第15話 咸陽の四鴻啼 前編 ~出口王仁三郎の亡霊殺人事件~
《大和太郎事件簿・第15話/咸陽の四鴻啼》
〜出口王仁三郎の亡霊殺人事件〜
=前編=
人間五十年
化天の中を暮らぶれば
夢まぼろしの如くなりにけり
ひとたび生を受け
滅せぬものがあるものか (幸若舞「敦盛」より)
※著者注記;幸若舞「敦盛」
平安時代中期から後期に流行した語りを伴う舞に出てくる舞曲。
源平合戦で16歳の平敦盛の首を討取った武将・熊谷直実が合戦後に出家して坊主となり、 再び訪れた合戦場所で敦盛の亡霊が現れる物語の中で舞われる曲。
『信長公記』によると、桶狭間の合戦に出陣する際に織田信長が舞ったとされる。
大いなる微が天に現われた。頭に12の星たちの冠を被り、太陽で盛装した一人の女が、月を足下に踏んでいた。この女は子を宿しており、産みの苦しみと痛みのために泣き叫んでいた。
また、もう一つの徴が天に現われた。七つの頭と十の角を持った大きな赤い龍が七つの冠を被っていた。 (ヨハネ黙示録・第12章1〜3より)
咸陽:
中国中部(関中)にあった古代中国の秦王朝(BC770〜BC206)の首府であった都市。現在の陜西省西安市周辺の都市で、当時の咸陽は西安市域を含んだ広大な地域であった。現在は、西安市の北側を流れている渭河と呼ばれる川を渡って隣接したところに咸陽市と云う都市がある。秦の時代には咸陽宮と呼ばれた宮殿があった都市である。
秦王朝を滅ぼしたのは項羽と劉邦であったが、劉邦が項羽を破って漢王朝を起こし、咸陽は長安と名前が変わる。その後、唐の時代には日本からの遣唐使であった阿倍仲麻呂、吉備真備、空海などが長安で仏教や律令制度の勉強を行った。
ヨーロッパとアジアを結ぶシルクロード(絹の道)の東側の起点都市でもあった。
咸陽の都は黄河の支流である渭水(現在の渭河)の北岸にあった。渭水は函谷関近くで黄河に合流する川である。
咸陽には秦の『始皇帝』がBC212年に建設した歴史上最大の木造建築『阿房宮』が渭水の南側にあったが項羽によって『咸陽宮』と同時に炎上させられた。『阿房宮』の前殿には1万人が座れる広間があったとされる。また、『始皇帝』が生前に造った『地下王墓』が『阿房宮』の東方に造られ、『地下王墓』の上に盛土をして樹木を植えて小高い丘に偽装したようである。
司馬遷が書いた『史記』によると地下王墓には咸陽宮と同じ宮殿が作られ、また多くの財宝が納られ、盗掘を防ぐための様々な仕掛けが張り巡らされていたようである。他室の天井には実際の夜空のような星々や星座が描かれていたと云う。また、水銀が流れる川や海も作られていたと云う。刀狩で集めた青銅を溶かして作った12人の将軍や他国の王などの大きい銅像があったが項羽によって溶かされ武具などに作り変えられたとも謂われている。
咸陽の街や『咸陽宮』、『地下王墓』、『阿房宮』は楚の項羽によってBC206年に炎上させられ、焼野が原となり秦王朝は滅んだ。
この時、『地下王墓』の近くに造られた兵馬俑も焼かれたと推理される(中国の歴史書には陵墓に関する記述はあるが、兵馬俑の記述は見当たらないらしい)。当時の秦は歩兵による白兵戦を得意としていた。歩兵である兵馬俑の兵士が持っていた鉄製の槍や矛(戟)などの実際の武器は楚の兵士に奪われたと推理されている。
『史記』には項羽によって『地下王墓』が暴かれ、燃やされた記述はないが、北魏(386年〜534年)の麗道元と云う人物が著した『水経注』と云う書物には「項羽、関に入りてこれを発き、30万の人をもって30日物を運ぶもきわむあたわず。」と記されているようである。その後、盗賊や遊牧民(匈奴?)たちは項羽が放った火が燃えている最中に陵墓に残っていた宝物などを奪ったようである。「火は延べ90日減えるにあたわず。」と『水経注』に記されているようです。
なお、『水経注』と云う書物は3世紀に書かれた中国全土の137河川の水系地理誌『水経』に添って麗道元が注釈を付け加えた書(巻物)で、40巻から成る書物である。関中の渭水に関する項は巻17から巻19に亘る3巻に書かれている。
秦の領土は黄河が運んだ栄養素の多い肥沃な土地に人工の水路による灌漑を行い、農業が盛んな土地で、その強い経済力が強い軍隊の活動を支えていた。
渭水を挟んで咸陽の南東対岸には、BC202年に項羽を倒した劉邦が漢王朝を創立し、首府を置いた長安(現在の西安市)の城・街があった。
始皇帝:
BC221年、中国の天下統一を達成した秦王・政は諸国の王を統率する王としての呼称を『始皇帝』と定めた。
秦王・政はBC246年13歳の時に国王に即位し、自分の陵墓の築造を命じた。在位26年で天下統一を成し遂げ、『始皇帝』を名乗ると同時に陵墓を『皇帝』にふさわしい豪華な始皇帝陵墓にするように命じている。すなわち、始皇帝陵墓の地下に宮殿を造り、水銀で河川や海を造り、地下の天井には夜空に輝く如くに星座を描かせた。
『皇』の文字は、太古に中国大陸に君臨したとされる天皇・地皇・泰皇の三皇より取り、
『帝』の文字は、BC2550年頃に中国大陸を支配していた五人のすぐれた天子、黄帝・センギョク帝・高辛帝・尭帝・舜帝の五帝に倣って用いることにし、始めての『皇帝』と云う意で『始皇帝』と称することにした。また、自分自身のことは『朕』と自称する事に決めたのであった。
そして、天地の神を祀り、神と対話し、仙人となるために『封禅の儀式』を神の住む泰山(標高1545m、黄海に面した現在の中国山東省中部にある山、北緯36度11分・東経116度50分)で行ったとされる。
その後、神仙に憧れ、自称を『朕』から『真人(神仙を極めた人)』に改めた。
病に罹り、占星術師の占いによって5回目の国内を巡幸している途中の7月に死亡した。
数えの年齢が50歳であったと云う。
出口王仁三郎:
明治時代に起こった新興宗教『大本教』の二人の教祖のうちのひとり。もう一人の教祖は出口直。
先天的な霊能者で霊視能力だけでなく幽体離脱や降雨現象の誘発なども出来たと云う。
大正13年(1924年)に中国大陸の内モンゴル地区で理想郷を築く目的で活動したが失敗した。活動の目的はスサノオ命の復活・蘇えりの準備をすることであったらしい。
大正10年2月12日、大正12年2月12日、大正13年2月12日の昼間に上弦の月と金星(太白星)が異様に輝くのを見て神勅を感じ、大正13年2月13日の深夜、京都府綾部市を出発し満蒙(内モンゴル)に向かった出口王仁三郎の理想郷建国目的は将来のアジア大陸においてスサノオ命が復活する準備をすることであった。中国大陸では『大本ラマ教』をつくり、自身は教主『ダライ・ラマ・素尊汗』と名乗り活動した。『素尊汗』とは『スサノオ尊』とモンゴル帝国(元王国)を築いた『ジンギス汗』を合わせた言葉である。それは、ノストラダムスの予言が云うところの1999年7の月に蘇生する『アンゴルモア(D’ANGOLMOIS)の大王』のアナグラム『モンゴリアス(MONGOLID‘S)大王』に通じるものがある。
この時、後に合気道の開祖となる植芝盛平が王仁三郎のボディガードとして同行していた。
昭和21年3月3日から旧暦の5月5日に亘って京都府綾部市の大本教本部の庭工事をして月山不二と呼ぶ小山(現・本宮山)を造り、京都府亀岡市には天恩郷(旧亀岡城祉)を整地し、戦前の大本教弾圧で破壊された月宮殿の宝座を有する神聖庭園を再度築いた。
『月宮殿の設計図は月の表である。誰も知らないことであるが、わたしは月面のあの隈の通りこの宝座に移写したので、月の面を眺めては、寸分も違わぬように、と試みたのである。(小山の)中央の平な処が(スサノオの)御神殿にあたるので、そこに十字形の神殿が建設されたのである。・・・・。兎が餅を搗くと云う月の面のあの隈は、じつに四十八宝座の形なのであって、・・・・』(八幡書店・増補三鏡・P123・月宮殿の宝座より抜粋)と王仁三郎は語っていたと云う。
また、「原形魂を秘めた聖なる刻印によってこれを封印せよ。」と言ったそうである。
そして、昭和23年1月19日逝去した。「もう休む・・・。」が辞世の言葉である。
咸陽の四鴻啼1;プロローグ
2016年5月9日 正午過ぎ 伊勢市朝熊山経ケ峯にある金剛証寺の経塚群遺跡
尼僧の飛鳥光院と二人の中年作業員が草むらに敷いたビニールシートに座って昼食弁当を食べている。
経塚群周辺に、中年作業員の傍らにある携帯ラジオから流れる出るNHC・FMラジオ放送局のアナウンサーの声が響いている。
「スパイ映画『007は二度死ぬ』より主題歌『You only live twice』をお聴きいただきました。引き続いて、映画『卒業』より『4月になれば彼女は』、『ミセス・ロビンソン』の2曲、そして映画音楽ではありませんが『ボクサー』、『明日に架ける橋』の2曲を加え、サイモンとガーファンクルの歌声を続けてお聴きください。」
♪ April come she will . ♪ ・・・・・・ ♪
♪ July, she will fly . ♪ ・・・・・・ ♪
♪ August, die she must . ♪ ・・・・・・ ♪
♪ September, I’ll remember . ♪ A love once new has now grown old. ♪
♪ And here’s to you, Mrs. Robinson. ♪
♪Jesus loves you more than you will know . Wo,wo,wo. ・・・♪
♪ God bless you, please, Mrs. Robinson. ♪
♪ Heaven holds the place for those who pray.♪
♪ ・・・・・・・・・・ ・・・・・♪
♪ I’m just a poor boy ♪・・・・・・・・ ♪
♪ When I left my home and my family , I was no more than a boy. ♪
♪ ・・・・・・・・・・ ・・・・・♪
♪ But the fighter still remains. ♪Lie La Lie ,Lie La Lie・・・・・ ♪
♪ When you are weary feeling small.♪・・・・・・・・ ♪
♪ I am on your side.♪・・・・・・・・ ♪
♪ Sail on silver girl. Sail on by. Your time has to shine.
♪・・・・・・・・ ♪
♪Like a bridge over troubled water ♪
♪ I will ease your mind. ♪
咸陽の四鴻啼2;
2016年の某日、某所 ブラッククロスの十人会議
「キャサリン・ヘイワードからの情報があります。彼女が石舞台で巫女舞を踊っている時、上空に飛んでいた白い鳥を霊視しました。その霊鳥は巫女舞が終わると白い矢に変身して東の方向に飛び去ったのでした。その鳥が気になったキャサリンはオメガ教団副教祖の伊周天明の案内で奈良県の東方にある三重県の伊射波神社の奥宮に祀られている領有神の小さな岩座の上に白い霊鳥が留っているのを霊視したそうです。石舞台は北緯34度28分0.44秒にあり、伊射波神の奥宮も北緯34度28分0.44秒にあります。そして、その霊鳥は白い弓矢に変身して、真直ぐ天空に向かって昇って行く姿がキャサリンには視えたそうです。伊射波神社は天照大御神を祀る伊勢神宮の近くにある古い神社らしい。伊射波神社の祭神は稚日女尊と云う天照大御神の妹神だそうです。そこに、『トコトノカジリ』の言霊を破る術のヒントがあるように思われます。アポロン、それは弓矢の名手。そのアポロンの神託によれば、プトレマイオスのカノープスを手に入れてアンゴルモアの大王を甦らせ、世界を変える時、メシアの法は太陽から暗黒の冥府に落ちる。暗黒の冥府に落ちたメシアの法を拾い出す術が『トコトノカジリ』の言霊を破る術であると云う事でありました。『トコトノカジリ』とは『アマテラスオオミカミ』を11回唱えること。オメガ教団の伊周天明によればアマテラスオオミ神は伊射波神社近くの伊勢神宮に祀られている祭神である。暗黒の冥府に落ちたメシアの法を拾い出す術とは、白い弓矢が漆黒の宇宙空間に飛び込んで行くように、伊射波神社の領有神が持つ白い弓矢が暗黒の冥府にあるメシアの法に命中すれば良いのです。」とナンバーワンが言った。
「それでは、リオ・デ・ジャネイロで生贄にした中国の情報部員の魂はどうなるのです。」と新しいナンバーファイブが訊いた。
「彼の魂は中国の泰山に住む冥府の神々にアレキサンダー大王をアンゴルモアの大王として蘇らせて貰うために遣わした使命魂です。彼に持たせた白い石板には『泰山府君祭』と『YOU ONLY LIVE TWICE』の銘が刻んであります。『YOU』とはアレキサンダー大王です。リオ・デ・ジャネイロのキリスト像の十字架の前で中国人の彼を死に導いたのは、アレキサンダー大王の友人でもあったエジプトの初代王プトレマイオス将軍がエーゲ海に沈めたカノープスの壺に入っているアレクサンドロスの心臓に宿る魂を甦らせるための儀式です。ところで、ナンバーファイブ。リオ・デ・ジャネイロで死んだ中国の情報部員の魂が乗り移るはずの、1999年8月18日のグランドクロスの日に生まれた中国人、すなわちアンゴルモアの大王となるはずの肉体は見つかりましたか?」とナンバーワンが訊いた。
「はい。アレキサンダー大王が遠征を諦めた地点である北緯33度44分にあるインドのタキシラ遺跡と緯度が1度以内の誤差範囲にある北緯34度27分の西安で数人の候補者を見つけ出してあります。西安郊外にある始皇帝の兵馬俑の兵隊を甦らせることが出来る人材がアレキサンダー大王の遠征を引き継ぐ男子であると云う事でしたね、ナンバーワン。」とナンバーファイブが言った。
「男子か女子かは不明です。ノストラダムスの予言によれば、1999年の7番目の月にアンゴルモアの大王が蘇えったと謂う事です。性別は明記されていません。ただ、息子セザールへ宛てた手紙があるので、セザールがアンゴルモアの大王であると考える研究者は男性であると考えられているようです。しかし、私の考えは違います。セザールとは将来に生きる人間たちをノストラダムスは意味したのです。ノストラダムスが書き記した諸世紀・第10巻・72編の4行詩では、
『1999年、7番目の月、天に恐ろしい王が現れ、アンゴルモアの大王を復活させる』とあります。
天に現われる恐ろしい王とはグランドクロスの事。アンゴルモアの大王とは、昔、ジンギスカンの時代にモンゴル人が征服した元帝国の土地に生まれるアレキサンダー大王の生まれ変わり。しかし、男とは限らない。なぜなら、男神ジュピーターは月の女神ダイアナの姿で現れることがある。日本国では大本教の女性教祖の出口直に憑いた神は男神、男性教祖の出口王仁三郎に憑いた神は女神だった。」
※著者注記;
息子シーザー・ノストラダムスに宛てた手紙(セザールはフランス語読み)
(ノストラダムス大予言原典・たま出版・大乗和子訳 内田秀男監修 より抜粋)
私の息子シーザー・ノストラダムスよ。お前の時代がゆっくりとやってきている。・・・・・。
(四行詩の表す事件は)神の本質が驚くような早さで私に現れたものなのだ。・・・・・。
不死なる神が望んでおられる。私が明らかにするように命ぜられた未来は、おまえのささやかな理解力では判断するには長い年月がかかるかもしれない。・・・・・・・・・・・・・・。
神の全能は未来の秘密を予言者の理解度に応じて印象によって表せられる。・・・・・・・・・・。
霊感によって、彼ら(予言者)は神の目から見た人間の出来事が判断できるのだ。・・・・・・・。
今年から3979年に至るまでの絶えざる予言のかずかずがあるのだ。・・・・・・・・・・・。
神的直感に一致し、剣を我々の方に近かよせ、・・・、星座が一致した位置に来た時、変革が起こるのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
息子よ、この手紙を、父ミカエル・ノストラダムスの贈り物として受けよ。・・・・・・・。
神は、お前が末永く幸せであることを、きき届けてくださるだろう。
1555年3月1日 サロンにて ミカエル・ノストラダムス
「質問があります。」
「どうぞ、ナンバー7。」
「1999年8月18日がグランドクロスの日でしたが、何故に諸世紀では7番目の月なのですか?何故に7月ではないのでしょうか?」
「ノストラダムスはアンゴルモアのアナグラムであるモンゴリアンから中国の暦である太初暦、太陰太陽暦をつかったのです。太陰太陽暦は1年を24等分し、約15日ごとに節気・中気を交互に繰り返します。1月の30日間は立春・雨水です。12月の30日は小寒・大寒です。7月は立秋・処暑と謂います。立春は2月4日から始まり、雨水は2月19日から始まります。立秋は8月7日から始まり、処暑は8月23日から始まります。ですから、ノストラダムスの4行詩に現れた『天の恐ろしい王』である8月18日のグランドクロスは太陰太陽暦の7番目の月に現れたことになります。」
「なるほど、判りました。」
「ノストラダムスはこの4行詩で中国の太初暦を使ったので、私はアンゴルモアの大王は中国で誕生すると考えた。そして、生前に不死を求めた秦の始皇帝が残した兵馬俑が大王の率いる軍隊となるはずである、と考えた。さすれば、アンゴルモアの大王は始皇帝の墓がある西安、あるいは、秦の始皇帝が皇帝を宣言した咸陽で誕生するはずである。因みに、伊射波神社と関係がある満留山神社はスサノオ命と云う蘇り伝説のある厄神を祀っている神社らしい。そして、満留山神社は西安と同じ北緯34度27分にあるらしいのです。」とナンバーワンが言った。
