<episode6> 平等(後編)
「何をしていますの!?…お止めなさい!!」
江洲小原先生がそう口にした時には、既に宅間君の振り上げた拳は伊藤君の頬に直撃し、口から飛び出した血しぶきが辺りに舞っていた。
真っ赤な顔で激昂しながらも、その声で我に返った宅間君は、自分のしでかした事の重大さに後悔でもするかの様に、目を丸くしながら固まっていた。
伊藤君の父親はこの国でも有名な財閥のトップで、この学校どころか日本の政財界にも大きな影響を与えている。
そんな父親の息子である伊藤君は、教師ですらもご機嫌を伺う程で、江洲小原先生が来るまでは自由勝手な彼の行動に誰もが頭を悩ませていた。
「2人とも御立ちなさい………どういうことか説明して貰いましょうか?」
そう言って内から滲み出る様な怒りを露わにした江洲小原先生は、感情を悟られない様にか、広げた扇子で口元を隠しながら冷たい目で2人を見下ろしている。
その落ち着き払った静かな口調には、不気味にさえ感じる程の恐さが秘められていて、2人はその声に気付くと同時に怯み出し、ふら付きながらもその場でゆっくりと立ち上がっていった。
一方的に殴られていたのか伊藤君の顔には痣があるのに、宅間君の顔には傷一つ付いていない。
普段の伊藤君を知る僕は、彼が殴られっぱなしというのも腑に落ちず、何か裏がある様な嫌な予感を感じていた。
「宅間君が、いきなり怒り出して殴り掛って来たんです…」
案の定そんな言葉を口にする伊藤君は、被害を受けたにもかかわらず、殴った宅間君よりもずっと落ち着いていて、何処か勝ち誇った顔をしている。
それを横で見ている宅間君は、苦虫を噛みつぶした様な顔をしながら、悔し涙をポロポロと流し続けていた。
明らかに違和感を感じる2人の様子に、江洲小原先生も気が付いている様で、口には出さないが鋭い視線で2人の事を睨み付けている。
「宅間……アナタも言いたい事があるなら、ハッキリ言って御覧なさい…」
目を細めながらそう言って2人を上から見下ろす江洲小原先生は、まるで王者の様な風格を漂わせながら、持っている扇子でパタパタと自分自身を扇ぎ始めていった。
そんな時、事の一部始終を見ていた筈の伊藤君の取り巻きたちが、口を揃えて伊藤君に加勢する様な事を言い始めていく。
「言いたいことなんて何も無いよなぁ~?」
「こいつは普段から暴力的で、気に入らない事があったからってキレてただけだもん…育ちの悪いヤツはこれだから…」
傍観していた2人はおちょくる様な事を言って、何も言えずにいる宅間君に更に追い打ちを掛けていった。
「アナタたちはお黙りなさい!…ワタクシは宅間に聞いているのです…」
その流れを遮る様に口を挟む江洲小原先生は、ふざけた態度のそんな2人をキッとした鋭い視線で睨み付けていく。
その眼光の禍々しい迫力に動じる2人は、瞬く間に青ざめた顔をして、江洲小原先生から分が悪そうに視線を逸らしていった。
「伊藤君が僕のお父さんとお母さんは下賤な者だって……お前はこの学校に相応しくないって…」
涙を流しながら言った宅間君のその話を聞いた途端、江洲小原先生の眉間には僅かな皺が寄り、その口から大きなため息が漏れていった。
教室は一瞬、闇夜の深い森にいる様な静寂に包まれて、生徒たちの視線が一斉に先生に集中していく。
江洲小原先生はゆっくりと前に進み、冷たい目で宅間君と伊藤君を交互に見つめていった。
仁王立ちになって2人を見下ろすその姿は、まるで何処かの国の女王の様で、その迫力に誰もが怯み恐れ慄いていった。
「良い機会ですわね……アナタ方に少し特別な授業をして差し上げましょう…」
そう言ってドリルの様なツインに束ねたブロンドの巻き髪を、ユラユラと揺らしながら教壇に向かう華麗な姿は何処か悲しげで、背中には一瞬の影が差したように見えている。
しかし扇子を口に当てながら凛と教壇に立つその姿は勇ましく、その姿はそこに居る誰もを惹きつけていく。
「確かに、この世の中は平等ではありません………格差があるからこそ世の中が回り、人々は努力し成長していきます…ですが、それが理由で他人を貶めることは許されません…」
江洲小原先生の声は、冷静でありながらも一層の厳しさが込められていた。
