時の流れ 新しい思想
広州の小さな茶館「老田茶店」は、夕方になると読書人の客で席が埋まるのが常だった。若いのもいれば、老いたのもいる。彼らは「国家の大事」に関して議論を交わすのが好きだった。口を開けば「立憲!」「仇教!」「変法!」と、知識人らしく小難しい言葉を連呼し、意味の無い会話で時間を浪費している。
彼らがそんなことをしている間、清は隣の小国・日本と戦争し、あろうことか大敗を喫した。このニュースは茶館の読書人達に酷い衝撃をもたらした。彼らは国家の大事について、以前よりも激しく議論を戦わせるようになった。つまり、より多くの時間を無駄にするようになったわけだ。
その日も「老田茶店」の卓は読書人で埋め尽くされていた。店主の田じいは、なるべく彼らと関わらないようにしているが、時々呼び止められて無理矢理意見を聞かされる。お前は国家の危機をどう思うのか、と。田じいはむっつりしたままで、何も答えない。彼にしてみれば、国の危機よりも毎日食べていくことの方が重要なのだ。読書人どもはお茶一杯と僅かなつまみで何時間も居座るから、店の回転率が下がって売り上げにも響く。田じいとしては、有り難くない客だった。けれど相手は読書人、本を読んで知識もあるし、敵にまわすと口達者でかなわない。それに万が一、ここで騒いでいる読書人のうち、将来科挙試験に合格してお役人様になる者もいるかもしれない。その時はたんまり祝儀を貰いに行って、日頃の鬱憤を晴らしてやろうと田じいは考えていた。
うるさい読書人の席を離れ、空いた卓を布巾で拭いていた矢先、背後で声がした。
「親父、随分不機嫌な顔をしとるのう」
田じいは振り向いた。声の主が岳洋の旦那様だと気がついて、すぐさま側に駆け寄る。
「これは、旦那様でしたか」
「店がこんなに賑やかなのに、一体どうしたことだね?」
田じいは顔をしかめた。
「とんでもございません。連中の口ときたら洪水か何かでございますよ。わしゃとても耐えられませんや」
岳の旦那様はほっほと笑い、空いた茶碗を持ち上げた。
「茶をもう一杯貰えるかね。それから塩卵、茴香豆、あとは何か揚げ物でもあると嬉しいが」
「はい、はい! すぐにお持ちいたします」
すぐさま厨房へと走る。
岳の旦那様は、この店でも唯一といっていい上客だった。歳は六十そこそこ、さっぱりした身なりに知的な顔つき。立ち振る舞いも上品で、風格が漂っている。いつも決まった時間に来店し、窓際の小振りな席に座る。お茶と三、四品のつまみを注文し、騒ぎもせず、必要以上に長居せず、まことに礼儀正しい客だった。
これがあの読書人どもになると、大抵大きい円卓を五、六人で占領し、ずっと騒ぎ続けるのだ。そのうえ連中ときたら、偉そうな割に身なりは貧乏くさく、中には風呂に何日も入っていないような者までいる。まったく迷惑極まりない。
岳の旦那様は、田じいの知る限り本物の読書人たる人物だった。
岳洋は注文を待ちつつ、じっと周囲の会話に耳を傾けていた。隣卓では、ついこの前に交わされた日本と清の条約について、読書人達が意見をぶつけている。
一人の老人が、いかにも大儀そうな調子で述べた。
「聞いたか、日本は政府へ台湾の割譲を要求したようだぞ」
「台湾を? どうしてかね?」
向かいの男が尋ねると、その隣にいる出っ歯の男が答えた。
「そりゃ決まっとる。台湾は北京に近い。日本の蛮人どもは、北京を攻める足がかりにするつもりだ」
読書人達が揃って頷き合う中、岳洋はやれやれと首を振り、嘆息した。どういうわけか、彼らの見ている地図では台湾が北京の近くに書かれているらしい。
「どうしたのかね、ため息などついて」
顔を上げると、友人の鄭秀文がそこにいた。
岳洋はにっこり微笑んだ。
「おお、待ちかねたぞ。座りなさい」
鄭秀文は酷く大儀そうに腰を下ろす。その様子を見て岳洋も苦笑した。お互い、もう若くはない。
隣卓の読書人達は、台湾を日本へ渡してはならない、と狂ったように連呼している。まったくもって無知な連中だ。そもそも彼らには、国が侵略されている危機感など無いのだ。ただ自分達の知識をひけらかし、政府を批判し、民衆を啓蒙する振りをしているだけ。地位も金も無い彼らは、そうすることで読書人の面子を守っている。
渋い顔になっている岳洋を、鄭秀文がなだめた。
「連中の言葉に耳など貸してはなりませんぞ。どうせ、国のことを真剣に考えてはいないのですからな」
