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屋敷中を駆け回っている三人を他所に、私は散歩と変わらない速度で屋敷を徘徊していた。二人があっという間に散ってしまったせいで肝心なことが何も聞けず、追うべきは人間なのか、妖怪なのか、はたまた猫なのかも分からずにいたのである。いや、もしかしたら鏡が独りでに動いている可能性だってあるのかもしれん。私は眼や耳よりも頭の方ばかりを動かしていた。
すると私はふいに二階の窓から屋敷の裏を駆けていく人影を見かけた。雪月さんは屋敷内にいるはずだから、あれが犯人なのかもしれぬ。私は階段を駆け下りて後を追った。
屋敷の裏は木々が青々と茂り、そこは小さな森のようになっていた。その森の中に人が行き過ぎた跡を認めた私は、下草をかき分けながら歩みを進めた。灌木の茂みの中に散見される白い花も赤い実も今は気にならなかった。何となく手柄が欲しくなってきた私は自然と戯れることもなく、ずんずんと森の奥へと入って行った。
しばらくするとご褒美のように海が望める開けた場所に出た。ウミネコの群れが海面で羽ばたいている。そこから更に椎の木の脇にあるけもの道を進んでいくと、苔に覆われた古い石段が見えた。蒼然とした雰囲気で何だか不気味である。私は雪月さん達を呼びに行こうか迷ったが、犯人が潜んでいる確証もなかったので、そのまま一人で進むことに決めた。
石段を上がった先の広場には、陽の光を気持ち良さげに浴びながら周囲に明るさを振り撒くクスノキがあった。豊かな葉並は活力に溢れており、高い位置の枝木は華奢だったが、馥郁たる細やかな葉からは心身を健やかにするアロマセラピーが感じられる。私の抱いていた不安感や不気味な印象は忽ち雲散霧消した。
そしてそのクスノキの木陰では端正な顔立ちをした少年が黄金で縁取られた豪華絢爛な鏡を抱いて眠っていた。私は愕然としたのだが、それは少年の正体が隣の老夫婦が預かっているという孫のカズマ君に違いなかったからである。
この夏休み中、私は何度か彼を見かけていた。のみならず、砂浜では老夫婦と一緒にいた彼と直接会話を交わしたし、山道から砂浜に繋がる道の端にはびっしりとタカサゴユリが咲いているのだが、そこで私は彼にこの白い花の名前を教えてやったりもしたのである。その際の印象から言うと、彼が盗みを行うとはとても思えなかったし、盗んだとて真実の鏡をいったい何に使うのか甚だ疑問である。
「おーい」
小さめの声でそう言いながら近寄って行くと、カズマ君は目を覚ました。ゆっくりと瞼を開け、周囲をキョロキョロと見回した後に、ようやっと私の姿を認めた。
「お兄ちゃん誰?」と惚けた様子である。
「雪月さんの婚約者だよ、前にも会ったろう? どうして鏡を盗んだのかな」
私は宿題を忘れた生徒に対する先生のような態度で言った。
「だって、ハチワレ猫さんがあれを持ってこいって言うもんだから」
カズマ君はあっけらかんとした様子で言った。思わぬ首謀者に私は目を丸くした。
「すると奴は化け猫の類か」
「分かんない。でも良い猫さんだったよ」
はっきりいって分からないことだらけだが、まぁ良い。鏡はひとまず見つかったのだ。私は少年に優しく言った。
「いずれにしても盗みはいけないことだ。お兄ちゃんに鏡を返してくれるかな」
私は似合わないのを承知で道徳を説いた。
「嫌だ、猫さんに使ってあげるの」
「我儘を言っちゃいかんよ。君には鏡の所有権はないんだ」
「でも僕は猫さんに約束したもん」
うむ、どうも上手くいかん。押し問答がしばらく続きそうになったそのときである。
「おーい!」
突然、間の抜けた快活な声が遥か頭上から響いてきた。見上げると、ハチワレ猫を抱いた雪月さんがから傘を片手に掴みながら滑空してくるのが見えた。御御足が中々危ない、とこんな時にまで最低な方向に頭が回るのは大罪であろうか、皆様に是非とも裁断を仰ぎたい。