生徒たちの間には一瞬の沈黙が広がり、誰もがその言葉に耳を傾けずにはいられなかった。
「個々に違いがある以上、それぞれの者には様々な役割が課せられます…そして、その役割を果たすことが人々が共に生き、支え合うことに繋がります…もし誰もが平等になって、人の嫌がることを誰もがやらなくなったとしたら…世の中は回っていきませんよね…?」
江洲小原先生の言葉には相変わらずの説得力があり、異論を唱える事など誰も出来るはずが無い。
その言葉は感情に満ち溢れているのに、表情を変えない面構えは洗練された貴族の様に、教室中の生徒たちを圧倒していった。
「良いですか……身分に差がある事は世の中を動かしていく原動力になります…下々の者たちは格差をバネに、少しでも良い暮らしをしようと必死になって働き、社会が潤っていきます……そして、その恩恵を受ける身分の高い者の務めは、それに胡坐を掻いて私腹を肥やす事ではありません…」
教室に居る子供たちは誰もが呆気に取られていた。今まで人は平等だと教えられてきてるのに、江洲小原先生の言葉はそれを覆しているのだ。
「高い身分の者たちは、自分たちの豊かな暮らしが多くの人々の努力によって支えられていることを、どんな時でも忘れてはなりません…そして、その見返りとして、下々の者たちの暮らしを向上させることが、高い身分の者の務めなのです…」
こんな事を子供たちに教えて良いのだろうかと思いながらも、僕は江洲小原先生の言葉に口を挟むことが出来なかった。
差別的な発言ではあるが、言ってる事は全く持ってその通りで反論の余地など無い。
「恵まれた環境で育ってきたアナタたちはどうでしょうか?…育ちが悪いと人を差別し、末端の者たちへの感謝の気持ちすら持っていないのではありませんか…?」
そう言って扇子を口に当てる江洲小原先生の鋭い視線は、伊藤君たちに向けられていた。
ぐうの音も出ない伊藤君とその取り巻きたちは、江洲小原先生の鋭い視線から逃れるために、オロオロと狼狽えながら目を泳がせていた。
「アナタたちが裕福だという自覚があるのなら、自分の言動にはどんな時でも責任を持ちなさい…そして自分たちの暮らしが多くの人間に支えられている事を自覚しなさい…軽薄な行いは回り回って自分自身に帰ってくるものですよ…」
そう言って遠くを見つめる江洲小原先生の瞳は悲しみに満ちていた。まるで過去に何かあったかの様なその姿に、そこに居る誰もが意気消沈し伏し目がちに視線を逸らしていった。
「そして宅間………アナタは悲観する必要などありません…悔しいと思う気持ちがあるのなら、より一層の努力をして、この子たちを脅かす存在になりなさい…この不平等な世の中にも、それを掴むチャンスなど幾らでも転がっています…」
江洲小原先生の話を聞いた生徒たちの瞳には薄っすらと涙が滲んでいた。この世の中は不平等だと、悲観的な事を言っているにも関わらず、その言葉には未来を見出す希望が見えていた。
話しを聞いていただけの僕も武者震いを起こし、何故だか目頭が熱くなっている。
「先生……僕たちが間違ってました!」
伊藤君がそう言って江洲小原先生に頭を下げるが、先生は鋭い視線で伊藤君を睨み付けていった。
「伊藤……アナタ、宅間を陥れようとしましたね?………宅間をこの学園から追放しようとでも考えていたのかしら…?」
「!!!…そ…それは…」
的を突いた江洲小原先生の言葉に、伊藤君は即答することが出来ずに言葉を濁していった。
普段から身分の低い者を毛嫌いする伊藤君は、その中でも特に宅間君を煙たがっていた。
今は江洲小原先生の言ってる事に従順になっているが、基本的に彼が宅間君を見くだす態度は変わっていない。
「分かっているのですか?…アナタは掛け替えのないチャンスを自ら棒に振ろうとしてるのですよ…」
江洲小原先生の言葉に伊藤君は何を言ってるんだという顔をしていた。
そんな伊藤君を見つめる江洲小原先生は、少し残念そうな顔をしながら瞳をギュッと閉じ、持ってる扇子で自分を扇いでいった。
「これからアナタは社会に出て、色々な人間と関わっていかなくてはなりません…学校という所は様々な人間が分け隔てなく通い、色々な人間と繋がりを持てる唯一の場所………アナタは優秀な人材を味方に付けられるチャンスを見す見す逃そうとしているのですよ…」