「なるほど、スサノオ、すなわちスーサの王であるアレキサンダー大王は西安で復活する訳ですか・・・・。」とナンバーセブンは思った。
「繰り返しますが、アポロンの神託では『十の犠牲と十の祈りが世界を新しく導く。この謎を解くものが終わりの日から新しい世界を導くことになる。』でした。確かに『救世主の法』は太陽に引き継がれました。しかし、『トコトノカジリ』の言霊を破る術が判れば『救世主の法』は太陽の手元から暗黒の冥府に落ちます。そして冥府に落ちた『救世主の法』を言霊である『トコトノカジリ』を破ることで引揚げれば良いのです。アレキサンダー大王の臓器が納められたプトレマイオスのカノープスはすでに我々の手にあります。次の手は、1999年8月18日に甦った『アンゴルモアの大王』すなわち『アレキサンダー大王』の魂を引き継ぐ人物を見つけ出せば良いのです。
また、アポロンが謂うところの正体不明の『ホワイト・クロス』も計画を進めているはずです。我がブラッククロスが世界の導き手となるためには『ホワイト・クロス』の正体を突き止め、その活動を阻止することも重要なテーマになります。皆さんもこの事を心に留め置いてください。」とナンバーワンが言った。
「それでは、我等ブラッククロスの願いが成就することを祈って乾杯。」とナンバーセブンが音頭を取ってシャンパングラスを頭上に掲げた。
※著者注記:グランドクロス(大黙示録十字)
占星術・占星学で使うホロスコープ(12星座を30°毎に分けた円図・出生天宮図)において、すべての惑星が十字を描く星座(黄道12宮)の中に入る現象。1999年8月18日のホロスコープでは水瓶座に海王星と天王星、水瓶座の対頂角(180°)に当たる獅子座に太陽と金星、水星が入り、水瓶座と90°の位置にあるさそり座には月と火星があり、その対頂角のおうし座には木星と土星が入った。これが所謂『グランドクロス』である。ただし、冥王星はさそり座の隣の射て座に単独で入り「惑星シングルトン」と呼ばれる現象を起こした。冥王星が象徴することは死と再生、はじめと終り、消滅と創造、啓示、大変動である。射て座の象徴は理性と本能、神聖な力である。
※著者注記:
祇園精舎の手前のインダス川流域まで征服していたアレキサンダー大王は部下のギリシア人庸兵たちの反抗に会い、インド以東への遠征を諦めたと謂われる。そして、ペルシアのスーサの王宮に戻り、その後バビロンの宮殿で毒を飲まされ、遺言を残し、33歳の若さで死んでしまった。病死説もある。毒物から体力が衰えて病気になった。もし、病死なら、悪性の細菌による呼吸不全の可能性が考えられるが、当時では死因として把握できなかったであろう。
なお、アレキサンダー大王がインドで引き返した理由は、裸の哲学者と呼ばれたバラモン教の僧侶カラノスが『中央に居て、世界を支配する』ことを教えた為であるとする説がある。
中央とはユーラシア大陸の中央、すなわちペルシアの王宮があるスーサの都であり、そこに彼は戻って世界支配すること考えたとされる。
咸陽の四鴻啼3;
2016年の8月17日 午前0時ころ、宮城県仙台市太白区富田上野中4にある八坂神社
仙台市太白区は仙台市の南西部に位置する。太平洋岸の若林区から流れ込む名取川がJR東北本線の東側で青葉城方向に向かう広瀬川とそのまま西方向に向かう名取側と分岐する辺りから西側に広がる地域が太白区である。標高321mの太白山が区名の由来である。太白山は江戸時代までは独活ケ森と呼ばれていたようである。太白とは金星のことであり、金星が落ちて出来た山と云う伝説から明治時代に名付けられた富士山のような形をした小高い山である。
また、中国の長安の都にあった道教の聖地である太白峰になぞらえて命名されたとも謂われる。
広瀬川と別れ、東から西に流れた名取川がJR東北本線を潜り、更に少し西に行った川の南側には東中田3丁目地域に白塗の小さな祠が建っている八坂神社がある。八坂神社の祭神は須佐之男命である。
そこから名取川を更に西に5Kmほど遡った北側の富田字上野中地域にも八坂神社がある。4月、そこの小さな神社社殿の横に立っている桜木は満開の花が咲く。
8月17日に通過した台風7号は北海道に上陸し、ここ太白区の夜空には満月が雲間に見え隠れしている。
太白区富田上野中4の八坂神社前の道路に止まった白塗りの乗用車ニッサン・サニーから中年の女性が降り立った。女性は飛鳥光院師である。
飛鳥光院師は石の鳥居をくぐり、月明かりの二十段の石積階段を簡素な木造の拝殿に向かって昇っていく。
飛鳥師は白衣に赤い緋袴を身に着けた巫女装束姿をしている。
拝殿の前には近くの農家の人が供えたと思われる、白い紙に包まれた十本くらいの胡瓜が三宝の上にピラミッド形に重ね合わせて載せられている。
八坂神社の祭神である須佐之男命は一時は乱暴者だった。ある時、神々から逃れるのに困った命は胡瓜の蔦の中に隠れたと云う伝承がある神様である。
拝殿の背後には朱塗の柵に囲まれて本殿が月光に照らされている。
「お召しを受け、参上いたしましたが、何か・・・?」と飛鳥師は拝殿で、本殿に向かって問いかけた。
「始めに、お前の疑問に答えておこう。」
「お前にこの役目を与える理由は二つある。ひとつはお前が毎夜、回峰修業をしている鞍馬山に住む天狗がお前に憑いておること。儂の言葉がお前に聞こえるのはこの天狗のおかげじゃ。」
「そうですか・・・。」
「もう一つは、お前は毎夜、回峰修行で参拝しておる貴船神社の大神様の息吹を纏っている為じゃ。」
「貴船の大神様の息吹とは何でしょうか?」
「貴船は高天原の神々がこの地球に降臨する時に乗ってくる鳥船の事じゃ。その船を鎮る神が貴船大神様じゃ。貴船大神様の息吹とは新たなる神の降臨のお手伝いをすると云う事じゃ。」
「この私にその新たなる神の降臨のお手伝いを施よと仰せですか?」
「そうじゃ。そのために本宮山の山土をお前に持って来させたのじゃ。」
「はい。その山土は車の中に持ってきておりますが、それをどのように処置すればよろしいのでしょうか?」
「この地にある『太白山』の頂上に登れ。そこに貴船大神様を祀る祠がある。その祠の前に本宮山の土を盛り、『封禅の儀式』と『泰山府君祭』を行え。時刻は明日8月18日の正午から『封禅の儀式』始めるから、午前中に盛土を完成させておけ。『太白山』は地面に盛土をしたような形の山じゃ。そこに神の御意志があるのじゃ。『太白山』の形を確認してから山に向かえ。祠の前の土盛は『太白山』の形になる様、また真上から視た形は円くなる様にいたせ。それから、ロウ石は持って来たであろうな。」との声が社祠の方から来るように飛鳥師には聞こえた。
「はい。ご指示に従い、ロウ石を持ってきております。」
「明日、『封禅の儀式』の時にそのロウ石を使うから忘れるなよ。」
「はい、判りました。ところで、『封禅の儀式』とは如何なることでしょうか?」
「『封』は盛土を檀となして天を祀ることじゃ。『禅』は山川を祓い清め、地を祀ることじゃ。古来、中国では帝王が泰山に登り、この儀式を行い、天に感謝を捧げたのじゃ。」
「この地にある『太白山』でその儀式を行う意味は何でしょうか?」
「この日本国は世界の地理の縮図じゃ。本州はユーラシア大陸を顕す雛型じゃ。そして、この地にある『太白山』は中国山東省にある『泰山』の位置に相当する。」
「泰山府君祭の泰山ですか・・・。」
「そうじゃ。まさしく、お前が明日行う『封禅の儀式』とは『泰山府君祭』を行うための前祭となる。泰山府君祭のやり方は知っておろうが。」
「はい。土御門本庁の指導で手法を会得はしておりますが、実際に行ったことはありません。また、『封禅の儀式』の行い方は存じません。」
「心配いたすな。この儂が導いてやる。」
「失礼ですが、あなた様は須佐之男命様でしょうか?」
「あっはっはっは。儂は大本の王仁三郎じゃ。須佐之男命の代理じゃ。」
「左様でございましたか。失礼をいたしました。それで、何方のお命を甦らせるのでしょうか?」
「『スーサの王』であったアレキサンダー大王じゃ。そして、降臨する地は咸陽の都じゃ。」
「咸陽とは古代中国の秦国の首都であった地でしょうか?」
「その通りじゃ。かつては長安、現在では西安市とも呼ばれて居る。秦とは英語でCHINと書く。現在の中国の英語表記CHINAの語源だ。」
「そして、咸陽の都のどの場所に祈りを奉げればよろしいのでしょう。」
「決まっておろうが。始皇帝稜じゃ。儂がお前の魂をそこに導くから心配はいらん。」
「畏まりました。しかしながら、泰山府君祭では蘇る『スーサの王』の身代わりとなる人物が必要ですが・・・。」
「心配はいらぬ。すでに見つけてある。」
咸陽の四鴻啼4; 神霊研究家殺人事件
2016年の8月18日、午後1時30分ころ千葉県成田市台方字稜山一番地の麻賀多神社
麻賀多神社は『ひつき神示』を降ろされた『天之日月神』を祀る末社『天之日津久神社』があることで知られている。
由諸は、日本武尊が東征の時、稚日霊命の御霊鏡を大木に掛け、7つの玉を大木の根元に埋めて五穀豊穣を祈願したと云う。その後、この地の国造が玉を掘り出して真賀多真の大神として伊勢外宮の親神である稚産霊命を祀ったのが麻賀多神社の始まりである。推古天皇16年(608年)に改めて大きな宮祠を建て、真賀多真の大神から真賀多の大神と改名した。真賀の文字が麻賀に変わったのは、神社周辺が麻の産地であった事によるらしい。
東京千駄ヶ谷で八幡神社の留守神主をしていた岡本天明をはじめとした神霊研究家たちが『扶?(フーチ)』と呼ばれる降霊書記の実験を昭和19年4月18日に東京原宿で行った。その時は「天之日月神」と云う文字が砂盤に描かれただけであったようである。
『フーチ』は古代中国で神意を聞く方法として行われていた占い方法である。
その数日後、文献で『天之日津久神社』が麻賀多神社の境内末社として存在することを知った岡本天明は昭和19年6月10日に『天之日津久神社』を参拝した。
岡本天明が参拝後に社務所で休憩している時、右手が痙攣して激痛が走った。岡本天明は画家でもあったので画仙紙と矢立を持ち歩く習慣があった。そこで矢立の筆を画仙紙に充てると自動書記が始まったと云う。
その時の書記が『二二八八れ十し二ほん八れ・・・・・』(富士は晴れたし日本晴れ)であった。
その後、約16年間にわたり岡本天明を媒体に自動書記が降ろされた。それが『日月神示』である。その内容は、これから世界に起こる天変地異をはじめとして、様々な出来事の発生が示されているという。
なお、岡本天明は大本教が買収した大正日日新聞社に勤めていたころに大本教と関係し、出口王仁三郎の口述筆記などもしていたようである。しかし、1921年(大正10年)、国家警察による第一次大本教弾圧事件の時に失職して大本教から離れている。
千葉県の九十九里海岸にある白子町で行われるテニス大会に出場する友人・松本憲一を応援するため、自家用車ホンダバモスで白子町に向かう途中の大和太郎が麻賀多神社に立ち寄った。
麻賀多神が『ひつき神示』の最初に下ろされた場所であることから、太郎は一度訪問したいと思っていた。ようやくその機会が訪れての訪問である。
麻賀多神社の周辺には人家は少なく、農家が所々にあるだけで雑木林に囲まれている閑静な地域である。
「あれ、何か事件でもあったのかな?」と国道464号線を走ってきた大和太郎が思った。
道路沿いにある神社の駐車場にパトカーなどの警察車両が6、7台停まっている。
太郎は駐車場の空いている場所にバモスを停め、車から出た。
神社の駐車場と通りを挟んで向かい側の丘の上にある超林寺に向かう坂道の近くで頭部から血を流している男性の死体が見つかったらしい、と野次馬の一人が太郎の質問に答えて教えた。
超林寺は1478年の創建で正式名は麻賀多山真龍院超林寺と云う。
1408年紀銘の銅製雲板が寺宝とされている。雲板とは禅宗の寺院で、合図する際に叩いて音を出す道具であり、外形が雲の形をしている小さな板である。京都で没した平貞胤の供養碑(1351年紀銘)がある。平貞胤は千葉氏12代当主であった。
国道464号から参道への入り口角に『曹洞宗 真龍山 超林寺』と彫られた石柱が立っており、その横に成田市教育委員会が立て看板があり『平貞胤供養碑(成田市指定有形文化財) ・・・ 昭和初期の調査では 平貞胤 □□霊□也 感応二年・・・と刻まれていた・・・』などと書かれている。
「まあ、取り合えず麻賀多神社にお参りしよう。」と太郎は思い、石の鳥居をくぐった。
手水舎で手と口を清め、十三段の石段を上がると左側に無人の社務所が踊り場に出た。社務所の前を通り、さらに15段の石段を上がり拝殿に着いた。太郎は拝殿に参拝した。拝殿の奥には朱塗の本殿が鎮座している。その後、本殿の左奥にある推古天皇時代に植えられたとされる天然記念物の大杉を見に行った。
麻賀多神社は神示に興味のある人にはよく知られた神社であるが一般の人々にはそれほど知られていないためか、太郎の他に境内にいるのは近隣に住むと思われる母と幼子の二人以外に人影は見られない。
「大きいな。幹周りが8m。高さ40mか・・・。(京都の)鞍馬山の大杉林には天狗が住むと謂われているが、この大杉には麻賀多天狗が宿るのかな?」と大杉の解説板を読みながら取り留めもない事を思いながら、太郎は大杉を見上げた。白茶けた大杉の樹皮がその過ぎてきた年代を感じさせる。その時、サワサワと大杉の周辺にある樹木が風になびいた。
「はっはあ。麻賀多天狗でも飛んできたのかな?まあ、そう云うことにしておこうか。」と太郎は思った。
その後、本殿後方にある摂社『天日津久神社』に参拝し、更に神社境内の東側はずれにある『大権現社』にも太郎は参拝した。
その後、無人の社務所に戻り、前棚に置かれている参拝者記帳ノートを開いた。
「おお、川越市からも来られているのか・・・。はて、大矢伸明と云えば神霊研究家と同じ名前だな。確か、『ひつき神示』に関する著書も何冊か出されていたな。大矢氏は川越市宮下町2丁目に住んでいるのか」と思いながら、『大和太郎、東松山市箭弓町』とノートにボールペンで記入し、社務所を後にした。
駐車場に戻り、バモスに乗り込もうとした時、後から声をかけられた。
「すいませんが、埼玉県の方ですか?」とバモスの熊谷ナンバーを見た中年の男性が言った。
「はい、そうですが。」と振り向いた太郎が言った。
「隣の乗用車も埼玉県のナンバーですが、その車の所有者の方とお知り合いですか?」と川越ナンバーを指差しながら中年の男性が言った。
「いいえ。知りませんが・・。」と太郎が答えた。
「そうですか。ちょっとお話を伺いたいのですが?」
「はい?」
「私は警察のものです。」と言いながら、男は千葉県警バッジが付いた身分証を示した。
「そうですか。」
「免許証を見せていただけますか?」
太郎はポケットから免許証を取り出して私服の刑事に渡した。
「大和太郎さん。埼玉県東松山市にお住まいですか・・。住所に変更はありませんね。」
「はい。」
「隣の乗用車の方のことですが・・・。」と刑事がもったいぶった言い方をした。
「何の話ですか?」
「実は、そこで大矢伸明という方が殺されていました。」
「えっつ。」と太郎は声を上げた。
「やはり、大矢さんをご存じですね。」と太郎の表情を見ながら刑事が言った。
「隣の乗用車の所有者は大矢伸明さんでしたか・・・。」と神社の記名帳を思い出して太郎が呟いた。
「すいませんが、(警察)署の方でちょっとお話を聞かせていただけますか?」
「今は急ぎますので、お断りします。」と太郎が言った。
「そう仰らずに、お願いします。」
「私はこう云うものです。」と言って太郎は名刺を差し出した。
刑事は名刺を見た。
「私立探偵さんですか。なるほど・・・。任意には応じないということですか。」と語気を強めて刑事が言った。
「これから、用事で白子町まで行きますので、何か質問があれば、後日にお電話下さい。大矢伸明さんは神霊研究家で、麻賀多神社に関する著書があるということ以外には何も知りません。申し訳ありませんが、これで失礼します。」と言って太郎はバモスに乗り込みドアーを閉めた。
刑事は太郎を睨んでいたが、何も言わなかった。
そして、刑事は神社の鳥居の方へ歩き、社務所の前の参拝者記帳ノートを開いた。
「なんだ、大矢伸明のすぐ下に大和太郎の名前と住所があるな。駐車場でも隣り合わせに駐車していた。うーん、怪しい。」
咸陽の四鴻啼5;
2016年の8月20日、午後1時ころ 埼玉県東松山市の大和探偵事務所
大和太郎が卓上電話で話している。
「事件当日にお話ししたように、大矢伸明さんは神霊研究家で、麻賀多神社に関する著書があると云うこと以外に知っている事はありません。」
「麻賀多神社に関する著書とはどのような題名の本の事ですか?」と電話相手の長谷川刑事が訊いた。
「私の読んだ本は『解明・ひつき神示』と云う題です。」
「その本を読んで何を思いましたか?」と刑事が訊いた。
「如何と云った感想は無かったですね。」と太郎はつっけんどんに言った。
「そう言わずに、何か感想はあったでしょ?」
「大矢さんの解釈を読んだだけで、そういうふうに考えているのかと思っただけで自分の意見と比較した訳でもないので、何も感想はありません。」
「比較した訳でもない、と云うことですな。そうしますと、大和さんの『ひつき神示』に対するご意見がある訳ですね。どのようなご意見か聴かせもらえますかな?」
「いい加減にして下さい。これから依頼人のところへ行きますので、これで失礼します。」と言って太郎は電話を切った。
「ああっ、大和・・・・・。くそー、切りやがった。東松山と川越は東武東上線に乗れば20分くらいの距離だ。やはり、怪しい。大和と被害者に何か関係があるな。同じ様な時刻に台方の辺鄙なところにある麻賀多神社に居たのは何かある。」と呟いて長谷川刑事も電話を置いた。
