知らない人と呼ばれたい。
みんなは自分のことを他人にどう呼ばれたい?
私は「知らない人」と呼ばれたい。
寒い街の中を私は一人で早足に歩く。友達と歩く人、恋人と歩く人、小さな子供を間に挟んで手を繋いで歩く家族。その誰もが笑顔で言葉をかわしながら通り過ぎていく。
気がつくと、商店街まで来ていた。特に目的があって歩いていたわけではない。人が多いところは苦手なのに無意識に来てしまった。流れてくる音楽は今、若い女性に人気の男性アイドルグループの曲だ。私は少しホッとした。
少し、落ち着こうと思って目についた喫茶店に入った。入って失敗した、と思った。出ていこうとドアノブに手をかけると、開ける前に店員に声をかけられた。
「いらっしゃいませ~!1名様ですか?」
「あ……はい……」
「では、こちらへどうぞ」
案内されたのは2人用のテーブル席。両サイドには若い男子高校生が座っていた。制服が違うので学校は違うのであろう。にしても、男子高校生に挟まれてしまったのはなんだか落ち着かない。
右隣の男子高校生は動画投稿サイトの動画を見ながらクスクスと笑っている。左隣の男子高校生は音楽の話をしていた。
「今かかってる曲ってさ、顔出しNGのノアが歌ってる曲だろ?お前、好きって言ってなかった?」
「そうそう、俺、ノアの歌、好きなんだよね。声は可愛いし、明るい曲歌うし、歌もめっちゃうまい」
「でもさ、顔見えないんだろ?顔を出せない理由があるんだよ。めっちゃブスだったりして。声もさ、機械で換えて、本当はおっさんかもよ」
「それ最悪。俺の夢を壊すなー。絶対可愛い女の子だって」
もう、やめてほしい。その話は。聞いてるこっちが恥ずかしい。やっぱりこの店、出ればよかった。そう思ってももう遅い。注文したケーキセットが出てきた。
早速食べようとしたその時、隣の男子高校生、ノアブス説を語っていたほうが突然声を出した。
「うわっ、やっべぇ」
私はどきりとした。嫌な予感がする。
「お前、ノア顔バレしてたの知ってるか。ほら」と見せる
「うっわ……。顔バレしてる噂があったけど、俺、あえて見ないようにしてたのに。夢、壊されたくないから。ショックだ。おばさんかよ…………騙された気分」
もう、聞きたくない。それ私。気づかれないように私はずっと下を向いたままケーキを食べる。もはや味がわからない。
ノアブス説を語っていた男の子がこっちをちらっと見た。やばい。バレるかも。男の子はノアが好きな男の子にヒソヒソと話しかけている。チラチラと視線を感じる。また嫌な予感。何を話しているのか聞こえない。
「おい、隣のおばさん、顔バレしたノアじゃね?」
「まじか……。近くで見るとさらにおばさん」
ノア可愛い説を語っていた男子も流石におばさん説を認めたようだ。二人にバレて最悪なのに、男子高校生の近くを通った店員が二人の会話を聞いて、驚きの声を上げた。
「お客様、ノアさんでいらっしゃったんですかぁー!」
それなりに大きな声で言われては周りのお客さんも何事かとこちらを見る。やはり、気づく人は私がノアだと気づく。もう、最悪だ。大きな声を出した店員は先輩店員に注意されて申し訳無さそうにしてるが、もう遅い。私は恥ずかしくていても経ってもいられなくて、頼んだものには少し手を付けただけで思わず店を飛び出した。
飛び出して気づいた。あ、支払い忘れてた。店員さんも特に追ってきてはなさそうだった。店に戻ろうかと思ったが、今戻るのは気まずい。店員が追ってこないことをいいことに私はそのまま家に帰った。
家に帰った私は、なんとなく罪悪感が感じられた。何に対する罪悪感だろうか。みんなのノアは可愛いだろうという期待を裏切ったことだろうか、それとも支払いをしなかったことだろうか。おそらく後者が私の罪悪感の大きな要因だろう。お店には明日、謝罪とともに支払いをしに行こうと、今は気にしないことにした。
携帯を見ると、ノアのマネージャーから連絡が来ていた。会って話したいとのことだ。今からならいつでも会えることを伝えると、マネージャーが家に訪ねてくれることになった。きっと私はお役御免になるのだろう。顔バレをして、しかも可愛くないおばさんだったなんてもう、取り返しがつかない。顔バレをしても、私が若くて可愛かったら……なんて考えても仕方ないことを考えてしまう。
ピンポーン、ピンポーン
悪い想像をしながら待っているとマネジャーが来た。
「こんにちは乃愛さん」
「こんにちは、マネージャーさん」
私達は二人、顔を合わせて椅子に座った。
「早速ですが、乃愛さん。顔バレしたのは仕方ないことなので気にすることはないです。こちらもきちんと、守れなくてすみませんでした。ですが、このまま活動することはできません」
「ええ、それはもうわかってます。いままでありがとうございました。お世話になりました。いい夢でした」
「何終わろうとしてるんですか?まだ、終わりませんよ。乃愛さん私の提案を聞いてくれませんか?」
「はい……」
「突拍子もない事を言うと思います。乃愛さん、ノアは死んだことにしませんか?」
突然の提案に私の思考は止まる。
「ちょっと………意味がわからないんですけど」
「ノアを死んだことにして、改めて、別の名義で再デビューしませんか?今度は顔出しで」
「でも、顔バレしたので、顔は出せません」
