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人と鬼(ひととき)

作者: 奈良ひさぎ

「準備はできた?」

「ええ、バッチリ」

「帽子は? ちゃんと深くかぶってる?」

「もちろん!」

「今日は暑いけど、うっかり脱がないようにね」

「分かってるわ」


 それはなんでもない木曜日。ぼくは、ふと思い立って妻である佳乃(かの)を仕事場に連れて行くことに決めた。理由は特にない。強いて言うならば、普段家にこもってばかりで退屈だろう彼女に、上手く気分転換をしてほしいから、というところか。佳乃は肌が弱い方で、日差しに長い時間当たっているだけでも発疹が出るほどだから、準備には念を入れる。


「学生さんとは、おしゃべりしていいの?」

「ぼくの研究室の学生となら構わないけど。他だと何が起こるか分からないし、そこは気をつけてほしいかな」

「分かった」

「でもうちのボスにはきちんとあいさつするんだよ? 家族を仕事場に連れてくるなんて普通は考えられないけど、佳乃だから許してくれるし、ボスも寛容だからね」

「ええ。不束者がいつもお世話になっております……って」

「余計なことは言わなくていいよ」


 久しぶりに外行きの格好をする彼女は、(はかな)げで透き通るような美しさを持ち合わせていた。ちょうど、ぼくと彼女が一番初めに出会った時のように。

 今でもぼくは、その当時のことをはっきりと思い出せる。そして夢にも時々、あの時の情景がくっきりと映り込んでくる。



* * *



 ぼくは昔から、ひどい変わり者だった。そもそも高校生の頃から妙な厭世観(えんせいかん)を持ち合わせていたし、数学や理科の授業に大して価値を感じられず、ほとんど聞くことをしなかった。今ではもう少し真剣にやっておけばよかった、と後悔の日々だけれど、その時は本当に心から、不要と感じていた。代わりにぼくが魅入られていたのは、民俗学だった。日本民俗学の祖として名高い柳田國男と同郷であることもあって、幼い頃から身近だった。もちろん彼の生きていた時代と今ではまるで違うし、ぼくが彼のようになれるかと問われるとそんなわけはないのだけれど、それでも自分が没頭できることといえばそれが一番に挙がった。


「悪いことは言わないからやめておきなさい」

「まともな職に就けないよ」

「行くことは認めるが金は出さん」


 そもそもぼくの両親の願いといえば、理系の大学院を出て企業の研究職に就くことだった。けれどぼくの高校数学や化学の惨憺(さんたん)たる成績を見て悟ったか、やがてレベルの高い大学ならどこでもいい、と譲歩してくるようになった。父が根っからのエンジニアで、企業人として社会の中に上手く溶け込み成功しているからこその願いなのだろうが、ぼくにとっては進みたい道と全く逆を強いられているとしか感じなかった。だから譲歩と言ったが、全くもって譲歩でもなんでもなかったのだ。柳田國男が日本民俗学を立派な学問として作り上げてくれたとはいえ、それを専門にしているゼミや研究室はそれほど数がない。必然的にぼくの志望大学は絞られ、さらに大学に残って学問を突き詰める、そのことしか考えていなかった。すると両親から飛び出したのが以上の文言だ。端から会社に行くつもりはなかったから、うっとうしさしか感じなかった。さすがに大学院の学費をびた一文出さないと言われた時はためらったが、それで結果として縁を切られたとしても、人生はそんなものだろう、所詮人間の考えることなのだから親子でもその程度だろう、とすぐに思い直し、決意が揺らぐことはなかった。だからこそ、同じ大学の准教授になった今のぼくがいる。


福崎(ふくさき)君、面白いところがあるんだ」


 それは無事に博士課程に進み、それまでの既存の著作をなぞるような研究から、ようやく自分らしいオリジナルの研究ができると意気込んだ一年目の夏のことだった。今もお世話になっているボス、すなわち研究室の教授に、ある日突然呼び出された。