「しつこい刑事だな。長谷川とか言ったな。3時までにアメリカ大使館に着けるかな・・・。」と思いながら太郎はいそいで外出の準備を始めた。
咸陽の四鴻啼6; 依頼
2016年の8月20日、午後3時過ぎ 東京・溜池のアメリカ大使館の応接室
大和太郎とジョージ・ハンコックの二人が話している。
「パレルモの屋敷に潜入しているナンシーから情報が入った。」とハンコックが言った。
「何か判ったのか?」と太郎が訊いた。
※ナンシー・イーストウッド中尉;
アメリカ海軍の潜入調査官。諜報員ではなく、海軍に関係する事件解決にむけ、現地に潜入して情報収集活動を行う海軍特殊捜査官。第12話に登場した女性で、合気道の達人。
イタリア国籍のビットリオ・ルッジェーロと云う人物の邸宅へ庭師として潜入している。この邸宅は庸兵組織『春雷』の本部と思われる。CIAでは『春雷』はブラッククロスと関係する組織と考えている。その邸宅は地中海に浮かぶシシリー島の都市・パレルモにあるアラブ風の大邸宅で、邸宅内の地中海に面した場所に大桟橋も構築されている。
「ブラッククロスはC国の都市・西安で誰かを探しているらしい。」とハンコックが言った。
「シルクロードの東側の起点都市だった西安か?」
「そうだ。古くは長安と呼ばれていた都市だ。」
「どんな人物を探しているのだ?」と太郎が訊いた。
「アンゴルモアの大王らしい。」
「アンゴルモアの大王? ノストラダムスの予言に出てくる奴か?」
「どうも、そうらしい。1999年、7番目の月に誕生した人物だ。」
「男か?女か?」
「さて、それは判っていないらしい。」
「それで、私への依頼内容は?」と太郎が訊いた。
「西安へ行ってもらいたい。アメリカ人はC国の防諜機関にマークされるので、日本人の君に行ってもらいたい。」
「何をすればいのかな?」
「CIAの協力者がいるからその人物と接触してほしい。名前は張林と云う。接触方法は後で言うが、これが張林の顔写真だ。彼は中国語の他に英語と日本語が喋れるが英語は使わないようにしてほしい。」と言いながらハンコックは太郎に写真を渡した。
「C国人か?」
「そうだとも言えるし、そうではないとも言える。詮索はしないでほしい。」
「判った。それから如何する?」
「ブラッククロス配下のC国人の動きを探ってほしい。そして、さがしているのが誰なのかが判ればもっといい。動き方についてはある程度は張林に話してあるが、太郎の判断で行動形態を変えても構わない。それは太郎に任せる。」
「そのブラッククロス配下のC国人のことは判っているのか?」
「数人いるらしいが、イスラム教徒らしいと云う事しか判っていない。人物の特定には至っていないが彼らが動きまわりそうな場所は想定してある。その場所は張林に訊いてくれ。」
「西安に関する資料は準備出来ているのか?」
「この鞄の中に準備してある。C国語版の地図と名所・旧跡の資料。それからホテルやレストランの資料などが入っているから事前に読んでおいてくれ。日本語に翻訳してあるから読めるだろ。それから、西安郊外の始皇帝陵墓や兵馬俑などを含むシルクロード観光ツアー客の一員として行ってもらうが、西安に滞在する日程は7泊8日になる。ツアーのスケジュールも資料にあるが、別行動が出来るように君の替え玉となる人物を用意してある。君のパスポートの名儀は株式会社トライビジネスの営業係長で大城三郎です。トライビジネスと云うのは東京赤坂の雑居ビルにあるカウンセリング会社です。実際に事務所はありますから安心してください。本籍地は京都市になっています。また、大和太郎である君は休暇を取って海外旅行をしていることになっている。大城三郎と反射的に名乗れるように練習しておいてください。なお、張林には君の名前は大城三郎と伝えてあるが、もちろん君の本名も知っている。しかし、大和太郎とは名乗らないようにくれぐれも注意をお願いします。」
「7日間で調査するのか?短いな・・・。」
「張林とうまく動いてくれ。期待している。」
「日を改めて何回か西安へ行くことはできるのか?」
「それはちょっと危険がある。C国の防諜機関にマークされる可能性が高くなるからな。」
「判った。なんとか頑張ってみる。出発は何時だ?」
「2週間後の9月5日だ。パスポートの手配は済んでいる。中国の人民元もその鞄に入っている。」
「相変わらず、CIAは手回しがいいな。」
「まあな。期待しているぞ、太郎。」
「まあ、当にしないで待っていてくれ。それから、1999年、7番目の月のことだが、ノストラダムスの時代のC国は太陰暦と使っていたから、現在の太陽暦では8月18日のグランドクロスの日にアンゴルモアの大王が生まれているはずだ。」
「ほう、よく知っているな、太郎。」
「過去の予言書に関する研究は私の趣味の一つだよ、ジョージ。」と太郎がウィンクした。
咸陽の四鴻啼7;
2016年の8月21日、午後1時ころ 埼玉県東松山市の大和探偵事務所
大和太郎が池袋の本屋で購入したC国の西安に関する旅行案内本を読んでいる。
その時、入口のドアーが開き千葉県警の長谷川刑事が入ってきた。
「刑事さん、ノックくらいしたらいかがですか?」と太郎が言った。
「それは悪かったな。俺は昔からの習慣で西洋かぶれはしてないんでな。」と長谷川が言った。
「それで、何の御用ですか?忙しいので、用件は10分くらいでお願いします。」
「昨日は何故電話を切った。」と長谷川が上から目線で言った。
「大矢伸明さんに関して話すネタは何も持っていないからからです。」
「それで、もうちょっと話してもらいたい事がある。」
「私に尋問するのですか?」と太郎が憮然として言った。
「そんな事はどうでもいい。訊いたことに答えろ。」
「はい、はい。それで。」
「殺された大矢伸明は何故に麻賀多神社ではなく、超林寺の参道で倒れていたのだ?」
「そんな事、私が知る訳はないでしょ。」
「知らない事はないだろ、お前が殺ったんだから。」
「ちょっと、待って下さい。藪から棒に容疑者扱いですか?」
「俺のやり方だ。文句あるか。」
「多いにありますね。私を怒らせて、公務執行妨害で逮捕するつもりでしょうが、職権乱用で訴えますよ。」
「おお、訴えてくれ。お前にはとことん纏わりついてやるからな。」
「もう、お引き取り下さい。さもなくば、警察庁の刑事局に電話しますよ。」
「何、刑事局。ああ、出来るものならやってみろ。」と長谷川は鼻でせせら笑うように言った。
太郎は電話帳で番号を確認しながら刑事局長補佐の半田警視長に電話を掛けた。
「はい。半田です。」
「私立探偵の大和太郎です。」
「やあ、久しぶりですね。お元気ですか?」と半田が言った。
「はい。元気です。」
「それで、今日は何か?」
「はい。千葉県警の刑事さんが私の事務所にお見えになっておられます。半田警視長とお話されたい様ですので変ります。」
「はい、長谷川刑事。どうぞ。」と太郎は言って、受話器を長谷川刑事に差し出した。
「チョと待て。お前、半田補佐を知っていたのか?」
「はい。今、電話口に出ておられます。どうぞ。」
仕方ないと云った表情で長谷川刑事は受話器を受け取り、話し始めた。
「千葉県警察本部・成田署・巡査部長の長谷川と申します。」
「長谷川さん、半田です。御苦労さまです。それで私に何か?」
「はい、先日、成田署管轄の台方で発生しました殺人事件の件ですが・・・。」
「ああ、8月18日に発生した『超林寺参道殺人事件』の事ですね。長谷川さんは特別捜査班の担当刑事ですか?」
「はい、そうです。それで、大和太郎氏が事件発生当日に現場近くに居られたので事情をお伺いしているのですが、ご協力願えないのです。半田補佐からお願いしていただければ助かるのですが・・・。」
「判りました。大和探偵と変わって頂けますか。」
「はい。しばらくお待ちください。」
長谷川刑事が太郎に受話器を差し出しながら言った。
「半田補佐が話したいそうだ。」
「やり方をしくじったか・・・。」と思いながら太郎は受話器を手にした。
「大和さん。まあ、お忙しいでしょうが、協力をお願いします。」
「いえ。あの日はたまたま現場近くの神社に参詣しただけで、被害者の大矢伸明とは全く面識はありません。その様に刑事さんにはお話しているのですが納得していただけないのです。半田警視長から私は怪しい人物では無い事をお話していただければありがたのですが・・。」
「判りました。しかし、偶然にしても事件現場にいらっしゃった訳ですから、どうです、これも何かの縁でしょうから捜査に協力していただけないでしょうかね。そうなれば、千葉県警察本部も多いに助かるのですがね。」
「えっ。半田さんまでが、そんな事を言わないでください。」
「現在、何か調査中ですか?」
「はい。某所からの依頼があったばかりですから、それほど捜査には協力はできませんが・・・。」
「依頼は1件だけですか?」
「まあ、そうです。」
「それではあらためて、警察庁から調査協力依頼をいたします。費用は必要経費の実費程度しかお出しできませんが、お願い出来ないでしょうか。」
「とんだ藪蛇になったな・・。」と太郎は思いながら、「判りました。ほかならぬ半田警視長からのご依頼ですので、お引き受けいたします。でも、先の調査を優先させますがよろしいでしょうか?」
「それで結構です。長谷川刑事ともう一度替ってもらえますか?」
「はい。長谷川です。」
「大和探偵は名探偵です。調査協力を依頼しておきましたから、事件の捜査に関して何くれとなく相談すればきっと有効な情報が得られると思いますよ。頑張ってください。」
「はい。有りがとうございます。」
「では、これで電話を切ります。」と言って半田は受話器を置いた。
「と云う事だ、大和。私に協力しろよ。」と長谷川刑事が平然と言い放った。
「判りました。それでは、殺人現場の状況を教えていただけますか?」と太郎が訊いた。
「良いだろう。遺体の状態は、右後頭部、丁度右耳の後辺りを鈍器で殴られ頭蓋骨が凹んで骨折していた。かなり強い力が働いたと思われる。もちろん出血していたが、それほど多量ではない。他の場所で殺されてから現場に運ばれてきた可能性も考えられる。殴られた後に倒れ、地面で左顔面を打ったようで、擦り傷があった。出血多量と云うよりも、たぶん頭を殴られたショックで即死だったと思われる。」
「『たぶん即死だったと思われる』とは如何いう事です。遺体の法医解剖は済んでいないのですか?」
「法医の都合で明日に実施される予定だ。」
「そうですか、他の場所で殺されて現場に運ばれて来たとすれば、麻賀多神社の駐車場に在った大矢伸明さんの自家用車に血痕はあったのですか?」
「いや、なかった。」
「と云う事は、遺体は別の車か何かで運ばれ、大矢さんの車は別の人物が運転してきた。あるいは、遺体は毛布か何かで包まれて大矢さんの自家用車に載せて運んだのかですね。」と太郎が言った。
「まあ、現場近くの他の場所には血痕はなかったから、どこから運ばれてきたと云うのが妥当だろうな。遺体のあった現場で殺されたとは考えにくい。」
「そうですか・・・。即死だったとすれば、心蔵は止まりまからそれほどの出血はない訳ですから、やはり遺体の発見場所が犯行現場と考えるのが妥当じゃないですか?」と太郎は長谷川の意見を否定した。
「まあ、法医解剖で真実は判る訳だ。」と長谷川刑事が憮然として言った。
「ところで、大矢伸明さんは超林寺を訪問し終えていたのですか?」と太郎が訊いた。
「超林寺の住職の話では大矢伸明は寺に挨拶には来ていないし、境内でも見かけなかったと云う事だ。」
「超林寺に行く前に殺されたと云う事ですか・・?」
「まあ、断定はできないが、その可能性の方が高いな。」
「大矢伸明さんは何を目的に超林寺に来たのでしょうかね・・・?」と太郎は考えるように言った。
「さあな・・・。まだ、参道で殺されたとは断定はできない。」と長谷川刑事は訪問目的には意を介していない。
咸陽の四鴻啼8;
2016年の8月23日、午後2時30分ころ 埼玉県川越市宮下町の大矢伸明邸の応接室
長谷川刑事が乗ってきた車に太郎を同乗させ、二人は川越市の大矢伸明邸を訪問した。
大和太郎と長谷川刑事が大矢伸明の妻である大矢政子と応接ソファーに座って話している。
「夫の遺体を確認した日にも刑事さんにお話ししましたが、あの日はいつもの時刻に朝食を取った後、午前9時ころに車で出かけました。私には千葉県の方へ行くとだけ申して出て行きました。特に誰かと会うと云うような事は申しておりませんでした。いつもの取材の時と同じでした。でも、あの日は出掛ける予定はなかったのですが朝食を取った後に出かけることを決めたようですわ。」と政子が言った。
「御主人の遺体や車の中にあった所持品をご確認いただいた時、デジタルカメラがなかったと云う事でしたが。」と長谷川刑事が捜査会議で確認した事と同じことを訊いた。
「はい。夫は取材に出掛ける際は必ず一眼レフのデジタルカメラを携行しておりました。自宅にあるかどうかを確認しましたが、やはり有りませんでした。」
「今まで取材された時に撮影された映像はパソコンに残っていますでしょうか?」と太郎が訊いた。
「さあ、どうでしょうか。夫のパソコンは二階の書斎にありますが、私は夫のパソコンの内容を見たことはありません。パソコンをご確認されますか?」
「はい。お願いできますか?」と太郎が言った。
「それでは、御二階へ参りましょう。」
三人は書斎に入り、机の上に置いてあるパソコンを太郎が起動した。
「パスワードを入力したいのですが、奥様はご存知ですか?」
「いいえ、知りません。」と政子が答えた。
「それでは、御主人の生年月日は何時でしょうか?」
「1969年9月10日ですわ。」
太郎が『19690910』とパスワードを入れたがパソコンは開かない。
「1969年は昭和の何年でしたかね・・・。」と太郎が考えるように言った。
「昭和44年ですわ。」と政子が即座に言った。
「S440910ですかね・・・。」と太郎は呟きながらパスワードを入力した。
「ああ、開きました。」
パソコンのデスクトップ画面にはデジカメ写真のデータフォルダーは見当たらない。
「写真データはありませんね。」と太郎が言った。
「もしかしたら、鎌倉の別宅にあるのかもしれませんわ。」
「鎌倉に家をお持ちなのですか。」
「はい。夫は執筆活動をする時は鎌倉の別宅で仕事をいたしておりました。そちらにもパソコンはあります。3階建ての小さなマンションの3階に部屋があります。」
「後日、そちらのお部屋を見せていただけますか?」
「はい、構いませんわ。そのうちに夫の物の整理に行こうと思っておりましたので。」
「明日ではいけませんか?」と長谷川刑事が慌てたように言った。
「明日ですか・・・? はい、構いませんわ。」
「それでは、あすの朝8時頃に車でお迎えに参上いたします。」と長谷川刑事が言った。
「8時ですか。普段、朝食は8時ころですので、9時以降にして頂けませんこと。朝食前に近くの川越氷川神社にお参りするのが日課ですから続けていのです。毎朝、夫と一緒にお参りしていましたので、お参りは欠かす訳にはまいりませんわ。」
「御主人が成田市に出かけられた日も、お参りされたのですか?」と太郎が訊いた。
「はい。夫と一緒にお参りいたしました。」
「その時、いつもと違った事はありませんでしたか?」と太郎が訊いた。
「さあ、別に何もありませんでしたけれど・・・。」と考えるように政子が言った。
「そうですか。何にもありませんでしたか・・・。」と太郎は残念そうに言った。
暫らく思い出すように考えていた政子が言った。
「そう云えば、毎朝挨拶する宮司さんが妙な事を仰っていましたわ。」
「妙なことですか?」
「ええ。早朝、拝殿の扉を開く時、本殿の祭檀の方から声が聞こえたそうです。」
「どのような声ですか?」
「『本日この祭檀で午の刻に祈りを捧げよ。』と2回聞こえたそうです。」
「声だけですか?」
「どうでしょうか? 私は夫より先に帰宅しましたので詳しい話は聞きませんでした。夫は宮司さんとしばらく話していた様です。」
「その宮司さんの名前は判りますか?」
「夫は親しくしていたようですが、私は顔を見知っている程度ですので、お名前までは判りません。神社で御尋ねになればよろしいのでは?」
「そうします。」
咸陽の四鴻啼9;
2016年の8月23日、午後4時ころ 埼玉県川越市宮下町の氷川神社
大矢政子と明日の約束時刻を確認した後、大矢邸から歩いて2分くらいの所にある川越氷川神社に太郎と長谷川刑事は来ていた。
川越氷川神社は1500年前の欽明天皇2年の創建と謂われている。祭神は素盞鳴尊、奇稲田姫命、大己貴命、脚摩乳命、手摩乳命である。
「私は千葉県警の刑事ですが、大矢伸明さんと親しい神職さんはいらっしゃいますか?」と社務所の受付にいる巫女に長谷川が警察バッジを見せながら言った。
「大矢伸明さんと云うのはどなたですか?」と巫女が訊いた。
「この近くにお住まいの神霊研究家の方で、5日前の朝にその宮司さんとお話をされていた方です。」と太郎が言った。
「ああ、それでしたら山田宮司です。呼んでまいりますのでお待ちください。」
山田宮司に案内されて氷川会館の応接室に3人は入った。
「大矢さんは殺されたそうですね。」と宮司が言った。
「それで、5日前の朝、大矢さんに会われた時に何を話されたかをお聞きしたいのですが。」
「あの朝は、不思議な事がありましてね。私が拝殿の扉を開けたとき、本殿の方から『汝、本日この祭檀で午の刻に正にひつぎ祝詞を宣れ。』と2回聞こえたのです。本殿の方を振り向くと、私の目の前で蝶が飛んでいました。あんな事は初めてでした。」
「どのような蝶でしたか?」と太郎が訊いた。
「武蔵嵐山にある『おおむらさきの森』で見た蝶でしたから、おおむらさきだと思います。」
「失礼ですが、宮司さんは何か霊能力をお持ちでしょうか?」と太郎が訊いた。
「いえ、そのようなものはありません。ふうつうの人間です。」
