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 アーチ型で銅張りのこの裏口の戸はなかば開いたままで、母屋(おもや)のほうに行く路は草むらのように見えるが段があるらしく、木立のなかを二人の女が後先になって上っていく。彼女らの浴衣(ゆかた)姿は上へ上へと、しだいに小さくなっていった。

 その姿を最後まで見とどけることもなく、手間がかかりそうだと思ったのか、雪売りは左右の(ざる)天秤(てんびん)棒を乗せて、その上にどっかりと、また腰を下ろした。

「ああ、やれやれ」

 と漏らした親仁(おやじ)の独り言には、なんらかの重大な秘密が隠されているようでもあり、これほど無意味なことばはないといったようでもある。

 親仁はなにも考えてはいない様子で、人を待つというそぶりもなく、戸を背後(うしろ)にして、目の前の、夕陽に彩られた川の流れと、いまだに残って泳ぐ子供たちと、布を洗う女たちをじっと眺めていた。周囲には石垣の松の梢を吹き抜ける風、向こうの岸には柳のそよぎ。

 そうして目に見える暑さの色も、次第に薄れながら日は傾く。

 あたりは静かで、ざぶざぶと流れをかき乱す音だけが聞こえて、大きな手のひらを膝頭(ひざがしら)に置いた親仁の姿は、どこか仙人を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 兎は(ざる)のなかに愛らしくうずくまって、動かず、鳴かず、食べ物もむさぼらず、あたかも雪でこしらえたもののようである。

「おお、ここに」

 という声とともに、木立のなかに(なま)めかしい気配がして、木戸からこぼれだした(そで)留木(とめぎ)がぱっと(かお)ると、(たもと)(つま)の端をちらちらとさせながら、()(べい)の側にサッと寄って、すこしばかり顔を覗かせた人がいた。その(かたわ)らに引き添って、戸口の正面から親仁(おやじ)と向き合ったのは、さきほどの巳代(みよ)であった。

「お爺さん、よく待っていてくれましたね」

 と、意外にも、年かさの女中があそこまで言ったことに反して、あまりにも物腰が軽やかである。

「や、お前さまでござりますか」

 と、親仁は中腰になって、背のすらりとした婦人の立ち姿を横からしげしげと(あお)ぎ見ている。

「あのね、さっき言ったように申し上げたら、急いで出ておいでになったんですよ。お前さん、この奥さまです」

 と、令室(れいしつ)をかばうようにしていた身体をよけると、親仁のほうに歩み寄って、だれにするともなしに、ちょっと頭を下げた。

「はい、これは、あなたさまが奥さまでござりますか。はいはい」

 と、親仁は腰をかがめて()み手をしながら、身体をひねってそちらに向き直った。それまで腰かけていた天秤棒が、片端に縄をからませたまま、笊の端をずるりと滑り落ちた。

「とんだお願いをしてすみませんね」

 と、気高いその人は、かえって無造作に、品のある身を卑下(ひげ)するような心配りをして、鬼神(きしん)の力も()えさせる(つや)やかな顔に微笑を含んで言った。親仁の礼を受けると、薄衣(うすぎぬ)(まと)っただけの飾り気のない肩を斜めに傾けたが、その横顔に後れ毛がはらはらと落ちる。

 令室は、身体をくの字形にしたままで、木戸口(きどぐち)からじっと(ざる)のなかを見つめていた。黒目がちの、睫毛(まつげ)の濃い、涼しくぱっちりとした左右の瞳には、笹の葉の緑の影を宿した真っ白な兎がそのままの姿で、一つずつ映っているのだろう。

「まあ、綺麗な。可愛らしい」

「お爺さん、どこで捕まえて来たんですか」

 と巳代は、ここまで来る途中で令室と交えたらしい話を、ここで問いかけた。

 そんな二人の姿を交互に見ながら、

「こりゃ、はい、わしが捕まえたのではござりませぬ。取って十九になりましたわしの娘が飼っていたものでござります」

 親仁の側に令室は歩み寄ると、

「娘さんが、そうなの?」


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