6
翌日から始められた少女への教育で講師に立ったのは執事の男である。彼はサリュと同じく平民の出ではあったが、主人つきの側近となるからには相応の知識と経験、作法の心得が必要とされた。
扱われる内容は多岐に渡った。二十の記号からなる表音文字の習得、それによって古くから残されてきた歴史、数ある国の興りと滅び。その舞台となる水陸の成り立ちについて伝えられる説話、それを虚実入り交えて語る神話と宗教論。座学以外にも食事作法や礼儀式、会話として用いられる言葉遣い。歩法についても指導があった。
彼女への教育には貴族が受けるべきものと、平民が受けるべき双方が入り乱れていた。貧民の出である少女には到底必要になさそうなものまで含まれている。社交礼儀を学ぶなら欠かすことの出来ない舞踏に触れられていないのは明らかに女当主の意向だったが、それ以外にも思惑は見て取れた。
つまり金髪の女性は、あくまで可能性を提示しようとしているのだった。
彼女は友人から少女について頼まれていた。故郷を失ったと聞く少女が、これからどうやって生きていくか。その為に必要なことは全てするつもりだったし、与えるつもりでもいた。今回の教育もその一環である。
まだ本人には伝えていないが、彼女はこのままサリュを養うつもりでいた。彼女もいまだ家庭のない身ではあるが、一人の孤児を引き取ることは難しくない。その中で少女が生きるための知識を得、自らの志向にあった何かを見つけることができたならよいと考えていた。
その為にまずは少女の適正、及び可能性の幅にあたりをつけようと、思いつく全てを試してみることにしたのだが――一度に与えられるにはあまりに多いそれらに、少女は決して音をあげなかった。
少女は与えられる全てをよく学んでみせた。決して一を聞いて十を知る破格の聡明さではなかったが、どんな話にも真剣に耳を傾け、理解に努めた。
剣の鍛錬の時と同じだ。才というよりは性格。いや、想いというべきだろう。
何事にも真面目に取り組む姿勢や、今までにろくに教育を受けたことがなく、価値観に凝り固まっていないのも、もちろんその大きな要因にはなっている。だが、それ以上に少女の学習意欲を支えるものがあるのは明白だった。
少女は日々膨大な量を教わるその中で、特に言葉に強い興味を示した。帝国共用語の基礎を習得すると、今度は様々な単語の意味とその用法について訊ねるようになった。その質問には決まって一冊の本が使われた。しっかりと縁まで装訂された古びた書物。文字を覚えたばかりの少女が読むには明らかに荷が重いそれが誰の持ち物であるか、もちろん金髪の女性も知っている。
ため息が出た。つまりそれが少女の全ての根幹であり、同時に彼女を深く縛りつけてもいるのだった。それを忘れろというのが無理なことも承知している。それは何故か。同じことは、何も少女だけに限った話ではないからに違いなかった。
講師に立つのは執事の男だけではなく、時間がある時には金髪の女性がサリュに教えることもあった。
この時代、専門的な教育を受けられるのはほとんどが貴族だけの特権であり、彼女もまた首都ヴァルガードにて学生時代を過ごしている。大学を出て既に数年がたつが、知識量では当時の最高水準のものを彼女は持っていた。
故に、執事の身分では聞き及ぶことすらないそうした知識について彼女自身が教鞭をとることになったのだが、実際にはそうした専門教育より、雑学めいた話に流れることの方が多かった。
ある日、女性が話題に上げたのは帝国で研究されている技術についてである。
「――砂の、船?」
「ああ。帆船というものはわかるか? そうか。船はわかるな?」
少女は頷く。この街から逃げ出そうとした時に乗り、それから――。彼女の表情が翳ったのを見て、すぐに女性が言葉を継いだ。
「ともかく、船だ。それに大きな布を張って――帆というんだが――その帆に風を受けて、その力で動く。そういうのを帆船という。水は漕ぐことができるが砂ではそうはいかない。だから、後ろから風を受けて砂の上を進もうというわけだ」
「そんなものが……」
シーツをなびかせて砂海を渡る船を頭に思い浮かべようとするが、上手く脳裏に描きだせない。頭を捻る様子に、女性は微笑を浮かべながら続けた。