「面白いところ、ですか」

千鬼(せんき)地区だ」

「……あそこですか」


 それは教授の博士論文で取り上げられていた地域だった。日本全国いろんなところの伝承を見ていれば、誰かの妄想ではとしか思えない言い伝えも散見されるが、千鬼地区もその一つだった。いわく、鬼という存在が怪奇として忌み嫌われ、出産やその他儀式のたびに念入りに加持祈祷が行われていた時代に、鬼と友好関係を結んだ数少ない集落の一つ。しかしそれゆえに周囲の集落から孤立し、やがて山陰の山奥にひっそりと生活を営むようになった。その際壮絶な迫害を受けた経験から、集落の人間はみなひどく他人不信であり、集落の外の人間とつながる者が現れれば容赦なく村八分にする。外の人間と恋に落ちるなど言語道断であり、外に出たいと口にする、あるいは外の話をするだけで私刑に遭うといった有様。外から人がやってくることにも非常に敏感であり、集落内に踏み入ろうとした中央の人間が全身の複数箇所に毒矢を吹き込まれ殺された、という記述も残っている。


「大丈夫だ、私の論文に書いているようなことは、もう起きないよ」

「……そうだといいですけどね」


 とはいえ、それは遅くとも明治中期までの話。交通の便がすこぶる悪く、また閉じこもろうとする住民の性質から、過疎化が他の地方集落とは比べ物にならないスピードで進んだ。教授が実地調査を行った平成初期には、すでに限界集落と化し、八世帯十一人が暮らすのみだった。さすがに命の危機はなかったものの、よそ者を嫌い受け入れない空気は教授もひしひしと感じたらしかった。


「要は、教授のD論の尻拭い、ってことじゃないですか」

「そうでもない。日本には外界との関わりを断ったか、限りなく交流をやめた集落は多く存在するが、一つあれほど珍しい特徴のあるのはあそこくらいだ。あれから二十年経った今、経過観察として記録を残すだけでも、十分に意味はある」

「そうですかね」


 文句ばかりかと問われると、そういうわけでもない。ボスの人柄に惹かれ入研したこと、専門分野がぼく自身のやりたかったことに非常に近かったのもあって、大学生活は心底充足している、と思っていた。この頃にはとっくに両親からの仕送りが雀の涙であることなど気にならなくなっていて、一人寂しい下宿先で飯を食うよりも、研究室で魅力的な本の数々に囲まれ過ごす方がずっと有意義だと感じていた。食事は生きるために必要な最低限の栄養さえ摂取できればそれでよかった。それよりも少しでも本を読み進めるための時間が失われるのが惜しかった。そんな考え方だったから、研究室で扱っている民間伝承の大抵には興味があった。ただ、他人の手垢のついたところを嫌がっていた。それだけの話だ。


「我々の仕事は限界集落を救うことでもないし、少子高齢化社会となって久しい現代の諸制度にメスを入れることでもない。それは政治家の領分だ。けれど私たちには何ができる? どんなに小さく、奇特なものであっても、後世にそのような風習や景色があったことを伝えることではないかと、私は思っている」

「……分かっています」


 ボスの言葉には、もちろん賛成だった。本筋から逸れているか否かは置いておいて、ぼくが民俗学に没頭する意味はそこにあると思っていた。けれどせっかくなら、この目でまだ日の目を浴びていない慣習や人々を見て、魅入られたいと感じていた。

 二十年前の時点で全員が高齢者、さらにそのうちのほとんどが独居老人だったから、今行けばもぬけの殻という可能性も十分ある。そう考えながら、ぼくは件の地域に向かった。


「……っ!」

「こんにちは」


 だから最初にその光景を目の当たりにした時、自分は幻覚を見ているのだ、と信じて疑わなかった。お盆を間近に控えた、うだるような暑さの中、大学から車を三時間走らせ、さらに山中の半分獣道と化したところを一時間か二時間歩いてようやく目的地に到着した、という有様だった。まともな運動習慣のないぼくの身体がそんな過酷な環境に耐えきれるわけがないと、水分は十二分に用意したつもりだったが、それでも意識はもうろうとしていた。


 生糸のように日光を反射しすらりと伸びる白銀の髪。手のひらで包めばすぐに脆く崩れ去りそうな、儚い笑顔。外部の人間に対する警戒心どころか、会ったこともない人間に対して見せる全幅の信頼。そして、両のこめかみから斜め後ろ向きに生えた、一対の鈍色の角。まるでこの世の人間ではないような、神聖とさえ言える雰囲気を身にまとった彼女が、山奥の廃村を背景に立っていれば、誰でも幻覚だと思ってしまうに違いない。


