全部全部『君』のせいだ
一度きりのつもりだった。
記念になるだろうなんて、軽い気持ちで。
続ける気なんて少しもなかった。
誰も足を止めない、路上ライブ。
こうなることはわかっていたのに、なんで少し悲しいんだろう。
ああやっぱり。路上ライブなんてするんじゃなかったな。
…………帰るか。
心なしか行きより重くなったギターを背負い、歩き出した。
「あの!」
後ろから女性の声が聞こえた。
一瞬、今のライブを観ていた人かもと足を止めそうになる。
いやいや。そんな訳ないだろ。思い上がりも大概にしろ。
振り返っても恥をかくだけだ。
さっさと帰ろう。
歩く速度を上げようとした時、とてもキレイな女性が目の前に立ち塞がった。
「あの!」
あ、さっきの声。
じゃあ、勘違いじゃなかったのか「私、もうすぐ遠くに引っ越すんです!」
「え……」
だから?
え、どういう状況?
人違い?新手の宗教勧誘?
……とりあえず、逃げ「すごく不安だったんです。一人も知り合いのいないところに行くから。でもなんでだろう……。あなたの歌を聴いたら、頑張ろうって思えました!」
「え……」
「音が力強いっていうか、声もすごくキレイだし。うーん。上手く言えないんですけど。私あなたの歌が大好きです!
引っ越すから、私はもう聴けないけど……。音楽辞めないでくださいね!私、ずっと応援してます!それじゃあ」
天使かと思った。
「…………あ!待っ……て」
引き止めようとした時には、ずいぶん遠くにいた。
「……走るの速いんだな」
初めて人に好きだと言われた。
いや。俺がじゃなくて歌だけど。
……それでも。
「なんか嬉しいな」
別に歌が好きだった訳じゃない。
なんかモテそうだからとギターを買って、買ったはいいけどろくに弾けなくて。
買ったばかりで売りに出したら、意地悪な方の自分に『ほらな』と笑われそうで。
一度でも路上ライブをすれば、ギターを買った意味がある気がするし、そろそろ就活だから、面接の話のネタにもなるかもしれない。そんな打算的な気持ちで、一度だけするはずだったんだ。
続けるつもりなんて少しもなかった。
就活は?卒論は?運転免許だって取りに行きたいのに。
……でも。もうちょっとだけ続けてみるか。
別に本気じゃないし。みたいな顔して時間があればギターを弾き、毎週のように路上ライブをして。
こうやって続けていけば、いつかはプロになって稼いで……。
名前も知らない『君』に俺の歌を届けられるかもしれない。なんて。
『君』はきっと俺のことなんて、覚えてないのに。
その後も何度だって辞めるタイミングはあった。
周りが就活を始めた時だって、大学を卒業した時だって、同級生が結婚して子どもができた時だって、貯金が底をついた時だって、何度も辞めようと思ったのに。
辞めようとする度に
『私あなたの歌が大好きです!音楽辞めないでくださいね!私、ずっと応援してます!』
『君』の優しい呪いを思い出して。
いつからか天使に見えていた『君』が悪魔のように思えてきた。
……もうちょっとだけ。あとちょっとだけ。
なんて続けるうちに、取り返しのつかない年齢になってしまった。
いい歳してコンビニバイトで暮らしてるのも、結婚どころか彼女だって何年もできていないのも、同窓会で惨めな思いをするのだって。
全部全部、名前も知らない『君』のせいなんだ。
「なんで大学卒業後、ずっとアルバイトなの?」
「……音楽をしてまして」
「へぇー、バンド?」
「いえ。一人です」
「へぇー。すごいじゃん?売れた?って売れてたらここにいないか笑笑」
ニマニマと嫌味ったらしい顔で面接官が言った。
「……そうですね。全然駄目でした」
「面接なんだから、そんな暗い顔しちゃ駄目だよ。ほら、スマイル。スマイル」
「あはは」
誰のせいでこんな顔になってると思ってるんだよ。
「じゃあ。面接結果は後日、メールするからね。まぁあんまり期待しないでね」
「……本日はお時間を頂きましてありがとうございました。失礼します」
