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ガタガタと車体を揺らしながら山を下る行き道は素晴らしかった。私は山道を軽快に駆け抜け、海に沈む夕日を尻目に、二十分もかからずに街の中心地に降り立った。山道は車も通行人も全くいなかったので、幾らでも自由に風を切り裂けたのである。
クリーニング屋のおじさんにシーツと布団を預けた私は、近くのスーパーで普段なら買わないであろうグレードの肉と野菜を買った。店を出ても日はまだまだ落ちきっておらず、多分出発から一時間も経っていなかったと思う。私は軽やかな気持ちだった。
それなのに、帰りは全然良くなかった。行きはよいよい、帰りはこわい。この歌はまさしく屋敷から街までの道のりのことを指している。
海の方までは行きと変わらぬ快適さで自転車を飛ばしていたのだが、周囲に木々が生い茂る坂道に差し掛かると、途端にペースダウンして、いよいよ自転車は全く前に進まなくなった。否が応でも地に降り立ち、手押しで進むしかなくなって、私の愛馬はスーパーの袋を載せるだけの機能しか有していないただの鉄塊に成り下がった。
どうせなら電動自転車を渡しやがれ。私は一つ目を逆恨みしそうになった。
ゼーハー言いながらチマチマと自転車を転がしていると、玄関先で打ち水をしていた老婦人が話しかけてきた。
「こんばんは、お兄さん、もしかして雪月さんのところの人かしら」
可憐で人の良さそうな人である。笑った際の目尻が柔らかかった。
表札の樋口という名前を見るに、この人が雪月さんが言っていた隣の老夫婦の妻の方に違いないのだろう。隣とは言っても距離的にはそこそこ遠いため、迂闊な私はもうかなり屋敷に近づいてきていたのに全く気がついていなかった。
私は、雪月さんが亡き父母との思い出に浸るために屋敷に訪れるお嬢さんという設定になっていることを思い出し、慇懃無礼気味に挨拶をした。
「貴方は雪月さんとどういう関係なのかしら?」
老婦人は世間話の一環として当然の質問をしたのだが、私は返答に窮した。雪女に雇われたアルバイトだと正直に言える筈も無く、かといって他に言いようもない。ただの友人にしては違和感があるし、彼女には親兄弟はいないことになっている。
「実は婚約者なんですよ」
困った私は咄嗟にとんでもないことを言ってのけてしまった。
「まぁ!」と老婦人は教科書通りに口に手を当てると、露骨なまでに話に乗り気になり、私は色々と根掘り葉掘り聞かれた。老婦人の方も自らの話や、夫の話、それから夏休み中預かっている孫の話などを見境なく話し出した。そうして最後に私は興味津々な老婦人に恋路の背中を思い切り押された。
私は「アハハ」と乾いた笑いを浮かべながら、彼女の独り合点に頷くしかなかった。
*
屋敷に戻ると、もうすっかり日没であった。広すぎるキッチンにあたふたとしながら料理の準備をする私を、雪月さんは楽しそうに眺めている。
罪悪感に苛まれた私は、雪月さんに先程の一幕を報告した。
「というわけで婚約者ということにしてしまいました」
「そう、わかったよ」
思いの外、あっさりとしていた。私は彼女が怒らないまでも、そのことをダシに、いつまでもウザ絡みをしてくると予想していたのでこれは意外だった。
「老婦人は夏休み中、共働きの息子夫婦に頼まれて孫を預かることになったと話してくれましたよ」
「えっ! まずいなそれは」
雪月さんは何故かそっちの方に強い食いつきを示した。
「子供が苦手なんですか?」
「ううん、むしろ好きだよ。でも子供って第六感が鋭いでしょう? だから私が妖怪であることがバレそうで不安だなぁ。薬を飲ませりゃいいって言われたら、そりゃあそうかもしれないけどさ」
彼女は珍しくぶつくさと不満を垂れた。
「何ですか薬って?」
物騒な単語に引っかかった私は狼狽えながら質問した。
「あれ、前に話してなかったっけ、雪女としての私の記憶を消す薬のこと。毎年、バイト終わりには飲んで貰うの。最近はあまりないけど、雪女だとバレた時にも使えるんだ」
「僕にも飲ませるつもりですか?」
「分かんない、けど、多分そうすると思う」
雪月さんはあっけらかんとしていたが、私にとっては大事件である。何となく察してはいたものの、私は混乱した。すると私の取り乱した様子を見て取ったのか、雪月さんは錯乱した患者を落ち着かせるようにして優しく言った。
「安心して、副作用は特にないからね」
ああ、なるほど。私は百五十万円の意味が分かった。
「でも嫌なんだよなぁ。子供に限らず皆、薬を飲むとき、寂しそうな悲しそうな顔をするからさ」
「それだけ雪女は魅力的なんでしょう」
私は泰然自若にそう言ったが、内心はやはり大きな動揺を抱えていた。が、苦悩したってどうしようもないなと、何とかさっぱり思い直した。
この際だ。貴重な雪女との交流を精一杯慈しもう。雪月さん相手に軽口を飛ばしながら、私は夕食作りに取り掛かった。
*
私の作った麻婆豆腐チャーハンは味が濃すぎると不評だった。一つ目には「俺は薄味が好きなんだ」と小言を言われ、から傘には「バランスというものを少しは考えてみてください」と叱られた。唯一、雪月さんだけが「まあまあ美味しいよ」とフォローしてくれた。
その後は広すぎる風呂に一つ目と一緒に入り、から傘をシャワーで洗ってやった。風呂から上がると、夜はまだこれからだと言わんばかりの雪月さんがトランプを片手に居間で待機していたが、非常に疲れていた私は、彼女に一言言って先に部屋で休ませてもらうことにした。残念半分、心配半分の彼女を置き去りにするのは心苦しかったが致し方あるまい。
それにしても刺激の強すぎる一日だったからだろうか。ベッドに倒れこんだ私は雪女と一つ目小僧とから傘お化けを脳裏に浮かべているうちにぐっすりと眠ってしまった。普段は迸る思念と近隣学生の騒音によって不眠に悩まされている私が即座に寝入ってしまうのは珍しいことだった。そのまま私は朝まで一度も目を覚まさずに熟睡した。




