<episode23> 希望の背中
荒廃した村を後にして間もなく、イレーネは白馬に佐藤さんと伊藤君を乗せ、手綱を引いて森の小道を進んでいた。
僕と江洲小原先生はその後を追うように歩き、朝の冷たい空気が頬を刺した。旅が始まった今、僕は、本当にリカルドを説得できるのかと不安を感じていた。
何故なら帝国は、リカルドを名目上の皇帝に祭り上げ、その実権は一部の貴族たちが握っていた。
「皇帝リカルドは、あの時のままなのかな…初めて見た時は幽霊みたいだったよね」
佐藤さんがそう呟くと、僕はこの世界に召喚された時、皇帝リカルド・マルチネスと対面したことを思い出した。あの時の、覇気のない疲れた目と貴族たちの冷たい笑みが、今も脳裏に焼き付いている。
何もかもに絶望したあの目に、再び力が宿る事はあるのだろうか。しかし、彼が立ち上がらなければ、帝国はこのまま滅んでしまうだろう。
そんな時、伊藤君が「貴族の目が近くにいるかもしれない」と小さく呟き、森の奥を見据えた。するとイレーネが悔しげな顔で口を開いた。
「奴は昔からああだったのではない…皇帝になった時は希望を抱き、この国を変えると誓っていた…」
そう語るイレーネの目が、ふと林の奥を捉えた。彼女は言葉を止めずに、鋭い視線を向けながら、手にした短剣を素早く放った。
すると木の枝の陰に隠れていた黒装束の男の腕に短剣が突き刺さり、男は呻き声を上げて地面に落ちた。
男の腰の鞘に収まった短剣が朝の光を反射し、貴族の紋章が一瞬輝いた。男は腕を押さえ、林の闇に飛び込むように素早く逃げ去った。
「うわっ、何!?」と佐藤さんが叫び、伊藤君が「貴族の追っ手か!?」と言いながら鋭く周囲を見回した。
しかし、落ち着いた様子のイレーネは、何事もなかったかのように口を開いた。
「どうせ、私を監視する為に貴族が寄こした手の者だろう…私とリカルドは、そいつらに常に監視されている…」
そんなことを淡々と言ってるが、近衛騎士団長と皇帝を監視するなど、既に帝国の腐敗は手の付けられない所までいっている。
僕は彼女の言葉に、担任として生徒を守る責任を改めて感じた。江洲小原先生は扇子を手にしながら、静かに「嘆かわしいことですわね…」と呟き、鋭い視線を森の奥に向けた。
イレーネは悔しさを噛みしめながらも、遠い目をして更に口を開いた。
「実際に帝国の権力を握っているのは3人の貴族だ…お前たちを追っていた帝国の最高戦力と言われるノビルネたちだって、私を除けばそいつらの手駒に過ぎない…」
イレーネはそう言って帝国の実情を語り始めた。その目には燃え上る炎が見えていた。
「帝国は元々、皇帝派と貴族派が均衡を保ち、国政を賄ってきた…しかし、リカルドが皇帝になった途端、謀略で暗躍していた貴族派が勢力を伸ばし、処刑や追放で皇帝派を次々と粛清していった…やがてリカルドの見方など周りには一人としていなくなっていた…リカルドの甘い性格では国を纏めきれなかったのだ…」
僕は彼女の言葉に、先生が国政会議で言っていた『彼は皇帝としての器じゃありません…何度か会談をした事がありますが、彼は臆病すぎる…』という言葉を思い出した。
彼の弱さがその言葉に現れていた。志を持つのは素晴らしい事だが、それだけでは国を築く事などできないのだ。
そう考えると公国の頂点に君臨し、人々に希望を与え続ける江洲小原先生は、どれほど偉大なのだろうか。そんな考えを巡らせていると、イレーネは更に言葉を続けた。
「私の家は貴族派で粛清を逃れてはいるが、幼馴染という立場上、そいつらに目を付けられている…表立って表明することは出来ないが、実際、リカルドを陰で支えているからな…」
そう言って瞳を閉じるイレーネの顔には、幼馴染を超えた特別な関係性が垣間見えた。子供の頃からの深い絆は、互いの身分など超えた信頼を築き上げたのだろう。
しかし、そうなる前に誰も貴族派の企みを止める事は出来なかったのだろうか。そんな考えを巡らせていると、佐藤さんが目を丸くしてイレーネに質問を投げかけていった。
「貴族派の謀略を止めることは出来なかったの?」
その言葉を聞いたイレーネは、過去を思い返すように苦い笑みを浮かべた。空しさの入り混じったその様子は、過去への後悔をしているような哀愁が漂っていた。
「リカルドが皇帝に即位するのを狙っていたのだ…彼らの企みは前皇帝の死を謀って始まっていた…」
そう言って、静かに天を見上げるイレーネは瞳に涙を溜めている。