こんな会社、受かっても入らねーよ。
家に帰ってもイライラは消えなかった。
クソッ。音楽しながらバイトで暮らしてきたからって、馬鹿にしやがって。
お前は人を下に見れる程、ご立派な人間なのかよ。
しかも今日だけじゃない。今日程、露骨じゃないにしたって似たようなことが何度もあった。
今日みたいに悪意たっぷりなのはまだマシだ。
もっと俺の心を傷つけるのは、悪意なくむしろ良かれと思って、無神経なことを言ってくる連中だ。
ほっといてくれよ。俺の人生なんだから。
あー。ネクタイが息苦しい。
サラリーマンになったら、毎日スーツか。
それだけで嫌になるな。
楽な服装に着替えた時、ギターが目についた。
ギターを弾かなくなって、三ヶ月が
経った。
しまいこむ場所もなく、どうしても目につく場所にあるギター。
……いっそ売るか。
俺はもう一生、ギターなんて弾かない。
見るたびに惨めな気持ちになるんだ。
このギターだって、ちゃんと弾いてくれる人に持っていてもらった方が嬉しいだろ。
よし。売ろう。
こういうことは思い立った時にした方がいい。
ギターを背負い階段を降りると、母さんがちょうど帰ってきていた。
「……おかえり」
「あら。ただいま。……またライブするの?」
笑顔が引き攣っている。
不安が隠しきれないならいっそ。睨みつけて欲しい。
「安心してよ。売りに行くだけだから」
「そ、そうなのね」
嬉しさが隠しきれていない。
「……でも。売ることはないんじゃない?ずっと頑張ってきたじゃない」
ああ、やっぱり。悪意なくむしろ良かれと思って、無神経なことを言われるのが一番傷つくな。
「……もう決めたことだからさ」
「でも働きながらだってやろうと思えばできるし、趣味で続けたらいいじゃない。なにも今売らなくたって……」
「……もう決めたって言ってるだろ!!」
母の怯えた顔を見て、我にかえった。
「……ごめん。行ってきます」
「い、行ってらっしゃい」
自宅から少し離れたところで、大きな溜息をついた。
ガキかよ。本当、ダサいな。
もういい。ギターを売ればスッキリするだろう。
ギターを売った金で、母さんの好きなケーキでも買ってかえるか。
思えば誕生日プレゼントとかも、ろくに渡してなかったな。
ちゃんと就職して今まで迷惑かけてきた分、親孝行しよう。
……でも本当。音楽さえしてなきゃこんな人生にはならなかったんだろうな。
あの時『君』があんなことを言わなければ、一回きりで辞めていたのに。
ああ本当。全部全部『君』のせいだ。
「あの!」
後ろから声が聞こえた。
何年も前に聞いたきりなのに、誰の声だかすぐにわかった。
ストレスのせいで、幻聴まで聴こえ始めたか。
頭ではそう思うのに。身体が勝手に振り向いていた。
「……よかった。音楽続けてたんですね」
よくねぇよ。なんて言えるはずも言うつもりもなく。
ただ黙る俺に、君が慌てだした。
「ご、ごめんなさい!!冷静に考えると私のことなんて覚えてないですよね!ファンの方もたくさんいるでしょうし。
私昔、路上ライブをしていたあなたの歌にすごく勇気をもらって」
「……覚えてますよ」
「本当ですか!?……どうしよう。私、すごく嬉しい……」
忘れるはずがない。あんなことを言われて。
『君』はあの衝撃的な出会いを忘れてしまう程、俺が売れたと思っているんだな。
……今の俺の現実を知ったら、ガッカリするだろな。
「これからライブですか?」
「……いや。ライブ終わりです」
嘘をついた。
正直にギターを売りに行くと言えばいいのに。
『君』に失望されたくなくて。
ずっと『君』のせいにしてきたのに。なんともまあ。都合の良い話だ。
「えー。見たかったな……。次のライブはいつですか?」
「……まだ決まってなくて」
「そうなんですね!イ●スタってやってますか?ライブの告知とか載せたりします?」
「……前はやってたんですけど」
