垢溜まり
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おお、つぶらやくん。君も調べものに来たのかい? 社会政策のディベート、今週末だもんな。
僕のグループは人口政策を取り上げることになってね。これまでの日本の人口推移に関するデータを集めているところなんだ。
どうも、これから日本の人口は減り続けていくくさいよ。何より、僕のじいちゃんが七人兄弟。ばあちゃんだって五人兄妹のひとりだ。それに対して僕は一人っ子と来ている。明らかに子供の数は減っていくだろう。
父さん、母さんの世代にだって事情がある。産めよ、増やせよとはいかないさ。でも、このまま人が減り続けたらどうなる?
ぱっと考えるだけでも、労働者が減り、儲けも減る。そうなると国に納められる税金の額だって少なくなって、国全体が立ち行かなくなるんじゃないかな、と思う。
でもね、何も数が減るのは、僕たちの意思によらないところが大きいかも知れないよ。それこそ、天の思し召しって奴さ。
そんな大きな力を感じる経験があったんだけど……どうだい、聞いてみないかい?
数年前。まだ僕が受験勉強にあえいでいた頃のこと。
地元では、長年続いていた道路工事が終わり、幹線道路との結びつきが強くなった。ショッピングモールを始めとして、色々な開発も並行して行っていたから、それらの開店、開通と前後して、交通量はじわじわと伸び出した。
ショッピングモールが、駅から少し離れていることもあってね。駅からバスが出ていたのを覚えているよ。そのせいか、道路に車が詰まって、なかなか動かないということもあったね。
珍しい光景も見られたもんだと、休み時間に勉強をするかたわら、校舎からのんびり見下ろしていたんだけど、そのうち嫌なものを目にする機会が増えた。
一学期の終業式前だったかな。下校途中に、「キキキイ」とタイヤが急ブレーキをかけながら地面にかみついていく、あの耳障りな声が聞こえてきてね。ほどなく衝突音。
やっちまったなと思いつつ、音源はそれなりに近いと感ずるや、つい寄っていってしまうあたり、僕もやじ馬根性が染みついていたのだろうなあ。
現場には、本来の進行方向とは正反対を向き、後部タイヤが縁石に乗り上げた軽車両の姿。すぐ脇のガードレールがへこみ、バックランプが割れて、砂浜のきらめきのごとく破片が付近に巻き散らされている。
どうやらスリップしたらしい。車は一台で、ぶつけられた人や車はいないようだ。けれど、僕には腑に落ちないところがある。
ここの道路。少しは曲がっているものの、急ハンドルを要するほどじゃない。滑るためには相手や、何かがなくてはおかしいんだ。でも、見た感じでは原因になりそうなものが見当たらなかった。
パトカーが近づいてくる音。話を聞かれる羽目になったら面倒だなと思って、僕はその場を後にした。
それから交通事故に少し気を払うようになった僕は、何度か事故になりかけた現場を目撃することになる。一番危ないと感じたのは、ちょっと用事があって件のショッピングモールに寄った時だった。
お目当てのものを手に入れてほくほくしながら、ショッピングモール前の横断歩道で信号待ちをする僕。すぐ隣はショッピングモールの駐車場入り口で、出入りする車の姿もちらほら。
また一台。車がモール敷地内から頭を出して、左折のタイミングをうかがっている。そして珍しく車の列が長く途切れて、待っていた車が曲がり始めた時……滑ったんだ。
対向車線までは、はみ出なかった。けれど、車体の後部は見事に扇形を描く、180度回転。つられて、はからずも回転の軸となった車体の前部も反転。進行すべき方向へ完全に尻を向けた。
後部のタイヤが鳴く。不本意な動きでアスファルトをこすりながら、縁石に頭突きをかましたんだ。僕がタイヤの立場でも、悲鳴のひとつくらいはあげたくなる。でも、それ以上に……。
タイヤが縁石とぶつかった時、僕めがけて黒い液体が飛んで来たんだ。不意をつかれたこともあって、かわせなかった。
もろに全身にかぶって、視界が真っ茶色に染まる。思わず服の袖で顔を拭うと、意外なほどあっさりと取れた。
いかなるものがついたのか、袖を見てみるのだけど、何もついていない。それどころか服もズボンも汚れた形跡がない。けれども廃油の匂いだけはプンプン漂って、鼻は瞬く間にバカになってしまう。
――もしかして、すぐ染み込むタイプの汚れ? 勘弁してくれよ〜。
買い物で良くなった気分を壊されて、大いに腹が立つ。先ほどのスリップした車の中で、運転手が必死にエンジンをかけ直そうとしているようだけど、なかなか動かない。そうこうしているうちに、その車自身が栓となって、近づいてきた車たちの流れを止めてしまう。