「似たようなものは昔からあるが、それらはほとんど一人用だった。船というよりは帆をつけた板のようなものだ。だが、何人もが乗り込むような大きさになると途端に難しくなる。必要な力が大きいからな。その為にはもっとたくさんの風の力が必要で、そうなると当然、帆も大きくならなければならない。そうして帆を支える軸もさらに巨大化して――堂々巡りだ。だから、なかなか研究がはかどらずにいた」
「あの人が、それの研究を?」
「研究というか、首を突っ込んでいただけだが」
女性は言った。
「私達の通っていた大学には、各国の貴族子女への教育の他に、優れた技術者や学者の保護という目的もあったから、色々な人間が集められていた。中にはなんというか、相当に個性的な相手も多かったんだが……困ったことに、あいつはそういうのが好きだった。砂帆船。燃える石。手を触れずに動く装置――動力という。そういうのとかな。色々と、授業をサボってそういうところによく顔を出していたよ」
「……変わり者、だったんですね」
「変人として有名だった」
至極真面目な表情で頷く。
「あれでもツヴァイ宰相閣下の実子だからな。周りの注目は王族並に高いのに、あいつはそんなことまるで気にも留めなかった。大学では各国それぞれ派閥を作って、同じ国の中でも色々と面倒も多かったんだが、そうした類の話にもまるで興味を示そうとしない。そんなことに関わるくらいなら、昼寝するか図書館で本を読んでいるような奴だった」
貴族と呼ばれる種類の人々の間で交わされる様々なしがらみについて、もちろん少女は全く想像のしようもない。しかし、その人物が騒動の脇で一人、本を読んでいる姿は容易に頭に浮かぶ。
少女の口元がほころんだ。それを見守る金髪の女性の表情も柔らかい。
「そういえば、その砂帆船であいつが言っていたことだが――」
雑学というより想い出語りではあるが、少女にとってもむしろそちらの方が好ましかった。彼女がその人物と一緒に旅をしたのはほんの僅かな期間でしかない。自分の知らない彼について聞かされる度に、相手のことを身近に感じられるようだった。
共通の人物について、まるで姉妹のように語る二人の傍らには執事の男が控えている。息休めに葉茶の用意をして二人の前に差し出す。香り高い葉茶の香気とともに、穏やかな時間が流れた。
少女の心は少しずつ癒されていった。
無論、いまだ掴めない男の消息について不安と焦慮はある。しかし、心を空にするのでもなく、逃避に他の何かを持ち出すのでもなく、狂せず彼の安否を待ち続けられたのは、間違いなく当主の女性の心配りの成果だった。
細々とした職務に精励しながら、女性は供に食事を取り、知識を教え、想い出を語り、姉のような態度で少女に接した。サリュの方でもそうした女性の厚意に感謝していた。特殊な家庭環境で過ごした彼女にとって、女性からの温かな扱いはまさしく生まれて始めてのものだった。
少女は剣の鍛錬にも再び顔を出すようになっていた。女性が極力、自分との時間を持とうとしてくれていることに気づいていたから、そのことで少しは昼間にも顔を出そうとしてくれる女性への負担を減らせるのではないかと考えたからである。今度こそ、偽りなく護る為に剣を学びたいという気持ちもあった。彼女達が朝方、鍛錬に励む横では、小さな砂虎が自らの高さほどある草原のなかでやんちゃに駆け巡っている。
そうして、少しばかりの日々が過ぎた。
その晩、サリュは本を胸に廊下を歩いていた。
夕飯後の時間に自室で本を読み、どうしても理解できないくだりがあった。執事の男に聞いたところ、古語の類で書かれてあるらしく彼にも翻訳は難しいという。それならばと、金髪の女性に訊ねるべくその私室へと向かっているところだった。
廊下を歩いているのは少女一人であり、案内役の人間はいない。この一月ほどの間に、少女は客人というより家族としての扱いを受けるようになっていた。
広大な屋敷で、主人の私室までの廊下は長い。前に訪れたこともあって道に間違いはないはずだが、所々に灯りを焚かれて人気のない廊下には奇妙な雰囲気があった。ふとした不安をおぼえて、彼女は胸の中の本に力を込めた。本当はクアルの方を抱きしめたいところだが、部屋の中でぐっすり眠っていたので起こすのがためらわれた。それに――こうすれば、あの人が守ってくれるような気がする。