有名な作曲家から声でもかからないかと、弾き語り動画をアップしていたけど、全然ダメで辞めた。
やっぱりフィクションでしか、そんなことは起こらないんだ。
「そうなんですね。……LINEはさすがに無理ですよね?」
「そうですね……」
会うのは今日限りにしないと。
会えば会うだけ、惨めになりそうだ。
「そうですよね!すみません!会えたのが嬉しすぎて調子にのっちゃいました!」
「いえ……。じゃあ、失礼します」
これ以上一緒にいたら、絶対に言ってはいけない言葉を言ってしまう気がする。
「あ、あの!歌で勇気づけていただいたお礼に、コーヒーでもご馳走させてもらえませんか?」
「え……」
「私あなたの歌、本当に大好きで。引っ越し先で不安だった時もあなたの歌を思い出して、なんとか頑張ってこれたんです」
「いや。そんなお礼されることしてないし」
「お願いします!ずっとお礼がしたかったんです」
綺麗な女性に頭を下げながらお茶に誘われて、断れる男がいるだろうか。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「ありがとうございます!」
クソ。やっぱり可愛いな。
もっと憎たらしい子ならよかったのに。
「すぐ近くなのでついてきてください」
歩き出した『君』の少し後ろを歩く。
このままこっそり、帰ってしまおうか。
……でも突然いなくなると、心配させるだろうしな。
「あ!自己紹介がまだでしたね!私の名前は椿詩です」
……なんとなくだけど名前、知りたくなかったな。
「……俺は皇維音です」
「いいお名前ですね!漢字ではどう書くんですか?」
「……皇帝の皇に、繊維の維に、……音です」
「え!?お名前に音が入ってるんですか!?すごいですね!音楽をやるために生まれてきたんですね!」
「……そんなんじゃないですよ」
名前に音が入ってるくらいで、プロになれるなら誰も苦労しない。
「またまたご謙遜を。……やっぱり私の目に狂いはなかったですね!」
「……あはは」
狂いだらけだよ。『君』の目は。
……やっぱり。こっそり帰ろう。
このまま一緒にいたら、自分でもなにを言い出すかわからない。
「あ、着きました!ここです!」
「え……」
なんてタイミングだ。
辿り着いた場所は、昔ながらの喫茶店だった。
勝手なイメージだけど、THEインスタ映えみたいなカフェに連れて行かれると思っていたから驚いた。
逆にこういうのが映えるのか?
女子の考えることはよくわからない。
『君』の後を追って店に入る。
「いらっしゃいませ」
「マスターさん。久しぶりです!」
「おや。お久しぶりですね」
「引っ越す前はよく来てたんです!」
「あ……。そうなんですね」
席に座る二人。
「なににしますか?」
「……じゃあ、コーヒーで」
「砂糖とミルクは?」
「……なしで」
普段は砂糖とミルク一つずつ入れるのに、なんとなく断ってしまった。
……別にカッコよく見られたいとか、そんなんじゃない。
第一、ブラックコーヒーを飲むからカッコいいだろ?なんて思う程、子どもじゃないし。
「すごい!ブラックコーヒーですか!カッコいい!」
「……いや。そんなんじゃ」
社交辞令に決まってるのに、ちょっと喜んでしまった。ガキかよ。
別に『君』に好意を持ってるとか、そんなんじゃないんだ。
ただ、カッコいいとあまり言われず生きてきたせいで、耐性ができてないだけで。好きとかそんなんじゃない。
第一、『君』が好きなのは俺じゃなくて、俺の『歌』なんだから。
「私はカフェオレで」
「はい。少々お待ちください」
マスターさんが豆から、コーヒーを淹れている。
すごく良い香りが漂ってくる。
この香りを歌詞で表現したらと考えるも、すごく良いコーヒーの香り以外の言葉が出てこない。
俺はどこまでも才能がないんだなと嫌になった。
店内にはマスターがコーヒーを淹れる音しか、鳴らない。
『君』はさっきまでの饒舌はどこへやら、黙り込んでいる。
なにか話しかけた方がいいのか?
