内心はともかく、ニクラスは口にする答えを迷わなかった。


「――わかりました」

 沈んだ響きで呟き、瞼を開いた令嬢の目にその名残は残っていない。大した自制心だが、自分を見る眼差しにそれまでになかった感情がまざっていることをニクラスは感じ取った。

 まあ、仕方ないなと冷静に考える。勝手な期待は迷惑だが、勝手に失望するのは相手の自由だった。ニクラスとしては彼女個人を決して嫌いではなかったから、残念ではある。話をするのもこれが最後かもしれない。

 恐らくこの場で別れれば、彼が思ったとおりに二度と両者の道は交わることはなかっただろう。その別離が訪れる前に、声がかかった。

「ああ、これは」


 中庭に面した外廊下に数人の男達が姿を現している。

 ツヴァイの様式とは違う、帯を巻いたようなゆるやかな服装の一団だった。見かけにも違いがある。先頭に立っているのは中でも長身で、やや線の細さのある若者だった。

 令嬢が顔をしかめた。それを見たニクラスもその相手が誰であるか気づいていた。

 集団は、廊下から中庭へと降りて二人へ近づいてきた。その足取りに隠そうともしない倣岸さが表れている。肩で風を切る態度は、連日の議論で勝ち続けていることで気を大きくしているのか、それとも生来のものと思われた。

「ニクラス様でいらっしゃいますね。はじめてお目にかかります、ベディクトゥ・ラグゼ・アシアセレと申します」

「ニクラス・クライストフです」

 アシアセレ。表情を動かさず、ニクラスは相手の名乗った家名を頭の中に書き留めた。それはボノクスをまとめあげる四氏族の一つの名前だった。一個の国というよりは部族連合としての色合いが強いボノクスにおいて、その家には次代の王とも目される若き才人がいるという話は彼の耳まで届いている。


 その次代の王との噂がある家名を名乗った人物は、ボノクス人にしては掘りが浅い風貌を微笑ませて口を開いた。

「ニクラス様、本日は楽しみにしております」

「そういわれても、講座に出るなどと誰に言ったつもりもないのですが」

 ニクラスは苦笑して言う。ベディクトゥは大仰に頭を振った。

「それはまた如何故のこと。お父上譲りのご見識を、ぜひお聞かせ頂ければと思っておりますのに」

 優雅な仕草だが、嫌味さが鼻につく。声も不必要なまでに大きかった。周囲に聞かせようというのが見え透いていた。

「それともやはり、これから午睡のご予定でも? ツヴァイ人の穏やかな気性は噂に聞いておりましたが、貴族の方々にまでそうした風習が根付いているとは実に素晴らしい。平和とは誠に貴ぶべきものですね」

「そう思います」

 後ろのお付き連中が小馬鹿にした笑い声を上げるのを意に介さず、ニクラスは淡々と答えた。挑発をいなされた男が眉間をしかめて睨みつけるのを、涼しい顔で受け流す。


 侮辱の言葉を吐かれたニクラスの隣で、むしろもう一人のほうが怒りを抑えた気配を漂わせていた。それに気づいた男が、口元に笑みを戻して話を向ける。

「失礼。お邪魔をするつもりはなかったのですが――」

 後ろに立つ男がベディクトゥに耳打ちする。小さく目を見開いた男は、次の瞬間に表情を一変させていた。

「これはこれは。アルスタ家のご令嬢様でいらっしゃいましたか」

「……クリスティナと申します。お見知りおきを」

「こちらこそ。武名の誉れ高きアルスタ家のお方とお会いできて光栄です」

 男は粘着質の笑みを浮かべていた。それまでは体面を被っていた悪意が表にせり出し、聞くものの不快感を催すほどになっている。顔つきが変わったかのような男の変化を興味深く、ニクラスはことの推移を見守った。

「アルスタ家の方々には、戦場で幾度となく煮え湯を飲まされておりますのでね。次あらばと雪辱の機会を待ち望んでいる者も大勢います。いわば目標のようなものでしょうか。私の後ろにいる者の中にも、そうした者はいるのですよ」


 令嬢は黙って頭を下げた。

 アルスタ家は戦場働きを功としてきた一族である。ツヴァイと争ってきた国であれば、その剣にかかってきた者やその身内がいても不思議ではなかった。

「……しかし、女だてらに剣を振るとの噂は聞いておりましたが――ツヴァイではよほど武人にお困りの様子。他国ながら心配になってしまいますね」

 令嬢の柳眉が逆立った。わずかに彼女の前に身体を移して、ニクラスはその激発を抑えた。

 相手への痛撃を見てとったベディクトゥは満面の笑みをつくった。

「ああ、失礼いたしました。いえ、振るのは剣だけではなく、尻尾を振るのも心得ているご様子。安心いたしました。それではニクラス様、私達はこれで失礼いたします」

 言いたいことだけを言って去っていく。機動力を生かして相手へ一撃を加え、反撃を受ける前に離脱という、ボノクスの得意とする軍法を体現したかのような話術だった。


 ニクラスは背後を振り返った。全身を紅潮させて怒りに打ち震える令嬢に声をかけようとするが、その前に相手が口を開いていた。

「失礼しました」

「……いえ」

 実直。いや、愚直というべきだろうか。

 素直さは賞賛されるべき気質だが、これでは確かに社交場では生きにくいことだろう。社交とは砂海の如く、迷う者も多ければ中には人の足をとって奈落へと引き込む底なしの悪意が潜む。どう贔屓目に見ても、目の前の令嬢がそれに向いた性格とは思えなかった。いや、恐らくは本人もそれをわかっていて、剣を握っているのだろうが。

 ひどく冷徹な思考でニクラスはそう目の前の相手を判断した。客観的に相手を観察する以上、個人的な好き嫌いは全く別の話だった。


 息を吐き、ニクラスは声をかけた。令嬢ではなく傍らの物陰に向かって告げる。

「ヨウ?」

「……は」

 彼らから死角になった、建物の奥から静かな声が応えた。

「イシク先生に伝言を。工房をお邪魔するのが遅れますと」

「かしこまりました」

 気配が遠ざかる。

 問いかける表情で見る令嬢の視線と自然に目があわないよう、ニクラスは肩をすくめて言った。

「これから昼寝をするたびにあの不快な笑い声を聞かされるのは、ちょっと嫌ですから」

 ボノクスの男達が連れ立って向かった建物に歩き始めるニクラスの後を、あわてて令嬢も追いかけた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