fireⅠ ~警察官僚偽装殺人事件~①~
あれから数時間後、気分のかなり落ち着いたあたしは、これから以降何かと世話になるであろう浅草商店街の
顔役でもある浅香一家に挨拶がまだだった事を思い出し一緒に東署を出た麻美さんにその旨を伝え、その後でもよければお酒の席、お付き合いしますと言おうとしたのだが、彼女からの返事は、あたしの言おうとしたままだった。
「あぁ…あたしだったら気にしないで……その辺で適当に時間つぶししてるから…そっちの挨拶済んだら顔役のやってる焼き鳥屋で落合おうよ……」
麻美さんはそう言って女性には不似合いな少しごつめのガスライターでショートピースに火をつけ、それを燻らせて笑った。
そして、麻美さんと別れたあたしは、屋台の立ち並ぶ表通りを一筋ほど奥に入った場所に佇む情緒溢れる平屋建ての日本家屋の前に来ていた。
綺麗に手入れされた通用門の右横には、切り出しの一枚板に[浅草浅香一家]の文字が思わず見とれてしまうような見事な筆致で書かれていた。
「……本羽香那子さんですかな?丈さんから話しぁうかがっておりやす……手前がこの東西に伸びる商店街の顔役を相務めまする浅香銀次郎事…浅香達将と申します………お嬢さんはあまり覚えておいでではないでしょうがあっしら浅香一家もお嬢さんのお父様とお母様にゃあ並々ならねぇ目をかけていただきやしたぁ……浅草駅東口のあの物件ぁ自分達二人に万が一の事があった時…あっしらぁ浅香一家が全力でお嬢さんをサポートできる拠点にしろと言われましてねぇ……本日…この日のためにと準備万端!全て整えてございます!」
あたしがその建物の敷地内に立ち入ったとき、一人の初老の男性があたしにそう声をかけてくれて、これまた驚くことに親子ほども歳の離れた二五歳になったばかりのあたしに、深く頭を下げてくれたものたから、思わず面食らったのはあたしの方で、あたしは思わずその男性に駆け寄り声をかけた。
「……達将さん…頭を上げてください……先ほど言われたとおりあたしには両親との想い出はほとんど記憶に残っていません……けどあたし…冬野さん親子に呼ばれてこの浅草に来たときにわかったんです……父と母がどれだけこの街の人達に愛されていたのかを……この浅草の街の方々に父と母が受けた恩義の数々どれだけお返しできるかなんてわかりませんが…今度はあたしが…娘のあたしがこの街の方々にご恩を返す番なのだと…今は思ってます……両親よりも頼り無く少々ドジでおてんばなあたしですけど皆さんのためにせえいっぱい努力させていただく所存!浅香一家の皆々様におかれましては何か事あれば!惜しみなく協力させていただきます!こちらこそ…よろしくお願いします!」
彼のその、テキ屋道を一直線に突き進んで来たであろう傷だらけのごつごつした彼の手を握りしめたとき、あたしの内に関わりのあった全ての人の感情が一つの大きな流れとなり流れ込み、あたしは思わず彼の前、涙が止まらなくっていた。
「……そんなに泣かねぇでくださいやしお嬢さん……いやぁ何はともあれ…あっしの生きてる間に嬉しい事が二度もいっぺんに起きるたぁ今日は実に縁起がいい……今宵ぁお嬢さんも一緒に祝ってやってくださいやしなぁあっしの娘の晴れ姿を!」
彼もまた、武骨ながらに優しい心根の持ち主だったのだろう。
不様に泣き崩れたあたしを、優しく抱き起こしてくれた彼の目にも涙が光っていた。
そして、あたしと達将さんの向かった浅草駅前商店街には、東西の垣根を超えた確かな絆で結ばれた露天商達が、そしてまたその中心には、冬野さん親子と、遺影となられても尚、この世に残されたご主人と娘さんが気がかりなのだろう。
丈一郎さんの座る隣には、奥様の明日香さんが笑っていた。
「……驚かせてすまなかったな香那子ちゃん……あの後…香那ちゃんがこの浅草に戻って来てくれたこと…ホトケさんになっちまった家内に報告したらよぉ家内もあんたに会いたくなったんだろうな……あたしもその飲み会連れてけって言ってるみてぇだったからよぉ連れてきたよ……」
そう伏し目勝ちに明日香さんの事を話す彼の隣の椅子に座る彼女が、お帰り、香那ちゃん。とでも言うように、彼女の遺影に手を合わせるあたしに、語りかけてくれるみたいで、みんなのいる前だったけど、あたしは不意に涙が止まらなくなっていた。