……いや。別にいいだろ。
今日で終わりの関係なんだから。仲良くなっても無駄だ。
店の雰囲気的にも、静かに過ごした方がいいだろうし。
「お待たせいたしました。まず、カフェオレのお客様」
「はーい!」
『君』がカフェオレをフーフーしてから、一口飲んだ。
「あつ!……でもすごく美味しい」
猫舌か。可愛いな。
いや。別に『君』だから可愛いと思ったんじゃなくて、世間一般的に猫舌女性は可愛く見える訳で。
だからそういうのでは、決して……。
「ブラックコーヒーのお客様」
「あ、はい。ありがとうございます」
ブラックコーヒーか……。飲めるかな。
勝手なイメージだけど喫茶店のコーヒーって、普通のコーヒーより苦そう。
意を決して一口飲む。
「うまっ」
と勝手に声が漏れた。
「そうなんです!マスターのコーヒーは世界一なんです!」
『君』が突然大きな声を出すから、驚いて肩が震えてしまった。
「あ、すみません……。マスターのコーヒー大好きなので。美味しいって言ってもらえて嬉しくて、つい」
ああ。心のキレイな人なんだな。
自分のことのように喜んで。俺とは正反対だ。
こんな人に生まれたかったな。
叶いもしない願いに、久しぶりに傷つけられた。
「お二人とも、私のコーヒーをお褒めくださりありがとうございます」
「また通いますね!」
「お待ちしております」
俺も正直、通いたいな……。
こんな美味しいコーヒー、生まれて初めて飲んだ。
でも『君』に会ったら気まずいし、もう来れないな。
しっかり味わって飲もう。
「そうだ!マスター聞いて!この人が前に言ってた、私のヒーローなの!」
「ああ。路上ミュージシャンの」
「そう。皇さんはすごいの!歌だけで人に勇気を与えられて!」
「……いや。そんなんじゃ」
お願いだからこれ以上、俺を惨めにしないでくれ。
「皇さんならいつか世界的なミュージシャンになるはずだわ!きっと数年もしたら、武道館でライブをして」
その後も『君』は、ありえない夢物語を語ってみせた。
マスターだって困ってるじゃないか。
『君』はそんなことも分からないのか。
『君』が無責任な夢を語るたび、怒りが増した。
口を開けば怒りは、すぐにでも言葉になってしまいそうで必死に唇を噛んだ。
だめだ。だめだ。我慢しろ。我慢しろ。
理性がそう叫んだけれど、俺の自制心はそう強くない。
自制心が強いなら、大した才能もないのにミュージシャンなんて目指さなかっただろう。
「……いい加減に」
「皇さん今なにか言いましたか?聞き取れなくて」
「いい加減にしてくれよ!!」
「え……」
『君』の驚いた声を聞いても、俺の怒りは抑えられなかった。
「俺みたいな大した才能もない奴が、世界的なミュージシャン?武道館?寝ぼけたこと言わないでくださいよ」
「ほ、本当にそう思って……。皇さんの歌は本当にすごいから」
その言葉が嬉しくない訳じゃない。
だけど俺みたいな捻くれた人間は、正の感情より負の感情が勝ってしまう。
「……これ以上俺が音楽を続けて、いよいよどこにも就職出来なくなったら責任取れるんですか?」
まだギリギリ20代なのに、バイト期間が長かったせいでどこの会社もとってくれない。
これ以上音楽を続けたら、本当にどこにも就職出来なくなる。
「そ、それは……。でも皇さんなら絶対に……」
「無理だったんだよ!!
何年もやった。笑っちまう程、なんの結果も残せなかった。俺なりに一生懸命やったんだ!!もうほっといてくれよ……」
俺がそう言うと、店内が気持ち悪いくらい静かになった。
「…………ご、ごめんなさい。私、無神経でしたね。私、皇さんの歌が本当に大好きで……ごめんなさい」
謝ってもらったのに、怒りがちっとも収まらない。
それどころか増している気がする。
なんでなのか考える理性すら残っていなかった。
その瞬間、脳裏に浮かんだ言葉を必死に、掻き消そうとした。
やめろ!!謝ってくれた相手に言っていい言葉じゃない!!
やめろ!!やめろ!!やめろ!!やめろ!!