「それはもちろんじゃ。あんなことでいちいち怒っていたら、寿命を縮めるだけじゃろうて」
「ところで」鄭秀文は身を乗り出した。「北京の件を聞きましたかな。本当ならば、我々も急いで準備をせねばなりますい。今度の運動が、中国の命運を決めるかもしれませんぞ」
「まさしく。いよいよ中国が変わる時が来たのじゃ」
周囲のやかましい読書人達は知らないだろうが、北京では今まさに、中国の行く末を左右する大きな運動ーー通称・変法自強運動が起こっているのだ。
きっかけは言うまでもなく、先の戦争で中国が日本に破れたことだった。とるにたらないはずだった東の小国に、我が中国が負けた。この恐るべき事実は、一部の知識人達の眠っていた意識を呼びさました。
彼らは日本の強さの秘密を探ろうとした。そして決定的な理由を掴んだ。意志が強く、優秀な指導者達によって行われた維新改革が、日本を強国に変えたのだ。中国も変わらなければならない。それも表面的にではなく、徹底的に! 中国はこの三十年「中体西用」の言葉通り、西洋の進んだ技術を取り入れつつも、体制は伝統的な中国のものを維持しようとした。しかし、それがいけなかったのだ。中国の体制は腐敗し、機能しなくなっている。度重なる失政と、数々の戦争敗北。日本のように、技術だけでなく政府の仕組みも変えていく必要がある。
北京では康有為、梁啓超といった人物が既に改革運動を開始したと聞いた。何より、現在の皇帝もこの運動に賛成しているという。
岳洋もこの運動に多大な期待を寄せていた。ようやく、時代が彼の思想に追いついたのだと思っていた。
岳洋がまだ幼い頃から、中国は戦乱の真っ直中だった。阿片戦争、アロー戦争、それに太平天国の乱……。
岳洋の父は旗人(清朝の支配層である満州人のこと)の血を引く軍人で、洋務運動(当時、西洋の優れた科学技術を導入し国力を高めようとした活動)を推進する一派に属していた。西洋人から様々な兵器を購入し、研究し、国内の製造工場で生産運動を展開していた人物だった。そんな親のもとに生まれたせいか、岳洋も小さい頃から西洋の進んだ兵器に興味を持った。五つ上の兄が若くして科挙に及第したため、次男の岳洋は勉強のことでとやかく言われず、比較的自由に育った。書物よりも武芸を好み、銃の扱いや大砲の撃ち方を学んだ。
岳洋が二十五歳の頃、父は自身の兵器研究に限界を感じ始めた。より大きな成果を求めるには、西洋の文化に通じた人間が必要だった。そこで政府のコネを利用し、岳洋を徳国へと留学させたのだ。当時、見識のある官僚は自分の息子や教え子を海外へ送り出すことが少なくなかった。岳洋の旅でも、多数の若い青年が一緒だった。
その時に出会ったのが、鄭秀文だった。語学もまともに身につけていなかった岳洋は、この友人に大いに救われた。鄭秀文は語学と哲学に通じており、中国の発展のため西洋の進んだ思想を身につけたいと熱心に話していた。岳洋に言わせれば、強力な兵器こそが富国に必要であって、思想など二の次だった。しかし、中国を強国にするという点で二人の考えは一致していた。二人は堅い友情で結ばれ、お互いに良い影響をもたらした。岳洋は数年も経つうちに、鄭秀文の考え方が正しいように感じ始めた。優れた武器を持つだけで、中国は強国になれるのだろうか。西洋の学問、制度、文化……全てが中国より進んでいる。我々はそこからも学ぶべきなのではないか? 鄭秀文もまた、留学前は興味の無かった軍事的知識を、岳洋に求めるようになった。
やがて五年が経ち、中国へ帰国することになると、二人の意見は同意に達した。中国が先進国と渡り合うには、政府の根本的な改革が必要なのだと。そのために力を尽くそう。彼らはお互いに誓い合った。
帰国すると、中国の状況は留学前より悪化していた。西洋の侵略、政府の腐敗はますます進み、人々の心も荒んでいる。
岳洋は父のもとへ帰るなり、早速中国の徹底的な改革が必要であることを訴えた。しかし、父は冷ややかだった。
「わしはお前に西洋の優れた兵器を学ぶよう言いつけたのだ。そのように思想だの文化だのと、余計な話を持ち帰れとは言っていない!」
岳洋は父の保守的な態度に憤慨した。家を継いだ兄も腐敗した官僚主義に染まり、すっかり堕落していた。
「お前の話す改革とやらを実行したら、今朝廷で働いている官吏達の仕事が無くなってしまうじゃないか」
