プロローグ 絶叫【フェニス第3従響星】
カクヨムで連載中の作品の転載です。
週に2回更新してまいります。1章終了時点より、カクヨムと同じく同時更新へと移行します。
楽しんでいただけますようがんばりますので、よろしくお願いいたします!
「どこにいるのっ!?」
照りつける太陽の下で少女が1人、全力で駆けていた。
街外れのゴミ集積場に漂う、淀んだ風を切り裂いて。
薬品臭と腐乱臭が鼻の奥を強く刺激する。
腐肉に群がる羽虫が、幾度となく顔に張り付いた。
だがその足を止める理由には程遠い。
長い黒髪をなびかせ、白いワンピースが汚れていくのも厭わずに、少女リメアは小さな腕を懸命に振る。
ほどなくして翡翠色の瞳が、ゴミに埋もれたなにかを見つけ動きを止めた。
汚物やガーゼ、注射針の剣山からなるベッドの上に、見慣れたはずの少女の体躯がまるでモノのように転がされている。
体温が、一瞬にして氷点下まで下がった。
喉は、悲鳴すら通してくれなかった。
見開かれた双眸に映されたのは、生まれて初めてできたかけがえのない友、アリシアの変わり果てた姿だった。
「アリシアっ、アリシアアリシアアリシアっ!!」
ぬめった水溜まりに膝をつき、リメアはやせ細った肩を力強く抱き上げる。
栗色のショートボブが、アリシアの額から力なく流れた。
「……ッ!!」
軽い。いや、軽すぎる。
もはや人の体重ではなかった。
だが、何よりも恐ろしかったのは。
「……リ…………メア……?」
彼女に、まだ息があるという事実だった。
「しゃ、喋らないで、大丈夫、大丈夫だから!」
緩やかに痙攣を始めた彼女の腕を、無我夢中で擦る。
勢い余って、指にゴム紐のようなものが引っかかった。
ブシュ、と気の抜けた音とともに、勢いを失った液体がぼたぼたと腕からこぼれ落ちる。
赤が滲み出した揺れる水面には、親指の太さほどもある凶悪な針。
あまりに凄惨な光景に、リメアは呼吸すら忘れ、硬直する。
「リメア様、残念デスがアリシア様は、もう……」
慣れ親しんだ機械音声がゴミ山の上から降ってきた。
リメアにやっと追いついたホログラムの球体が宙に浮かんだまま、力なく俯く。
「リッキー、嘘だよね。こんなの、嘘だって言って」
「…………」
リッキーと呼ばれた銀色のホログラムAIは、答えに窮し言葉を失った。
白い雲の落とした影が、少女たちを静かに飲み込む。
風が止み、蒸し返すような熱と淀んだ空気があたりを包み込んだ。
ポツリ、とアリシアの額へ落ちた水滴に驚き、リメアは反射的に顔を上げる。
頬を伝う熱を感じ、はじめて、今自分が泣いていることに気がついた。
慌てて腕で拭うと、アリシアの日記の束が未だその手にきつく握られていることを知る。
並ぶ文字を見て、胸が更にきつく締めつけられた。
「こんなの、嫌だよ、アリシア……。嫌だよ……っ!」
激情に呼応するがごとく、艶やかな黒髪が重力に反してふわりと浮き上がる。
バチバチと虹色の火花がリメアを中心に散り始めた。
それに気づいた球体の声に、困惑の色が滲む。
「だ、だめデス、リメア様! 未確認の敵性反応アリ、今動くと危険デス! 何よりアリシア様を助けられる可能性は極めテ――」
「でも今なんとかしなきゃアリシアが! アリシアが死んじゃう!!」
叫びにも似た慟哭を合図に、揺れる髪が一息に白銀へと染まる。
波打つ銀糸は、やがて火花と同じ七色の輝きを纏いだす。
万物を構成する元素の源、エーテルの反応が大気中で連鎖を始めていた。
「リメア様!!」
「もう、決めたの!!」
リメアの体をエーテルの奔流が駆け抜ける。
視覚が強化され、アリシアの体内が透過されていく。
直後、あまりの容態の悪さに目を背けたい衝動に駆られた。
一般的な方法ではもう、手の施しようがない。細い吐息とともに唇が震えた。