「『君』が俺の歌を好きなんて言わなければ、こんな惨めな人生にならなかったのに!!路上ライブだって、一度きりで辞めるはずだったんだ!!俺の人生、全部全部『君』のせいだ!!」
言った。言ってしまった。
言ったことでどこかスッキリしている自分が、気持ち悪くて仕方がなかった。
「……ごめんなさい。……私、帰りますね。
マスターさん。お釣りは大丈夫なので」
そう言って『君』は1000円札をマスターに渡し、店を出た。
多分色々と終わった。
…………まぁ別にいいじゃないか。
彼女は俺の約三十年間の人生の中で、たった二日しか登場していない。
俺が勝手に特別視していただけで、ただの他人だ。
他人を傷つけて、これからの人生すっきり生きられるなら、別にいいじゃないか。
…………いいんだよ。これで。
マスターが俺のテーブルにプリンを置いた。
「……頼んでないです」
「彼女は来店する度、このプリンを食べるのでつい作ってしまいました。どうぞお召し上がりください」
「……いただきます」
一口食べた。
味はいかにも純喫茶のプリンだった。
何故だか涙が出てきた。
「甘いものはお嫌いでしたか?」
「……正直苦手です。……でもこれはすごい美味しいです」
「それは良かった。また食べにいらしてください」
「……俺にはもう来る資格がないじゃないですか」
「……彼女。貴方のことを話す時、まるで幼子がヒーローを見るようなキラキラした目で語るんです。
彼女は何年もうちの店にお越しくださっていますが、貴方のことを話している時が一番楽しそうだった」
マスターの言葉になにも返せなかった。
下を向き、手を握りしめる姿はどうしようもなく惨めだ。
「正直、貴方の気持ちも分かるんです。私も昔バンドをしていましたから」
「……ええ!?」
「鳴かず飛ばずでしたがね」
マスターがバンドをしていたなんて意外すぎる。
俺とは正反対の人生を、生きてきた人だと思っていた。
「他者からの過度な期待って苦しいですよね。
嬉しさと惨めさ等、正反対の感情が一度に押し寄せてきたりして。
惨めさだけの時より、苦しかったりする」
自分が上手く言葉に出来ない感情を言葉にしてもらえたような気がして、心が少し軽くなった。
「他者を悲しませて得る爽快感は一時的なもので、後に自らを苦しめます。……貴方はすでに苦しんでおられるように見えますが」
「………………彼女になんて言ったらいいか分からないんです」
「日本にはごめんなさいという便利な言葉があります。まずはそれを伝えてからでしょうね」
「…………マスター。俺行きます」
「はい。彼女は右手の方へいかれました。会えるよう願っています」
「ありがとうございます。ギター預かっておいてもらってもいいですか?」
「ええ。もちろん」
「何から何までありがとうございました。コーヒーとプリンめちゃくちゃ美味しかったです」
俺は立ち上がり、深く頭を下げた。
「またのご来店お待ちしております。可能なら、椿さんと」
「……頑張ります」
走った。多分人生で一番、全力疾走だ。
息が苦しい。蝉がうざい。
でも何故だか、爽快だった。
ああ。俺、こんなに頑張って走れたんだ。
運動会もマラソン大会も、頑張れなかったのに。
頑張るって気持ちいいかも。
思い返すと俺は、死ぬほどなにかを頑張ったことのない人生だった気がする。
唯一、続けてた音楽も続けてただけで、努力したつもりになっていた。
それなのに『君』のせいにして。
恥ずかしい。情け無い。消えてしまいたい。
本当は合わす顔なんてないけど、俺は『君』にありがとうって言いたい。
10分くらい走り続け、やっと『君』を見つけた。
「詩さん!!」
人生で一番、心から叫んだ。
歌もこれくらい心を込めれば、もう少しくらい誰かに伝わったのかもしれない。
「…………維音さん」
振り向いた彼女は、やっぱり天使みたいだった。
「あの……。私本当にすみませんでした」
「いや。俺の方こそすみません。…………そのさっき言ったこと正直全部、本心です。俺は汚い人間だから、本気であんなこと思っています。
……でも詩さんが俺の歌を褒めてくれて本当に嬉しかったんです!!多分人生で一番……。
本当は……というか当たり前のことですけど、詩さんはなにも悪くないです。
詩さんを言い訳に使わないと、夢すら追えない弱い、俺が悪いから……。
詩さん。本当にすみませんでした!!……それとありがとうございました。俺この数年間、辛かったけど、それ以上に楽しかったです!」
これが情け無い俺の本心だ。
ずっと目を逸らしてきて、いつからかあることも忘れていた。
『君』は静かに聞いていた。
……情け無い男だと失望されただろうか。
「……やっぱり歌い続けてください」
「え……」
「働きながら無理のない頻度で。ライブが難しいなら、カラオケだっていいです。
維音さんはやっぱり歌が好きだと思うから」
「……やっぱり。詩さんには敵わないなぁ」
その後、俺はなんとか正社員として働いている。
仕事は大変だけど人が優しい、良い職場だ。
大学卒業してすぐ働きだした方が給料も良かっただろうけど、遠回りして良かったと今は思えている。
月に一度、休みの日に路上ライブをする。
詩さん以外にお客さんのいない日も多いけど、それでいい。
ライブ終わりに詩さんと食べに行く、喫茶店のプリンが美味しいから。