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あれ以来、雪月先輩のしっぽは掴めず仕舞いである。私はアルバイトに明け暮れていた。地図上で下宿と駅とバイト先とを結ぶと、ちょうど見事な正三角形が描かれ、更にそこに大学を結ぶと、ちょっと歪な平行四辺形になるのである。どうだ中々面白いだろう。
冗談はさておき、私のバイト先というのは、何によってかは知らぬが、とにかく地域に根ざした経営をモットーにしているローカルチェーンのファミリーレストランなのであった。
「雪月先輩って本当に謎だらけの存在だわ。解き明かそうとすればするほど新たな謎が湧いて出てくる。尊きミステリアスの権化なのよ」
ラッシュ前の夕方、エプロンを締めながら熱弁を振るうのは神崎先輩である。彼女は紹介料二万円につられた守銭奴で、アルバイト先に悩んでいた私をこの場所に引っ張りこんだ張本人であった。
「あんた、何か知らないわけ? 最近、雪月先輩と仲良いんでしょ」
「知りませんよ。大体、先輩の方が付き合いが長いんですから、僕の方が色々と教えて欲しいくらいですよ」
つっけんどんに私が言うと、彼女はニヤリと口角を上げた。
「いいよ、君みたいなバカ野郎には、そうねぇ。例えば雪月先輩のスリーサイズは上から──」
「そういうのは結構です!」
「冗談よ、あんたなんかに言うわけないでしょ。第一私も知らないし」
ケタケタと笑い出し、この野郎という按配で、シフトが重なる時は毎度気苦労が耐えない。
相も変わらず雪月先輩の生活は全く謎に包まれていた。大学構内には出没するし、部活動にも参加するのであるが、肝心のプライベートは一切分からないのだ。なぜ、彼女ほどの秀才が大学生という身分に甘んじたまま、日々の生活を送っているのか。もう講義なぞ無いだろう日々の生活はいったいどのように構成されているのか。
実家がとんでもない金持ちで高等遊民生活を満喫しているだとか、社会人の彼氏に養われているだとか、実はそもそも社会人であるだとか、噂は幾つも飛び交っていた。が、直接先輩に真相を尋ねてみると、当の本人は笑いながら、
「大学生が人間の生活を最も気楽に味わえる身分だから」
そう言って煙に巻くのである。そしてその態度が一層コトの真偽をややこしくしていた。
ここ最近では「雪月さんは月から舞い降りた天使だから現世なんて関係がないの」と神崎先輩はよう分からんを言い、原口部長は「奴は俺を邪魔するために秘密結社から遣わされたエージェントだ」と大真面目に言い出す。矢田に至っては彼女が旧華族の令嬢だという根も葉もない噂を本気で信じ始めており、全く収拾がつかなくなってきた。
ところで雪月先輩は人好きではあるのだが、大人数で騒ぐのはあまり好まなかった。どちらかと言えば対話を好む人である。その相手は尖っていれば尖っているほど良いらしく、怪奇幻想部の面々などはまさに格好の餌食であった。私もよく思索的な話を振られて、思うがままに語るのであるが、果たして彼女の満足に値する話が出来ているのか、それは甚だ心許ない。
ある暮方、話し相手が私しか居なくなると、彼女は私に向き直って聞いたものである。
「ある美人は百人の男を振って、百の悲しみを生み出したとしましょう。ある醜男は百人の悪口を言って、百の悲しみを生み出したとしましょう。さて、彼らは美人に生まれたいとも、醜い悪口言いに生まれたいとも思っていませんでした。仮に生み出した悲しみの総量が同じだとした場合、どちらがどれだけ悪いのか或いは良いのか、はたまたどちらも悪くないのか、どうでしょうか」
「僕が勝手に決めていいんですか?」
「この場合いいの」
「じゃあ誰も悪くないとした上で、ある美人を僕の独断で善に置きます」
「その心は?」
「そんなの僕の快不快ですよ。ただし、その独断分の悪は僕が背負います」
「なにそれ」
私は彼女の話を引きとって少々熱っぽく語り始めた。
「僕が思うに、真に誰かの幸福を願うのならば、その人の分の罪も含めて、自分が全部担う覚悟が必要だと思うんです。例えば、この人は全世界の悲劇に背中を向いて僕と歓談に興じているけれども、それは僕がこの人を攫って部屋に閉じ込めているからであって、この人は今、自分にできる精一杯の範囲で他者への愛を発揮させているのだ、ていう具合にね。尤も善悪なんてのは初めから無いのかもしれませんし、そもそもこんなのは単なる誤魔化しに過ぎないのかもしれませんけど、そう考えると少しだけでも救われる気がしませんか」
つまり私はある美人を勝手に彼女だと捉えていたのだ。
「それ、中々面白い考え方だね」
彼女はそう言ってニヤニヤ混じりの微笑を浮かべた。そうして自身の壮大な考えも述べたのであった。
「おいコラ水口、お前は不器用なんだからもっと真面目に仕事をやらんか」
歓談と追懐に興じていると、後ろから店長の怒鳴り声が響いてきて私は吃驚仰天した。
「神崎ちゃんも水口に仕事をちゃんと教えてやってね」と隣にいる神崎先輩にはまさかの猫なで声。
「はーい」と返事をする神崎先輩も神崎先輩だし、全く今の時代にはあるまじき昭和仕草だ。店長には男女平等も何もあったものじゃないから困る。呼び出されて二人きりなので何かモノでもくれるのかと思ったら、拳骨紛いの薫陶を受けたことも記憶に新しい。神崎先輩に対しては趣味の旅行帰りに必ずお土産を買ってくるくらい優しいのに。我々の間には温める旧交も無ければ、新鮮な取り交わしも無く、ただあるのは叱咤激励のみである。
無論、私の方にも落ち度はある。私も私で、フライパンの蓋を用意せぬままポップコーン豆を炒め始め、厨房で大惨事を引き起こしてしまうような迂闊な子であったのだから。そして更に厄介極まりないことに、私はこれをもう三度も繰り返した。
「首にせぬだけで有り難いと思え」
店長の言葉を完全否定することは難しい。だがしかしだ。私は人と会えばその人を楽しませなければという義務感が湧いてくるタイプの人間で、目の前の人が退屈しないかどうか、そればかりを考えてしまって、人付き合いは絶えずご機嫌伺いに終始してしまう。故に私は外に出て人と関わるのが苦手な人間だった。私の他にもこんな小心者は多いだろうが、そんな哀れな人間が懸命にアルバイトに精を出しているというにも関わらず、こんな仕打ちはあんまりじゃないか。
岡田店長、四十五歳。彼はすぐに中指を立てるのでバイト連中からはフック船長と呼ばれており、リヴァイアサンが如き権勢を振るう悪漢であった。全ての元凶は、彼が、我々の抱くような軟弱な考えなぞ、微塵も考慮しない人物なことにあるのである。
だから私は悪くない! しかし、それはともかくとして店長の経営の才能は本物であった。彼が店長に就任してから早や二年、売上は常に右肩上がりで、アルバイトに支払う時給も惜しまなかった。彼は常に恐ろしい男ではあるのだが、決して吝嗇ではなかったのだ。というわけで、諸々の金銭的事情から、私はアルバイトを辞めるわけにはいかなかった。