アリシアの時間が幾ばくも残されていないのは、火を見るより明らかだった。
迷っている暇など微塵もない。
少女の腹部へ手をかざし、リメアは意識を集中させる。
「リメア様、まさカ!」
「ええそうよ! アリシアの機能を失った内臓を、わたしの身体と同じエーテル組織で作り直す!!」
「いけまセン! 生身の人間にエーテルは毒! たとえ今を凌げても長くは持ちまセン!」
「それでもわたしは! アリシアにちゃんとお礼だって――言えてないんだもんっ!!」
周囲には同じような少年少女の遺体が腐臭を漂わせ、いくつも散見された。
目の前の少女を、そちら側へ明け渡すわけにはいかない。リメアは懸命に治療を続けていく。
「魂を一時的に分離して大気中のエーテルに仮固定……86、87%、体組織形成、78、79%……! お願い、お願い……。間に合って……!!」
喉の奥から絞り出されたような祈りが、空気を揺らしたその時――。
バシャ、と音を立てて世界が傾いた。
否、リメア自身が、突然バランスを崩し、地面に突っ伏していたのだ。
「ぇ……?」
顔の前をかすめた蝿の速度が、やけに速く感じた。
何が起こったかわからず、目だけを動かして周囲を見回す。
直後、透き通った翡翠色の瞳が驚きに縮んだ。
先程までそこに浮いていたはずの相棒、400年近くリメアと共に過ごしてきた宇宙船のAIホログラム。
そんな唯一無二の存在が消滅する瞬間を、目撃してしまったのだ。
「精霊のエー■ル……干渉妨■……デス! 即■……離脱……ヲ……!」
それを最後に、ホログラムの欠片が風に散った。
途切れ途切れの音声が、耳の奥で残響する。
白い雲が倒れ込んだリメアの瞳に映り込み、いくつもいくつも流れていった。
ハッと我に返り、頭を持ち上げた。寝ている場合ではない。
普段より遥かに重い体をなんとか持ち上げる。
ちょうど肩にかかった髪が、水気を含んだ真っ黒な髪が、だらりと垂れ下がった。
それを見るやいなや、リメアの目は大きく見開かれ、頬の筋肉が引き攣る。
「そんな……! 力が! アリシアの治療がまだ途中なのに!」
弾かれるように地に伏したアリシアへ覆いかぶさり、エーテル操作を再開する。
が、まるで手応えを感じない。
彼女が横たわる水たまりには、赤黒い血のもやが広がりはじめていた。
立て続けに変化する状況へついていけず、目が回りそうだった。
「別の場所に逃げ……なきゃ……!」
銀色の相棒が散り際に残した“離脱を”という言葉を頼りに、次の行動を組み立てる。
力の入らない足を叱咤し、無理やり立たせた。
アリシアを両腕でしっかり抱きかかえ、ふらつきながらも走り出す。
「どうしよう、どうしよう! 早く、早く……精霊のエーテル干渉下から抜け出さないと、抜け出さないとアリシアが……!」
そよ風が吹く新緑の草原で、ただひたすらに足を動かす。
どれだけ街から離れても、どんなに心から願っても、エーテルの気配は感じられない。髪の色が変化することはなく、吹きすさぶ風に揉まれ、無情にただ乱れていく。
石につまずき、転びかける。草と土の香りが立ち上り、なんとか踏みとどまった。
握りしめていたはずの日記の断片が、指から離れて天に舞う。
目で追いかけて振り返れば、雲を突き抜ける巨大な塔が、覆いかぶさるように2人を見下ろしていた。
いったいどこから、間違えてしまったのだろう。
答えの出ない問いがぐるぐると、胸の奥で渦巻いていた。
それらを振り払うように、声を振り絞る。
「わたしはあなたを、絶対にあきらめないから……!!」
呼吸を整え前に向きなおり、リメアは再び大地を蹴り飛ばした。
こぼれ落ちる涙と一緒に、 アリシアと過ごした日々が蘇る。
幸せな記憶が、いくつも浮かんでは消えていく。
思えば彼女と最初に出会ったのも、ちょうど今日と同じような、うだるような暑い日差しの下だった――。