雪月さんはすちゃっという擬音と共に広場に着地すると、事件の全貌を語り始める名探偵役をこなし始めた。
「事件の全貌は分かったよ。ハチワレちゃんは元の姿に戻りたかったんだね。言っていなかったけど、この鏡には呪いや魔法にかかった者を元に戻す力もあるんだ。でも地下室には呪いや魔法を跳ね返す結界があるから、この少年を頼ったんだね」
「つまりどういうことですか」
私は混乱した。事件にではなく、ことによっちゃあ人間の男かもしれん奴が、雪月さんの膝ばかりに座っていたことにである。
「こういうこと」
雪月さんは少年から真実の鏡を受け取ると、ハチワレ猫を鏡に映した。途端に鏡が輝き出し、それに呼応するようにハチワレの全身も眩い光を放ち始める。私は思わず目を瞑った。
「助かりました」
目を開けると黒い部分が多かったハチワレは白い部分が多いハチワレに変化していた。
「それとご迷惑をお掛けして誠にすみませんでした。言い訳にはなりませぬが、実のところかなり切羽詰まっていたのです。私は多量の黒色を抱えるのに限界でした」
ハチワレは人間さながらの流暢さで話すと、これまた人間のようにぺこりと頭を下げた。
「良かったね」と雪月さん。
「うん、猫さんが元に戻れてめでたしめでたし」と状況に適応して上機嫌なのはカズマ君である。
から傘は、鏡が戻ってきたことにひたすら安堵しているみたいで、猫が急に喋りだしたことに引っ掛かっているのはどうやら私だけらしかった。
その後、私達はカズマ君を老夫婦宅に送って行った。念の為カズマ君には例の薬を飲ませ、彼は今日一日私たち(私と雪月さん)と一緒に遊んでいたと思い込ませた。老夫婦にも詳しい事情は伏せて説明し、彼らは孫と遊んでくれたお礼にと煎餅をくれた。その帰り道で雪月さんは言った。
「前々から思っていたけれど、君の霊感も中々だね」
相変わらず冗談とは思えない冗談を口にする人である。
「まぁ、妖怪三人に囲まれているくらいですし」
「そうだね」と彼女の相槌は優しい。
「実はあのハチワレも百年を生きた妖怪だったんだけど、どう、気づいてた?」
「いいえ全く。喋り出した時に初めてそう思いましたが、あの鏡は妖怪を閉じ込めるんでしょう? 不思議な猫なんだと無理に思い込みました」
「いや、正しくは悪しき妖怪をだね。あのハチワレは善良な妖怪だったから大丈夫だったんだよ」
「じゃあ雪月さん達ならどうなるんですか?」
「分かんない。君はどう思うの」
「僕からしたら善良ですけど、そもそも正悪なんてのは相対的なものですからね。ハチワレの善良は誰が決めたんだろう」
「あの鏡か、神様じゃない?」
「妖怪も神様を信じているんですか?」
「どうだろうね。いたら嬉しいし、楽しいなってだけで熱心に信じているわけじゃないよ。少なくとも私の場合はね」
夕焼けを背景に雪月さんは小さく笑った。
「話はちょっと変わるんですが」
私は前置きしてから話し始めた。
「雪女も人間よりは長生きなんですよね?」
「うん」
「見た目は若いままですけど、雪月さんの精神年齢はどれくらいなんですか?」
「分かんないよ。多分人間よりは緩やかな歳の取り方をするんだと思う。つる性植物がゆっくり回りながら伸びていくようなイメージかな」
「素敵なイメージですね」
私が褒めると雪月さんはふふんと笑った。褒め言葉を素直に受け取ることができるのは、彼女にあって私にはない二千の美徳の内の一つだと思う。
その日の夜は屋敷のバルコニーで天体観測をした。早々に夏の大三角形を見つけた私は、はくちょう座やさそり座も懸命に探した。ペルセウス座流星群は残念ながらもうピークを過ぎてしまっていたが、それでも何個かの流れ星は発見した。私は流れ星にロマンスの持続を願った。
「零れ落ちそうな星空ですね」
ふと言ったが、返事はなかった。時計を見ると、もうすっかり夜中の二時である。雪月さんはデッキチェアでくーくーと寝息を立てていた。