「初めてです。二十年生きてきて、母以外の人間にお会いしたのは」

「いや……まさか」


 確かに千鬼地区には、昔から鬼にまつわる伝承があった。その内容も他の集落とは一線を画していて、そこでの鬼は人間と変わらず、稲作をし、森へ繰り出して山の恵みを得、漁をし酪農を営んでいた。外部から人間がやってくれば、集落の人間とともにその者たちを排除することもあった。人間離れした巨躯(きょく)ゆえに、子どもからは畏怖されていたというが、鬼の方から人間に害をなすことは、人間がそうしない限りなかったという。人間が鬼と子孫をなすことも至って普通に行われており、そのような(あい)の子も、この集落では立派な一員として受け入れられていた。だがこんなに若い、それも本人によれば二十歳の鬼の子が存在するとは。


「父には、ちょうど私の生まれる何年か前に、あなたのような方が来られたと聞きました。この場所を、記録として後世に残すために」

「今、ここはどうなっているんですか」

「……誰もおりません。私以外は」


 彼女には名前がなかった。出会ってしまったぼくは何から話せばいいのか分からず、ひとまず名前を尋ねたが、首を横に振るだけだった。ぼくが名前を名乗ってからぼうっと突っ立っていると、彼女は集落で唯一まともに手入れされて建っていた家にぼくを案内し、そして食事まで振る舞ってくれた。ぼくがボスと同じ類の人間であることを、どういうわけか一瞬で見抜いたらしかった。警戒されなかったのは、ぼくのいかにも害のなさそうな出で立ちのおかげか、それともボスがこの集落のことを丁重に扱ったおかげか。

 予想通り、二十年の時を経て、この集落の人口は彼女を抜いて完全にゼロとなってしまった。これで人口が増えていれば、それは最初から限界集落などではなかったということだ。ボスがこの集落を訪れた当時、世帯のほとんどは伴侶に先立たれた独居老人ばかりだったが、一世帯だけ四十代の娘を抱えるところがあった。どうやら名前のないこの鬼の子は、その女性の子供らしかった。


「鬼の子孫が、現代に残っているなんて……」

「……父は、私にも母にも、ありったけの愛情を注いでくれました。たとえ私がこの地の生き証人として生まれたのだとしても……私は、父に感謝しています」

「お母さんは……」

「私が生まれてすぐに、亡くなりました。ご存じかもしれませんが、鬼と人間の合の子は神聖な存在として崇められる代わりに、お腹を痛めた母親は病弱になります。そのために合の子が生贄(いけにえ)として捧げられた時代もあったようですが、父はその風習を嫌ってくれました。……もっとも生贄となったとして、その恩恵を受けられる人間は、もうここにはいないのですが」


 鬼は心の濁った人間には見えない。身内以外では、よほど純粋に育った大人か、あるいは子どもにしかその姿は確認できないのだという。当然、人間の汚れた部分ばかり切り取って疎み、世の中を斜めに見てきたぼくに、彼女の父親がどんな鬼であるかは分からなかった。だがその代わりに、彼女は父親からの言葉を自分なりに解釈し、自分自身の意見として伝えてくれた。


「父は鬼であるとはいえ、すでに何百年と生き続けています。人間に換算すれば、もういつ亡くなっても不思議ではありません。私がここに残れば、私が死に、この場所が誰の記憶からもなくなってしまうだけでは済みません。……現代は、昔ほどこの角が忌み嫌われることはないと、父から聞いております。もうここに閉じこもる必要はない、外の世界で私なりの幸せを見つければいい……それが、私自身の願いであり、父の希望でもあります」


 彼女は横を向いて、つう、と一筋の涙を流しながらうなずいた。ぼくには見えない、父親の姿がそこにあったのだろう。彼女にこれほど流暢(りゅうちょう)になるまで人間の言葉を教えた父親が、どんな顔をしているのか。ぼくには分からなかったが、伝承の中の鬼とは程遠い、優しい表情なのだろうということは、容易に想像がついた。

 どうしてぼくが来る前に、一人で出て行こうとしなかったのか。そんな疑問は野暮だった。そもそも何か疑問が頭の中に浮かんだ時に、それが野暮なものであるとして口に出さずに終えたのは、その時が人生で初めてだった。それほどに、彼女――後にぼくが佳乃と名付ける妻との出会いは、衝撃的なものだった。


「ここを出て行く決め手が、ぼくでいいのか」

「それは何年も後に、分かることです」


 彼女が出て行ったことで、完全に人口ゼロの消滅集落になってしまったことは言うまでもない。しかしそれでいいのだと、彼女自身が言った。きっと、彼女の父親もそう言ったのだろう。一つ集落が消える代わりに、かけがえのない彼女という存在がこの世に残った。大多数の人間から疎まれようとも、自分たちを迎え入れてくれる人間と共存し続けた。その行為の報いが、この時代になってようやく現れた。ぼくは、それが良い報いなのだと信じることしかできなかった。