「その事を大矢さんに話したそうですね。」と長谷川刑事が言った。
「はい。大矢さんは神霊研究家ですから声の意味が判るかも知れないと思い、朝の参詣に来られるのを待っていて話してみました。」
「どのような話をされたのですか?」
「『ひつぎ祝詞』とは『ひふみ祝詞』と同じかどうかを尋ねました。」
「大矢さんの見解は、如何でしたか?」
「『ひつぎ神示』と『ひふみ神示』は同じであるように、『ひつぎ祝詞』も『ひふみ祝詞』の事であるそうです。」
「どういう事ですか?」
「『ひふみ祝詞』は47文字で構成された祝詞ですが、『ひつぎ祝詞』の『ひつぎ』は漢字では『日嗣』または『火継』と書き、物事や役目を引き継ぐことを意味するそうです。また『ひつぎ』の『ひ』は『霊魂』の『霊』を意味します。ですから、『日嗣』とは『霊嗣』です。『日嗣の神事』を執行する時は火を焚いて行うので『火継の神事』とも謂われると云う事です。そして、『ひつぎ祝詞』は『天津祝詞』の全文中の一部分の詞を指すと大矢さんは考えておられました。」
「『天津祝詞』とはどのような祝詞なのですか?」と長谷川が訊いた。
「『天津祝詞』は神々に人間界・神界の罪・穢れを清めて頂くために奏上する詞です。」
「『ひつぎ祝詞』の部分とはどのような内容なのですか?」
「『八針に取りさきて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ』とあり、その後に『ひふみ祝詞』が書かれています。すなわち『太祝詞事』とは『ひふみ祝詞』のことです。『ひふみ祝詞』の47文字音は『ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ』ですが、最後に無音の『ん』を飲み込んで48音にすれば『ヨハネ』となるとそうです。」
「48音で『ヨハネ』とはどういう事ですか? ダジャレですか?」と長谷川刑事が訊いた。
「さあ、よく判りませんが、大矢さん曰く、どうも大本教の出口王仁三郎聖師の言葉だそうです。」
「大本教ですか・・・。」と太郎が呟いた。
「ああ、その話をしたあと、大矢さんは『ああ、そういうことか・・・。』と呟かれました。そこで大矢さんとはお別れしました。」
「大矢氏は自宅に帰って行かれたわけですね。」
「たぶん、そうだと思います。」
「いろいろと聞かせていただき、有難うございました。」と太郎が言い、長谷川と共に氷川神社を辞した。
近くの駐車場に止めていた長谷川刑事の乗用車の中で太郎と長谷川刑事が話している。
「18日の殺害当日の大矢氏の足取りは車両ナンバーからMシステムを利用して判明しているのでしょ。」と太郎が言った。
「まあ、そうですが、それを知りたいですか?」
「大矢氏が麻賀多神社に到着するまでに誰かと会っていたかどうかです。」
「特に誰にも会っていない様ですよ。9時17分に川越インターで関越自動車道に入り、高速道路を乗り継いで東関東自動車道の富里インターを出たのが11時23分です。そこから20分くらいで麻賀多神社に到着できます。12時前には着いていたでしょう。遺体が発見されたのは12時30分頃でした。」と長谷川が太郎に説明した。
「その富里インターから麻賀多神社までの道路ではMシステムの監視カメラは無いのですね。」
「ありますが、大矢氏の車は写っていませんでした。」
「そうですか。大矢氏が富里インターを出るまでに、途中にある何処かのインターを出たと云う事はないですか・・・?」と太郎が訊いた。
「それは調べていないが、時間的に考えてその余裕があったかどうかだな。何が気になるのですかな?」と長谷川が訊いた。
「何故に大矢氏が再び麻賀多神社を訪問したのかです。そして、超林寺訪問の目的は何かです。」
「それが高速道路の途中下車と関係があるのですか?」
「何となく、高速道路上を居る時間が長い様な気もするのですが。時速120Kmくらいで走ったとしてですね、川越インターから富里インターまで走行距離で100Kmくらいですから、2時間も掛りますかね。」と太郎が言った。
「単に超林寺訪問が目的で、ついでに麻賀多神社に立ち寄っただけかも知れませんよ。その他に立ち寄る場所があるのですかね・・・。」と長谷川刑事が面倒くさそうに言った。
「確かに、その可能性もありますね。」と太郎は諦めたように言った。
「まあ、今日はこれくらいで。川越駅まで送ります。」と長谷川は言って、車のエンジンをスタートさせた。
咸陽の四鴻啼10;
2016年の8月24日、午後1時ころ 神奈川県鎌倉市内の大矢氏所有のマンション一室
大矢伸明が仕事場としているマンションはJR鎌倉駅から若宮大路を南方に歩き、鎌倉女子学園の角を横道に入って少し歩いた、駅から10分くらいの閑静な住宅街に建っている。近くには元鶴岡八幡宮がある。
元鶴岡八幡宮は源頼朝の先祖である源頼義が1063年に京都の石清水八幡宮の祭神を勧請し源氏の守神として建立した社祠があった場所にある。由比が浜近くにあるので由比若宮とも呼ばれることがある。1180年、源頼朝が安房(現在の千葉県)から大軍を率いて鎌倉に入った翌日に参拝した。その数日後に、頼朝は現在の鶴岡八幡宮がある丘の上に遷宮している。
祭神は応仁天皇、神功皇后、比売大神である。
3階建ての小さなマンションの駐車場に長谷川刑事は車を停め、3階の301号室に太郎たち4人は入った。長谷川刑事より若い相棒の横井刑事が同行していた。
部屋の広さは2LDKで、大矢政子の案内で書斎机が置かれている部屋に入った。
机の上にはノートパソコンが2台置かれており、それぞれのパソコンの上蓋には資料データ、作製原稿と書かれた紙が貼られている。部屋の壁側には6段の本棚が3つあり、文献などがぎっしりと詰まっている。
太郎は2台のパソコンの電源を入れ、川越の大矢邸にあったパソコンと同じパスワードを入力し、デスクトップ画面を出した。
長谷川刑事と横井刑事、大矢政子は太郎がパソコンを操作している後に立ってパソコン画面を見つめている。
作製原稿用のパソコンのデスクトップには4個のフォルダーがあり、それぞれに『超林寺』、『千葉神社』、『鎌倉幕府』、『室町幕府』の名がつけられている。
一方、資料データのパソコンのデスクトップには、『超林寺』、『千葉神社』、『鎌倉幕府』、『室町幕府』の他に『大本教』のフォルダーがある。
フォルダーの中身を確認する前に太郎は政子に質問を投げかけた。
「大矢さん、御主人から最近に研究されている事柄について何かお聞きになっていませんか?」と太郎が訊いた。
「夫とは仕事に関する話はほとんど致しません。ただ、宿泊を伴う取材旅行をするときには衣類や洗面道具など必要な品をスーツケースに詰めるのが私の役目でした。」と大矢政子が言った。
「この3カ月の間に御主人が旅行された場所を覚えておられますか?」
「はい。たしか、7月の上旬だったと思いますが、京都方面に1週間ほど出かけました。その他は関東地方の近隣県に一泊か日帰りの取材旅行が何回かありました。神奈川県、千葉県、茨城県、もちろん埼玉県もございました。」
「京都の何処を訪問したのですか?」
「それは聞いておりません。京都方面と云うだけで、大阪や滋賀県だったのかも知れませんが、私は仕事に関しては何も聞かないのが習慣でした。いつもの事ですが、出て行く時は見送りますが、帰宅する日時は取材の状況で伸びることもたびたびでしたわ。」
「東京都はなかったのですか?」
「何回かありますが、取材ではなく出版社の方との打ち合わせがほとんどだったと思います。」
「出版社とは?」
「夫は、もっぱら徳波出版社から本を出しておりました。」
「新宿にある徳波出版社ですね。」
「そうです。」
「徳波出版社の誰と話していたのかはご存じですか?」
「川北さんと云う方がしばしば自宅に来られました。他の方は存じ上げません。」
「川北さんですね。」
「はい、そうです。」
そして、太郎はパソコンのフォルダーを開け、内容を調べ始めた。
フォルダーの中のデータほとんどがデジカメで撮った写真であった。
撮影と同時に録音した大矢伸明の音声が入っている写真もあった。
書きかけの原稿は入っていない。
過去に出版した作品の原稿データは原稿ホルダーに入っているが取材時の写真データなどはない。たぶん、外付け携帯ハードディスクか個体メモリーに入れているのだろうと太郎は思ったが、今はパソコンを見ることに集中した。
「まだ、取材段階か・・・。」と太郎は思った。
「私、ちょっと出かけてまいりますが、よろしいでしょうか?」と大矢政子が言った。
「はい。これから、パソコンのデータを調べますので、特にお話しすることはないと思いますので、ご自由にお出かけください。」
「みなさん、お食事は如何なさいます?」と政子が訊いた。
「私たちにはお構いなく。昼食を抜くことには慣れていますから。」と長谷川刑事が言った。
「そうですか。では、何かありましたら私の携帯にお電話下さい。」と言って、政子は電話番号を太郎たちに伝えて出かけて行った。
2時間くらいしてから大矢政子は戻ってきた。
「お菓子を買ってきました。お茶を入れましたので、どうぞお食べください。」と言って隣の部屋のテーブルの上に日本茶とケーキ風のお菓子を置いた。
「このお菓子は『くるみっ子』と云いましてね、キャラメルにくるみを詰め込んでバターの生地で挟み込んだものです。鎌倉では人気のあるお菓子です。」
昼食を取っていないので太郎たちは喜んで席に着いてお菓子を頬張った。
「何か判りましたこと?」と政子が訊いた。
「まだ、全部を見終わっていません。もし、よろしければ、ここに持参した外付けのハードディスクにパソコンデータを記録して持ち帰りたいのですが?」と太郎が政子に訊いた。
「はい。どうぞご自由に。」
「ありがとうございます。」
咸陽の四鴻啼11;
2016年の8月25日、午前11時ころ 東京都新宿区にある徳波出版社の応接室
太郎、長谷川刑事、横井刑事と徳波出版社の川北進治郎が応接ソファに座って話している。
「大矢先生から聞いている話では、人間の魂の生まれ変り、輪廻転生についての書籍を出版したいとのことでした。」と川北が言った。
「魂の生まれ変りとは、具体的に云うと?」と長谷川刑事が訊いた。
「大矢先生は以前に『解明・ひつき神示』という本を出版されました。その本を出すために千葉県成田市にある麻賀多神社を訪問調査された時に、神社の向い側にある『麻賀多山超林寺』も訪問調査されたようです。麻賀多神社との関係性の有無を確認するのが目的だったようです。」
「それは何年前ですか?」と太郎が訊いた。
「本の出版が3年前ですから、4年前くらいじゃないでしょうか。正確には聞いておりません。」と川北が言った。
「まあ、3.4年前と云う事でしょうな・・。」と長谷川刑事が言った。
「4年前に行った『超林寺』に先日も訪問した意図は何でしょうか?」と太郎が訊いた。
「『超林寺』には1351年の建てられた平貞胤の供養碑があります。」
「千葉介の貞胤ですね。」と太郎が鎌倉の書斎のパソコンで見た名前を言った。
「千葉介と云うのは?」と横井刑事が訊いた。
「千葉介というのは安房下総国の地域を治めていた平氏の当主宗家が代々に名乗った称号ですが、下総権介の官位にあることを表現するために用いたようです。千葉は平氏が住んでいた地名です。『下総権介平朝臣貞胤』とか『千葉介貞胤』と名乗ったのです。権介と云うのはその土地に住んで運営を行う役人に与えられる官位ですが、京都には権介より高位の役人がいました。記録にある初代千葉介は平常胤です。しかし、平常胤を初代とすると貞胤は11代当主、平常将を初代とすると貞胤は13代当主になります。平常胤は頼朝が平家打倒で挙兵した時に頼った人物でもあり、以来、鎌倉幕府の御家人となり洛中警護役で京都に在住したこともあります。」と川北が説明した。
「その平常胤と平貞胤の名前が大矢伸明氏の所有しているパソコンの中に出てきたのですが、これに就いて何かご存じですか?」
「いいえ。何も聞いておりません。」
「そうですか・・。」と太郎は残念そうに言った。
「ただ、超林寺の平貞胤供養碑に彫られている文字にご興味があるようでした。」
「銘文に興味があったのですか・・・。」と太郎が言った。
「はい。この様に描かれていた碑文の読めない部分に興味があるようでした。」と川北は言いながら、碑文をメモ用紙に書いて、太郎たちに見せた。
『平貞胤 □□霊□也 観応二年辛卯四月日 当郷諸人 各々敬白』
「この□にはいる漢字が何かですか・・・。」と長谷川が言った。
「たぶん、その□の位置に書かれていた文字が、先生が今度お書きになる予定の書籍のキーワードとなるはずだったと思います。」と川北は自信あり気に言った。
「輪廻転生、生まれ変りに関係するキーワードですか・・・。」と太郎が呟いた。
長谷川刑事と横井刑事は大和太郎に大矢伸明のパソコン内容の事はあまり判らないので質問は大和太郎にまかせている。
「千葉神社や大本教に関することで大矢氏から聞いた事はありますか?」
「千葉神社の話は全く聞いておりません。『解明・ひつき神示』を出版する時に、岡本天明は太平洋戦争の開戦前には大本教に出入りしていたと云う話を大矢先生から聞きました。大本教の事は私も少しは知っていますが、今度の『輪廻転生』に関する出版の話で大本教のお話は全くなかったです。先生の原稿が上がってきた時には記載があったのかも知れませんが、事前の打ち合わせの時は全くありませんでした。だだ、以前に私どもの会社から出版した『末法思想と霊界』と云う本の中で輪廻転生に関して述べられている部分があります。オメガ教団の副教祖の方へのインタビューから輪廻転生に興味をお持ちになっていたようで、いろいろと調査・研究されていたそうです。」と川北が言った。
「その『末法思想と霊界』はいつ頃の出版ですか?」と太郎が訊いた。
「2012年10月の出版ですから4年前ですね。」
「そうですか。私からの質問は以上です。」と太郎が言った。
「『輪廻転生』に関する出版の話が持ち上がったのはいつ頃ですか?」と長谷川が川北に訊いた。
「ほぼ一年前の8月でした。京都の大文字焼を見てこられた直後でしたので8月の20日ころでしたかね。その時には、かなり研究は進んでいたようですが、詳細はお話しいただけませんでした。先生はいつもそうです。原稿が上がって来て初めていろいろな話をして頂けるのが先生の出版パターンです。」
「研究調査の時に何かトラブルでもあった様な話はありましたか?」
「いいえ。その様な話はありません。大矢先生は強引に調査することはなさらない方で、いままでの取材対象の方々からの評判はすこぶる良かったです。」
その後、川北は『解明・ひつき神示』出版の時の苦労話などを披露したが、特に問題となるような話はなかった。
咸陽の四鴻啼12;
2016年の8月26日、午前10時ころ 東松山駅前の大和探偵事務所
太郎は9月5日のC国へ向けての出発に備えて、いろいろな知識の準備をしていた。
「西安市という都市は秦王朝の首府だった町で城壁に囲まれているようだが、その城壁は唐時代に造られたものを基礎にして明王朝に構築されたのか。秦王朝の時代には咸陽と呼ばれ、漢王朝の時以降は長安だった。そして、シルクロードの東の起点都市であるのか。西の起点都市はローマかイスタンブール・・・。ペルシア王朝の時代まで遡ると首都スーサも起点と謂えるのか。スーサは現在のイランの都市シューシュダナ。海路はエジプトのアレキサンドリアを起点にして紅海を通ってインド洋に入り、シンガポールを経て華南の広州に上陸して陸路で長安に到着か。西安郊外には秦の始皇帝の地下陵墓や兵馬俑の発掘展示場があるのか。司馬遷の書いた『史記』によると始皇帝地下陵墓の天井には星空が描かれ、地面には水銀の川や海が作られていたようだな。・・・・」
そして、事務机に置いてある携帯電話が鳴った。長谷川刑事からである。
「はい。大和です。」
「千葉県警の長谷川です。きのう持ち帰ったパソコンデータから何か判りましたか?」
「ああ、すいません。現在、別件の依頼を処理していますので、午後になってから調査を始めます。夕方にもう一度お電話下さい。」
「そうですか。よろしく。」と不満そうに言って長谷川は電話を切った。
「全く、長谷川刑事はしつっこい人間だな・・・。まあ、それが刑事と云うものかな。」と太郎は思いながらC国関係の資料を読み続けた。
咸陽の四鴻啼13;
2016年の8月26日、午後1時ころ 東松山駅前の大和探偵事務所
「C国へ旅立つまでに大矢氏の『輪廻転生』の詳細を掴まないとな。まあ、それと大矢氏殺人の関係があるのかどうかをはっきりさせられればいいのだが。しかし、頭部を鈍器で殴られて死亡したと思われる大矢氏だが、凶器となった鈍器は現場からは見つかっていない。他の場所で殺されて超林寺まで運ばれたと考えれば、死亡推定時刻が8月16日の午前10時30分ころ12時30分までの間。しかし、麻賀多神社付近で殺されたか?大矢氏が麻賀多神社に10時30分以前に到着した可能性はどうか? 東関東自動車道の富里インターを出たのが11時23分。そこから20分くらいで麻賀多神社に到着できるから、それは無いか・・。しかし、大矢氏の車を運転していたのが犯人だったとすれば・・。高速道路上で殺されたことになる。長谷川刑事に電話して、Mシステムの写真に写っている運転手の顔が大矢氏かどうか確かめてみるか。もう一点、麻賀多神社の参拝者記帳ノートに書かれていた文字が大矢氏の筆跡であるのかどうかも確かめる必要があるな。」
太郎は、長谷川刑事の携帯に電話した。
「富里インターを出る時は日よけのサンバイザーが倒されており、運転手の顔はサンバイザーの陰になって確認できていません。」
「夏の午前11時20分頃と云えば、太陽は天頂付近にあるからサンバイザーは必要ないですよね。」
「その通りです。」
