全力で王太子との婚約を回避したい令嬢の友人は、全力でそれを進めたい
「私、悪役令嬢なのよ」
目の前で、優雅にティーカップを傾けながら、リュドミラが言った。ナターシャは首を傾げた。何を言ってるんだろうこの方は?
「信じてないわね・・・あぁ、悪役令嬢って、何だか知ってる?」
「いいえ、あの、ええっと、・・・突然で驚いただけですわ。悪役令嬢って、つまり、悪い役を担うご令嬢ってことですわよね?」
「ええ。そうよ」
「誰の何のための悪い役ですの? リュドミラ様はいつだってお優しくて、それでいて厳しくて、とても頼りになる判断をなさると評判ですわ。喧嘩を仲裁なさる時には時々、悪役を買って出ることもありますが、その時でも、どんな采配がなされても、最終的にはどちらの方にも、感謝されておられるじゃありませんか。だからこそ、王太子殿下とのご婚約も、誰からも反対の意見がなく」
「それよ」
「何がでしょう?」
「私、王太子殿下と婚約なんてしたくなかったのよ。もう直ぐ学園に入学するでしょう? とりあえずそれまでに婚約しなければとりあえず大丈夫だと思ってたのに・・・これじゃ、死亡フラグ確定だもの」
「・・・それはなんなのでしょうか?」
リュドミラが言うところによると、ナターシャのいる世界は、彼女が元いた世界では、少女たちが好んでするという乙女ゲームというお遊びの中の世界だという。
その物語は学園に入ってからがスタートで、主にヒロインがターゲットである男性を攻略する物語であり、その攻略対象と言われる男性は、五人いて、その中に王太子殿下も入っているそうだ。
一人一人にヒロインとの物語が用意されているが、リュドミラはその中の一つ、王太子殿下を選択するルートのヒロインのライバルになる役だという。
そして、彼女はリュドミラに転生してきているのだと。
「ですがリュドミラ様・・・、ここが乙女ゲームとやらの世界だとしてもですよ。何回もやり直しがきくようなものではありません。ですから、そうなるとは限らないと・・・」
「ゲームの世界じゃないからこそですわ、ナターシャ様。現実だったら、どう? 王太子殿下を狙えるのなら、狙いたいものでしょう?」
「・・・ええ、そうですわね・・・」
あなたは狙っていなかったのに? とは、ナターシャは聞けなかった。リュドミラの憂い顔があまりに美しかったからだ。
「つまり、きっと、ヒロインは王太子殿下を狙う。そして私は死刑になる」
「え・・・えぇ?! ど、どうして・・・」
「いろいろよ。ヒロインにいじめを繰り返した罪もあるけど、そのために、裏金使ったり脅迫したり誘拐したりと、散々だったんだもの」
「・・・リュドミラ様が意味もなくそのようなことを?」
「うん、私自身じゃなくて、ゲームの中の、”リュドミラ”ね」
「はぁ、・・・」
ナターシャは困惑しながらも、なんとか頭をついていかせた。
「この話を、なぜ私に?」
「今の今まで、一緒にいる人たちって、ゲームで顔を見てきた取り巻きたちばかりでしたの。だからとても慎重に行動してきましたのよ。みんなの模範になるようにって。ゲームのリュドミラはとても意地悪で、取り巻きのお嬢様方も、私の権力を笠に好き放題していました。だからこそ、最終的に断罪されるのだけど、それはとてつもなく嫌だから、回避できるように頑張ってきましたの。優しく、目立たないように、謙虚に。
でもね、途中で気がつきましたの。ゲームで出てこない顔は、私の近くに寄ってこないってこと。つまり、ゲームの強制力が働いて、結局は同じ流れになってしまうんじゃないかと思って。
だから、ゲームでちらっとしか出てこない人たちにもとりわけ優しくしましたのよ。でもうまくはいかなかったの。近寄っては離れていった。
なのに、あなたは、ゲームで見た顔じゃない。それでいて、付かず離れずの距離で、私と友達でいてくださる。だから、もしかしたら、あなたがいてくれれば、変わるんじゃないかと思って。
私が王太子殿下と婚約をしなくて済むんじゃないかと・・・思っていたの」
風がサァッと吹いて、二人のティーカップを揺らした。
リュドミラの言葉はその風にかききえるように溶けていったが、逆にナターシャの心にはベトリと張り付いて離れなかった。
「それは・・・申し訳ありませんでした、リュドミラ様。よくわかりませんが、わたくしがリュドミラ様をがっかりさせてしまったことはわかります」
