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「あれはお前だったのか」

 俺は全く気付いていなかった。

「そう……。やっぱり登間利君は憶えてなかったんだね」

 寂しそうに綾が言う。

「憶えてないっていうか、クラスが別だったし入学したばかりであの頃は誰が誰だか分からなかったもんな」

 そもそも背負っている俺からは見えないので顔の印象が薄かったということもある。

「私は美原さんから聞いて登間利君だと知ったから」

 背負われてる最中はそれどころじゃなかっただろうしな。後から「あれは誰だ?」と美原に確認したんだろう。

「お礼を言わなくちゃって機会を伺ってたんだけど、なかなか難しくてさ」

「そうか?」

 しかしお礼を言われるほどのことはしてないんだよな。むしろ、己の体力の無さを理由に不正ズルを強要したようなもんだ。

「そんなことはないよ。おぶっている間、ずっと登間利君私に声をかけてくれてたよね」

 まあ、確かに。

 回想では端折ったが俺はおぶっている間中、女の子に「大丈夫か?」とか「頑張れ」とか声をかけていた。

 黙っていると恥ずかしかったというのもある。半分はそれを紛らわせるためなのだが、残りの半分は割とマジに女の子の命の火が消えてしまいそうな錯覚を覚えたのだ。

 生き物を飼ったことがある者なら解ると思う。死んでいく者の生命はゆっくりと少しずつ消えていく。そんな弱々しさが、その時の彼女にはあったのである。

「あれが三日月だったとはな」

 俺は唸った。

「二年生の時、登間利君に倒れ込んだこともあるんだよ」

「ああ、それは憶えているな」

 その時から、俺は綾のことを意識し出したのだ。忘れる筈がない。

「あの時はすぐ隣に登間利君が立ってたからさ。緊張して心臓はバクバクして、頭もクラクラしてきて……で、倒れちゃった」

 そうなのか? 

 それは驚きの新事実という奴だ。

「あんなに近くに接近したのは遠足の時以来だし」

 それが事実なら相当にナイーブな奴である。

 いや、でも今、俺の隣に綾が立っていたとしたら、俺の心臓もバクバク鳴るんじゃないだろうか?

 今は別の意味で鼓動が早いのではあるが。

「ちょっと大袈裟だけど、登間利君は私の王子様って感じだったんだ」

「それは(ちょっと)ではなく(大変に)大袈裟な物言いだな」

 こんなにヒネくれた王子様なんて居ないに違いない。自分で考えても俺はそんなキャラでは無い。

 それでもまあ、病弱だった綾のフィルターを通して見れば、それもアリなのかもしれない。誰しも弱っている時に優しくされれば勘違いしてなびいてしまうのも当然の話である。

 ところが「そんなんじゃない」と彼女は口調強く否定した。

「私は遠足から以来ずっと登間利君のことを見てたんだよ。ずっと長い間、想ってたんだよ。勘違いで片付けられちゃ堪らないよ」

 頑に言う。

 確かに俺のようにぬるくて淡い恋心というようなものとは一線を画す感情がそこにはあるのかもしれない。

 その所業が、目の前にある人間標本モドキという結果なのだろう。それを思えば勘違いと言うのは、それこそ勘違いも甚だしい物言いだ。

 「つまり……」

 俺は言った。

「お前は俺に忘れられたく無いから、こんな状態になったというのか?」

「もちろんそれだけじゃないけど端的にはそう。私にとっては登間利君に何も伝えられないまま消えてしまうのが怖かったんだ」

 ぐうの音も出ないとはこういうことなのだろう。

 俺は返答に窮した。

 本音を言えば嬉しかった。綾の言葉を置き換えれば、俺は綾から告白されたも同然である。俺だって綾に好意を抱いていたのだ。嬉しくない筈が無い。

 しかし一方で、この大袈裟な所業に付いていけない自分も居る訳だ。一体、どれだけのカネと人智をつぎ込んだ与太話だというのだろう?

 もちろんこれは大学の研究とやらであって、綾は(たまたまそこに担ぎ出された存在)に過ぎない。だとしても、こうなった発端は綾自身にある。彼女の願いがこうさせたのだ。そしてそれを笑い飛ばせるほど俺は器の大きな人間ではなかった。ドン引きするのも無理からぬ話じゃないか。

 しかし俺はそんな素振りを見せるべきでは無かったのだ。

 決して綾に悟られてはいけなかったのだ。

 そんな俺の様子を認めたであろう彼女はこう言ったのである。

「そんなワケで私はそろそろ消えようと思うんだ」

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