「あと、麻賀多神社の参拝者記帳ノートに書かれている大矢氏の名前などの筆跡鑑定はされましたか?」
「いや、まだしていません。鑑識課に調べさせます。」
「お願いします。」と言って太郎は電話を切った。
2016年の8月26日、午後3時ころ 東松山駅前の大和探偵事務所
鎌倉からハードディスクに記録して持ち帰った大矢氏のパソコン内に会った『超林寺』、『千葉神社』、『鎌倉幕府』、『室町幕府』、『大本教』のフォルダー内のデータを太郎は調べている。
「やはり、『輪廻転生』の人物は、千葉常胤の生まれ変わりの千葉貞胤だな。超林寺の碑文
『平貞胤 □□霊□也 観応二年辛卯四月日 当郷諸人 各々敬白』にある『□□霊□也』は『常胤霊是也』と大矢氏は判断したに違いない。千葉常胤は源頼朝を助けて鎌倉幕府創建を実現させたのち京都で朝廷の警護を務めた。また千葉貞胤は南北朝時代に南朝が敗北すると足利幕府の北朝に寄り添い京都と下総を守護した。」と太郎は思った。
「そして、千葉氏の守護神を祀る千葉神社。祭神は夜空の中心にある北極星と北斗七星の神霊とされる妙見神こと天之御中主大神。千葉神社の神紋は『九曜紋』。大本教の神紋は『九曜紋』から『十曜紋』に変わった。しかし、『十曜紋』と麻賀多神社が関係するのかな・・・? 麻賀多神社で『日月神示』を自動書記した岡本天明は大本教に出入りしていて鎮魂帰神法や扶?(フーチ)神託実験ができた。」
「大矢氏は京都方面に一週間旅行した。それは大本教本部がある綾部や亀岡を訪れる為だろう。大本教、それは出口王仁三郎の活動による発展があった。出口王仁三郎の活動を調べる必要があるな・・・。京都の藤原教授の助けを借りるとするか・・・。」
咸陽の四鴻啼14;
2016年の8月27日、午後3時ころ 京都市にあるD大学神学部・藤原研究室
大和太郎と藤原大造、鞍地大悟の3人が会議テーブル上のパソコンを囲んで話している。
パソコン画面には太郎が持参した大矢伸明のパソコンデータが映し出されている。
鞍地大悟は昨年に博士号を取得し、今年の4月からD大学神学部の准教授になっている。
超林寺の碑文の『平貞胤 □□霊□也 観応二年辛卯四月日 当郷諸人 各々敬白』にある『□□霊□也』は『常胤霊是也』と判断したに違いないと考えた事を太郎は説明した。
「千葉貞胤が千葉常胤の生まれ変わりとしても、大本教と千葉常胤や千葉貞胤が関係することはないですよ、大和君。千葉氏が洛中の警護をしたのは鎌倉時代から南北朝時代です。大本教は明治時代の創建です。」と藤原教授が言った。
「それは判っていますが、千葉氏の守護神社である千葉神社の裏神紋は九曜紋あるいは十曜紋と呼ばれる紋章ですが、大本教の神紋である十曜紋と同じなのですから、千葉氏と大本教には何か繋がりがあるのではないかと考えたのですが・・。」
著者注記;
十曜紋とは中心に大きな丸が描かれ、その丸の外周辺に九個の小さな丸が等配分されて描かれている紋章である。いずれの十曜紋も丸は赤く塗られている。
中心の大きな丸は太陽を表し、周辺の小さな丸は月と8つの惑星とするのが大本教、月と北斗七星と北極星とするのが妙見神を祀る千葉神社である。
「なるほど、そう云う事ですか。大本教に関しては鞍地君に説明してもらいましょう。」
「はい、お任せ下さい。何から話しましょうかね・・。」と鞍地准教授が考えるように言った。
「この前も聞きましたが、あらためて大本教の九曜紋の話から始めてください。」と教授が言った。
「大本教の神紋は京都綾部藩の藩主であった九鬼家の家紋である九曜紋を創立時は採用していました。この九曜紋は中心の大きな丸の周辺の小さな丸は8個です。しかし、明治34年の祭礼の時に十曜紋に変える神勅がおりた。小さな丸を1個増やした意味は詳しく語られていない。そして、この時に九州大隅半島の島津家の家紋と似ている丸の中に十の字を描いた裏神紋を定めました。島津家の家紋は外の円に十の字が触れていますが、大本教の裏神紋では離れています。この裏神紋の意味が解釈出来れば、十曜紋の意味も解けるはずです。今、私が研究しているテーマがこの裏神紋の意味解釈です。」と鞍地准教授が言った。
「その意味は判っているのですか?」と太郎が訊いた。
「いいえ、まだ判明していません。」
「大和君は何故これらのデータが神霊研究家の大矢氏の殺人に関係があると思っているのですか?」と藤原教授が訊いた。
「大矢氏の遺体が発見された現場から彼のデジタルカメラが紛失しているのです。犯人が持ち去ったと考えると、犯人にとって観られると困ることが写っていたと考えられます。大矢氏は殺害当日に千葉神社に立ち寄り誰かと会うことができた可能性もあるのですが、警察のMシステムには映っていません。あるいは高速道路のインターを出てから殺害現場に到着するまでの20分間に誰かと会っていた可能性も考えられるのです。ですから、大矢氏が追いかけていた『輪廻転生・魂の生まれ変り』と殺人事件が関係あるはずと思ったのです。ある意味直感なのですが・・・。」
と太郎が言った。
「なるほど、大矢氏は。千葉貞胤がご先祖の千葉常胤の生まれ変わりと考えて、その千葉県成田市の超林寺を再訪していたのですか。」と藤原教授が言った。
「超林寺ではなく、麻賀多神社を再訪するのが目的だったかも知れません。」と太郎が言った。
「『魂の生まれ変り』なら、大本教の出口王仁三郎も関係しますね。」と鞍地が言った。
「如何ことですか?」
「素盞鳴尊です。王仁三郎は亀岡の天恩郷にオリオン星座を地に映す月宮殿と呼ぶ神殿を建てました。また、月宮殿は月の面を表す神殿でもあるとも言っています。月面の隈を月宮殿の宝座の設計図に移写したと王仁三郎は述べています。オリオンはアルテミスに矢で射殺された剣を持つ猟師。あるいはアルテミスの放ったサソリの毒で死んだとも謂われています。また、素盞鳴尊は乱暴の為、地下の根の国、すなわち黄泉の国に追放されました。しかし、出口王仁三郎は素盞鳴尊が地上に復活する時のために大正時代に中国大陸に渡り、ジンギス・ハーンを名乗って馬賊と協力して大モンゴル帝国の再建を目指して活動しました。失敗しましたが、エルサレムを目指していたとも謂われています。」
「素盞鳴尊の黄泉返り、復活ですか・・・。」と太郎が呟いた。
「もし、それが実現するとすれば、『魂の生まれ変り』があると云う事です。大矢氏はそれを考えていたのではないでしょうか?」
「ほんとうに、その様な事が実現するのですか?」と太郎は呟いた。
「王仁三郎は信じていたようですね。王仁三郎が素盞鳴尊に扮して月の絵の前に立っている写真があります。また月宮殿は上空から見ると十字形をしていました。」と鞍地が言った。
「しかし、素盞鳴尊の復活が、大矢氏殺害と如何繋がるのですかね・・・?」と藤原大造が言った。
咸陽の四鴻啼15;
2016年の9月5日、午後2時ころ 成田空港
その後、大矢氏殺害の証拠が見つからないまま、太郎がC国へ出発する日を迎えていた。
一方、千葉県警本部内に設置された『神霊研究家殺人事件捜査本部』の捜査員たちは大矢伸明の殺害当日の足取りを調査するため、千葉県内の高速道路インター付近の路上が映っている監視カメラの記録映像を軒並み調査していたが、まだ、是と云った成果は現われていなかった。
C国行きの搭乗手続きは大和太郎のパスポートで行い、案内に従って太郎は中型のジェット航空機に乗り込んだ。大城三郎の偽造パスポートは上着のポケットに入っている。
C国ツアーの旅行客は8名で、東京にある京浜旅行社が企画し、中国人ガイドが待っている西安咸陽国際空港ロビーで合流して観光案内することになっている。
ツアーの旅行客はエコノミークラスに座っている。
ジョージ・ハンコックの指示に従って、塔乗ゲートを入ったところで縞のビジネススーツを着た大和太郎を名乗る男と会い、男の指示で航空機の塔乗券を交換し、太郎はビジネスクラスに座った。そして、男はエコノミークラスの席に座った。
男が手にしている塔乗券には大和太郎の名前が書かれている。大和太郎を名乗る男の手には大城三郎の名前が書かれた塔乗券がある。男のポケットには2冊のパスポートがある。
「何故に塔乗券の交換が必要なのだろう? 最初から個人旅行の大和太郎としておけばよかったのに・・。何故に俺をツアー客の一員で旅行させたのかな・・? 旅行直前になって計画変更とはな・・・。何かあったか・・・? 俺の身代わりの男が大城三郎で大和太郎を名乗ってツアーに参加する訳か・・? パスポートは大和太郎の名前が入っているのだろうか・・。CIAの事だから偽造パスポートを持っているのだろう。ハンコックは何を考えているのだろう・・? すでにC国の防諜機関員が監視活動でもしていてそれに対処するためか・・・。よく判らないな・・。」と太郎は偽名の意味と自分の身の回りの状況を推理していた。
離陸前に太郎の隣に座っている中年女性が声を掛けてきた。
「お仕事でC国を訪問されるのですか?」
「西安市の観光が目的です。あなたは仕事ですか?」と太郎が訊いた。
「はい。中国の学生さんや社会人への講演が目的です。」と女性が言った。
「何の講演されるのですか?」
「版画や壁画の技術的変遷と日本と中国の絵画に関する歴史的関係を考察することです。」
「それは芸術的なお話ですか、それとも技術的なお話ですか?」
「芸術といえば芸術ですが、歴史的背景と芸術と技術の関係を考察する内容です。」
「歴史的背景とは・・?」
「武器の発達と芸術の発展は係わりがあると云うことですわ。」
「面白そうなお話ですね。」
「ご興味がお有りですか?」
「いえ、講演内容に興味と云うよりも、中国の考古学が関係していそうなので・・。」
「考古学にご興味がおありですか?」
「ええ、大学時代に日本の考古学と宗教の関係を研究したことがあるものですか。」
「考古学と宗教の関係ですか・・。」
「ええ、ミッション系大学の神学部を卒業しています。」
「神学部と云うとキリスト教ですか?」
「まあ、そうですがクリスチャンではありません。」
そこまで話したところで機長からのシートベルト着用のアナウンスが流れ、二人の会話は終了し、ジェット機は動き出した。
咸陽の四鴻啼16;
2016年の9月5日、午後6時ころ 西安咸陽国際空港
成田から西安までの飛行時間は直行便で約5時間である。
中国と日本の時差は1時間であるから、成田国際空港を午後2時15分に出発した航空機は西安咸陽国際空港には現地時間で午後6時10分に到着した。
この時期の西安での日没は午後6時ころであるので、空港周辺は夕焼け空であった。
税関で入国検査を終え、太郎は到着口ゲートで待っていた張林の出迎えを受けた。
「大城三郎です。」と太郎が右手を差し出した。
「張林です。よろしく。」と言いながら太郎と握手した。
咸陽の四鴻啼17;
2016年の9月5日、午後7時ころ 西安市内のホテル『西安城大酒店』
空港からタクシーに乗り、西安市内のホテルに到着したのが午後7時頃であった。
中国語ではホテルの事を酒店と書く。また、酒家と書くと料理屋とか居酒屋を意味する。
張林は『西安城大酒店』と云うホテルの3階のツインルームを予約していた。部屋の窓からは西安市のシンボルである『西安鍾楼』が見える。『西安鍾楼』は明朝初期の1384年に建築され、1582年に現在地に移築された。煉瓦造りの土台の上に日本の城の本丸をイメージさせる瓦屋根の中国風木造建築物である。外観は3階建てに見えるが、内部は2階建てである。
夕食に出かける前に、二人は明日の行動計画について打ち合わせをしている。
「明日の正午前に一つ目のイスラム寺院・化覚巷清真大寺に行きます。そこのモスクで、17歳と思われる若者を見つけたいと思います。男女の区別はつけません。」と張林が言った。
「午前中から動けば2件くらいのイスラム寺院に行けるのではないですか?」
「回教徒の礼拝は日の出前、そして昼過ぎ、日没前、日没後、寝る前の5回と決まっています。また、時間は5分から10分くらいです。日の出、正午、日の入り時は礼拝しません。礼拝はなるべく多くの人々が同時に行うのが良いとされています。ですから、寺院での礼拝はほとんどが昼過ぎになりますが日没前にも行うようです。礼拝は寺院の敷地内にある礼拝殿、すなわちモスクで行われます。明後日は大学習巷清真寺に行きます。」
「そうでしたか。ところで、張さんはその寺院を事前に下見したのですか?」
「場所は確認していますが、建物の内部は見ていません。C国の防諜機関にマークされる危険性を避けました。イスラム寺院と云っても中近東の国々にあるようなモスク建築ではありません。建物は仏教のお寺に似ています。」
「目星を着けた若者の詳細はどのように調べるつもりですか?」と太郎が訊いた。
「この鞄の隠しカメラを使って姿を撮影します。そして、大城さんが帰国した後に私が調査します。寺院に行って、そのあとすぐに目を付けた人物を追跡するのは危険です。」
「具体的にはどのように動いて、どのように調べるつもりですか?」
「調べ方は諜報機関の得意技です。人物と背景の合成写真を作り、その写真を使って、寺院のイスラム教関係者から氏名や住所を確認します。生年月日はその近隣住民などから聞き出します。」
「私の役目はブラッククロスの関係者を見つけ、特定することだが、彼らの動き回りそうな場所は何処なのかを知りたい。」と太郎が言った。
「この地図を見てください。」と言いながら張林が鞄から西安市内の地図を取り出した。
「この印をつけてある6か所をチェックしてください。あす、この場所に案内します。」
「先ほどの二つの寺院はこの6ケ所の何処なのかな?」
「此処と、此処です。」と張林は言いながら地図上の2か所を指差した。
「残りの4か所はどのような場所ですか?」
「回族街と呼ばれる場所にある食堂や物品販売店です。」
「何故にそこを選んだのですか?」
「イスラム教徒の若者たちがよく行く場所です。」
「そうですか。咸陽市へはいつ行きますか?」
「明日、明後日に何もなければ、3日後の金曜日にもう一度イスラム寺院に行きましょう。その後に咸陽宮、阿房宮の遺跡を観に行きましょう。」と張林が言った。
「女性の回教徒を探すのはどうするのですか?」
「化覚巷清真大寺の近くなどに女性用のモスクがあります。別の日にそこに行ってみます。」
咸陽の四鴻啼18;
2016年の9月6日、午前11時30分ころ 西安市内のイスラム教寺院『化覚巷清真大寺』
化覚巷清真大寺の創建は唐の時代の742年である。現在の建物は明朝時代のものである。
中近東にあるモスクのようなドームはない。中国風の寺院建築の形をしているが、本殿内部の礼拝堂や別の場所にある沐浴場などはイスラム教のものである。
太郎と張林は入口で参拝券を購入し、寺院の敷地内に入って行った。
観光者を装っているので写真は自由に取れる。本殿の前には白い円筒形をしたイスラム帽子をかぶった初老男性の番人が椅子に座っていて、観光客は内部に入れない。イスラム教徒しかモスクには入れないようである。
太郎たちは正午過ぎまで他の建物を見学しながらイスラム教徒の若者を探したが、ほとんどが観光客であった。
正午前からイスラム教徒の男性たちが本殿の中に入って行く。
張林は本殿に向かってくるイスラム帽子を被った若者の写真を撮っている。
一方、太郎は周辺に気を配って、ブラッククロスらしき人物がいないかどうかを見張っていたがそれらしき人物は発見できない。
本殿内にある礼拝堂から礼拝の声が聞こえている。
十分くらい過ぎると、礼拝を終えた人々が本殿から出てきて帰って行った。
張林が番人の老人と中国語で何か話しているが、太郎は少し離れた所からその状況を眺めている。
そして、張林が本殿入口前から戻ってきたので二人は寺院の出口に向かって歩きはじめた。
「番人と何を話していたのですか?」と太郎が張林に訊いた。
「この寺院に来るイスラム教徒の名簿があるのかどうかを訊ねたのです。」
「それで?」
「寺院の事務所には住所録の名簿があるそうですが、個人情報で閲覧は出来ないそうです。政府の役人ならば閲覧できるそうですから、何か手だてを考えます。ひと月ほど前に役人が来て閲覧して行ったようです。」
「ひと月前に役人が閲覧したのですか・・・。」と太郎が不思議そうに言った。
「この時期にわざわざですね・・・。本当の役人だったかどうかですね・・・。」
「ブラッククロスの関係者と云う事も考えられますかね。」
「と云うことは、もうこの周辺にはブラッククロスは現れないかもしれないですね。」
「いえ、そうとは断言できません。目星をつけたイスラム教徒の若者を尾行していることも考えられます。」
「そうですね。注意します。」と張林が言った。
「この寺院での日没前の礼拝はあるのですか?」
「番人の話では今月は午後5時過ぎからの実施だそうです。その時刻にもう一度来ましょう。」と張林が言った。
二人は、寺院の近くにある回民街(イスラム人街)と呼ばれるイスラム教徒が食べる物や衣服、土産物を売っている商店街を視察した後、一度ホテルに戻ることにした。
咸陽の四鴻啼19;
2016年の9月7日、午前11時30分ころ 西安市内のイスラム教寺院『大学習巷清真寺』
昨日の夕刻5時に行った『化覚巷清真大寺』では新しい人物は見つけられなかった。
今日は『大学習巷清真寺』を訪問していた。
この寺院も『化覚巷清真大寺』と同じように寺院敷地内にいくつもの建築物があり、礼拝堂は本殿内にある。創建も唐の時代の705年である。
張林は数名の若者の写真を撮ったが、太郎はブラッククロスと思われる人物を見かけることはなかった。
咸陽の四鴻啼20;
2016年の9月7日、午後2時ころ 西安市内のホテル『西安城大酒店』
ホテルに戻った太郎と張林は遅い昼食をホテル内のレストランで取っている。
「先ほどフロントのクラークから聞いたのですが、酒金橋という地域にドーム型の礼拝堂を有する『清真西寺』というイスラム寺院があるそうです。そこには女性用のモスクも敷設されていると云う事でした。」と張林が言った。
