八
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また一声。お屋敷の木立の梢で鳴く声に応えるかのように、遥かな山のあたりからも、蜩の声が聞こえてくる。
日のあるあいだはずっと休むことなく鳴き騒いで、天地にじりじりと暑さが染みこみ続けるかのようだった蝉の声も、二つ、三つ、慌ただしく鮮明に響いて静まった。
向こう岸の柳の蔭から、金ちゃん――おっかさんがお飯だと言ってるよ、と声が聞こえる。
泳いでいる子どもらは、わずかになった。
風は木戸口からも吹き起こるのか、令室の袂がひらひらとはためいている。荷のなかの雪も溶けて流れて、土手の草が冷たい濡れ色を見せている。
「いや、もう、ぜひともお望みなさることにかこつけて、つけあがり、たいへん勿体をつけてしまいました。ははは、ははは、売り物には花を飾れとばかりに、余計なお話を申しました。そんな次第ですから、田舎者が持ってきた山兎一匹を、ただ貰ってやっただけだとお思いください。
なんのかのと申しても、つまるところは、亡くなりました養女、そのお嬢様の御遺言ですじゃ。可愛らしい兎が見たら怯えそうな、こんなむくつけき親仁の手で育てさすのは可哀相じゃ、町へ出て、お優しい、お美しい、この方だとおもえるようなご婦人を見つけて、その人に可愛がってもらってくれと、くれぐれも言い置きましたで、あなた様のお望みは、じつは全くのところ渡りに船でござりました。こうなっては、嫌じゃとおっしゃりましても、わしのほうから頼みまする。
ただ一つ、念のために申し上げますが、あなた様、この兎をお手元でお飼いなさっておりますと、もしかするとその、あれでございますわ。恋人が欲しくならっしゃろうかも知れませぬが……」
親仁のことばを最後まで聞かないで、令室はごくあっさりと、
「私には夫がありますよ」
「なんとまあ! ははは、ははは、いや、それは気づきませなんだ」
とまた笑って、
「さようなれば、しゃんしゃんと手を打って、話はこれで本極まりとなりました。どれ、こいつをそちらに」
と、親仁はつぎはぎの単衣とはいえ、惜しげもなく地に膝をついて、腰を浮かすと前屈みになって、笊におおいかぶさった。
「雪よ、雪よ」
と呼ぶと、丸くなっていた小さな動物の耳は、胴とともにすらりと伸びて、短い前足を縁にかけて、水晶のような目でくるくると親仁を見た。
「雪よ」
とまた呼んで、大きな手のひらをパンと打つと、その手のひらが離れるよりも早く、一片の雪が空に踊るかのように、兎はサッと来て膝に抱かれたのである。
「よく馴れておりますこと」
「お爺さん」
と令室は、ふと思うところがあるらしく、あらためて言った。
「お爺さん、あの、いま呼んだのはその兎の名前なの?」
そう聞いて巳代ははじめて気がついて、思わず口のなかで、
「お雪様……おや」
「はい、なに、雪は娘の名でござります」
「おお、娘さんの」
と、令室の目に心がこもった。小間使いは主人の気持ちを計りかねて、そっとその顔を見守っている。その場でなにが起こったのかを理解するのは難しいことではない。
親仁もくぼんだ目を活き活きとさせて、
「あなた様、同じお名前でござりますか」
「どうもねえ、そうなんですよ」
と、巳代が主人の代わりに答える。
「お爺さん、その娘さんは、まあ、どういうお方なの」
と、令室はさも不思議そうに、気になるそのことを問いかけた。
「もし」
と親仁は話を遮ると、
「そのことはお聞きなさいますな。どこの方か知りませぬが、その方とはじめてお目にかかったのは、湯涌谷が錦葉に染まった時節に、流れの岸で出会い申したときでした。世を捨てた者じゃ、たまたま見かけたお前に頼みたいのだが、世話をしてくれと出し抜けにおっしゃったが、そのご様子をひと目見ると、ただもう神様からそう言いつけられたようでござりましたで。ハッと言うてわしは、畏まりましたのでござります」