下
レーナがアルフォンスの寝室を訪ねたとき、彼は熟睡していた。
明かりで顔を照らされ目を覚ますとそこには常ならぬ冷たい顔をしたレーナが立っていた。
「どうした?」と声をかけるとレーナは燭台に灯りを移して椅子に座る。
「こちらへ、お話があります」
そうレーナに言われとき明らかな動揺がアルフォンスの顔に表れたのをレーナは見逃さなかった。
「朝早いんだ。明日にしろ」と言ってもレーナはじっと動かず仕方なくアルフォンスはベッドを出てレーナの対面へと座った。
「ソーヤをどこにやったのです」
レーナがそう詰め寄るとアルフォンスはぐっと顔を歪ませて「知らん」と言った。
「もうなにもかも知っているのです。アルフォンス、お願いします。なにもかもを話してください、わたくしなにも取り乱したり致しません、約束します。お願いします」
レーナがアルフォンスに向かって頭を下げる。その姿を見ていたアルフォンスは椅子から転げ落ちるようにして、床に膝をついた。
「すまん、許してくれ!」
額を床に着けるようにし頭を下げた。すまんともう一度言った。
あぁやっぱりメイドたちの言うことは本当だったのねとレーナ気が遠くなるような思いがしたがぐっと我慢して「なぜ……どうしてそうなったのですか?」と聞いた。
アルフォンスはぽつりぽつりと話し始めた。初めてソーヤを見たときから心が揺れ動いたこと。父上の看護を献身的に行う姿が美しかったこと、そして視察にかこつけて二人になり、そこで関係ができたこと。
すまん、すまんと繰り返しながら話をしているアルフォンスを見ながらレーナには怒りは湧いてこなかった。深い悲しみの海に投げ捨てられたかのようであった。
「いいのです。いいのです」とそう言いながらも体が震え、吐き気を催し、胸が木の棒でぶっ叩かれたように痛んだ。
「話は、分かりました」とそれだけ呟き、部屋を出た。アルフォンスは追ってこなかった。
ふらふらと歩きながら「大丈夫、大丈夫。そんなことよく、あることよ。わたくしはアルフォンスを許してあげなくっちゃ」と自分に言い聞かせるように呟いて一歩一歩と歩くごとに大丈夫大丈夫と繰り返す。
それから数日レーナは立つこともまともにできず、食事を摂ることもできず、眠ることさえ満足にできなかった。
悲しくて悲しく仕方なくこんなときソーヤが居てくれたらと思ってまた泣いた。そんなことを思うくせにもうソーヤがどこに居ようが構いやしないわとも思っているのだから複雑なものである。
アルフォンスは毎日のようにレーナの部屋に見舞いに来て話をする。話すだけなら以前と変わりなく、あんなことなどなかったかのように話せるのだが不意にアルフォンスが肩でも手でも触ろうものなら「嫌!」と叫び声を上げてレーナは泣き出してしまう。
レーナ自身もそんな反応してしまうのは嫌で嫌でしょうがないのだけど、体がどうにも言うことを聞かない。
マグリットもアルフォンスと一緒になることは避けるようにして見舞いに来てくれる。マグリットはなにも話さずレーナの手を握って長い時間そうしてくれている。そのうちにレーナはいつの間にか眠ってしまい、マグリットが手を握ってくれるうちはぐっすりと眠れた。
ある日の夜、レーナが浅い眠りから目を覚ますとマグリットが居た。あんまりびっくりしたので声をあげそうになるけどその日は月明かりが眩しいくらいだったからすぐにレーナは父だと分かり安心した。
レーナが目覚めたと分かるとマグリットはベッドに腰かけ「起こしてしまったかな」と申し訳なさそうに言った。その瞳は茫洋としており、少しレーナは怖くなる。
「いえ、大丈夫ですわ。こんな夜更けにいかがされました?」
「いや、レーナに謝らないといけないことがあってね」
そうマグリットは切り出した。レーナはマグリットに謝られることなんて思いもつかないので不思議そうに首を傾げる。
「アルフォンスとソーヤのこと、知ってるね?」
おそるおそるというふうにマグリットは言葉を絞り出すように言う。
「そのお話は……したくありませんわ」
顔を背けたレーナに厳しい口調でマグリットは「いや、聞いてもらわなくちゃいけない」と告げる。そんな声音の父は初めてのことだった。
「レーナは本当にアルフォンスがソーヤとそんな関係になったと思っているのかい?」
「だって自分で言ったんですもの。嘘をつく必要なんてないわ。やってないって嘘をつく人なら居るでしょうけどやったと嘘をつく人なんて居ないわ」
話してるとレーナの瞳から涙がポロポロと零れてくる。
「アルフォンスは確かにここに来る前はあまり素行が良くなかったようだね、だけどお前と一緒になってからは政務に実直であるしこんな老人に付き合って遠乗りや狩りに行ってくれる。それにわしが倒れたとき彼の働きでわしは命を取り留めた。アルフォンスはソーヤに手を出す軽率な男ではない。そうは思わないか?」