「明日はそこへ行ってみますか?」
「ええ。そうしようかと思います。」
「今日の夕刻はもう一度『大学習巷清真寺』へ行って、その後は回民街を見学したいのですが、案内してくれますか。」と太郎が張林に言った。
「いいですよ。息抜きも必要ですからね。」
咸陽の四鴻啼21;
2016年の9月7日、午後7時ころ 回民街(イスラム人街)
日没前の『大学習巷清真寺』での礼拝に来た若者二人の写真撮影はしたが、ブラッククロスの動きは確認できなかった。
張林と太郎は回民街にある『劉麺家』と云う名の食堂に入り「びやんびゃん麺」を食べている。
その時、店内に入ってきた中国人と思しき若い男に向かって店主が中国語で大声を浴びせた。若者はやや古びたような薄汚れている衣服を身にまとい、ひげも剃っていない。
太郎は張林に店主の言っている意味を訊いた。
「『ここはイスラム食堂だ。豚肉の匂いをしたお前は店から出て行け』と言っています。」と張林が言った。
「あの若者はイスラム教徒ではないのですか?」と太郎が言った。
「さあ、どうでしょうか。豚肉を扱う中華料理店や肉屋で仕事をしている人もいますからね。話し方から推察すると店主と若者は顔見知りの様ですね。」
「二人は顔見知りですか・・・。」
「『さっさと自分の家に帰って自分で料理しろ』と店主が言っています。」
「張林さん。あの若者も17歳くらいではないですか?」と若者に何かを感じた太郎が言った。
「写真を撮っておきますか?」
「ちょっと、あの若者と話してみませんか・・。あの若者から何か不思議な『気』を感じるのです。」と、自分が若者に感じたものが何なのかを確認したくなった太郎が言った。
「店を出た所で話してみますか・・・。」
「はい、そうしましょう。」
張林は店を出たところで若者を呼び留め、すぐに店に戻り、店主に「びやんびゃん麺」の代金を支払った。
太郎と張林は若者を別の中華食堂へ連れて行き、そこで話を始めた。
若者には好みの中華料理を注文してやり、自分たちは餃子を頼んだ。
そして、張林は太郎の質問を中国語に翻訳して若者に伝えている。
「この人は日本からの旅行者で大城三郎と云います。私は旅行案内人で張林と云います。この人があなたと少し話をしたいそうです。質問に答えて頂けますか?」
「いいですよ。」
「それでは、あなたのお名前は?」
「胡政です。」と若者は言った。
「年齢は?」
「17歳です。」
「誕生日はいつですか?」
「本当の誕生日は知りません。私は児童福利院で育てられました。寮母さんの話では私が赤子の時に児童福利院の門前に捨てられていたそうです。その日は1999年9月9日だったそうです。だから、とりあえず9月9日を私の誕生日にして役所には届けられたそうです。」
「名前は誰が付けたのですか?」
「児童福利院の院長から頂いた名前です。院長の姓が胡だったのです。政は秦の始皇帝にならって付けたそうです。だから、私の父親は院長、母親は寮母です。」
「児童福利院の場所はどこですか?」
「周至県です。」
「周至県とは何処にあるのですか?」
「西安市から西に50Kmくらい行ったところにあります。高さが4000mあると謂われている太白山の麓にある町です。太白山にはよく登りました。」
「児童福利院には何歳までいたのですか?」
「初級中学校を卒業する16歳までいました。」
「卒業してからすぐに西安に来たのですか?」
「そうです。児童福利院の紹介で動物肉の解体をする小さな食肉店に就職しました。」
「その店はこの近くにあるのですか?」
「西安城の外にあります。」
「先ほどの『劉麺家』にはよく来るのですか?」
「羊の肉を納品する時に来ます。」
「何か武術をしていますか?」
「いいえ、武術は知りません。」
「どこに住んでいるのですか?」
「食肉店の寮に住んでいます。」
「その場所は?」
「西安城の西門を出て100mくらいの労働路街にあります。」
その後、太郎は食事をしながら日本の話を胡政にしたり、3人で記念撮影をした後に別れた。
咸陽の四鴻啼22;
2016年の9月8日、午前11時ころ 秦の始皇帝陵墓
秦始皇陵は西安市街の北東30Kmの位置にある。黄土を固めて作られた四角錐型の地上墳丘の大きさは東西345m、南北350m、高さ76mである。墳丘は二重の城塁(城壁)に囲まれていたようで、外側の城塁は東西940m、580m、南北2165m、外側の城塁は東西580m、南北1350mであると云う。
2000年、地上墳丘から50m離れた内側城塁内の陪葬坑から文官俑8体と御者俑4体が出土している。さらに、1台の木車と4個の青銅の斧鉞が出土した。
俑とは人体像(人形)のことで、粘土で作られた人体像のことを陶俑と云う。
斧鉞とは武官が持てば軍事指揮権を意味し、文官が持てば刑罰権を意味する斧や鉞の形をした物である。
2001年、陵墓の北東1Kmにある陪葬坑から水鳥を飼育する人物俑15体と青銅製の水鳥31体が出土した。
水鳥の内訳は丹張鶴2体、白鳥10体、雁16体、鵜3体であった。
2002年にリモートセンシングと地球物理学の最先端技術を駆使した測定調査が行われ、その研究成果が2009年に発表された。それによると、秦始皇陵の地下宮殿は東西170m、南北145mの広さの空間とされる。地下宮殿内にある始皇帝の墓室は宮殿中央の深さ30mの位置にあり、広さは東西80m、南北50m、高さ15mであると云う。墓室は石灰石で囲まれ、厚さ20mくらいの石垣が構築されているらしい。また、墓室に地下水や雨水が入らないように防水ダムが構築されていると云う。『史記』や『漢書』によると、棺は精錬された銅で中を固め、漆が外側に塗られていたと云う。また、棺は翡翠や真珠などで飾られていたと書かれているらしい。ちなみに、1980年に墳丘から20m離れた地下8mの深さから銅で作られた馬車2台と馬8頭が発見されている。
前漢時代のBC108年からBC89年ころにかけて、宮廷図書館などにあった様々な記録資料や国内各地の人物証言・文献を基にして司馬遷が書いた『史記』には、地下宮殿内には水銀を使った川や海が作られ、天井には太陽や月が描かれ、黄金の雁、真珠玉、翡翠などの無数の珍宝が始皇帝の棺と共に埋蔵されていると記されているらしい。一方、司馬遷の死後、15人の学者たちが『史記』の内容を加筆・修正したとされている。
また、清時代に編纂された『三輔故事』には、秦を滅ぼした項羽が始皇帝陵墓を発掘していた時、金色に輝く雁が陵墓から南の方へ飛び立ったと記されているとの事である。
大和太郎を名乗る身代わりの男・大城三郎が他のツアー客たちと共に観光用のマイクロバスから降りた。マイクロバスはツアー専用で、運転手と女性がガイドとツアー客8人が乗っている。
「市内観光や咸陽宮に行った時もそうだったが、今日も我々の周辺にはブラッククロスらしき人物は見当たらなかったが・・・。まあ、誰に見張られているか判らないから用心に越したことはない・・・。大和太郎はブラッククロスから命を狙われたことがあったらしいからな。」と大城三郎は改めて気を引き締めた。
大城三郎たちツアー客は中国人ガイドの案内で長い階段をのぼり、76mの高さのピラミッド型の陵墓の頂上についた。他にも大勢の観光客が周辺の景色を眺めたり、記念撮影をしたりしている。大城三郎も観光客をよそいながら持参している一眼レフのデジタルカメラで静止画や動画を撮りながら、周囲に怪しい人物がいないかどうかを確かめていた。
「『ブラッククロスは大和太郎の顔を知っている。ツアー客の中に大和太郎の姿が無いと気づいたらツアーから離れるだろう。その人物がブラッククロスの人間だ。その人物をマークしてブラッククロスの動きを確かめることが君の任務です。ツアー客だけでなく、ツアーに近づいてくる人物に注意してください。また、この写真の金髪女性はキャサリン・ヘイワードと云う霊能者で、ブラッククロスの手伝いをしています。始皇帝陵墓でブラッククロスが何かを計画しているとの情報があります。この白人女性を見かけたら尾行をして下さい。』とハンコックが言っていたな。しかし、ツアー客の中にはそれらしき人物はいない。となると、外部から近づいてくる人物だが・・・。キャサリン・ヘイワードは奈良の石舞台で『飛鳥の舞』を舞った人物だと云うが・・・。しかし、昼間にこの頂上で舞を舞う事はないだろう。夜は閉鎖されるし、中国の防諜機関が目を光らせている中で、それはあり得ないだろう。まあ、何も起こらない可能性の方が大きいかな・・・。」と大城三郎はジョージ・ハンコックから依頼された内容を思い出しながら考えを巡らせていた。
咸陽の四鴻啼23;
2016年の9月8日、午後2時ころ 秦の始皇帝兵馬俑坑
兵馬俑坑は始皇帝陵墓から東へ1.2Kmくらい離れた所にあり『秦始皇兵馬俑博物館』として一般公開されている。
兵馬俑坑は1974年に農夫が井戸を掘っていた時に陶片が発見されたのが始まりである。
発掘すると実物人間より少し大きい目の兵士の姿をした陶像などが1000体くらい発見された。まだ発掘されていない場所にも多くの陶像などが6000体くらい埋もれていると予想されている。
発見された陶像には色彩が施されていたが、空気に触れて色が消えていたようである。兵馬俑坑は、1号坑から4号坑の4基が発見されているが、4号坑は未完成のままで兵馬俑は発見されていない。また、1号坑兵馬俑の一部200体程度の陶像は火災にあって赤くなっているものも発見されている。
最書に発見された1号坑は東西230m、南北62mで6000体以上の歩兵の兵馬俑が発見されている。1号坑の北側200mの東寄りにある2号坑は東西124m、南北98mの大きさで戦車と弓兵の兵馬俑1300体あると想定されている。1号坑の北側100mの西寄りにある3号坑は東西29m、南北25mの広さで72体の木製戦車と兵士の兵馬俑が出土しており、指揮部隊と考えられている。この3基の兵馬俑坑は『品』の逆字形に並んでいる。
当時の軍隊の編成は左軍・中央軍・右軍に分かれており、1号坑が中央軍、2号坑が右軍、2号坑と3号坑との間にある4号坑は東西48m、南北75mの広さがあり、左軍になるはずであったと想像できる。
4号坑が未完成であるのは、秦王朝末期(BC209年)に農民蜂起『陳勝・呉広の乱』が起こった為と考えられている。
陶俑だけでなく人骨も発見されている。人骨にはペルシア人やヨーロッパ人のものと思われるものも発見されているようである。秦の時代にもシルクロードを通じた人物交流があったということであろう。
大城三郎はデジタルカメラで静止画や動画を撮りながら、周囲に気を配っていた。
「ここでも怪しい奴は見当たらないな。このツアーには大和太郎が居ないことにブラッククロスは気が付いてしまった可能性があるな。ブラッククロスは大和太郎の顔写真を持っているだろう。そうすると、西安国際空港でこのツアー客たちがツアーガイドの居る場所に集合した時にすでに気が付いていたとしたら、他の場所にいる大和太郎を見つけているかも知れないな。ハンコックもその事は想定していただろう。大和太郎は大丈夫だろうか・・? まあ、それはそれで仕方がない話だが・・・。いずれにしても、俺はこのままツアーに同行するしかないな。西安国際空港で写真やビデオの撮影をしなかったのは大きなミスだったかな・・・? とにかくホテルに帰ってから撮影した動画を再生して、写っている人物をしっかり確認する必要があるな。」
咸陽の四鴻啼24;
2016年の9月9日、正午過ぎ 酒金橋のイスラム教『清真西寺』
若い女性のイスラム教徒を探すために太郎と張林は西安城内の西部にある酒金橋通りのイスラム寺院『清真西寺』に来ている。
寺院の門は中国風の瓦屋根である。屋根の向こうにイスラム教の礼拝室ドームを有する建物が見える。
門の通路に椅子を置いて二人の中年男性が座っている。
「中を見せてもらえますか?」と張林が二人に向かって声を掛けた。
「観光客かね?」
「ええ。日本からのお客をガイドしています。」
「いいよ。どうぞ。」
「ありがとう。」
太郎と張林は門を通って寺院の礼拝堂がある建物に向かった。
礼拝堂の中を覗くと広い礼拝室の中で十人くらいの回教徒が礼拝中である。
中年男性ばかりで十代の若者は居そうにない。
暫らくしてから、二人は礼拝堂の裏にある女性用の礼拝室に向かった。
礼拝を終えた女性が6人、礼拝堂から出てきた。
ほとんどの女性がキラキラした装飾品が付いているスカーフを頭に被っているが一人だけ紺色の装飾品のない布地だけのスカーフをかぶっている。その女性は十代と思われる。服も他の女性たちに比べて地味である。他の女性は30歳から40歳くらいの感じであった。
「張林さん。あの女性の写真を撮っておいてください。」
「判りました。」と言って張林は女性に近づいて行った。
「観光のガイド出すが記念撮影をさせてもらえませんか?」
「私ですか?」
「はい、お願いします。あちらの人は日本からの観光客で、西安のイスラム寺院に興味あり、ここに見学に来たのですが、イスラミックと記念撮影がご希望です。よろしいでしょうか?」
「私でよいのですか?他の方のほうが美しいですよ。」
「いえ、あなたが良いそうです。」
「そうですか。一回だけなら良いですよ。」
太郎と張林は女性たちと同じように寺院の裏門から出たて、ホテルに戻って行った。
咸陽の四鴻啼25;
2016年の9月9日、午後2時ころ 西安市内のホテル『西安城大酒店』
ホテルに戻った太郎と張林は昨日と同じように遅い昼食をホテル内のレストランで取っている。
「『清真西寺』であった女性の身元は確認できますか?」と太郎は張林に訊いた。
「ええ、大丈夫です。調査方法は心得ていますから。」
「それを聞いて安心しました。」
「しかし、今日も我々を監視していそうな人物はいませんでしたね。」と張林が言った。
「まあ、まだ日程は残っていますから、これから現われることも考えられます。注意は怠らないようにしましょう。ハンコックは『ブラッククロス配下であるイスラム教徒のC国人の動きを探ってほしい。』と言っていたが、今のところ目的達成には程遠いですがね。ここでも監視されている雰囲気はないようだし。」と太郎が言った。
「C国の防諜機関の人間もいそうにないですね・・。」と張林が言った。
「でも、ホテルの従業員の中にいるかもしれませんよ。」と太郎が言った。
「そうだとしたら、行動や会話には注意が必要ですね。」
「まあ、そうなりますね。」
「C国の防諜機関員は目を付けた人間には親切そうに近づいてきますから直ぐに判ります。むしろ、グランドクロスです。彼らはどのような方法で監視するのか、よく判っていません。」と張林が言った。
「直感が必要ですかね・・・。」と太郎が呟いた。
「ハンコックはその直観力があなたにはあると言っていました。注意を怠らないでください。」
「夕方にもう一度『清真西寺』に行きましょう。」
「はい。しかし、それまではどうしますか?市内観光でもご案内しましょうか?」
「いいですね。大雁塔のある慈恩寺と空海が修行した青龍寺を観たいのですが。」
「仏教に興味があるのですか?」
「大学生の時は神学部に在籍していましたので世界にあるすべての宗教に興味を持っています。大雁塔はインドを巡礼した玄奘三蔵が持ち帰った経典や仏像を保存するために唐の皇帝に願い出て創建されたものです。また、青龍寺は日本から唐に留学していた空海が恵果和尚に師事して真言密教を極めた寺院です。」と太郎が言った。
「判りました。食事の後にタクシーで行きましょう。西安城の南門から南南東へ4kmくらいの所に慈恩寺があります。また、慈恩寺から東北東へ2kmくらいの所に青龍寺がありますから、ここから往復するのにそれほどの時間はかからないでしょう。」
「よろしくお願いします。」
咸陽の四鴻啼26;
2016年の9月9日、午後3時ころ 『大雁塔のある慈恩寺』
大雁塔は玄奘三蔵が居た652年ころ(3代目皇帝・高宗の時代)に創建された時は5層の塔であったが、土を固めて表面に磚と呼ばれる平板煉瓦を張り付けただけだったので50年ほどで倒壊し、705年ころになって磚を使った10層の塔に再建された。その後、火災や地震があり、1556年頃に現在の7層の塔に建て替えられ、その後も何回か修繕されたが地下水の枯渇などで塔は少し傾いている。
大雁塔の名称は、群から離れて慈恩寺に墜落して死んだ菩薩の化身の一羽の雁を塔に埋葬したことに由来するらしい。
また、3代目皇帝・高宗は663年に新羅と同盟して朝鮮半島の白村江の戦いで倭・百済連合軍に勝利した。666年には泰山で封禅の儀式も行っている。
太郎たちは朱塗の階段を上り、7階の窓から西安市街を眺めている。大雁塔の各層の東西南北を向いている壁の中央部には外が見える窓が一つづつ設けられている。
「これは好い眺めですね。」
「そうですね。」
そして、太郎は西向きの窓から遠くをじっと眺めている若い女性に気が付いた。
「あの人は十代くらいだな。スカーフはしていないがイスラム教徒かな・・。」と太郎は思った。
そして、張林に言った。「あの女性と話してみたいのですが・・。」
「判りました。声を掛けてみましょう。」と言って、張林は十代と思われ女性に近づいた。
「すいませんが、こちらの日本からの観光客があなたと少しお話をしたいそうなのですが、よろしいですか?」
「どういう事でしょうか?」と振り返って女性が訊いた。
張林が太郎の言葉を通訳しながら言った。
「こちらは大城三郎という日本からの観光客で私は旅行ガイドの張林と云います。よろしければあなたのお名前を聞かせていただけますか?」
「周夢蓮と云います。」
「よろしければ、年齢を教えて下さい?」
「16歳ですが生まれた月日は知りません。」
「実は、大城先生は人を探しています。」