最近の少女にとって、本と、主人から聞かされる話が彼の全てだった。短い旅でほとんど知ることなく終わったあの人物についてもっと知りたいと強く思っていた。彼はいったい何故、旅をしていたのか。彼はいったい何故、求めたのか。何故あんなにも飢えていたのか。
それを知るうえで、特に本は有用なものに思えた。金髪の女性が言っていた。あいつは昔から、一人でよく本を読んでいたと。彼の思いを追体験するように、少女は本を読むことを欲した。
腕の中の本は、まだほとんど触りの部分しか読み込めていない。帝国公用語の基礎だけは学んだが、単語や熟語についてはまだまだ知識不足であり、古い言葉で綴られている部分も多かった。難解な解釈が、ますます彼という人物を表している気がして、少女はただそれに没頭していた。
だから、気づかなかった。
何かの音がした。周囲が静まり返っているからこそ聞き取れた程度の大きさ。風の音かと思ったが、硝子窓の外景は光無く、静かに暗がりの中に落ち込んでいる。
気のせい。いや、確かに聞こえる。少女は廊下の奥へと目をやった。一筋の光が廊下に漏れていた。その室内から、音は聞こえてくるようだった。
足音を忍ばせて少女はその部屋へ近づき。そして、見た。
そこは屋敷の主人の私室だった。落ち着いた装飾で彩られた広さのある空間、その中央に絹髪を背中に流した女性が半ば背中を向けて佇んでいる。その肩が、震えていた。
「――ニクラス」
サリュは呼吸を忘れ、瞳を見開いて動きを止めた。
それほどまでに悲痛さに満ちた、それは声だった。
「どこにいる。なぜ見つからない……」
顔を俯かせ、自らを抱くようにした女性の胸元に何かがあった。小さな四方形の板を大事そうに抱え込んでいる。ちょうど、少女の胸にある本のように。
「頼む。頼むから、生きて――」
押し殺した声が涙に濡れていた。
それ以上その場にいることが出来ず、少女は身を翻して廊下を走った。足音に気をつけることすら忘れ、ただ逃げ出した。
頭に殴られたような衝撃を覚えていた。
――ニクラス。彼の名前。自分の知らない、彼の本当の。
自分のものではない、彼。
一体いつから、自分は彼を自らの所有物のように考えていたのだ。何故、与えられる為に待つことを当然のように思っていたのだろう。彼のことで嘆き、悲しんでいるのが自分だけだと、いつから思い上がっていた――?
そんなわけが、あるはずがないのに。
金髪の女性は何年も前からの彼の知り合いだと言った。
まだ訪れたことのない都で、ともに学生時代を過ごした友人。ただの友人ではないことは、さきほどの女性の姿を見れば瞭然たる事実だった。
自分が想うように。いや、きっとそれ以上の気持ちで、あの人は彼のことを想っている――
その事実よりもむしろ、今更そんなことに気づいたことが彼女にはショックだった。
自分が情けなく取り乱し、落ち込んでいる間、ずっとあの女性は自分の気持ちを隠していたのだ。それを表に出さず、ただこちらのことを思いやってくれていた。
廊下を駆け、自分の部屋へ戻る。勢いよく扉を閉めたせいで砂虎が眠りから目覚め、首を持ち上げて彼女を見た。気づかず、サリュは棚机へと向かう。そこには男の持ち物が置かれてある。自分が独占していた、彼の物。
腕の中のそれもそうだ。少女は本を置き、その横にある乾いた花に視線を落とした。
これだけは彼女のものだった。ひねくれた魔法使いが少女に残してくれた、たった一つ。水気のなくなったそれをそっと包もうとするが、それだけで花弁はもろくも崩れ散ってしまった。
衝動が胸を衝き、彼女は寝台へと走った。うつぶせに倒れこみ、声を殺して息を吐く。寝室に上がってきたクアルが耳元で鳴いている。それに応えず、少女はただ全身を震わせた。
涙が出たのは、悲しさでも過ちへの悔しさでもなかった。
女性の優しさとそれに気づきもせずに甘えきっていた自分。あるいはそれ以外にも、少女の心をあれほどまでに強く揺れ動かした理由はあったにせよ――自らの心の機微に疎い彼女がそのことに気づくはずもなかった。ただ女性への申し訳なさを思って、サリュは夜を過ごした。
――ここにはいられない。
一晩を明かし、少女はそう想いを決めた。
泣き腫らした顔を洗い、服を着替え短刀を取って、クアルを抱いて外へ出る。