そこまで言われても伊藤君はピンと来ないのか、なぜ自分が怒られるんだという不満そうな顔を見せている。
プライドの高い彼にしてみれば、一般家庭の冴えない子供など、味方にしたところで得する事など無いと思っているのかも知れない。
「でも、アイツは暴力を振るう様な野蛮な人間です!」
そう言って宅間君を指を差して興奮する姿には、彼を尊重する様子など全く見られない。
「伊藤……大切な者に危害を与えようとする人間が目の前に現れた時、アナタはそれを黙って見ていられますか?身を挺してでも食い止めようとは思いませんか?」
江洲小原先生のその言葉に漸くハッとする伊藤君は、今まで興奮していたのが嘘の様に、下を向きながらゆっくりとうな垂れていった。
「それを暴力というのなら誰も守る事など出来ません………何度も言いますが人は平等ではありません…アナタは父親の権力という力を持っているのかも知れませんが、宅間も同じとは限らないのです…侮辱された親の尊厳を必死で守ろうとした宅間は、本当に悪い事をしたのでしょうか?」
淡々とした口調で穏やかに話す江洲小原先生の言葉には、抜き差しならない程の怖さが潜んでいた。
その言葉を重く受け止めているのか、伊藤君は今までと打って変わって動揺し、地面を見下ろしながら落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回し続けている。
「暴力は決して許される事ではありません…しかしそれを、けしかけたアナタはどうでしょうか?…言葉と拳の違いだけで、している事は一緒だとは思いませんか?」
その言葉で力を失くした伊藤君は、その場にガクッと膝を付き床に頭を垂れていった。
プライドの高い彼がこんな事をしている姿に、江洲小原先生以外の誰もが驚き、呆気に取られている。
「申し訳ございませんでした!!!」
そう言って土下座する伊藤君の前で、江洲小原先生は表情も変えずに、涼しげな顔をしながら自分を扇子で扇ぎ続けている。
目下の者を従わさせる様なその姿は、教育現場には相応しくない行いで、動揺する僕は慌てて伊藤君の側に駆け寄っていった。
「伊藤…謝るのはワタクシにではありませんよ…」
しかし江洲小原先生は事の重大さに気付いていないのか、そう言って伊藤君を更に追い詰めていく。
暴力を受けてケガを負った被害者が、教師に土下座をさせられているなど聞いたことが無い。
「江洲小原先生!伊藤君はケガをさせられた被害者ですよ!」
問題になってしまうと慌ててそう叫ぶが、江洲小原先生は他人事の様な顔をして、冷たい目で僕の顔を冷静に見つめていく。
そして小馬鹿にしたような笑みを見せながら、痣の出来た伊藤君の頬に軽く手を添えて「ケガ?何の事かしら?」と惚けた事を口にしていった。
その途端に江洲小原先生の手が太陽の様な光りを放ち、伊藤君の殴られた頬の痣が見る見る消えていく。
広がっていく眩い光に包まれた江洲小原先生の姿は、まるで舞い降りた天使の様にキラキラと輝き、この世の物とはまるで思えなかった。
「ああっ!…光ってる…」
「わーっ!魔法だぁ~!!!」
傍観していた生徒たちが、そう言って驚くのも無理はない。それはこの世界には存在しない魔法の力としか思えない能力だった。
手をかざされた伊藤君ですら、虚ろな瞳で心地好さげに何もない所をボーっと眺めている。
殴られた痕跡すら無くなって江洲小原先生が離れても、夢見心地でウットリとしたままで、我に返る気配すらも無い。
「さあ、伊藤…宅間に謝罪しなさい…」
江洲小原先生のその言葉でハッと我に返る伊藤君は、慌てて宅間君に目を向けて、改めて頭を下げていった。
「宅間…僕が悪かった…反省してるので許して下さい…」
そう言って頭を下げている伊藤君の姿は、まるで江洲小原先生の能力で心まで洗われたかの様で、今までとは別人の様に清々しさまで感じられた。
「宅間…どうしますか?…伊藤の謝罪を受け入れますか?」
相変わらず冷たい感じのする江洲小原先生の言葉に、宅間君はオドオドしながらも、土下座する伊藤君の事をジッと見つめていった。
「謝罪を受け入れます………ぼ…僕も殴って悪かった…」
そして、そう言うと土下座する伊藤君に手を差し伸べて、握手を求めていった。
