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ループ

作者: 狐目 ねつき
掲載日:2026/03/26

 君に触れたときだけ、世界は少しだけ静かになる。


 ――そんな気がした。


 夜明け前のホテルの一室は、どこか現実から切り離されたみたいに淡く沈んでいるようだった。カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、輪郭を持たないまま床に溶けている。外からの喧騒は何も聴こえず、時計の針の音だけがやけに大きく響いていた。


 ベッドの上の君は、眠っているかどうか分からない。


 目を閉じているだけなのかもしれない。そのまぶたの下で、何かが絶えず揺れているのが分かる。夢を見ているのか、それとも現実の僕から逃げているのか。まあ、どちらでもいいだろう。ただ、ここに僕と二人で居ることだけが、今はすべてだった。


 指先で君の髪をとくと、かすかに温度が伝わる。確かに存在している、という証拠があった。それを確かめるたび、胸の奥がじくりと痛んだ。


 どうしてだろう。

 こんなにも近くにいるのに。

 満たされるどころか。

 どこか欠けていく感覚がある。


 君はふいに目を開けた。


「……起きてたの」


 掠れた声だった。

 夜の底へ置き去りにされたような、乾いた響き。


「……うん」


「寝ないの?」

「寝れない」


 短い会話が、すぐに途切れる。多くの言葉など必要なかった。むしろ、多すぎると壊れてしまう気すらする。余計な何かを言えば、保っていたこの均衡が崩れてしまう。そんな予感すらあった。


 君はゆっくりと体を起こし、ベッドの端に腰掛けた。窓の外を遠い目で見つめている。まだ朝と呼ぶには早すぎる時間。街は眠りの名残を引きずったまま、静止していた。


「ねえ」


 窓の外を眺めたまま、君は僕に尋ねる。


「今日、映画行くって言ってたよね」

「言ってたね」

「行く?」


 少しだけ間が空いてしまった。その沈黙の中で、僕は答えを探していたわけじゃない。ただ、どちらを選んでも二人の関係は変わり映えがないのは確かで、それを理解していたからこそ躊躇っていただけだった。


「……やめようか」


 君は、そう、とだけ言って頷いた。残念そうでも、安心したようでもなかった。ただ、予想通りの結末を受け入れているみたいに、静かだった。


 それが、少しだけ寂しかった。

 僕らは、いつからこうなったんだろう。


 何かが変わるよりも、変わらない理由を探す方が自然になっている。未来の話をするよりも、今この瞬間をどうやってやり過ごすかばかり考えてしまっている。


 それでも、離れようとは思わなかった。

 離れたところで、同じような夜が待っているだけだ。

 お互いに、そう認識していたから。


「外、明るくなってきたね」


 君が呟く。その声に導かれるように窓の方を見ると、空がわずかに色を変え始めていた。黒から紺へ、紺から薄い青へ。そのグラデーションは、あまりにも滑らかで、ひどく残酷に映ってしまった。


 こんなにも綺麗なのに、何一つ救ってくれない。

 朝はいつだってそうだ。


 夜の中で抱えたものを、そのままの形で差し出してくる。なかったことにはしてくれないし、忘れさせてもくれない。ただ〝続き〟を強要してくるだけだ。


 君は立ち上がって、カーテンを開けた。一気に光が差し込んで、部屋の中が白で満たされる。目が眩むほどの明るさに、思わず顔をしかめた。


「綺麗だね」


 目を細めた君のその横顔は、今いるこの世界よりも更に、どこか遠くを見ているみたいだった。 


 なぜだか、僕は頷けなかった。綺麗だと思う気持ちと、吐き気に似た感覚が、同時に押し寄せてきていたからだ。


「……ねえ」


 そして代わりに、といったようにぽつりと零してしまう。


「君にとって、僕ってなに?」


 君は振り向かなかった。

 ただその場に立ったまま、少しだけ髪を揺らす。


「わからない」


 小さな声だった。


「でも、今のままがちょうど良いよ」


 ――その一言で、すべてが決まってしまった気がした。


 いつも繰り返されるだけ。

 終わらない、感情のループ。

 抱えてしまったものは、なかったことにはできない。

 感情も、記憶も、痛みも。

 すべて抱えたまま、僕らは同じ朝を何度でも迎える。


「確かに、綺麗だね」


 僕は立ち上がって、君の隣に並んだ。

 同じ景色を見る。

 特別なものなんて何もない。

 ありふれた街の朝。


 それでも、こうして並んでいるだけで、ほんの少しだけ現実の形が変わる。


 君の手に触れる。

 逃げないで、と言う代わりに。

 泣かないで、と言う代わりに。

 何も言わず、ただその温度を確かめる。

 君は抵抗しなかった。

 それだけで、十分だった。

 朝焼けはどんどん強くなっていく。

 世界が、当たり前みたいな顔で動き出す。

 僕らはまた、その中に放り込まれる。

 何も変わらない日常へ。

 それでも――

 影も、夢も、罪も、光も。

 すべてを抱えたまま、僕らはここに立っている。

 感情は消えない。

 消えないまま、何度でも巡ってくる。

 まるで音みたいに。

 鳴り止むことのない、静かな反復の中で。

 僕は君の手を離さなかった。

 たとえこの先、何度同じ朝が来るとしても。

 そのたびに、また始めればいいと思った。

 繰り返しでもいい。

 終わらなくてもいい。

 ただ、君となら。

 たまにこうして、会えるだけでもいい。


 このどうしようもない日常を、もう少しだけ続けてみてもいいと、そう思えたんだ――

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