マイルス・デイビスを聴きながら
シリーズ#3。第三輯。
マイルス・デイビスにまつわる個人的な体験。非情性から神聖へ至る。
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いつに在ったことか、Miles Davisを初めて聴いたという事象は。
今し想えば、吃驚するぐらい遅かった。三十に近くなってからであったろう。
よくある話だが、なぜそれを聴いたか、憶えていない(小説などでも回想の場面によくあるフレーズ)。
シチュエーション丈だ、脳裡に映像として明晰に遺る記憶は。
自家用車の操縦席、たぶんコンポに繋げた音楽アプリから聴いていたと思うけれども、それまでジャズに興味がなかったが、なぜ、そのとき唐突にチョイスしたか。その記憶がない。
恐らくは、ミュージック・アプリにお任せであったであろうが、それにしても、何系かくらいは必ず指定するはずで、まったく意に関わらぬものではなかったと推定されるが、なぜ、その方向へ赴いたかが、一向わからぬ。思い至らぬ。様々に、空想はできるものの。
兎にも角にも、それら諸事情の周辺は覚えていないが、明晰判明に憶えている、ただ、ただ、衝撃であったことは。
曲はシャンソンの名曲『枯葉(仏:Les Feuilles mortes、英:Autumn Leaves)』は多くのジャズ・ミュージシャンにアレンジされ、演奏されているが、マイルスのプレイは絶妙なミュートによる繊細な感情表現で、どんな言葉よりも、緻密に心の襞をトレースし、ダイレクトに気持ちを伝動する。心から心へと直截バイブレーションする。〝直截〟ということ。それ自体。何もない。あらぬ。音の存在は、それゆえ、リアルで、ヴィヴィッドであった。
言葉がないだけに、むしろ、現実が直截、喰い込んで来るような感覚があった。音という存在が、現実存在が、何ものも仲介・介在せずに直にImpactする。
言葉や概念などその表現しようとするものそのものではないが、音はいつでもそのものだ。音としてしかアピールして来ない、音自体でしかない。素材丈でしかない。素でしかない。それゆえ、ダイレクトだ。由縁を介在しない。ガツンとした唐突性の在る衝撃。
いや、人のみならず、動植物や虫や魚介にさえもあたえるであろう。音は物的な現象だから、物的な存在であるから、必ずや。
それは茶陶器など焼き物の景色に通じ、自然の事物・風景の存在の捉えられなさ、多岐複雑微妙繊細精緻細密さに通ずる。
その上に、金管楽器やハモニカなど、金属のリードを持つ楽器の味わいは、また独特なものがある。マイルスのミュート奏法はそれを晰劃にする。
硬質で、無機質、響鳴の抑制された、ものとしての音。ドライでクールだ。存在の無言。存在の無感情、無表情。もしくは時の止まった表情。そこには何もない、リアルで空莫、空絶絶空で、狂裂。それでいて、不可説な抒情が魂魄を奇襲する。筆舌に尽くせぬ狂奔裂。
生へ言語が到達できるものではない、という感想を抱いてしまう人間の感性の構造は、いったい、何ゆえか、いかような義があるというか。敢えて、設定する大自然の意向が、神意がわからない。
全ては、ただ、サウンドのヴィヴィッドなインパクトのように、唐突。唐突でしかなく、傍若無人に、意義・意味を無視してゐる。沙漠に在る、古代の遺跡のように黙して、凌儼で、甚だ奥深い。神聖崇高な、聖の聖なる非情性。