「いいえ、違うの。違うのよ。それでね、私、思い直したの。考えてみれば、あなたがいるだけで強制力がなくなるなら、私がちょっとずつ変えてきたことだけでもきっとなくなっていた。つまり、それだけじゃダメなのよ。協力してもらわないとならないなって、思ったの」
「・・・協力?」
「ええ。こんなこと、私が頼むなんて馬鹿らしいとかお思いかしら。そうなの。王太子殿下との婚約破棄を、できるだけ早く、可及的速やかに行うことができるように、協力していただきたいの」
「・・・ですが、・・・」
ナターシャは言葉を濁した。
話が違う。
王太子殿下は誰にとっても憧れの人だ。だから、もちろん、リュドミラだって、王太子殿下と婚約できて嬉しいのだと思っていたし、みんなから羨ましがられていたのだから。
美しく、機知に富んだ侯爵令嬢。
どう見たってこの人以外に、あの見目麗しい聡明な王太子殿下にふさわしい方はいないと。
「お願い、ナターシャ様。切実なの。私だって、貴族ですし、愛のない結婚も、政略的な婚約だって気にしないつもりでしたけど、破滅するしかない婚約は絶望しかないし、まっぴらごめんなのよ。王太子だってどうせヒロインを好きになるんだと思えば、好かれる努力だってしたいとも思えないし・・・」
信じられない。あれで好かれる努力をしてこなかったとは。
ナターシャは思い返していた。
王太子殿下の話題になると熱心に耳を傾け、ご本人と話す時だって、それは身を入れて話を聞いていたではないですか。
絶対好きだと、憧れていると、王太子殿下に嫁ぎたいものだと、・・・思っていた。
王太子殿下だって、自分はリュドミラに愛されていると、そう思っているのだ。
王太子という地位だけに興味のある令嬢には、全くもって興味を持てなかった彼が、初めて恋したお相手。
なぜなら、リュドミラは王太子殿下のことを理解しようとしてくれている、本当の自分を見てくれる貴重な方なんだと。だから、とてつもなく惹かれて、リュドミラのことを忘れがたく、学園で誰か出来てしまったら大変だと、形を整えてから入学という形にしたのが、今回の婚約の理由だ。
王太子殿下にとっては、学園に入学してからでは遅かったのだ。
「わたくしがその話を信じると?」
ナターシャが言うと、リュドミラはふふふと可愛らしく笑った。
「わからないわ。賭けなの。信じてくれるんじゃないかと思ったけれど、信じてもらえなくてもいいの。私が頭のおかしい女だと噂になれば、結局は王太子殿下との婚約破棄ができるんじゃないかと思うし」
「そうですか」
「ええ。そうなの」
リュドミラが困ったように目を伏せる。ナターシャも困っていた。
何をどう伝えればいいのか。愛のない結婚ではないと伝えればいいのか。王太子殿下は両思いだと考えてると伝えればいいのか。
あのリュドミラにメロメロといった話し方をみれば、到底、別の誰かに目を奪われることなど考えられないと伝えればいいのか。
それとも、リュドミラの言うヒロインは、それ以上の魅力を持っているというの?
この目の前の、誰より優れた美しい令嬢よりも。
「その、・・・聞いてもいいのでしょうか、ヒロインという方は、どなたなのでしょうか?」
「信じてくださるの?」
「いいえ、まだ、半信半疑です。でも、リュドミラ様が嘘をつくような方だとは思えませんし、妄想癖があるようにも、虚言癖があるようにも思えません。ですから、・・・知りたいのです」
ナターシャが真剣に言うと、リュドミラはホッとしたように、ふんわりと笑った。
「ありがとう」
最高。この笑顔、永久保存したい。
「伯爵家の、アナスタシア・エフシコフ様よ」
リュドミラがこともなげに言った。
「アナスタシア様? ・・・って、赤ん坊の時に召使に誘拐されて、最近まで庶民として暮らしてらしたという・・・」
「ええ。あのお可愛らしい方。笑顔がひまわりのようで、微笑みはスミレのようで、真剣な顔は百合のようで、本当に何をとってもおできになる方よ。性格もいいの」
「お詳しいですのね」
「ええ、ヒロインですもの、何度もプロフィールを読んだし、モブの言い分を記憶して憧れたわ、・・・じゃなくて、素敵な方だもの、覚えてしまうのは当たり前でしょう? だからこそ、王太子殿下も惹かれるのです。アナスタシア様の、”その身の内に秘めた強い正義、それを実行する確かな能力、でも決して浅はかではない、計画力”。これもう、ほら、王妃にふさわしいでしょ? そう思うでしょ? 断然、私より王妃でしょう?」