「整形していただきます。これからはアイとして活動してください」
「せ、整形して!?そんな、お金ありませんし、整形なんて……せっかく親からもらった顔なのに」
「今どき、整形なんて珍しくないでしょう?それに、しないことにはもうどうしようもありませんよ」
話が大きすぎて、なかなかついていけない。今すぐ整形するかしないか決められないし、全然想像がつかなさすぎて、不安でしかない。私がどう返事するかぐるぐる考えていると、マネージャーが話を畳み掛けた。
「まあ、今すぐじゃなくていいけど、一週間以内にどうするか決めてください。乃愛さんは歌が上手いので、またデビューできると思います。もし、又デビューする気なら整形にかかる費用は未来の投資としてこちらが持たせていただきます」
そう言ってマネージャーが帰っていた。それを見送って一人になってしまってため息を付いた。私の歌が上手いと褒めてくれたのはとても嬉しい。だが、どうしよう。整形はかなり勇気がいるが、生活していくにはもう一度、やり直すしかない。
一晩悩んで、私はもう一度やり直すことに決めた。明日、お金を払いに行って、マネージャーに連絡しよう。
次の日、私は昨日の喫茶店に行った。店内に入ると、昨日の騒ぎはなかったかのように穏やかなBGMとにぎやかなお客さんの会話がボソボソと聞こえる。
私が店内に入ると、昨日大きな声を上げた店員さんが気づいた。
「あっ、お客様、昨日は申し訳ありませんでした」
「あっ、いえいえ。こちらこそ、昨日は恥ずかしくてそのまま出ていってしまったので、支払いを忘れていました。大変申し訳ございませんでした。今日は支払いのために訪ねました」
「お客様、昨日はうちの店員が大変申し訳ございませんでした。お支払いは結構でございます。昨日、迷惑をおかけしてしまったお詫びと、ほとんど手を付けていらっしゃらなかったので、代金はいただきません」
そういったのは昨日の店員の先輩である。
「あの、本当に大丈夫でしょうか?店長は仰ってますか?」
私が尋ねると、先輩らしき店員は笑って答えた。
「私が、店長です。なので、問題ありません。本当に申し訳ございませんでした」
「あ、ありがとうございます。あの、また食べに来ますね。そのときに代金払います」
そう言ってこの店を出た。結局代金を払わなかったが、昨日のままほうっておくと、罪悪感があったので、スッキリしてよかった。あとは家に帰って、マネージャーに電話しよう。
マネージャーは私の返事を待っていたかのように、電話の呼び出しにすぐに出た。
「マネージャーさん。昨日の件について決めました。再デビューさせてください。そのための未来の投資としてください」
「お決めになられたんですね。よかったです。整形は若くなるようにしてもらいます。整形が済み次第、ノアは亡くなったと発表します。そして、しばらく時間をおいてからデビューになると思います。今度ははじめから顔出しなのでみんなの期待をあとから裏切るということはないです。安心してください」
それから月日が流れ、私は整形を終えた。自分も知らない、自分の顔を初めて見たときは不思議な感じだった。これからは私は何にでもなれそうな気がした。
そして私は、ノアが死んだというニュースをテレビで見た。いろいろ、言われた。事務所の発表としては、所属歌手のノアが死亡した、原因についてはふせさせてもらう、といった内容だった。様々な憶測が飛び交った。突然病気でなくなったとか、自殺が原因だというのが一番多い推測だった。あまり目立たないが、ノア生存説があったのが少し心配だが、マネージャー曰く、気にしても仕方がない。誰が死んでもそういうのは面白がったように出てくるらしいので少し、安心した。
その後、アイとしてのデビューは少し時間がかかった。ノアは顔バレがしておばさんであることがバレて幻滅したファンもいたが、それでも、ノアの歌が好きだと言ってくれるファンはいたみたいで、私は少し報われた。
私はアイとしてデビューした。誰も私がノアだと気づかない。顔バレの心配はないが、いつか、誰かがノアだと気づかないか、不安でしょうがなかった。結局、あの喫茶店へはあれ以来行っていない。怖くていけなかった。自分だけが知ってる事実。自分だけが知ってる店員。店員は今の私を見ても誰だけきっとわからない。だけど、怖くて行けなかった。
顔出しデビューしたので外に出かけるときは変装を少しするようになった。
ある日、散歩に出かけていると、女子高生の会話が耳に入った。
「私、アイの歌、好きなんだよね。いいよね」
そんな女子高校生に友達の女の子は対抗する。
「私は、絶対ノアかな。同じ事務所に所属していたノア。私が小さい頃にデビューしていたらしい。でも、ある日顔バレして亡くなっちゃった」
私はそれを聞いてドキッとした。バレるかなと思ったが、女の子たちは会話に夢中だし、ノア好きの女の子はノアが死んだと完全に信じているらしかった。アイ好きの女の子はネットでノアを調べている様子だった。
「そんなノアっていう歌手いたっけ?………ああ、いた。でも私、この人、知らない人だ」
私はそれを聞いて、口元が緩んだ。嬉しかった。私は誰も知らない人になった。本当の私はアイでもないし、ノアでもない。私はわたし自身しか知らない人になった。私はずっとみんなの知らない人になりたかった。