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 また一声。お屋敷の木立の(こずえ)で鳴く声に応えるかのように、遥かな山のあたりからも、(ひぐらし)の声が聞こえてくる。

 日のあるあいだはずっと休むことなく鳴き騒いで、天地にじりじりと暑さが染みこみ続けるかのようだった(せみ)の声も、二つ、三つ、慌ただしく鮮明に響いて静まった。

 向こう岸の柳の蔭から、金ちゃん――おっかさんがお(まんま)だと言ってるよ、と声が聞こえる。

 泳いでいる子どもらは、わずかになった。

 風は木戸口からも吹き起こるのか、令室の(たもと)がひらひらとはためいている。荷のなかの雪も溶けて流れて、土手の草が冷たい濡れ色を見せている。

「いや、もう、ぜひともお望みなさることにかこつけて、つけあがり、たいへん勿体(もったい)をつけてしまいました。ははは、ははは、売り物には花を飾れとばかりに、余計なお話を申しました。そんな次第ですから、田舎者が持ってきた山兎一匹を、ただ貰ってやっただけだとお思いください。

 なんのかのと申しても、つまるところは、亡くなりました養女、そのお嬢様の御遺言(ごゆいごん)ですじゃ。可愛らしい兎が見たら(おび)えそうな、こんなむくつけき親仁(おやじ)の手で育てさすのは可哀相(かわいそう)じゃ、町へ出て、お優しい、お美しい、この方だとおもえるようなご婦人を見つけて、その人に可愛がってもらってくれと、くれぐれも言い置きましたで、あなた様のお望みは、じつは全くのところ渡りに船でござりました。こうなっては、嫌じゃとおっしゃりましても、わしのほうから頼みまする。

 ただ一つ、念のために申し上げますが、あなた様、この兎をお手元でお飼いなさっておりますと、もしかするとその、あれでございますわ。恋人が欲しくならっしゃろうかも知れませぬが……」

 親仁のことばを最後まで聞かないで、令室はごくあっさりと、

「私には夫がありますよ」

「なんとまあ! ははは、ははは、いや、それは気づきませなんだ」

 とまた笑って、

「さようなれば、しゃんしゃんと手を打って、話はこれで本極(ほんぎ)まりとなりました。どれ、こいつをそちらに」

 と、親仁はつぎはぎの単衣(ひとえ)とはいえ、惜しげもなく地に(ひざ)をついて、腰を浮かすと前屈みになって、(ざる)におおいかぶさった。

「雪よ、雪よ」

 と呼ぶと、丸くなっていた小さな動物の耳は、(どう)とともにすらりと伸びて、短い前足を(ふち)にかけて、水晶のような目でくるくると親仁を見た。

「雪よ」

 とまた呼んで、大きな手のひらをパンと打つと、その手のひらが離れるよりも早く、一片の雪が空に踊るかのように、兎はサッと来て(ひざ)に抱かれたのである。

「よく馴れておりますこと」

「お爺さん」

 と令室は、ふと思うところがあるらしく、あらためて言った。

「お爺さん、あの、いま呼んだのはその兎の名前なの?」

 そう聞いて巳代(みよ)ははじめて気がついて、思わず口のなかで、

「お雪様……おや」

「はい、なに、雪は娘の名でござります」

「おお、娘さんの」

 と、令室の目に心がこもった。小間使いは主人の気持ちを計りかねて、そっとその顔を見守っている。その場でなにが起こったのかを理解するのは難しいことではない。

 親仁もくぼんだ目を活き活きとさせて、

「あなた様、同じお名前でござりますか」

「どうもねえ、そうなんですよ」

 と、巳代が主人の代わりに答える。

「お爺さん、その娘さんは、まあ、どういうお方なの」

 と、令室はさも不思議そうに、気になるそのことを問いかけた。

「もし」

 と親仁は話を(さえぎ)ると、

「そのことはお聞きなさいますな。どこの方か知りませぬが、その方とはじめてお目にかかったのは、湯涌谷(ゆわくだに)錦葉(もみじ)に染まった時節に、流れの岸で出会い申したときでした。世を捨てた者じゃ、たまたま見かけたお前に頼みたいのだが、世話をしてくれと出し抜けにおっしゃったが、そのご様子をひと目見ると、ただもう神様からそう言いつけられたようでござりましたで。ハッと言うてわしは、(かしこ)まりましたのでござります」


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