興奮気味に言いながら、リュドミラは嬉しそうに目を輝かせる。
どうしよう・・・
ほんと、どうしよう。
ナターシャは、ええ本当にそうですわねぇと相槌を打ちながら、頭の中でぐるぐると悪態をつきまくっていた。
あのクソ王太子、一つも当たってねーじゃねーか
”リュドミラは強いが純粋で優しい子だから、すぐに別の男にほだされるんじゃないかと心配だ。僕以外の人に心を動かされて欲しくない。だから、あの子を陰ながら見守ってほしい。それができるのは女性である君だけだ”
とかなんとかほざきやがってあいつ・・・
ある意味心は動かされているが、逃げたいモードでしかない。
ただ、ナターシャにも悪いと思えるところがあった。
その王太子の言葉を信じ込み、リュドミラ自身が本当に何を思っているのか、考えたことがなく、ただ、世の中の傾向に従って、きっとリュドミラは王太子と両思いだから婚約は進めて大丈夫だと、太鼓判を押してしまったのだから。
それなのに、リュドミラは、自分を信じて、一か八か、本心を自分に伝えてくれたのだ。
彼女が嫌がっていた”王太子殿下との婚約”を、進めてしまったナターシャに。
「ですが、リュドミラ様。その物語のルートというものがあるとすれば、必ずしもアナスタシア様が王太子殿下を選ぶとは限らないのでしょう?」
「そうですけど・・・無理よ。だって、王太子殿下よ? えーっと、”王族らしい見目の麗しさを引き立たせるかのように、太陽のようなお人柄と獅子のような勇敢さを併せ持ち、そして誰にでも公平な目を持ち、そして愛情深い、”とかなんとか、そういう人なのでしょう? よく知りませんけど」
「知らないのですか? 時折、お話になっているのでは?」
「そうね、話しているわ。婚約者選定される時から、今でも、定期的に会わなければならなくて。でもねぇ、会話も、殿下が私を延々と褒め称えてくれたり、私も褒め返したり、あーだこーだ愚痴を聞かされたり、さして面白いものでもありませんでしたし、・・・欠点をついてやろうと思って隙を見せないでいただけで、よく覚えておりませんのよ」
嘘でしょう?
王太子殿下が、毎回あれだけ考えていた口説き文句を”さして面白いものでもありませんでした”と?
「リュドミラ様は、お褒めになられるのに慣れてらっしゃるのですか? わたくしなど、褒められ慣れておりませんから、男性にお愛想で褒められただけでときめいてしまいますもの」
「あら、何を言ってるの。ナターシャ様はとてもお美しいじゃないの。いろんな方からお誘いを受けてらっしゃるの、知ってるのよ、私。でも、どなたにもなびかなくて、その姿もとても素敵だわ」
「まさか。みなさん、私そのものより、使い勝手のいい地位がお好みなんですのよ。伯爵家の次女など、一番手が届きやすいんですから」
「そんな風におっしゃるものではないわ、ナターシャ様。あなたは美しくて賢い方よ。お友達になれて嬉しいの。それに、あなたといると、ゲームのことを考えずに済むから」
「そのようなこと、」
「だって、王太子殿下とご一緒していると、ゲームではこうだったとか、こんな顔してなかったとか、見たことあるとか、そういうことしか考えられないんですもの。なのに、殿下は私のことをとめどなく褒めたり、うっとり見つめたり、頬を赤く染めたり、接待も大変だなといつも思って、すごく疲れるの」
疲れてたのか・・・
王太子が元気になったと浮かれて帰ってくるその背後で、リュドミラは疲れていたと。
自分のことばかりじゃなく、好きな相手の様子くらい確認しとけって話だよ王太子さんよ・・・
「・・・どうでしょう、その王太子殿下のお言葉やお姿をそのまま御受け取りになっては?」
「そのまま受け取る?」
「・・・リュドミラ様に恋しておいでなのでは?」
「あら。それはないわ。王太子殿下は、アナスタシア様が好みなのよ。私をお褒めいただけるのはありがたいことですが、最終的には私に向けられるものではないと思うと、興が削がれると言いますか、まぁ、・・・攻略対象の殿方以外なら、ときめくかもしれませんわね?」
そうなっちゃいます? ああ、そうなっちゃいますよね・・・
その乙女ゲームとやら、許すまじだ。
本当、殿下の純愛を邪魔してくれてどうするんだよ。
ナターシャは肩を落とした。
「それは・・・婚約破棄するには難しいことですわ」
