九
九
「そのときから兎を抱いていらっしゃいました。なにも問うなとおっしゃりますから、わしのほうでも問いませぬ。もっとも、素性を確かめてからお世話するくらいなら、はじめから断りますわい。
わしがこの目で見て、この方ならばと思いましたら、どんな理由があろうと構わぬのでござります。あなた様がわけもなく、この兎が欲しいとおっしゃるのも、おそらく同じ道理というものでござりましょうかい」
令室は胸に手をあててその話を聞きながら、なにを思っているのかずっとうつむいていたが、やがてほっと呼吸をついて、
「ああ、なんだかゾッとしたよ」
と言いながら、葉を透かした日影から斜めに湯の山のほうを恍惚と仰いで、
「雪があって、藤の花が咲いて、空にいつでも白い雲が……」
と、口のなかで言った。しばらくすると花やかに、
「ああ、お爺さん、そこが湯涌谷というのですか。私ははじめて聞いたような気がしませんよ。なんだか一度行ったことがあるように思えるのね。いつだったかはわからないけれど、とてもちっちゃかった時分かしら。それとも昨夜あたり見た夢を遠い昔のことのように思い出しているのかしら」
眉も口も、いっそうはっきりと際立たせる黄昏の色に染まりながら、遥かに見える湯の山のあたりを夢見るような眼差しで見つめながら、令室は言った。
「ははあ、いや、もしかするとあなた様、それは前世からの因縁かもしれませぬ。またなにかがきっかけになって、来世のことをいま悟られた、ということなのかもわかりませぬ。もしもあなた様がこの兎を抱いて、湯涌谷の流れの岸をさまようことになって、わしがそこで出会いましたとしたら……。ごらんなさいませ、いま見えている夕陽のような錦葉があって、そのお雪様はあなた様で、あなた様はお雪様でござりまするわ」
「おお、その兎を、さあ、こちらへ」
と令室は、たったいま生き返って、我に返ったといった口調で言った。
親仁は腰骨のあたりをぴしりと叩いて、膝の上にいるその兎をじっと見ながら、左の手ですくい上げるようにした。
すると、脱兎ということばを思い出させるように、兎は令室の胸のあたりにひらりと飛びつく。不意のことにはっと身を引くと、後ろ足をかけていた帯の上を滑って、するりと落ちようとした兎を、そうすべきことがわかっていたかのように両袖で支えた。
令室は、兎の襟首のあたりに頬をあてて、
「なにかの因縁かもしれないねえ」
「はい。しかし、わしにはわかりませぬが」
「奥さま、奥さま!」
とそのとき、背後にある小高い木立のなかから、女の甲高い呼び声が聞こえた。
「旦那さまが……」
と、続けて叫ぶ。
「ああ! 巳代や」
「はい」
と、巳代は驚いたように返事をして、視線をあちこちにさまよわせた末に、すでに兎が令室の手にあることに気がついた。巳代はあたかも魂が抜けだしたかのように、茫然としていたのである。
「これ」
と令室は、兎を捧げるかのようにして巳代に見せると、
「ごらん。貰ってしまったよ。巳代や、旦那さまがお呼びだから私は行く」
「奥さま!」
と、呼びに来た女中が急きたてる。
「うるさい! 巳代や、あとでねえ、お前、お礼の相談をしておくれ。いいかい。それじゃあお爺さん」
と会釈をして、
「ご免なさいよ」
と言い捨てた令室は、全身を活き活きとさせ、身体を後ろ向きにする動作も活発で、袖で抱いて肩を細くした姿はあたかも兎をかばうかのようで、しおらしくうつむいた姿勢でふと歩きだしながら、
「いいかい、きっとだよ」
と、すらすらと歩み去った。その姿は幹にかくれ、枝に遮られ、葉陰になり、裾が見え、帯が見え、肩が見え、また裾が見えて、高いところに小さくなった。
後ろ姿を見るだけでも喜びを感じて、寝ている間も側を離れるのが惜しいほどに主思いの巳代は、さも愛おしいといったふうで最後までその姿を見送っていたが、背後を蔽った人の気配を感じて、しゃがんでいた親仁も伸びあがって令室の姿を見ているような気がしていた。そのうちに、令室に言いつけられた兎の返礼のことを思い出して振り返ってみると、影も形もない。
「お爺さん、おや! お爺さん」
思わずサッと木戸を出て、右を見たがいない。左を見てもちらりとも見えない。
折しも橋の上には、八、九人が入り乱れて、せわしく左右に行き交っている。さてはそのなかに交じっているのではと、前屈みになって視線を据えたが、足の動きだけがめまぐるしく、顔はよくわからないので、思わず引きよせられるように五、六歩ほど橋のほうへと駆け下りたが、それらしき人はいなかった。
また駆け戻って木戸口を反対側に走り抜け、土手の高みから長く流れに沿った川上のおよそ五、六町が見下ろされる眺望を、例の一本松の別れた枝の間から透かし見たけれども、薄れゆく影すら見あたらなかった。
両方の岸は、樹も屋根も柳も草も、おしなべてぼんやりと、近景は暗く、遠景は灰色になって、湯の山には靄の幕がかかり、流れは高らかに音を響かせている。
「まあ」
と、思わず口から声が出るほどに驚いて、巳代は後ずさりながらいつの間にか木戸のあたりに戻っていたが、なおもその場所を動かず、親仁のゆくえを夢のように心に描きながら、なにを見るともなしに眺めていると、若柳がサッと鳴り、向こうの橋のたもとから、ちょうど人脚の途絶えた橋の中ほどまで、裸の子どもが矢を射るようにちょこちょこと駆けてきて、もう暗くなったというのに、いまだ遊び足りない泳ぎ上手たちが水面へ、宙返りをしてザブンと真っ逆さま!
驚いた巳代が木戸の内にサッと身を引いたとたん、それを待っていたかのように別人の手が、銅張りアーチ形の扉をバタリと閉ざした。獺に化かされたかのような闇の宵。
(了)
本編の『きぬぎぬ川』に続く。アップ済みです。
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