ループ
君に触れたときだけ、世界は少しだけ静かになる。
――そんな気がした。
夜明け前のホテルの一室は、どこか現実から切り離されたみたいに淡く沈んでいるようだった。カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、輪郭を持たないまま床に溶けている。外からの喧騒は何も聴こえず、時計の針の音だけがやけに大きく響いていた。
ベッドの上の君は、眠っているかどうか分からない。
目を閉じているだけなのかもしれない。そのまぶたの下で、何かが絶えず揺れているのが分かる。夢を見ているのか、それとも現実の僕から逃げているのか。まあ、どちらでもいいだろう。ただ、ここに僕と二人で居ることだけが、今はすべてだった。
指先で君の髪をとくと、かすかに温度が伝わる。確かに存在している、という証拠があった。それを確かめるたび、胸の奥がじくりと痛んだ。
どうしてだろう。
こんなにも近くにいるのに。
満たされるどころか。
どこか欠けていく感覚がある。
君はふいに目を開けた。
「……起きてたの」
掠れた声だった。
夜の底へ置き去りにされたような、乾いた響き。
「……うん」
「寝ないの?」
「寝れない」
短い会話が、すぐに途切れる。多くの言葉など必要なかった。むしろ、多すぎると壊れてしまう気すらする。余計な何かを言えば、保っていたこの均衡が崩れてしまう。そんな予感すらあった。
君はゆっくりと体を起こし、ベッドの端に腰掛けた。窓の外を遠い目で見つめている。まだ朝と呼ぶには早すぎる時間。街は眠りの名残を引きずったまま、静止していた。
「ねえ」
窓の外を眺めたまま、君は僕に尋ねる。
「今日、映画行くって言ってたよね」
「言ってたね」
「行く?」
少しだけ間が空いてしまった。その沈黙の中で、僕は答えを探していたわけじゃない。ただ、どちらを選んでも二人の関係は変わり映えがないのは確かで、それを理解していたからこそ躊躇っていただけだった。
「……やめようか」
君は、そう、とだけ言って頷いた。残念そうでも、安心したようでもなかった。ただ、予想通りの結末を受け入れているみたいに、静かだった。
それが、少しだけ寂しかった。
僕らは、いつからこうなったんだろう。
何かが変わるよりも、変わらない理由を探す方が自然になっている。未来の話をするよりも、今この瞬間をどうやってやり過ごすかばかり考えてしまっている。
それでも、離れようとは思わなかった。
離れたところで、同じような夜が待っているだけだ。
お互いに、そう認識していたから。
「外、明るくなってきたね」
君が呟く。その声に導かれるように窓の方を見ると、空がわずかに色を変え始めていた。黒から紺へ、紺から薄い青へ。そのグラデーションは、あまりにも滑らかで、ひどく残酷に映ってしまった。
こんなにも綺麗なのに、何一つ救ってくれない。
朝はいつだってそうだ。
夜の中で抱えたものを、そのままの形で差し出してくる。なかったことにはしてくれないし、忘れさせてもくれない。ただ〝続き〟を強要してくるだけだ。
君は立ち上がって、カーテンを開けた。一気に光が差し込んで、部屋の中が白で満たされる。目が眩むほどの明るさに、思わず顔をしかめた。
「綺麗だね」
目を細めた君のその横顔は、今いるこの世界よりも更に、どこか遠くを見ているみたいだった。
なぜだか、僕は頷けなかった。綺麗だと思う気持ちと、吐き気に似た感覚が、同時に押し寄せてきていたからだ。
「……ねえ」
そして代わりに、といったようにぽつりと零してしまう。
「君にとって、僕ってなに?」
君は振り向かなかった。
ただその場に立ったまま、少しだけ髪を揺らす。
「わからない」
小さな声だった。
「でも、今のままがちょうど良いよ」
――その一言で、すべてが決まってしまった気がした。
いつも繰り返されるだけ。
終わらない、感情のループ。
抱えてしまったものは、なかったことにはできない。
感情も、記憶も、痛みも。
すべて抱えたまま、僕らは同じ朝を何度でも迎える。
「確かに、綺麗だね」
僕は立ち上がって、君の隣に並んだ。
同じ景色を見る。
特別なものなんて何もない。
ありふれた街の朝。
それでも、こうして並んでいるだけで、ほんの少しだけ現実の形が変わる。
君の手に触れる。
逃げないで、と言う代わりに。
泣かないで、と言う代わりに。
何も言わず、ただその温度を確かめる。
君は抵抗しなかった。
それだけで、十分だった。
朝焼けはどんどん強くなっていく。
世界が、当たり前みたいな顔で動き出す。
僕らはまた、その中に放り込まれる。
何も変わらない日常へ。
それでも――
影も、夢も、罪も、光も。
すべてを抱えたまま、僕らはここに立っている。
感情は消えない。
消えないまま、何度でも巡ってくる。
まるで音みたいに。
鳴り止むことのない、静かな反復の中で。
僕は君の手を離さなかった。
たとえこの先、何度同じ朝が来るとしても。
そのたびに、また始めればいいと思った。
繰り返しでもいい。
終わらなくてもいい。
ただ、君となら。
たまにこうして、会えるだけでもいい。
このどうしようもない日常を、もう少しだけ続けてみてもいいと、そう思えたんだ――