中庭の奥には既に女性の姿があった。こちらを見て、穏やかに微笑んでくる。
「おはよう。サリュ」
その表情に昨夜の名残はなかった。だからこそ、少女はさらに決心を固めた。
「……具合でも悪いのか?」
挨拶もなく黙り込む少女に女性が訊ねる。
ただひたすらに自分を思いやってくれるその相手に向けて、サリュは言った。
「私、ここを出ます」
女性が驚いたように瞬きした。それから、微笑で返す。
「いきなりどうした。何かあったのか?」
少女は首を振った。
「では、なぜそんなことを言う。黙っていてもわからん、理由を話してみろ」
やや視線が厳しくなる。顔を伏せ、少女はもう一度首を振った。
理由など、話せるはずがない。この女性は、懸命にそうであろうと演じてくれているのだ。その本心を盗み見たからですなどと、本人に告げられるはずがなかった。
「お前まで、私を置いていくのか……?」
感情の失せた声。思わず少女は顔を上げ、息を呑んだ。
女性が顔を歪めていた。怒るのではなく、泣くのを必死に我慢しているような幼い表情だった。脳裏に昨夜の光景が蘇った。
そうじゃありません、と言いかけて、サリュは唇を噛み締めた。目の前の女性の名誉を守りつつ、どう弁明すればよいか彼女にはわからなかった。あいまいな言葉ではきっと伝わらず、それで逆に自分が説得されてしまうわけにはいかない。決心を貫く為に今、最も有効なのは、沈黙だった。
拳を握り、少女は耐えた。誤解を受け、恩知らずと罵られても仕方がないと覚悟を決める。
長い沈黙の後、
「わかった。好きにすればいい」
吐き捨てるように女性が告げた。そのまま日課であるはずの鍛錬の途中で去っていく。
女性の後ろ姿を眺め、少女は黙って頭を下げた。
少女からそのことを告げられた執事の男は、少なくとも表面上には驚きを見せなかった。鉄面皮のような表情で頷いて、
「左様でございますか」
とだけ言った。
「……ごめんなさい」
「いえ、我々どもにサリュ様を縛る権利はございません。ご出立はいつに?」
「すぐにでも。出ようと思います。勝手を言って、これ以上甘えるわけにはいかないので……」
そうですか、と呟き、男はしばし考え込むように顎に手をあてた。
「……よろしければ、ご出立は明日ということでお願いできませんでしょうか。お嬢様も、いきなりのことで驚かれたと思います。せめてあと一晩、ともにお食事を」
言われて、サリュはわずかに顔をしかめた。
「でも、クリスティナさんが。嫌なんじゃ」
「そのようなことはございません」
きっぱりと男は言い切った。
「不器用な方ですので、今はただ急なことに戸惑われているのです。このまま、サリュ様とお別れということになると後できっと後悔なされます。どうかあと一晩、お願いできませんか」
頭を下げられ、慌てて少女はそれを止めた。そんな真似をされるまでもなく、今までにしてもらった厚意に報いる為ならどんなことでもするつもりだった。
サリュは出立を明日に伸ばし、その日は館でお世話になった人々へお礼を言ってまわった。
夜、食卓で館の主人は不機嫌そうな表情のままだった。
何か話さなければならない。お礼、それとも言い訳? 一日中考えたはずのそれらが、女性の険悪な雰囲気の前に霧となって消えていき、唯一つ、どうしても訊ねておきたいことだけが口にのぼった。
「クリスティナさん」
「……なんだ」
「――あの本だけ。持っていかせてもらえませんか」
女性の視線が少女を見た。はじめて向けられるような厳しい眼差しに身をすくめかけ、それでもこれだけは我を通したいと思って目をそらさず、
「好きにしろ」
女性が言った。それきり口を閉じ、黙々と食事を続ける。
「……ありがとうございます」
頭を下げ、少女も食事に戻った。
それ以上はどちらも口を開かないまま、最後の晩餐は終わった。
次の日、朝早くに起きてすぐにサリュは出立の用意を終えた。
とはいえ用意というほどのものもない。本と、砂虎と、大外套。ほとんどそれだけが彼女の私物だった。一月近くの間、寝床にした部屋を見渡す。感傷はあったが、それ以上の期待と不安が胸に満ちていた。
清掃中の女中達の間を抜け、外へ出る。
砂の濁りなく、空は青く澄み渡っていた。前庭を歩き、少女は正門の前の人影に気づいた。