岳洋は国家の危機を口酸っぱく説いたが、父も兄もまるで聞く耳を持たない。とうとう喧嘩別れをして、そのまま家へは戻らなかった。
幸い、父の友人である官僚・黄小旗が彼を迎え入れてくれた。黄小旗は父の研究を引き継ぎ、富国のための活動に従事していたのだ。岳洋は彼の秘書として働いた。外国人の住まう租界へ出入りし、様々な情報を集め、それを政府の高官達へ伝えるのが主な任務だった。この仕事を続けて、はや七年。彼の得た情報は有益なものばかりだったが、果たして国を助ける役には立っただろうか? 戦争には負け続け、多額の賠償を払い、土地は奪われる。今の中国は、好き放題に腑分けされていく家畜のようだった。
だが、それもいよいよ変わる。
鄭秀文は、地元で塾を開き外国語の教師をしていた。彼の生徒は愛国心溢れる若者が多く、また西洋の先進的な知識も身につけている。鄭秀文は興奮気味に話した。
「北京では既に、学生達が集まって下関条約の抗議などを行っているようでしてな。彼らの中には変法運動の支持者も相当いるとか。わしも早速、そこへ教え子達を送るつもりです。ただ、旅費に事欠いている有様で……」
「それなら、わしが黄先生に掛け合ってみましょう。しかし、ちょうどよかった。実は明日、英国に留学していたわしの息子が帰ってくるんじゃ。よろしければ、あなたの学生達と一緒に北京へ行かせてくれんかね」
鄭秀文に否やはない。
「願ってもないことです。これからの中国のためにも、若い力は少しでも多く必要ですからな」
屋敷に戻ると、妻が足早に出迎えた。
「あなた、誰が帰ってきたと思いまして?」
その言葉と、はちきれんばかりの喜びようから、岳洋もあらかたを察した。妻に手を引かれて奥の間に入ると、痩せた背の高い若者が立っていた。岳洋の姿を目にするなり、深々と頭を垂れる。再び顔を上げた時、瞳には涙が光っていた。息子の君立だ。
「父上、ただいま戻りました」
「よく帰ってきた」
岳洋は息子をひしと抱き締めた。会うのは六年ぶりのことだった。留学する前はまだ二十歳前で、少しあどけなさを残していたが、今やどこから見ても立派な大人だ。きっと英国で多くを学んできたに違いない。岳洋は、息子の成長を誇らしく思った。
「予定より早く着いたのだな。何よりじゃ」
「はい」君立はふと口元を引き締めた。「父上、お話したいことが沢山あるんです」
「わしもだよ。だが、そう慌てることもあるまい。六年ぶりに親子が揃ったのだ。今夜は水入らずで語り合おう」
岳洋は笑いながら息子の肩を叩いた。
それから、家族で食事を楽しんだ。国や政治の話題はなるべく避けーー話したところで、場が湿っぽくなるだけだーー賑やかな笑い話に終始した。息子は再び故郷の料理を味わえたことを喜んでいた。英国の生活で最も堪えたのは毎日の食事だったらしい。妻は妻で、この六年間、息子が帰ってきたらすぐに嫁を迎えようとあれこれ準備しており、息子の気持ちもお構いなしにずっとその話をしていた。
二刻ばかりが過ぎて、ようやく食事が終わり、それぞれ部屋に引き取った。
夜半、書斎の扉を叩く音がした。長椅子にかけてうとうとしていた岳洋は、すぐに目を覚ました。
「君立、お前かね?」
「そうです。父上、今は大丈夫ですか」
「入りなさい」
息子は静かに戸を開いた。表情がどこか硬い。それで岳洋も気持ちを引き締めた。
「よく来た。ちょうどわしもお前に話したいことがあってな。さっきは母親もいたため、口に出せなんだが」
君立が頷く。
「お話ください」
「明後日、わしの友人である鄭秀文と共に、北京へ行ってくれるか」
「北京へ?」
「うむ。西洋で学んだことを活かす、またとない機会じゃ。北京では、国家を改革する活動が始まろうとしておる」
君立は用心深そうに尋ねた。
「父上がおっしゃっているのは、例の変法運動のことでしょうか?」
「いかにも。お前の耳にも入っておったか。それなら、改めて詳しく話すこともあるまい。わしは長年、洋務運動では中国を強国にするのは不可能だと考えておった。内部の改革こそが必要じゃとな。もっとも、それを理解してくれる者は殆どおらんかった。お前の祖父や伯父もそうじゃ。だが、時は来た。北京で始まった変法運動は、西洋の政治制度を取り入れて政府内部の近代化を目指しておる。法律や価値観が新しくなれば、きっと中国も西欧列強に並ぶ強国となろう」