* * *



「しかし福崎君が佳乃君と結ばれようとはね」


 それからぼくは自分の信じた道の通りに、民俗学をさらに突き詰めるために大学に残ることを選んだ。佳乃という名前は、大学に戻ってきてすぐに考えた。それから数年もしないうちに、ぼくと佳乃はまるで最初からそうなることが決まっていたかのように、夫婦となった。両親はぼくが大学に残ると伝えた時点でもうどこで何をしようがどうでもいい、といった態度を取ったので、ぼくの方も好きにさせてもらうことにした。ボスの研究室のメンバーでささやかに執り行った式の中で、ボスがぼくに向けた言葉がそれだった。


「うちの研究室の中でもとびきり変わり者だった君が、まさか人並みに伴侶を得ようという考えになるとは」

「……いろいろあったんですよ」


 ぼくでさえ、結局ボスの言う通りの人生を歩むだろうと思っていた。一生独り身である方が、研究の邪魔をされずに済む。だが相手が佳乃であるなら、事情は別だ。どんな論文や本にも書かれていない伝承を、彼女の口からは毎日のように聞ける。それも、そんな話をする佳乃は、どんな時より楽しそうなのだ。柔らかで、道端に佇む花のようにささやかだがどこか落ち着く笑顔を絶やさない佳乃は、ぼくにとってすっかりなくてはならない存在になっている。


「はえー、福崎先生の奥さんですか」

「ホントに鬼なんすね」

「触ってもいいですか?」


 ぼくが学生居室に佳乃を連れて入ると、早速佳乃は囲まれてしまう。これまで学生やボスの写真を佳乃には何度も見せたし、佳乃の写真も時々研究室のメンバーに見せてはいたのだが、こうして対面するのは初めてだった。前日に佳乃を連れてくるという話はしていたから、学生の方もある程度準備はできていたようだった。自分で許可しておきながら、角に触れられくすぐったそうにして、助けを求めるふうにぼくの方を見る佳乃。そうしてじゃれ合っていると、すでに着いていたボスが顔を出した。


「おお、佳乃君。久しぶりだね」

「はい、お久しぶりでございます」

「こいつは家でも元気にやってるか。頼むから、飯だけは三食食わせてやってくれ、すぐに文字通り寝食を忘れる男だからな」

「ええ、きちんと食べてもらうようにしています。何より、私の大切な伴侶ですから」


 初めて佳乃に会ったあの時、ぼくは彼女に幼い子だ、という感情を抱いた。二十年生きてきたという割に、どこかあどけなさを残した感じがした。それはおよそ現代らしからぬあの場所で、鬼に育てられるというおそらく唯一無二の経験をしてきたためか。しかし最近になって、どうも佳乃は幼いわけではないということに気づいた。佳乃は見かけからは考えられないほどに精神的に成熟していて、自分がどんな存在であるか、どんな使命があるかを、常に頭のどこかで考えている。ぼくが考えすぎだと言っても、やめる気はないらしい。それが老いた父を置いて、人間の世界に溶け込むことを決めた彼女の責務だと言って、譲らない。だからこそ、佳乃が何気ないように発する言葉の一つ一つは、案外に重い。


「せっかく来てもらったし、ぜひゆっくりしていってくれ。今日は彼も、受け持ちの講義がないようだしね」

「はい、そうさせていただきます。一度学生さんとも、お話ししてみたかったので」


 ぼくが結果として、あの場所から佳乃を連れ出す形になったのは、良かったのか悪かったのか。もうほとんど答えは出ているが、はっきりと結論を出せるのは、まだもう少しだけ先になりそうだ。佳乃の少し大きくなったお腹を見て、ぼくはそう思った。

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[一言] 異類婚姻譚、大好きです。 僕と佳乃の出会いが素敵ですね。 ギュッと詰め込まれた文の厚みも物語に浸ることが出来て幸せでした。 佳乃は鬼ですから、寿命も違うのかな、なんて考えてタイトルを見返した…
[良い点] 伝記とヒューマンドラマを混ぜ合わせ、僕と佳乃の半生を綴った短編。 僕の周囲との相容れなさ、僕と佳乃の出会い、佳乃の過去、僕と佳乃の夫婦生活といった具合にゆるやかに流れる「ひと時」。彼女は…
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