執事の男が立っていた。手綱を持っている。それに繋がれているのは見覚えのあるこぶつき馬で、背中には荷物がくくられていた。
男がもう片方に持った布袋を渡され、困惑した表情でサリュは男を見上げた。
「中をご覧ください」
袋の中を覗く。幾つかの道具と、小さくたたんだ羊皮紙、さらに布袋などが入っている。
「現時点での水陸図と、方位磁器。それに量傾器です。使い方は、以前にお話したのを覚えていますか?」
目の前の物の意味がわからず、ただ聞かれた通りに少女は頷いた。
「では、少し地図を。――ここが、トマスです。四方の水路。この水陸の全てとも言っていい、大水脈です。北に帝都。はるか南東がボノクス。お話を聞いた限り、サリュ様がやってきたのはこちらですね。ボノクスとの境は最近、大規模な干ばつで航路が干上がっています。水路の在り方だけ、決してお忘れのないようご注意ください。当然、塩と水もです。袋には帝国通貨をいくらか用意しておきましたが、地域によっては大きく価値が異なりますし、辺境ではそもそも砂粒と同じに扱われることもあります。くれぐれもお気をつけください」
口早に説明を受け、ようやくこれが自分に与えられようとしているものだと少女は気づいた。あわてて男に押し付ける。
「こんなもの、いただけませんっ」
「では、三日ともたずに死ぬおつもりですか?」
冷ややかな声に、言葉を失う。
「水も塩も、馬も連れずに生きられるほど砂海は優しくございません。知恵も知識も、この短な時間で教えられたものはわずかです。サリュ様が彼の方を探すためにはまず生きる必要があり、生きる為には道具が必要なのです。おわかりいただけますね?」
諭されるように言われ、少女は反駁の言葉を持たずに唇を噛んだ。
「我が主からの手向けの品です。どうぞ、お受け取りください」
「……クリスティナさんが?」
にこりと男が微笑んだ。
「一通り、必要な一式は整っているかと思います。昨日、大慌てで旅に必要なものを整えろとのご命令を受けましたので、不備があるかもしれませんが――」
「余計なことを言うな」
不機嫌そうな声がした。口を閉ざした男が一歩下がって沈黙する。
後ろを振り向くと、金髪の女性が歩いてきていた。
「それらはあいつのものではない。……馬は違うが。それなら、持っていけるだろう?」
素っ気ない口調で女性は言った。わざわざ彼の物ではないものを用意してくれた彼女の意図を理解して、サリュは頭を下げた。
「っ……ありがとう、ございます」
「……うん」
女性の声にはまだしこりのようなものが残っていたが、顔をあげた少女を見つめ、ため息とともにそれを吹き払った。
「それから、これもだ」
少女が渡されたのは二本の短剣だった。どちらにも見覚えがある。一本は剣の鍛錬で少女自身が使っていた物。短い刀身と大きな鍔つきのそれで、もう一本は、形状は知っているが布の外された状態を見るのは初めてだった。鍔がなく、短剣というには刀身が長く伸びたその剣は、目の前の女性が鍛錬に用いていたものだった。
温かな声で、女性が言った。
「剣は必要だろう?」
胸に詰まるものを覚えながら、サリュは頷いた。声を出せば瞳にたまったものが落ちてしまいそうで、懸命に我慢する。その様子を見た金髪の女性が笑った。
伸ばされた手が少女の目じりを拭う。幼い頃から剣を振るってきて傷つき、皮膚が硬くなっているはずなのに、とても柔らかな指先だった。
「必ず戻って来い。あの馬鹿と一緒に。――必ずだぞ」
一瞬、女性の瞳が潤んだように思えた。はい、と頷いて、ほとんど声にならず、慟哭を押さえつけてサリュは言った。
「……はい。必ず」
――貴女のもとに、あの人を連れて帰ります。
後半の誓いは胸の裡にだけ。
「南の門番に話をつけてありますので、そこまでは私がお見送りします」
男に頷き、少女は最後にもう一度振り返る。
自分を優しく包み込んでくれた女性と、その屋敷。生まれて始めて感じた温かなその両者を視界に収め、そしてサリュはそれから顔を背けた。
白磁の建物群の中にあって、空は青く、砂は止み、風は落ち着いて沈んでいる。
だが、自らに囁く声を彼女はその身に聞いていた。
――生きる。そして、必ず戻ってくる。
呼ぶ声に応えるように、少女は自らを砂の海へと投じる一歩を踏み出した。
魔女の旅立ち 完