僕は彼らを尻目に家へ取って返したものの、途中ですれ違う散歩中の犬数匹が、盛んに吠えてきたり、ズボンのすそに取り付こうとしてきたりと、少し不愉快。
すぐにシャワーを浴びて着替えようとしたのだけど、身体をこするたびに、そこかしこから垢が丸まりながら出てくる。ついには爪を立てて、皮膚の表面に血がにじむほど力を入れたけど、それでもしぶとく出てくる様は、まるで僕自身が垢のかたまりになってしまったかと思うほどだった。
翌日。制服の下から匂いが出ているのか、鎖につながれている飼い犬に吠えられたのに加えて、鼻がいい何人かの先生やクラスメートからも臭いの指摘をもらう。やはり、機械のものというより、料理油が焦げついたものに近いらしかった。
一応、消臭スプレーは持ってきていたけれど、焼け石に水。どうしたものかと思いながら、その日は部活にも行きづらくて、同じ部の友達に連絡をお願いして、帰ることにしたんだ。
昇降口で外靴に履き替えようとしたところで、ぽんと肩を叩かれる。今日、臭いのことを指摘してきたクラスメートのひとりだ。普段はあまり話をしないから、顔を見た時には少し警戒しちゃったよ。
「引っかけられたんだろ? 君も」という彼の言葉に、僕は「なんのこと?」と首を傾げる。
「その臭いのことさ。君も車にかけられたんじゃないか? 事故った車にさ。そんで全然臭いが取れず、風呂に入ったら垢が大量に出てくる……違うかな?」
見ていたかのような、正確な指摘。「もしや」と僕が思ったところで、時間があるならついてきなよ、と率先して靴を履き、手招きをしてきた。
彼が招いてくれたのは、彼の自宅だった。ブロック塀が立ち並ぶ中、生け垣に囲まれている年代物の一軒家。その垣根と玄関の間に広がる庭の隅で、盆栽の世話をしている初老の男性に声をかける彼。口ぶりからすると、相手は彼の父親らしかった。
やがて父親が僕に近づいてきて挨拶すると、「垢落とし」をしたいから、準備をするまでの間、居間でくつろいでいてくれ、と家の中へ招いてくれる。
飲み物を出すと、ジャージに着替えて風呂場へこもってしまう父親。その間の話し相手になってくれた彼の話によると、僕についているものは、垢は垢でも、「めぐり」が悪いゆえに生まれた老廃物なのだという。
「このあたりも、最近、車が詰まること増えてきただろう? ちょっと前までは閑散としていたのがウソみたいだ。そんな過渡期にはさ、ついていけないんだよ。俺たちを取り巻いている空気って奴が。
だからいつもなら人目につかないほどしか出ない老廃物が、余計に姿を現してくるんだよ。お父さんの話じゃね」
「それを放っておくと、ああいう事故が起こるってわけ?」
「ん〜? あれは序の口らしいよ。僕たちの感知できないところで、似たようなことが起きているってさ。
で、溜まった老廃物っていうのを、身体がどうするか知っているよね?」
ニヤリと笑う彼は、そっと下っ腹のあたりをなでる。ほどなく、風呂場から僕を呼ぶ声がした。
牛乳風呂というものに、僕は初めて入らされた。ああ、彼のお父さんが申告してくれたのを正直に受け取ったらの話だけどね。
ためらいも少しはあったが、先の話を聞くに悪ふざけとも思えない。実際には普通の風呂と大差ない心地。ただ10分は湯船に浸かっていて欲しい、との依頼。数分もすると、理由もすぐに分かった。
出るんだよ。垢をどこまでもペースト状にしたものが、お湯に浸かっている肌からじわじわとさ。お湯が白く濁っているんで、沈んだ下半身は見えないけど、時々、海底火山のごとく「ぷかっ」と、同じようなものが浮かんでくるのだから、つまりそういうことなんだろう。
既定の10分が経った時には、もうお湯の中から白い部分を探すことの方が難しいくらいに、どす黒く濁っていた。けれど、バスタオルで身体を拭いて服を着直すと、あの油の臭いはすっかり取れていたんだ。
例の風呂の水に関しては彼のお父さん曰く、然るべき処置をするとのことで、すぐには流さず、そのまま取って置かれることになった。
家に帰った後も、その夜も翌日も、あの臭いが漂ってはこなかったよ。彼の話では、しばらくあの幹線とつながった道路から、離れた方がいいと聞いた。どうも彼の父親曰く「排泄の時が近づいているから」とのこと。
それから数日後。幹線とつながる陸橋の上で、車の事故があったらしい。「らしい」というのは、橋のへりの一部が破損し、バンパーやガラスの破片というものが道路一面に散らばっていたんだ。部品の違いから数台の車の事故と判断される。
ただ事故を起こしたはずの車たちと、それに乗っていた人たちについては、とんと行方がつかめなかった。しばらくは防災無線で、行方不明者が出たことを知らせていたけれど、とうとう発見されたという話を、聞くことはなかったよ。