君立は何も言わず、唇を噛みしめていた。岳洋は眉をひそめた。
「どうかしたか?」
息子がためらいがちに切り出した。
「どうお話したらよいものか」
「言いなさい」
優しく促すと、息子はその場にひざまずいた。
「実は、私は急ぎ広州へ行かなければならないのです」
「広州へ? 何のために?」
「大事な用事があるのです。ですから、北へ行くことは出来ません」
息子が素直に従わぬとは思いも寄らなかった。
「君立。国が変わる一大事なのだ。どんな用事かは知らぬが、次の機会にしなさい」
しかし、君立の表情にはありありと不服が見て取れる。岳洋は苛立ちながらも、努めて落ち着いた声で言った。
「何か納得がいかぬことでもあるのか」
「父上。僕が広州へ行くのも、国の大事のためなのです」
「どういうことなのかね?」
息子は意を決したように、すらすらと話し始めた。
「僕は広東でさるお方に会いました。心から中国の未来を憂い、国のために活動している方です。僕は、その方についていくと決めたのです。父上は変法運動が今の中国を救う唯一の手段だと考えているかもしれません。恐れながら申し上げますが、それは根本的な解決にはなり得ないのです。皇帝による専制支配、法制度、儒教思想……これらを変えなければ、中国が先進国となることは出来ません」
「安心しなさい。変法運動は、お前の懸念していることを変えてくれるとも」
「しかし、成功すると思いますか? 政府の保守的な官僚達は、急激な改革を嫌がるでしょう。それに変法運動を推進している人達も、やはり皇帝制度を維持しようとしています。そんな半端なことでは、西洋の政治制度をしっかり取り入れられるとは思いません」
岳洋は段々不愉快になってきた。
「では、どうせよと言うのだ」
「……申し上げてもよろしいのですか」
「いいから、話せ」
「僕は、今の中国に必要なのは革命だと考えます」
革命! その言葉は、岳洋に激しい衝撃を与えた。
そういえば、聞いたことがある。南方では幾つもの秘密結社が生まれ、政府転覆を狙っていると。
岳洋は唇を震わせた。
「お前、まさか……謀反を起こすつもりなのか。清朝を倒すと?」
息子は重々しく頷いた。
「馬鹿な! お前は満州民族の血を引いておるのだぞ! 何故そのようなことを考える!」
「しかし、僕の母も祖母も漢民族です。世代を経て、血は薄れました。それにこれは民族の問題じゃない。国家の危機に対処するため、やらなければならないことなのです」
「何を言う! 国を守るために政府を潰す! そんな無茶苦茶な話がまかり通ると思うのか! 誰がそんなことをお前に吹き込んだのだ!」
息子は頭を垂れた。
「言わぬか!」
「では、申し上げます。広州の孫先生という方です。西洋の進んだ思想を学び、医学にも深く通じています。私は半年前、英国で孫先生の友人に会い、そのお考えに深く感銘を受けました。中国は一から生まれ変わらなければなりません。皇帝制度を捨て、西洋のような立憲君主制か、あるいは民衆を中心とした国家を作るべきなのです。そのためには、今の政府を倒さなければなりません。彼らの考えを変えている時間は無いからです。孫先生は一ヶ月後、仲間を率いて広州での武装蜂起を計画しています。僕もその戦いに加わります。ここへ来たのは、軍隊と繋がりを持つ父上に、協力していただけるのではないかと考えたからです」
岳洋は目眩に襲われた。確かに自分も政府の腐敗を憂うことはあった。あったが、国家への反逆など微塵も考えたこともなかった。息子の思想は明らかに度を超えている。決して許されるようなことではない。
「いかん、いかん!」岳洋は出し抜けに叫んだ。「お前は間違っておる。わしがお前を留学させたのは、国を滅ぼすような考えを起こさせるためでは無いぞ!」
すると、息子は一つの書物を差し出した。表紙は無地で、それほど厚くない。
「これは何じゃ」
「僕達の建設する新中国について書いたものです。僕があれこれ説明するより、これに目を通していただく方が早いでしょう」
岳洋は書物をひったくった。今すぐ引き裂いてしまいたかったが、必死に怒りを抑え、最初の頁をめくった。
そこには国旗らしき絵が描かれていた。
「これは?」
「革命組織の旗です。ゆくゆくは、新しい中国の象徴になるだろうと、孫先生が話していました」
岳洋は歯ぎしりした。反乱者どもが何と大胆な! 謀反も起こさぬうちに国旗など作るとは!