「我慢することなんてないよ…香那ちゃん……きっと母さんめちゃくちゃ嬉しかったと思うんだよねあたし……あの時まだ高校生からやっと女子大生になりましたって感じのあどけない香那ちゃんがこんな立派な女性になって戻って来てくれたことがね……」
この場に集まった人達はみんな優しく、誰一人として、その場に泣き崩れるあたしを笑う者はいなかった。
そう、あれはあたしが大学生になり、親元を離れ独り暮らしを始めた四月始めのこと、祖父の暴挙から一家離散の憂き目にあい、尚かつ父と母を亡くし憔悴状態のあたしに声をかけてくれたのが、当時あたしの父と母が勤める警視庁で女性ながらも、参事官にまで上りつめた、麻美さんの母親であり、丈一郎さんの奥様でもあった明日香さんだったのだが、当時の警視庁は未だに男尊女卑の風潮があり、警察官僚と片や所轄署の署長という夫婦関係はあまり良くはみられていなかったようで、さぞかし肩身の狭い思いをされていたのだろうけど、彼女はそんな周囲の偏見などものともせず、両親を亡くして憔悴状態のあたしを実の娘のように気にかけてくれていた。
そんな彼女からの推奨もありあたしは、私立探偵の道を選んだのだが、まさか彼女が初の依頼人で、初の事件被害者になろうとはゆめにも思わずいたため、彼女の事件は未だにあたしの中ではまだ、未解決のまま年月だけが無情にもすぎていた。
[冬野明日香参事官殺人事件]
この時こそあたしは、警察組織のやり方に疑念を感じた事はなかった。
あたしはこの事件の被疑者は、警察組織内部の人間の犯行とにらみ、それを当時の捜査本部に申し出たのだが、当時まだ十九のあたしの意義など聞き入れられる訳も無く、捜査は急ピッチで進み、わずか、1週間とかからず被疑者逮捕となり、無論、捜査本部も解散となったのだが、この時、警察組織上層部は一番やってはならない行動に出ていたのだ。
そう、彼女の死は警察組織内部の恥と見なされて隠蔽工作がとられたのだ。
そして、懇親会から一夜明けた次の日あたしは、両親の墓参りも兼ねて警視庁近くに設けられた、殉職警官供養塔なる場所に一人足を向けていた。
そしてあたしが、両親の名の刻まれた慰霊碑に歩みを進めると、そこにはすでに、スリーピーススーツ姿の男性と、車椅子に乗った女性が先客として訪れていた。
「……もしかして康太さん?貴方だったんですね……父と母の命日に毎回お花を手向けくださってたのは?」
あたしはその先客の青年に見覚えはあったのだが、面と向かって話すのは初めてだったため、少々おっかなびっくりにはなってしまったけど、思いきって声をかけてみた。
けれど、びっくりしたのは彼も同じだったようで、父と母の慰霊碑に真剣な眼差しで手を合わせる彼があたしの問いかけに破顔した時、つられてあたしの緊張もほぐれるのだった。
「……なんだよぉ…誰かと思ったら香那ちゃんかよぉ……しばらく見ねぇ間にえらくべっぴんさんになっちまってたからまったくわかんなかったよぉ……けど…香那ちゃんがここに来たってこたぁあんたの中じゃあまだ…何も終わっちゃあねぇんだな?ご両親の殉職の件も冬野明日香参事官殺人事件も……なぁ香那ちゃん!俺とこいつも一緒に仲間に入れてもらえねぇかな?」
急に感情的になったかと思えば、これまた急に寂しげな表情をする彼の横、彼の内妻の里緖さんが、彼と同じく、寂しげに笑い、車椅子に乗ったまま、あたしに深く頭を下げてくれた。
「……あの時…父さんが最後まで悔やんでた事……この事だったんだ……」
両親の死、そして明日香さんと、深雪さんの死。四人の今際の際を看取った経緯からあたしは何時しか、後に残された事件被害者遺族達の抱く負の感情が読み取れるようになっており、この時の彼から感じたのも、自分の愛してやまぬ内妻だった里緖さんは勿論の事、何よりあたしの心を深く抉ったのは、彼の抱くあたしの両親の恩義に報いる事のできなかった無念の感情だった。
「……康太さん…里緖さん……本当にごめんなさい……今さらあたしが謝ったところで里緖さんの足が治る訳じゃないけど…今のあたしには…謝ることしかできません……」
あたしはそう言うと、父と母の慰霊碑の前に土下座すると、二人に深く頭を下げるのだった。