「確かにそれはそうですけどでは……」
「わしなんだ。その軽率な男はわしだ」
レーナは息が詰まるほどに驚いた。なにを言っているのか理解できなかった。
「アルフォンスはわしを庇った。隠居の身で後添いも迎えなかった男がメイドに手を出し、子まで作る。それは必ずわしの醜聞になる。アルフォンスはわしを、こんなわしを父のように慕ってくれている。だからこそお前にそんな作りごとを話したんだろう。許しておくれレーナ、こんなにお前を傷つけてしまってわしはお前に顔向けできない」
「そ、そんなだったらアルフォンスとソーヤは……」
「なにも関係ないさ、なにもない、あるはずがないだろう」
「あぁ……本当に?」とレーナが涙を流す、とめどなく涙が伝い頬を流れる。
「本当だとも、この愚かな父親を許しておくれ、そしてできるなら……身勝手な願いだがソーヤを助けてやってくれないか? あの子には身寄りもなにもない、帰るところなんてないはずだ」
そうだ! ソーヤ! 私はなんて薄情な女だとレーナは思った。十数年一緒に居たというのにまるで物を投げるみたいにしてソーヤのことを意識の外に追い出していた。
「ソーヤは! ? ソーヤはどこにいるの! ?」
レーナが食いつかんばかりに詰め寄るとマグリットは困ったような顔をしてそれはアルフォンスが知っていると言った。
「なんでアルフォンスが知っているんですの?」
「あの時、わしはお前と一緒に湯治に行っていただろう。ソーヤの身の置き場所の世話をアルフォンスに頼んだんだ。だから居場所はアルフォンスが知っているはずだ」
「そう……そうだったのですね」
レーナはやっぱり父上とソーヤは深い関係だったんだと納得した。そしてすぐにソーヤを呼び戻そうと思った。それでみんな家族になるんだ。ソーヤが産む子はきっと可愛いに違いない、あんなに沈んで死んでしまうんじゃないかとすら思ったのにもう心は浮き立っていた。
「でもこの話をアルフォンスにしてはいけないよ」
「えっなぜですの?」
「アルフォンスはある意味命をかけてわしを庇ってくれたんだ。それを壊すことはしたくない、お前はあくまでアルフォンスを許して、ソーヤのことも許したというふうにしなさい」
「わ、わかりました」
レーナはよく分からなかったが父上がそう言うならと頷いた。
「さっそく明日アルフォンスに話してみますわ。すぐにソーヤを呼び戻しでまたみんなで……みんなで……」と引いたと思った涙の波がまた押し寄せた。そんなレーナを抱きしめてマグリットは「許しておくれ」と言った。
次の日、メイドたちが大騒ぎしている声でレーナは目を覚ました。何事か、と思っているとアルフォンスが部屋に飛び込んできた。
「……父上が亡くなられた」
朝の早い時間にマグリットは大喀血を起こしそのまま帰らぬ人となった。
慌ただしく葬儀を執り行い、差配したのはアルフォンスであった。
レーナは「……父上」と嘆くことしかできず、不思議なことに涙もでかなかった。
あっという間に時間が経ち、現実感もなにもなにままにマグリットは土の中に眠った。棺が土の中に埋まるその瞬間、嘆きが波濤のように押し寄せ涙が湧き出した。声を上げてなくレーナの肩をおそるおそるアルフォンスが抱くとレーナは彼に縋り付き、また、泣いた。
マグリットの墓の前にはもうレーナとアルフォンスしかいない。
「恥ずかしいわ。私あんなに泣いてしまって」
「父上が亡くなられたんだ。当然だよ」
冷たい風が吹き、戻ろうとアルフォンスが言おうとしたとき「ありがとう」とレーナが言った。
「私、全然役に立たなかったわ。やっぱりアルフォンスが頼りなのね。私あなたが居ないときっと生きていけないわ」
「そ、そんなことはないよ……俺は最低な男だ」
それを聞いて「ふふっ」とレーナが笑う。
「まだ父上のこと庇ってくれるのね」
そうぽつりと言ったレーナへアルフォンスは怪訝な顔を向ける。
「庇う?」
「もういいじゃない。父上も亡くなってしまい、もうあなたが庇う必要もありませんわ。わたくしすべて聞いてしまいましたの。ソーヤを呼び戻してみんなで一緒に暮らしましょう? 父上もそうするのを望んでいたわ。それにソーヤの子は父上の子なんですから! うちで育てるのは当然ですわ!」
呆けたように口を開いて黙っているアルフォンスにレーナはどうしましたの? と声をかける。
「父上がそう言ったのか? ソーヤの子は父上の子だと? そんなことを、まさか」
「えぇそうよ。でもソーヤとそんな関係ならおっしゃってくだされば良かったのにわたくしソーヤと家族になれるなら大歓迎ですわ」
レーナはこれからの生活を思い、笑みを浮かべる。
それとは対象的に青い顔をしたアルフォンスがマグリットの墓へと近づく、冷たい風は雨雲を運んできたのか雨が振り始めた。
「あぁあああぁ………! ! !」
雨に降られてアルフォンスが声をあげて泣く、その涙の意味は分からない。