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地下室でドストエフスキーの地下室の手記を読もうと云うくだらない提案を跳ね除け、我々は地上に上った。広間を抜け、廊下を駆け、居間へと戻った私は、雪月先輩からこれからの生活の説明を受ける筈だったのだが、彼女はイタリアンレザーの大きなソファーに遠慮なく裸足で上がり込むと、効きすぎな冷房の下、チョコレートアイスを頬張ってリラックスし始めた。
「あの、説明をしてくれるんじゃないんですか」
勧められたアイスを断った私は謎の状況と冷えすぎた部屋にそわそわしながら言った。
「その前にやるべきことがあるんだ」
「給料の前払いか、それとも契約書作りですか」
「違うよ。じゃあ、まずは君の疑念を晴らしてあげよう」
ふざけた私の問いは一蹴されたが、それにしては優しい否定であった。
「疑念って何ですか?」
言いながら私は何となく分かっていた。
「君はまだ私が雪女だって信じきれていないね」
モチのロン、図星である。ここまでされても私の心中には懐疑を生業とする大人の悪魔が潜んでいたのだ。ロマンスを愛しているのは疑いようがないのだが、罪深い私の猜疑心は際限がなかった。
「疑ってはいないですよ。ただ信じきれていないってだけで」
「それを疑っているって言うんだよ」
彼女はそう言って立ち上がると、猫みたいに黒目を大きくさせた。そのまま私の両腕を掴んで顔を引き寄せると、口を窄めて、ふっと静かに息を吐いた。私の前髪がふわりと上がり、額が露わになったちょうどその時、私の前髪はカチコチに凍ってしまった。
「うわっ! 髪の毛が!」
慌てふためいた私はそのまま床に倒れ込んだ。冷たくなっているなんて次元ではなく、大きな氷塊が髪の毛に固まりついたみたいなのだ。
「どう? これで信じる気になったでしょう」
頬に手を添わせて彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「そりゃあ、もう! めちゃくちゃびっくりしましたよ」
私がやたらと騒ぐと、雪月先輩はからからと笑った。調子づいたのか、片足で軽く床を蹴って、そのまま空中に浮遊する秘技まで見せてくれた。
「本当に雪女なんだ」
私は胸を踊らせた。
「だからそう言ったでしょ」
「カニ怪人を転ばせたのも貴女ですね」
「あれは何ていうか、不可抗力っていうか。だって私にぶつかってきそうだったし」
「別に責めちゃいませんよ」
そうやって私たちはしばらくの間、わちゃわちゃと言い合いをしていた。恐らく三十分以上はそうしていたのだろう。
「うるせぇ奴が来たもんだ」
そう言って何処からか熱いお茶とおしぼりを持ってきたのは、私の膝くらいの背丈の禿頭の小男で、額の真ん中にはなんと大きな目が一つしかなかった。
「なんだい、人の顔を見てギョッとしやがって。失礼なやつだ。雪月さん、こいつはいけませんぜ」
「そうだ、そうだ。雪月さんは綺麗な人でございますからね。アンタのようなケダモノは何をしでかすか分かったもんじゃありませんよ」
同調するのは和傘に手が生えた化け物である。一本の足でぴょんぴょんと跳ねながら、私たちの方に近寄ってきた。
「まぁまぁ二人共、落ち着いて。これから一緒に生活するんだから」
雪月先輩が諌めると、二人とも忌々しそうに口を噤んだ。私のことが気にいらずとも、彼女の言うことには従わねばならぬらしい。私は唖然としながら、彼らをしげしげと見つめていた。
と、突然雪月先輩が両手をパチンと合わせた。彼女の指示で四人? が同じ席を囲むことになった。
「では、全員揃ったことだし、自己紹介を始めちゃおっか。まずは水口くんから! 彼は夏休み中、ウチで働いてくれるアルバイトさんだよ」
神妙な面持ちの一つ目小僧とから傘お化けに向かって、私は素直に自己紹介をした。出自や趣味、雪月先輩との関係性などを主として言ったと思う。
続いて、一つ目小僧、から傘お化けの順に自己紹介がなされた。二人とも思いの外自らを開示して語ってくれて、大まかながら私は彼らのことを知ることができた。
一つ目小僧はこの屋敷に仕える庭師兼掃除係であり、あの見事な中庭は彼の手によるものらしい。以前は山姥のお屋敷で奴隷のような待遇でこき使われていたのだが、ある事件をきっかけとして雪月先輩に拾われ、真っ当な賃金で働けるようになったとのこと。山姥の手から救ってもらった上に郷里の十人家族を養うに充分なお給金まで頂いて、全く雪月先輩には感謝してもし足りないくらいだと一つ目は語った。雪月先輩には恩人として深い敬愛の情を抱いているようであった。
「雪月さんに何かあったら、親家族まとめて祟ってやる」と一つ目は恐ろしい言葉こそ口にしたが、最終的には私を見習いバイトとして認めてくれた。
から傘お化けは雪月先輩愛用の和傘がいつの間にか妖怪化した不思議な存在である。彼女の真心から生まれたと本人は自負しているが、後で雪月先輩に聞いたところによると本当は違うらしい。妖怪であることから生じる諸々の書類仕事への煩わしさが高じて彼は生まれたのだと彼女は語った。その証拠に、から傘お化けは法務や税務にとても強く、必要な事務作業を全て担ってくれているのだそうだ。から傘は一つ目以上に雪月先輩の信奉者なので、彼の目の前で彼女が私を認めると、態度は即座に温和になった。
「はい、それじゃあ、自己紹介も済んだし、今日は解散!」
雪月先輩が宣言すると、一つ目もから傘も己の持ち場に戻って行った。私も自分に宛がわれた部屋に戻り、荷解きでもやろうかと動いたら呼び止められた。
「今日から私のことは雪月さんと呼ぶことね」
「いいですけど、理由は?」
「だって使用人は皆そう呼ぶのが決まりだから。それにこの土地での私の設定上、私には先輩後輩なんて概念はあり得ないことになってるんだよ」
「わかりました」
私は苦笑しながら、滔々と喋り続ける雪月さんを見つめた。彼女は首を傾げて笑っている。黒い髪と白い肌と黒い目と白い服。改めて眺めてみると、本当に美しい人、いや、妖怪である。人智を超えた能力を持ったその人は人智を超えた美しさをも持っていたと、甚だキザなことを頭に浮かべながら私は自分の部屋に向かった。
ちなみに私に宛がわれた部屋は八畳一間のワンルームである。下宿よりも広く、これには私、敗北感を抱かないわけにはいかなかった。