「私がその人に似ているのですか?」
「いえ、ちがいます。年齢は16歳で夏に生まれた回教徒の人で、中国の運命を変えるかも知れない人を探しています。」
「中国の運命を変えるとはどういう事ですか?」
「将来、中国のリーダーになる人です。あなたの姿から大城先生はそれを感じられたのです。」
「私にはそのような能力はありませんわ。それに回教徒ではありません。」
「今、あなたは窓の外の何を眺めていましたか?」
「太白山です。太白山は中国でも美しい山のひとつで、高さも海抜4107mあります。」
「太白山がお好きなのですか?」
「私は太白山の麓の宝鶏市眉県で生まれましたが、赤児のときに両親が死亡したので鳳翔県の児童福利院で育てられたのです。年齢は院長から聞きましたが、誕生日は判りません。眉県の役人が私を児童福利院に届けたのが12月25日だったそうです。児童福利院では12月25日が私の誕生日になります。」
「その児童福利院に胡政と云う名の男性はいましたか?」
「いいえ、そのような名前の人は知りません。私、急いでいますので、これで。」と女性は言って逃げるように階段を下りて行った。
咸陽の四鴻啼27;
2016年の9月9日、午後4時ころ 『青龍寺』
青龍寺は随時代の582年に『霊感寺』と云う名で創建された。
581年に帝位に着いた文帝は漢時代の首都・長安の南東にある龍首原と呼ばれている台地に新しく首都を築いた。東西10km、南北9kmの大興城と呼ばれた首都であり、唐の時代になって長安城と呼ばれるようになる。現在の西安城内は大興城時代に宮廷や役所があった宮城・皇城地域である。当時の律令国家の首都街区は条・坊と呼ぶ碁盤目状の道路に区切られ、一つの街区を『坊』と呼んだ。
『霊感寺』は旧都長安に在った古墓を新都建設のために移動させたので、その古墓の霊を鎮魂する為に建造された寺院であった。当時の宮城・皇城地域の南東に位置した『新昌坊』と呼ばれた街区に創建されたが、唐時代の621年に廃寺となった。その後の662年、唐の2代目皇帝・太宗李世明の娘である城陽公主の病を「観音経」の霊験で治したことにより、廃寺跡に『観音寺』として再建された。
そして、唐時代の711年に『青龍寺』に改称された。青龍寺がある街区・新昌坊は長安城内の東端に在ったことから、風水の四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)の東方の守り神である青龍の名が付けられたらしい。
717年に阿部仲麻呂や吉備真備、805年に空海が唐の長安に留学してくる。
(吉備真備735年に帰国するが、752年に遣唐使として再度入唐し、753年帰国する。一方、阿部仲麻呂は唐で役人になり、770年に長安で逝去した。)
空海は804年の12月に長安に到着する。805年2月からの住居は西明寺であったが、別の寺院に居るインド僧・般若三蔵に師事し、密教を学ぶ上で必要な梵語(ぼんご;インドの古代語サンスクリットを漢字翻訳した言語)を学び直した。そして、5月から青龍寺の恵果和尚に師事し、密教の奥義を伝授された。恵果和尚はこの年の12月に逝去・入寂した。
中国の僧侶は一つの寺院に捉われず、いろいろな寺院に出かけて行き仏教の修行・勉強をするようである。
空海は806年の10月に博多に帰着した。
空海が師事した恵果和尚は密教を鎮護国家仏教に位置付けた高僧・不空三蔵の高弟である。
不空三蔵は不空金剛とも呼ばれ、インドから『金剛頂経』・『大日経』を持ち帰り、密教占星術の経典『宿曜経』などの多くの経典を翻訳した人物である。
三蔵とは高僧に与えられた尊称である。
慈恩寺前から乗ったタクシーを降り、4分くらい歩くと『随大興、唐長安城遺址 青龍寺遺址』と彫られた石碑を眺めながら太郎と張林は境内に入った。
展示堂などいくつかの建築物を巡った後、『恵果空海紀念堂』と書かれた扁額の掛っている建物に来た。御堂の前には恵果和尚が空海に書状を渡している銅像がある。台座には『空海真言密教八祖誕生』と彫られている。その横の龍を象った石灯篭には縦に『恵果空海報恩謝徳』と彫られている。
御堂の中では数名の信者らしき人々が、不動明王を真ん中に恵果と空海の像が祀られている仏壇の後方の部屋で経をあげている。僧侶は朝夕に堂に来て経をあげるらしい。
御堂内の監視・案内をしている一人の若井僧侶に太郎は目がいった。
僧侶はやや色黒で、中国人ではなくインドやパキスタン方面の人種のようである。
「あのお坊さん、十代に見えませんか?あの方と話がしたいのですが。」と太郎は張林に言った。
「良いでしょう。」と言って張林は僧侶に近づいて行った。
そして、張林は太郎の言葉を通訳した。
「青龍寺は遺祉公園と聞いていましたが、僧侶も居住されているのですね。」
「居住者している僧侶はおりません。しかし、青龍寺館長として、別の寺院から派遣された法師が青龍寺には居ります。今週、青龍寺館長はご遊説のために日本へ行かれていますのでご不在です。私が代理として大興善寺から参りました。大興善寺は西安城の南2kmくらいの所にあります。ここ青龍寺から西へ4kmくらいです。また、大雁塔がある慈恩寺の北西1kmに位置します。」
「確か、大興善寺は中国密教の発祥寺院とされていますよね?」
「はい、そうです。インドから来た善無畏三蔵法師や金剛智三蔵法師、インド留学から帰朝した不空三蔵法師などが密宗経典の翻訳や密教を伝授した寺院です。隋の文帝が582年に国の宗教発展を願って建立した寺院です。」
「奥で読経をされている方々が居られるようですが?」
「はい。この青龍寺は日本で密教を伝授された空海阿闍梨の出身地である四国霊場巡礼八十八寺院の0番札所に認定されています。巡礼札所ですから、納経を受付け、御朱印の発行を行っています。」
「ところで、あなたは中国人ではなさそうですが、どちらの国のご出身ですか?」
「パキスタンのタキシラから4年前に密教の修行をするために西安に来ました。」
「4年前と云うと何歳の時ですか?」
「13歳の時です。」
「と云う事は、1999年の誕生ですね。」
「そうです。」
「誕生日は何月何日ですか?」
「11月3日ですが、本当の誕生日は判りません。」
「どう云うことですか?」
「パキスタンはイスラム教徒の国ですが、私の父母はヒンズー教徒でした。イギリスの植民地時代はインド地域にはイスラム教徒とヒンズー教徒がほとんどだったのですが、1947年にイギリス領インド帝国から独立する時に宗教対立紛争を防止するために、インドはヒンズー教徒の国、パキスタンはイスラム教徒の国として分離されました。しかしながら、土地を離れることが困難だったヒンズー教徒の人々は、パキスタン地域に残りました。私の祖父母はタキシラの農地を離れることが出来なかったのです。そして、ヒンズー教徒の父とイスラム教徒の母が恋をして私が生まれました。しかし、パキスタンの法律では異教徒の婚姻は禁止されていましたので、母は父のいない土地で私を生みました。そして、私を産んだすぐ後に死亡したそうです。原因は不明です。私は母の両親に預けられましたが、父がヒンズー教徒である事がわかって、母の両親は父に私を引き取らせました。その時、父は私の誕生日を教えてもらえなかったそうです。仕方なく父は私を引き取った日を私の誕生日としました。それが11月3日です。」
「そうですか。しかし、何故に仏教を学ぶ気になったのですか?」
「パキスタンではヒンズー教徒は迫害をうけます。憲法上は信教の自由は認めていますが、実社会はそうではありません。さまざまな差別的な法律がありますし、差別を受けます。それに耐えられないので中国で仏教を学ぶことを父に認めてもらい、父の知り合いのインド人仏教徒の紹介で西安に来ました。」
「そうですか。ご苦労されたのですね・・。ところでお名前は?」
「ラビンドラナート・セーンと云います。僧名は竺雲です。巡礼に来られている方の対応がありますので、これで失礼します。」と言って、竺雲は読経室の方へ歩いて行った。
咸陽の四鴻啼28;
2016年の9月9日、午後8時ころ ホテル『西安城大酒店』内のレストラン
太郎と張林は夕方に『清真西寺』に行きイスラム教徒の十代女性や十代男性を探しに行ったが成果はなかった。
ホテルに戻って二人は夕食を取りながら、明日の予定について話し合っている。
そして、急に小声で話し始めた。
「あそこに立っているウェイターが我々を監視している様な気がする。」と太郎が小声で言った。
「私も同じことを感じていました。」と張林が小声で言った。
「C国の防諜部員かブラッククロスの監視担当なのかどうか、ですね?」
「何とも言えませんね。もしかして、このホテルの従業員ではないかも知れませんね。」
「このホテルのオーナーは民間人ですか?」と太郎が訊いた。
「はい。C国の直営ホテルで無い事は確かです。また、外資系のホテルでもありません。オーナーは張天佑と云う新進の実業家で、西安城の他に、南京の近くに南通城大酒店、海南島に三亜海景大酒店のホテルを営業しています。」
「実業家ですか・・。株式などは公開しているのでしょうか?」
「株式上場はしていないようですが、社名が張国際有限公司ですから株主は何人かはいるのでしょう。」
「どのような人物が株主になっているのかですね・・・。」
「後日、調査しておきます。あのウェイターのことも調べさせましょう。」と張林が言った。
「ところで、明日のスケジュールをあのウェイターに聞こえるように話しましょうか。」と太郎が言った。
「明日、我々を尾行して来るかどうかですね。」と張林が言った。
「そうです。」
「明日は午前中に秦の始皇帝陵墓から兵馬俑坑を見学し、近くの臨潼区にある第47集団軍高射砲旅団を視察しておきます。」
「第47集団軍とは何ですか?」と太郎が張林に訊いた。
「中国の人民解放軍は1985年から今年の2016年1月までは、中国国内を7軍区に分けて統合管理を行っていました。しかし、2016年2月からは指揮系統を再編して五戦区に分けて統合作戦管理することを発表しました。西安市臨潼区にある旅団は最大地域の西部戦国蘭州軍区属しているようです。」
「高射砲旅団を視察する意味は何ですか?」
「西安市の西方にある太白山の麓のトンネル内に大陸間弾道などのミサイル保管庫があります。もし、中国陸軍がミサイル発射台を設置するとすれば、第47集団軍高射砲旅団の敷地内だとCIAは考えているようです。それで、ハンコックから視察する様に指示を受けています。」
「日本人である私もその視察に同行する必要があるのですか?」
「はい。ハンコックが言うには『アレキサンダー大王の生まれ変わりであるアンゴルモアの大王は兵士を動かして軍事基地を占領支配し、C国全土を掌握するためにミサイル発射を臭わせてC国首脳を脅かす可能性がある』と云う事らしいです。」
「ハンコックがそんな事を言ったのですか・・・。うーん。」と太郎は考え込んだ。
そして、「やはり、ハンコックは『ビッグ・ストーンクラブ』の人間かな・・・?」と太郎は思った。
「午後は秦の始皇帝が建造したはずの阿房宮跡地へ行き復元された阿房宮を見ます。その後に咸陽市に行って、始皇帝時代の咸陽遺跡へ行き当時の咸陽城に思いを馳せましょう。」と張林が言った。
「咸陽遺跡にまで我々を監視する尾行が着いてきますかね?」と太郎が言った。
「まあ、試してみましょう。」
「それで、過去の咸陽城に思いを馳せて何か良い事があるのですか?」
「実は、昨日にハンコックから新しい情報が入りました。それによりますと、カナダ在住の女性霊能者でブラッククロスに協力しているキャサリン・ヘイワードが中国に旅行しているらしいと云う事です。そして、キャサリン・ヘイワードが中国に居るなら、ブラッククロスの関係者がその女性の案内人をしているはずだ、とハンコックは言うのです。」
「現在、キャサリン・ヘイワードは西安に来ているかどうかを確認しろ、という訳ですか?」
「そのようです。そして、ハンコックの推理では間違いなく西安に来ているはず、と言っていました。」
「何故に、ハンコックはキャサリン・ヘイワードが西安に居ると推理したのですか?」
「ブラッククロスはアンゴルモアの大王の復活は秦の始皇帝の復活であると考えているらしいのです。そして、キャサリン・ヘイワードは復活する人物をその霊的能力で見分ける役目をブラッククロスから依頼されているのではないかと云うことです。」
「それは、パレルモの大邸宅に潜入しているナンシー・イーストウッド中尉からの情報ですか?」
「それは、私には判りません。」と張林が言った。
「いつごろからキャサリン・ヘイワードは西安に居るのだろう?」
「それは判りません。」
「ハンコックの推理が正しいなら、ビットリオ・ルッジェーロも西安に来ているかも知れないな。」
「ビットリオ・ルッジェーロとは誰ですか?」と張林が訊いた。
「パレルモの大邸宅の持ち主で、ブラッククロスの庸兵組織『春雷』と関係している人物とハンコックは考えているようだ。確かな証拠はまだ掴んでいないようだがね。ビットリオ・ルッジェーロとキャサリン・ヘイワードは一緒に日本に来ていた事がある。」
「その話は初耳です。」と張林が言った。
「まあ明日、キャサリン・ヘイワードが咸陽遺跡に居ればいいのですがね・・・、はっはっは。」と太郎は「そんな偶然は、まず無いな。」と思いながら笑った。
咸陽の四鴻啼29;
2016年の9月10日、午前7時ころ ホテル『西安城大酒店』内のレストラン
太郎と張林はホテルのレストランで洋食バイキングを食べながら、昨夜のウェイターが食堂には居ないのを確認した。
「昨夜のウェイターは居ませんね。」と張林が言った。
「ホテルを出たところに車を止めて我々を待っているのかも知れませんね。」と太郎が言った。
「楽しみですね。」
「まあ、あまり期待せずに出かけましょうよ。」
咸陽の四鴻啼30;
2016年の9月10日、午前11時30分ころ 臨潼区にある第47集団軍高射砲旅団の近く
太郎と張林は午前8時にホテル前からタクシーで出発したが、尾行車は無かった。
また、始皇帝陵墓や兵馬俑坑を見学した時にも監視されている雰囲気はなかった。
太郎と張林は兵馬俑坑から徒歩で1kmほど歩き高射砲旅団の敷地周辺を歩いた。
夏の暑さで二人はかなり汗をかいたのでハンカチで顔の汗を拭きながら歩いている。
敷地内の状況は見えないが、時折、兵士と思われる数人の群衆とすれ違った。また、軍用トラックが道路を時折、走り過ぎて行く。
夏の暑さで二人はかなり汗をかいている。
「太白山の麓の保管庫からここまでミサイルを運んで来るには、高速道路を使うことになるでしょう。咸陽市の西には高速道路近くに武功空軍基地があります。その空軍基地からC国全土にミサイルを運ぶこともできます。」と張林が説明した。
「しかし、アンゴルモアの大王は本当に西安市から誕生するのですかね・・・?」と太郎が言った。
「少なくとも、ブラッククロスはそう信じているようですね。」と張林が言った。
「そして、C国全土を掌握できるのですか?」と太郎が疑問を呈した。
「まだ、何年も先でしょうから、どうでしょうかね・・・?」と張林も太郎に同調した。
二人の前方から一人の若い男性が歩いてきた。
「ニイ ハオ(こんにちは)」と太郎が旅行前に覚えた中国語で若者に話し掛けた。
「ニイ ハオ」と若者が答えた。
「ウオ ミイ ル ラ(私は道に迷っています)。 チュ ツ チェ ツアン ザイ ナ ル?(タクシー乗り場はどこですか?)」と太郎が続けて言った。
「この近くにはタクシー乗り場はありません。この道路の道幅は広いですが国軍基地に関係する車両しか通りません。この300m先で行き止まりです。」と若者が中国語で言った。
「タクシーの通る道路に出たいのですが。」と張林が太郎に代わって中国語で言った。
「兵馬俑坑博物館に行けばタクシー乗り場がありますが、ちょっと歩かなければなりませんね。」
「タクシーを電話で呼べるでしょうか?」と張林が訊いた。
「国軍基地の守衛所に行って電話してもらいましょう。着いて来てください。」と言って若者はいま出てきた敷地の門の方へ歩いた。
歩きながら張林は若者に話し掛けている。
「お若い様ですが、あなたは兵士ですか?」と張林が訊いた。
「ちがいます。国軍の食堂で働いています。」
「料理人ですか?」
「ちがいます。食事の準備や皿洗いをしている者です。でも一流の料理人になるのが夢です。」
「お若いですが、何歳ですか?」
「17歳です。」
「今日の仕事は終りですか?」
「ええ。昨日の夕食と今日の朝食が担当でしたので、明日の昼食まで休みです。」
守衛所の職員にタクシーを呼ぶ話を終えると若者は立ち去った。
張林は太郎の要請で若者の件を守衛に訊いた。
「あの若者の名前は何というのですか?」
「呉天佑です。気の良い奴でね。実家に帰った時には土産を持って来てくれます。」
「実家は何処ですか?」
「山東省泰安市です。実家は中華料理の酒家だそうですが、本人は洋食の料理人に成りたいと云うことで軍隊の食堂に勤めることにしたようです。西安市はシルクロードで西洋と繋がりがあったので西洋料理の勉強ができると思った様ですが、あまり関係なかったようです。まあ、自分で勉強しながら西洋料理を覚える気の様ですがね。はっはっはっは・・。」と守衛が言った。
「実家の中華料理の酒家は継がないのですかね?西洋料理の店でも出すのでしょうか?」
「実は、彼の実家の親は本当の親では無い様です。かれは、児童福利院で育てられていたのですが、4歳の時に現在の親の養子になった様です。親は中華料理の酒家を継がせたくて養子にしたようですが、中華料理といっしょに西洋料理もやって良いと言われているようですよ。彼は親に大変感謝していましたな。」と守衛が言った。
咸陽の四鴻啼31;
2016年の9月10日、午後3時30分ころ 秦咸陽城一号宮殿遺祉