「気付いた時には手遅れだった…私には彼を陰で支える事しか出来なかった…」
そう言って悲しげな表情を浮かべるイレーネを見て、江洲小原先生は静かな溜め息をついた。
「まだ手遅れではありませんよ…帝国が滅んだ訳ではないし、希望は生きています…」
先生の言葉にイレーネは「…ああ」と呟き、涙を拭った。すると先生は「宰相のフローレス公爵が黒幕ですね?」と言って鋭い視線で彼女を見つめた。
初めて聞くその名前に、何故か嫌な予感がした。僕たちの召喚を命じたのも、その人物が命じたらしいが、姿を見た事すらなかったからだ。
帝国の最高戦力と言われるノビルネら5人を手中に収めていることもそうだが、見えない敵が最も恐ろしい。
僕は姿の見えないフローレス公爵に、並々ならない恐怖を感じていた。すると先生の言葉を聞いたイレーネが再び話を続けた。
「そうだ…宰相のフローレス公爵が首謀者で、元老院議長のルペレス侯爵と執政官のカントン伯爵が手を貸している…しかし、事はもう奴らを倒すだけで済むという話じゃなくなっている…貴族たちに有利な国の体制が出来上がり、不満を抱いているのは国民だけなのだ…」
先生はそれを聞いて静かに頷き、眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「そして、国民が不満を持ちクーデターを起そうにも、力を奪い、それを未然に防ぐように国民自身に監視や密告をさせてるのですね…」
先生の口調はドスが効いたように低く、冷静を装いつつも圧倒的な威圧感を放っていた。
背筋が凍りつくほどのその迫力に、僕たちは息を呑み、言葉を失った。佐藤さんが震えながら顔を背け、伊藤君が目を細めて先生を見つめた。
ひっそりとした森の光景が一変し、野生の鳥たちが鳴きながら一斉に飛び立っていく。しかしイレーネは、そんな様子にも動じずに先生の目を見つめ、その言葉に静かに頷いた。
すると先生は鋭い殺気を放ったまま、イレーネの目を見据えて静かに口を開いた。
「一つ聞きますが、お前が纏めている近衛騎士団は、お前に忠誠を誓っているものがどれだけいますか?」
唐突なその質問は何を意図しているのか、僕たちには全くわからなかった。心を見透かすような先生の真剣な眼差しに、イレーネは一瞬たじろぎ、言葉を詰まらせる。
しかし、すぐさまその瞳を見据え返しながら、イレーネは堂々と口を開いた。
「近衛騎士団も貴族の子息や息の掛かった者が殆どだ…しかし、私は部下たちを信じている!」
力強く言い放ったその言葉に、先生は目を細め、穏やかに笑った。先生の本心は依然として読み取れなかったが、2人の間にはまるで旧友のような深い信頼が生まれたように見えた。
そして、その言葉に込められたイレーネの思いに、僕は帝国を救う未来を確かに感じた。
近衛騎士団も大勢いれば一枚岩ではなく、様々な考えの者がいるだろう。しかし、イレーネはその全ての者を信じていると、敵国の皇帝の前で断言したのだ。
部下を信じ抜くイレーネの揺るぎない信念は、江洲小原先生が僕たちに寄せる思いと同じように感じた。先生は静かに微笑み、その目にはイレーネの抱く信念への深い共感が宿っていた。
「イレーネ・フォン・エスターライヒ…お前の信念は確かに伝わりました…」
先生は穏やかな目でイレーネを見つめ、握手を求めた。その手には、これまで感じていた警戒心は少しも感じられなかった。
「マリア・エスコバル…どうか、リカルドと、この帝国を救う為に力を貸してくれ!」
イレーネは力強くそう応え、先生の手をしっかりと握り返した。二人の手が力強く握り合うのを見て、僕は帝国を救う新たな希望を感じ、胸に熱いものが込み上げた。
そして先生は握手を解き、林の奥を見て静かに口を開く。
「逃した密偵が私たちと接触したことを報告している頃です…さぁ、帝都を目指して急ぎましょう…」
先生の言葉を聞いて、イレーネは小さくため息をつき、遠い目で青空を見つめて呟いた。
「私も帝国から追われる身になってしまったな…」
その声には、諦めと帝国を救う固い決意が混じっていた。
「え、追われるって…!?」佐藤さんが不安げに声を上げ、伊藤君が「急いだ方がいいな」と鋭く周囲を見回した。
そんな中、森の小道を歩き始める二人の背中は、堂々としていて、まるで帝国の希望を背負うかのように力強く見えた。
だが、遠くで響く枝の折れる音が、追手の気配を静かに告げていた。
~to be continued~