8
日が落ちて二十一時過ぎであっただろうか。入口のガラスドアがゆっくりと開き、今度は矢田が来店した。またしても私は接客を押し付けられ、席に案内された矢田は、肩肘を張りながら拳を固めて真剣に言う。
「ここでタダ飯を振るまっていると聞いたのだが」
「当店ではそのようなサービスは行っておりません」
「じゃあ、ジャッキーチェンの映画を見ました」
じゃあとは一体何であろう。
「だから?」私は半ばキレ気味に返した。
「だから、映画を見たので、なにかあるんじゃないのか」
「ないです、というかお前は一体何の用だ」
堪忍袋の緒が切れた私が店員モードを解除して問い詰めると、矢田はとうとう白状した。
「神崎先輩と一緒に働くお前が憎くて」
切実極まりない声の抑揚。こいつ本気で言っていやがる。
「俺は今日、お前を不幸にしにきたんだ」
私は神崎先輩に想いを寄せてなどいないし、そもそも先輩には部活OBの彼氏がいることを、何度言えばこいつは分かってくれるのだろうか。
「お前も部活に染まっちまったな。俺はいちいち取り合わんぞ」
「うるさい、俺は自分の使命を果たすのだ」
矢田はそう言うと暴れ出した。呼び鈴を鳴らしまくり、大声でもって「俺は世紀末の炎を絶やさぬ」と意味の分からぬことを喚き始めた。狙いは分からぬが、とにかく他のお客様に迷惑である。神崎先輩を連れて来て解決を図ろうかとも思ったが、私は前回の反省を生かして、即座に店長を呼びに行った。
「タダ飯を食わせろって、九番席で変な客が暴れています」
私が伝えると「なんだと!」と好戦的な店長はむしろ嬉しそうな様相で、軽やかに九番テーブルに駆け寄っていった。
「水口くん、やっちゃったね。多分あいつそれが狙いだよ」
ひと仕事終えたと鼻息を荒くしていた私に、心底残念そうな声音で神崎先輩が言った。
「それはどういうことですか」
「まぁ、今に分かることでしょうよ」
目を細めて九番テーブルを見遣ると、矢田は私の方を指さしては何やら身振り手振りで説明しており、意外や意外、店長はフムフムと素直に話を聞いていた。
やがて矢田は立ち上がると、店長と歴史的な和解の握手をして退店した。恨みがましい目つきと、ざまぁみろと言わんばかりの嘲りの顔を、キッチンにいる私へ向けて器用にも交互に披露した。
さて戻ってきた店長は世にも恐ろしい笑顔で私の耳元に囁いた。
「彼はなんでも君に唆されて来たそうじゃないか。良心が咎めたからと、実行前に白状してくれたから良かったものの、全く、君の友人たちの迷惑賃は君にきちんと払って貰うことにするからな」
私は全てを察した。そうして店長の大変ありがたい愛情に満ちた鞭を涙ながらに頂戴した。
*
一難去ってまた一難。精神上のたんこぶが二段重ねのアイスクリームのように積まれた二十二時である。続いては原口部長がボロボロの高木副部長を連れて来た。恐らく彼は復讐の戦に負けたのであろう。南無。
「この店で一番ボリュームがあるモノを頼む」
原口部長はメニューも見ずにそう言った。向かいには処刑執行前の罪人のように青ざめた顔をしている副部長が項垂れていた。
「それなら三段ハンバーグになりますね」
「じゃあそれを一人前頼む」
恐らく何らかの制裁がこの場にて実行されるのだろうとは思っていたのだが、それは甘かった。私は原口部長を見くびっていた。てっきり原口部長が食べた分を高木副部長に奢らせるか、或いは注文から推察して、成人男性でも中々食べきれない三段ハンバーグの大食いチャレンジを高木副部長に無理やりさせるのだと思っていたのだが、実際に行われたことはなんとも惨い。
高木副部長は我が店名物の特大三段ハンバーグを半永久的に食べさせられ続けていた。
「水は無しだ。おや、もう一人前食いたそうだな」
「はい、是非とも食べさせていただきます」
副部長は泣きながら四人前を完食した。ちょうどその辺りから我々従業員、この残酷な刑罰がいつまで続くのかと半ば釘づけになって十二番テーブルを見物していたのだが、八人前を平らげた辺りで、
「おや、これ以上は金が足らんな」
まさかの幕切れである。なんなら税込み計算をしていないため、会計の支払いは足りなかった。知り合いから食い逃げ犯を出すわけにはいかなかったので、足りない分は私が補填した。
「うむ、心意気に免じて、お前への制裁は無しにしてやろう」
原口部長は恐ろしい言葉を言い残し、高木副部長を引き摺りながら夜の街に消えていった。二度と来るなよ。私は強くそう思った。