太郎と張林はホテルの戻り、レストランで昼食を取った後に復元された阿房宮へ行った。
西安市街の西方にある阿房宮を見学した後、阿房宮の北に向かい、秦時代に咸陽城があったと推定されている『秦咸陽城宮殿一号遺祉』に来ていた。
西安市からの北西25Kmの渭河(秦時代の渭水)の北岸にある咸陽城遺跡は秦咸陽宮遺祉博物館の近くにある咸陽原と呼ばれた殺伐とした小高い丘の荒れ地であった。
そこからは、渭河の向こう側に復元された阿房宮が見える。
渭河の上空では鴻たちが飛んでおり、やや甲高い金属音で『キュワリ、キュワリ』と物哀しげな鳴き声が聞こえている。
※著者注記;雁(がん/かり)
雁は日本などでは秋になって北方より飛来するカモ科の大きな渡り鳥の総称です。
雁の大きいものを特に『鴻(こう/ひしくい)』と謂います。
首と脚が長い。羽根の色は種類によって異なるが雄雌同色で夏冬も同色である。
名前の由来も「カリ、カリ」、「ガーン、ガーン」、「グアーン、グアーン」と鳴くためと云う説があります。
日本に飛来するのは主に真雁で、体長は70cmで、羽根を広げると150cmくらいになります。
渡りの中継点である北海道には9月から10月に飛来し、宮城県・新潟県・石川県の沼地や茨城県の霞が浦などで越冬します。
真雁の鳴き声は甲高い金属的な音で「クワァーン・クワァーン」と聞こえる様です。
中国ではロシア北方からの雁が黄河や揚子江沿岸の沼地に飛来する様です。
カモは小魚や貝類、藻などを食べますが、雁は草食です。
「ここは何もないところですね。」と太郎が言った。
「あの渭河は秦時代よりも位置が変化していますが、秦時代には咸陽城から道が続き、大きい橋が掛って阿房宮まで続いていたと謂われています。」
「水鳥が河の上を飛んでいますね。あの鳥は雁ですかね?」と太郎が言った。
「雁の事を鴻とも謂います。中国漢字では『?(シー)』という漢字を使いますが、日本では大きな雁を鴻の字で書き、小さい雁には雁の字を用います。また、鴨の一種で『くぐい』と云う大形の白鳥でもあります。中国漢字の鴻は鴻ホンと発音し、水の深く広い状態を云います。また水銀と云う意味もあります。」と張林が言った。
「水銀ですか。秦の始皇帝の陵墓には水銀の川や海が作られていたと謂われていますよね。」
「司馬遷が書いた『史記』ですね。あそこに見える復元阿房宮の屋根にある鯱鉾のような物は『鴟尾』と謂って鳶の尾を象っています。」
「あそこに見えている山脈の中の雪を被った山は『太白山』ですか?」と太郎が西南西方向に見えている山を指差して訊いた。
「そうです。中国語の『太白』は金星を意味します。」
「夏なのに雪を被ったままで、美しい山ですね。大雁塔でであった少女はあの山の麓で生まれたと言っていましたね。」
「四千メートル級のやまですからね。雪が融けないのでしょう。『太』の漢字は『美しい』とか、『非常に』とかの意味をもちます。だから『太白山』は『たいへん美しい山』と云う意味になります。」
「そうですか。そう云う意味なら、やはり、あの山脈の麓に軍のミサイル保管庫あるのには違和感をおぼえますね。」と太郎が言った。
「それは日本人的な違和感ですね。中国人にはそのような感覚は無いです。特に漢民族の『中華思想』は排他的で独善的です。周の時代に西北にいる『犬戎』と呼ばれた匈奴から攻撃され首都を鎬京から洛邑(現代の洛陽)に遷した東周の時代以降、すなわち春秋戦国時代や秦・漢・唐の時代以降には首都・洛陽を中心とし、中国周辺の漢字を知らない民族、たとえば北方遊牧民の匈奴(モンゴル人)・胡族は『北狄族』、ウィグル族やチベット族は『西戎族』、ベトナム人は『南蛮族』、それら民族を『夷狄』と呼んで軽蔑していました。また、中国に侵入してくる『夷狄』族を恨んでいましたので、防衛観念から周辺国には攻撃的になります。これが現在の中国に根付いている『中華思想』です。CIAが私たちに第47集団軍高射砲旅団を見て措く様に言ったのは、この中国文明が世界一で中心であると考える『中華思想』を警戒しているからです。」と張林が言った。
「中華思想ですか・・・。」と太郎は張林の博学に感心しながらため息をつく様に呟いた。
「中華思想だけでなく、極端な儒教的発想も中国人の間に残っています。」
「どういう事ですか?」
「漢王朝を興した劉邦ですが、秦王朝を滅亡させた後に項羽との覇権争いで不利になり、馬車で逃走する時、馬車を軽くして速く走れるようにするために自分の子供二人を馬車から2度も放り投げています。『子は親を助けるために親孝行しなければならない。』と云う儒教思想を当然のように行使したのです。馬車の御者をしていた劉邦の部下が二人の子供を助けたようで事なきを得たようですがね。漢民族に残っているこの考え方は『子である国民は親である国・政府のために犠牲にならなければならない。』と云う極端な思想に直結します。この考えでは民主主義は成立しません。日本の万葉集の歌人は『銀も金も玉も何せむに、優れる宝、子に及かめやも』と云う短歌を読んでいます。日本人にはこのような思想があるのが羨ましいです。」と張林が残念そうに言った。
「劉邦は別の考え方をしていたのではないですかね・・。」と太郎が言った。
「どういう事ですか?」
「『項羽たちに追いつかれれば、親子ともに殺される。万一、項羽たちがこの馬車に追いついても、子供がいなければ自分だけが死ねばよい。馬車に乗っていない二人の子はそこら辺の農民の子供として生きることができる。』と子供たちの命を守るために馬車から降ろしたのでしょう。」
「なるほど、そう云う考え方もありますか・・・。」と張林が考えるように呟いた。
咸陽の四鴻啼32;
2016年の9月11日、午前7時30分ころ ホテル『西安城大酒店』内のレストラン
「東京のハンコックからの情報によると、キャサリン・ヘイワードが昨日の夜、始皇帝陵墓へ行っていたということだ。」と張林がメモ用紙を見ながら言った。
「そのメモ内容は何処から来たのだ?」と太郎が訊いた。
「我々の宿泊部屋の入口扉の下からCIA西安情報部員が投げ入れたメモだ。何かあった場合に情報が来ることになっている。」
「キャサリン・ヘイワードが始皇帝陵墓で何をしたというのだ?」と太郎が訊いた。
「そこまでは判っていないが30分くらい始皇帝陵墓の上空を眺めていたと云う事だ。そして、何かを目で追っているかのように、少しずつ西空の方角へ頭を動かして言ったという事だ。単に夜空の星を眺めていたとは思えないがな・・・。」
「情報部員は暗闇の中でキャサリン・ヘイワードの動きが見えたのか?」と太郎が訊いた。
「たぶん、ナイトスコープを顔に着けていたのだろう。」
「なるほど。しかし。キャサリン・ヘイワードは何か霊視したのだろうか?例えば、始皇帝の霊を視たとか・・・。」
「キャサリンは始皇帝の霊を呼び出せるのか?」
「それは判らない。しかし、ブラッククロスは『アンゴルモア大王』復活は始皇帝の復活と考えているのであれば、キャサリン・ヘイワードは何かの考えがあって始皇帝陵墓の上空を眺めたと考えるのが妥当だろう。」と太郎が言った。
「今夜、我々も始皇帝陵墓へ行ってみるか?」と張林が太郎に訊いた。
「まあ、我々が行ったところで何か発見出来るとは思わないが、ものは試しと云うから、行って見るか・・。」と太郎が言った。
「今日の昼は西安市内の別のモスクを調査するが、あまり期待は出来ないかな。」
「キャサリン・ヘイワードはどこのホテルに宿泊しているんだ?」
「それはメモには書かれていない。CIA西安情報部に任せておけと云うことだろう。」
「そうか。」
深夜、太郎と張林の運転する車で始皇帝陵墓へ行ったが、キャサリン・ヘイワードに出会う事はなかった。
咸陽の四鴻啼33;
2016年の9月12日、午後1時30分ころ 西安国際空港から飛び立った航空機内
太郎は張林に見送られて成田行きの飛行機に乗り込んだ。
西安への往路で太郎の隣席に居たのと同じ中年女性が隣の席に居る。
「また、お隣になりましたわね。」と女性が言った。
「はい。奇偶ですね。」と太郎が言った。
「私は三山美弥子と申します。よろしくね。」
「私は大和太郎と云います。」と太郎は中国西安を離陸するので偽名は不必要と思い本名を名乗った。
飛行機は離陸し、安全運航に入ったので、機長のアナウンスで乗客たちは安全ベルトを外した。
「大和さん。ご旅行は如何でした?」と三山美弥子が太郎に話し掛けた。
「まあ、いろいろと勉強になりました。」
「始皇帝陵墓や兵馬俑をご覧になりました?」
「はい。日本と違い、スケールの大きさに改めて感動しました。」と話を合わせるように太郎は言った。
「それはよろしかったですわね。」
「三山さんは講演をされるという事でしたが、上手く行きましたか?」と太郎が訊いた。
「ええ。今回の公演は3か所で行いましたが、盛況でしたわ。」
「西安市内の三か所で講演されたのですか?」
「西安市内と咸陽市内。そして、少し離れた宝鶏市と云うところで講演しました。」
「どのような関係で講演をされることになったのですか?」
「日中友好芸術研究財団からの依頼でした。」
「中国語は得意なのですね。」
「まあ、北京語ですが、そこそこ話せます。中国語には北京語、広東語、上海語などの方言があり、四声と云って発音の仕方で意味が変わってきます。現代中国では標準語の指導がなされてきていますが、まだ方言は残っています。西安は北京語が通用します。」
「そうですが。中国語というのは難しそうですね・・・。ところで、講演内容はどのようなお話だったのですか?」
「版画や壁画の技術的変遷と日本と中国の絵画に関する歴史的関係などを考察することです。」
「それは芸術的なお話ですか、それとも技術的なお話ですか?」
「芸術といえば芸術ですが、歴史的背景と芸術や技術の関係を考察する内容です。」
「歴史的背景とは・・?」
「武器の発達と芸術の発展は係わりがあると云うことですわ。」
「これが、今回の講演会での写真です。」と言って、三山がプリントした数枚のプリント写真を太郎に手渡した。写真の大きさはたて12センチ、よこ18センチくらいである。
ある写真プリントに三山美弥子を中心に10名位の人々が写っている。
その中に、大雁塔で出会った女性の周夢蓮が写っている。
また、別の写真プリントには高射砲旅団の基地で出会った呉天佑が写っている。
「この写真に写っている方々は如何云った人たちですか?」と太郎が訊いた。
「この写真は宝鶏市での講演会で日本と中国版画の歴史や技術についての講演を行った時の版画芸術研究会の方々です。こちらの写真は、西安市での講演会で版木の加工技術や印刷技術に関する講演をした時の写真ですが、講演会の準備など、お世話をして頂いた方々です。」
「お若い方も何人かいらっしゃいますが。」
「まあ、版画などに興味がある方々の集まりですから、年齢は様々な方がおいでになるのは当然ですわね。」
「まあ、そうですね・・・・。」と言いながら太郎は次の写真を見た。
「この写真は三山さんが講義をされている状況の様ですが、スクリーンに映っている水墨画ですが、この川は黄河ですか?」と太郎が手に持っている写真を見せながら美弥子に訊いた。
「はい、そうです。平安時代の僧侶画家であった太山白舟が明国に2年間滞在した時に描いた水墨画のひとつです。当時の足利幕府は明国へ貿易船を派遣し、中国の文化を学ぶために絵師を同行させて兵士、官吏、僧侶、農夫、モンゴル人、遊牧民、商人、寺院、城、土塔など、さまざまな人物画や風俗画など描かせました。当時の画家は現在の写真家みたいな役目をしていたのです。白舟は幕府の要請による風俗画を描くだけでなく、明国の水墨画も学んだようです。その写真にある水墨画の題材は、仏教の経典を学ぶために長安の都を出てシルクロードを通ってインドに向かう玄奘三蔵が黄河を渡る図です。シルクロードの河西回廊にある蘭州付近で黄河を渡っているところです。玄奘三蔵が乗っている筏は空気を満たした羊の革袋を材木でつなげたものです。唐の時代は橋が掛っていなかった場所はその様な筏で黄河を渡ったようです。現在でも橋がない場所ではこの筏は使われています。上空に4羽の雁が描かれていますが、初秋から冬にかけて北方から雁が越冬のために、黄河周辺の湿原に飛来するようです。この画に描かれた4羽の雁の意味は中国に侵入して略奪を繰り返す『匈奴』などの侵略者である東夷、西戎、南蛮、北狄を象徴していると謂われています。『クワァーン・クワァーン』と激しく啼く雁の声を玄奘三蔵が聴いている図と云う題名、すなわち『玄奘渡黄河四鴻啼図』の題名がこの水墨画には付いています。」と美弥子が説明した。
咸陽の四鴻啼34;
2016年の9月13日、午前10時ころ 東京・溜池のアメリカ大使館の応接室
太郎がジョージ・ハンコックに西安での調査報告をしている。
「イスラム教徒に関する調査報告は張林から聞いたので改めての報告は必要ないが、太郎が強調したい事があれば言ってください。」とハンコックが言った。
「私の印象では、今回出会った16歳から17歳くらいのイスラム教徒の人にはモンゴル人の血を引くと思われる人物は居なかったですね。ノストラダムスの所謂『アンゴルモアの大王』がアレキサンダー大王の生まれ変わりとブラッククロスはほんとうに謂っているのか?」
「まあ、それはわれわれCIAの推測だが、私は間違ってはいないと思っている。」とハンコックが自信有り気に言った。
「ブラッククロス配下のC国人らしき奴が一人いた。ホテルのウェイターに化けて現れたが、追跡は出来なかった。張林の報告はどうだった?」と太郎が訊いた。
「張林からの通報で別の諜報部員がその男を追跡中だ。まだ、ブラッククロスかどうかの結論は出せていない。」
「そうですか。西安で出会った16歳くらいの若者の話は張林から聞きましたか?」と太郎が言った。
「イスラム教徒以外の人物か?」
「そうです。」
「いや、何も聞いていない。」
「大雁塔で出会った女性と高射砲旅団の食堂で働いている男性だが、何か気になった。ふたりの名前は、確か・・・、周夢蓮と呉天佑だったかな・・。」
「何が気になったのだ。」
「これと言って理由はないのだが、二人ともに、その持って生まれた雰囲気と云うか、ひと目見た時に空を飛ぶ鳥のような雰囲気があったのだが、何だろうかな、と思って声をかけたのだが・・・。」と太郎が天井を見上げた。
「そうか。それで?」とハンコックが先を話すように太郎を促した。
「二人とも親に捨てられ、孤児院で育ったようだ。」
「孤児院ね・・・。」
「だから、生年月日は良く判っていないのだ。」
「その若者が1999年8月18日生まれとでも言いたいのか?」
「さあ、どうかな・・・。」と太郎は首をかしげた。
「もう、他には何かないですか?イスラム教徒ではではなくても、寺院以外の何処かで出会った若者の中にこれと云った人物はいなかったのですか?」とハンコックが言った。
「他にね・・・。ああ、思い出しました。あと二人面白そうな若者がいました。」
「ほう、どのように面白そうなのですか?」
「ひとりは厳つい獣のような顔をしているのですが、何か軽やかな感じのする若者でした。どこかで見た顔に似ているのですが、何処だったか思い出せなかったのです。」
「どこかで見たと云う事は、日本国内の何処かと云う事ですね。」とハンコックが言った。
「日本ですかね・・・。あっ、思い出しました。」
「どこですか?」
「東京の日本橋です。運河に架かっている日本橋の欄干にある『麒麟』の像です。あの顔の雰囲気に何となく似ていました。名前はなんだったっけな・・・。イスラム人街の食堂で出会った17歳の若者。彼も孤児院で育ったと言っていました。名前は張林に訊けば判ると思いますよ。ああ、そうだ。胡政とか云う名前でした。」
「フセイ・・・。霊獣である『麒麟』ですか。」とハンコックが呟いた。
「もう一人は竺雲と云う若い僧侶です。パキスタン人でタキシラと云う村から来たそうです。雲の上を行く風のような清々しさを感じさせる人物で1999年生まれだそうです。」
「タキシラの出身ですか・・・。」とハンコックは考えるように呟いた。
「さきほどの二人の若者をふくめて、四人の名前の漢字は張林に訊いて下さい。」
咸陽の四鴻啼35;
2016年の9月13日、午後2時ころ 東松山市の大和探偵事務所
長谷川刑事が事務所を訪ねてきた。
「帰りを待ちかねたぞ、大和。」と長谷川が偉そうに言った。
「何か進展はありましたか?」
「ああ、京都方面の取材場所だった京都府綾部市と亀岡市の大本教へ訊き込みに行ってきた。」
「どうでした? 何か判りましたか?」
「データ写真の撮影日付の7月29日に大矢伸明は大本教を訪問したことを確認した。」
「何か新しい事実は出ましたか?」と太郎が訊いた。
「いや、特に気になる様な事はなかったな。」と長谷川が平然と言った。
「大矢さんは一人で大本教に来ていたのですか?」
「ああ、一人だったらしい。」
「大矢さんが写真撮影をしている時には大本教の職員さんは案内のために同行していたのではないですか?大本教の祭檀である月宮宝座や月山不二は禁足地ですから勝手には入れないですよね。」
「ああ、そうだった・・。」と長谷川はいい加減な返事をした。
「もう、大丈夫ですか長谷川さん。」と太郎は呆れたように言った。
「それで、何も問題はなかったのだからいいじゃないか。」と長谷川が開き直って言った。
「他にも大矢さんみたいに写真撮影していた人物は居なかったのですかね・・・。」
「さあ・・。どうだったかな・・・。居なかったのじゃないかな。大本の案内人は何も言っていなかったがな。」
「そうですか・・。」と言いながら、「もう一度、大本教の本部である綾部と亀岡に行く必要があるかな・・。」と太郎は思った。
咸陽の四鴻啼
〜出口王仁三郎の亡霊殺人事件〜
前篇 完 (2022年2月11日 )
後編に続く