それに応えて伊藤君が宅間君の手を握り、2人が握手を交わした時、江洲小原先生の顔が珍しく綻んで笑顔が溢れ出していった。
しかし垣間見えた笑顔は一瞬で、江洲小原先生はいつもの冷たい表情に直ぐに戻っていく。
「では、本日の特別授業の最後です…」
そう言って何事も無かったかのような振る舞いをする先生は、いつもの毅然とした態度で教室に居る生徒たちの1人1人を見回していった。
「この不平等な世の中で、誰もが口々に平等を主張するのは何故だか分かりますか?」
余りにも深い先生の問いかけに、僕を含めた教室の誰もが口を噤んで俯いていった。
「美濃又…アナタは何故だと思いますか?」
突然、話を振られたものの、そんな深い内容に直ぐに答えられる筈が無い。
「えっと…あの……そ…その…」
「その方が世の中にとって都合が良いからです…」
僕が右往左往していると、江洲小原先生は当たり前の様にそう言い切った。
それは世の中の確信を突き、深く考えさせられる言葉だった。教室の静寂の中、誰もがその言葉の重みを感じ取り、自分自身の考えに向き合わざるを得なかった。
しかし先生は間髪入れずに、更に深い言葉を僕たちに投げかけていった。
「殆どの人間は理不尽だと感じていても、今の生活に少なからず満足していて、それを手放すことができません…そして、権力者はその状況を利用し、自らの地位を盤石にもできます…」
淡々と話を続ける江洲小原先生には、いつも以上の落ち着きがあり、表情の変えないその面構えは威厳に満ちていた。
「平等というのは便利な言葉で一見公平であり、素晴らしくも思えますが、人を型にハメるには最適な言葉です…自分たちと異なる人間や過激な思想を持った者を排除する事が出来ます…そして、それを素直に受け入れる者は、人と同じにしようと自分を制御します…」
江洲小原先生の余りにも深い言葉に、誰もが口を閉ざし俯いていた。
社会のタブーとされてる事を口にしている様な気がして、その言葉を受け入れて良いのかと皆が 戸惑っている。
「それが蔓延したら、どうなると思いますか…?何の変化も起こらない、つまらない世の中になるとは思いませんか?」
何を思ったのか江洲小原先生は、そう言いながら伊藤君と取り巻き達に目を向けていた。
「ワタクシたちは生き物です…生まれた時から能力の違いや、育つ環境の違いを誰もが持っていて、得意な事や苦手な事がそれぞれに違います………このちっぽけな世界で、人と違うからと言って、本質を見失う様な人間にはならないで下さい…」
先生のその言葉で、伊藤君と取り巻き達はハッとしていった。裕福な子供たちが通うこの学校で、一般庶民の宅間君を排除しようとしていたことが、自分たちに当てはまっていたからだろうか。
「伊藤…アナタは学校で成績が良く統率力もあり、将来は様々な人間を束ねる統率者になれるかも知れません…しかし宅間にはアナタには無い、体力と運動神経があり、将来はオリンピック選手になっているかも知れません…」
そして、江洲小原先生は一瞬間を置き、クラス全体に向かって視線を移した。
「今日の出来事を通じてアナタたちに学んで欲しい事があります…この世の中は決して平等ではありません…しかし、だからこそ私たちはお互いを尊重し、本質を見極めることが重要です…」
江洲小原先生の言葉は、教室全体に静けさをもたらし、誰もが息を飲んでいった。
「この授業でアナタ方に伝えたい事は、たった一つです………本質を見極められる人間になりなさい……世の中には平等などという都合の良い言葉以外にも、ワタクシたちを惑わせる事など、いくらでもあります…それに惑わされて本当に大切なモノを見失うような人間には、ならないで下さい…………それはワタクシからの唯一の願いです…」
そう言い残すと江洲小原先生は教室からゆっくりと姿を消していった。言ってる事と不釣合いな、ドレスを纏った派手な姿に、誰もが呆気に取られてポカーンと口を開けている。
しばらくの沈黙の後、伊藤君が静かに拍手を始めた。それがクラスメートたちに伝染し、次第に大きな拍手の渦が教室全体に広がっていった。
先生が教室を去っても、その場には感動の余韻が残り、生徒たちは彼女の言葉と行動に深く胸を打たれていた。
~to be continued~