「そうねぇ。むしろ、私が辛くなるわよね。政略結婚に愛のない家庭、好きな相手とは結ばれず・・・あーあ、ついてないですわぁ」
「そんなことございませんわ」
「あら。何か婚約破棄できそうな、いい考えがあるの?」
「いいえ。でも、斯くなる上は」
ナターシャは机を強く叩いた。
「ルート変更です、リュドミラ様」
「なんですって?」
「アナスタシア様が想うお相手は、まだ決まっておりませんわね? 学園が始まるのがゲームの始めなら、それまでは何もわからないのですよね?」
「え、ええ、そうね・・・」
「でしたら、こうしませんか? アナスタシア様のお相手を、王太子殿下ではなくするのです。その、攻略対象の方も、他に四人いらっしゃるのでしょう。そうしたら、その四人の誰かにお相手になってもらえるように、力を尽くすのです」
「そうすると、どうなるの?」
「王太子殿下とリュドミラ様は、つつがなく結婚できます。そうですよね?」
「うーん、・・・そうなのかしら? そうね、王太子殿下のルートの時、悪役令嬢は私だけど、他のルートではスペシャルサポートキャラになってたり、友情イベントがあったりしたわね・・・」
自分で言ったことを確認するように、リュドミラは考え込んだ。ナターシャはそれに追従するように話を進めた。
「それならば、リュドミラ様が、アナスタシア様のご友人として、一番なりたい姿になれる攻略対象者様を、アナスタシア様が好きになるように仕向けるといいのではないでしょうか!」
「でも、それだったら、別の方が悪役令嬢になってしまうわ。その方が断罪されて、結局、攻略対象の友人である王太子殿下が出張ってくるしかなくて、死刑になってしまう・・・」
リュドミラが涙目で俯く。
「そんな・・・」
どうしたらいいの。
どうしたら・・・
「それでしたら、そのご令嬢に対しても、そうならないように、リュドミラ様が動いてみては?」
「私が?」
実際に動くのは自分だけど、とナターシャは心に決めた。
そうだ。やってやる。なんとしても誰も傷つかないハッピーエンドとやらに導いてやる。
「そうです! そのご令嬢のことも、知ってらっしゃるのですよね? でしたら、リュドミラ様が先んじて、それとなく動いてあげればよろしいのです。その令嬢に別の方を当てがうのでも良いでしょう。泣いたらフォローして差し上げるのもいいでしょう。でも、アナスタシア様に何かして、彼女たちが断罪されるのを防ぐのです。そうすれば、誰も傷つかず、不幸にならず、死ぬこともありません」
「そんなこと、私ができるかしら?」
「ええ、できます。だって、王太子殿下のご婚約者、リュドミラ・ユーディナ侯爵令嬢ですよ? 誰もが羨む、憧れる、素敵な方です! わたくし、応援いたします! そして、誰も傷つかず悲しまず、リュドミラ様は王太子殿下と無事に結婚して、愛のある家庭を築くのです!」
そうすれば、自分の失態も見過ごされる。
ナターシャは多少自分の利己的な部分が入るのは仕方ないと、心の中で謝罪をした。
だって仕方ないじゃない。リュドミラ様が王太子殿下のことをなんとも思ってなかっただなんて、そんなこと、言える?
ーー無理。言えやしない。
だって、王太子殿下は年齢の割にはよくできたご立派な人だけど、恋愛事に関しては打たれ弱いのだ。兄とも慕う人に泣かれては自分の立場がない。
そう。
王太子の乳兄弟として育てられたナターシャは、王太子殿下に仕える身としてここにいる。
ナターシャは小さい頃からずっと、王太子のために隠密行動をしてきた。
どこにでも潜り込める”女の王太子の乳兄弟”の立場はとても便利で、とても重宝されてきた。王太子を守るという役どころでは実の兄には敵わないが、隠密行動は誰にも負けない。
王太子殿下のためになることなら、なんだってできなければならない。王太子と、彼が大切に思うものを守るためなら、死すら辞さないほどに。
そのために、協力者である伯爵家の次女に早々に養子に入り、最終的に、こうして、婚約者となったリュドミラと仲良くお茶できる立場になることができた。これで、リュドミラに近づく輩を排除できるはずだった。
・・・それなのに。
「愛のある家庭? 殿下と? さすがにそれは無理よ」
リュドミラが心底おかしそうに笑った。
お願い、作って! 頼むから!
ナターシャは声にならない叫び声を、紅茶とともに飲み込んだ。
表記ゆれ等を直しました。
リュドミラ → 私
ナターシャ → わたくし
になっているはず・・・