旗の下に目をやると、達筆な字で「駆除韃虜(清朝を倒す)」、「恢復中華(中華を取り戻す)」、「創立合衆政府」とある。
岳洋は爆発した。指先で駆除韃虜の四字を叩きながら怒鳴った。
「ここに書いてある文句は何だ? 清朝打倒じゃと! お前は同じ満州民族として、恥ずかしく思わんのか?」
息子は黙ってその言葉を受け止めた。岳洋はさらに数頁めくった。そこには明を滅ぼした清朝がいかに残虐であったか、その清朝がいかに失政を繰り返したか、といったことが並べ立てられている。とても読めたものではない。岳洋は書物を無茶苦茶に破り、その場に投げ捨て、何度も足の裏で踏みつけた。そして、息子に指を突きつけて怒鳴った。
「お前は国と家と正義に刃向かっておる! 不忠、不孝、不仁の輩になりたいのか!」
「僕はそんな人間ではありません」
「ならば、お前自身の行いをどう説明する!」
息子の瞳に浮かぶ意志は、なお揺らいでいなかった。まるで岳洋の方が無知だとでも言わんばかりだ。大きく息を吐くと、冷静な口調で話し始めた。
「忠義とは確かに立派なものです。しかし愚かでもあります。宋の岳飛、明の史可法を思い出してください。彼らは当時の政府が腐敗していたにも関わらず、忠義を全うしました。その結果、どうなりましたか? 歴史は彼らの死を美談として語り継ぎますが、結局のところ、彼らは腐敗した政府に殺されたも同じです。清朝もそうではないですか。日清戦争で何人の兵士が犠牲になりましたか? 彼らが死んだのは誰の責任です? 他でもない、政府のせいではありませんか。戦争だけではありません。中国の土地は次々に奪われ、人民は外国人の奴隷になっています。政府はそれにどう対処しましたか? 結局、何も出来なかったのです。清朝も滅ぶべくして滅ぶ時が来たのです。かつて満州民族が腐敗した明朝を滅ぼしたのは正義でした。それならば、腐敗した清朝が滅ぼされるのも正義では無いのですか?」
なんと生意気な屁理屈だ。息子の言葉の一つ一つが、岳洋の怒りをかき立てた。夜が遅いのにも関わらず、彼は声を張り上げた。
「お前の論理は性急に過ぎる! 朝廷が腐敗しきったなどと早々に決めつけおって! それは満州民族を憎む漢民族の理論じゃ。そんなものに踊らされるとは! 変法運動がうまくいけば、政府は変わる。何故、その成果を待とうとせんのだ!」
「父上、あなたは僕よりも三十年長く生きているではありませんか。阿片戦争からもう五十年が経つのですよ。わかりませんか? 人々は朝廷が外国を追い出すことを信じて、五十年も待ったのです。なのに、この期に及んでまだ待てとおっしゃるのですか?」
「待つのが駄目なら、お前も変法運動に加われば良い!」
「死にゆく病人に薬を飲ませたところで、何の効き目がありましょう。変法運動では政府を蘇らせることは出来ないのです。僕は、北京には行きません」
「もうよい!」岳洋は乱暴に袖を払った。「逆らうことは許さん。明後日、鄭秀文と共に北京へ行くのだ」
息子の表情に悲しみがよぎった。
「父上、どうしてもわかっていただけないのですね」
「国家に仕えるわしが、どうして国家を滅ぼす企みの手伝いをしなければならんのだ」
「……わかりました」
息子は諦めを浮かべ、大人しく引き下がった。岳洋はその姿に、かつて父親に逆らって家を飛び出した自分を思いだした。が、それは一瞬のことだった。自分は息子ほど常識外れな考えを抱いてはいなかった。彼は国家を守るために生きてきた。それに間違いがあろうはずもない。
岳洋は自分の信念を疑わなかった。
岳君立は自室に戻り、寝床に腰を下ろした。
結局、父の理解は得られなかった。
父のことは愛している。彼を熱心に教え、必要な教育を受けさせてくれた。けれど、父は時代の流れを見ていない。新しい世代の思想をわかろうとしない。
君立は自分の選択を信じていた。父と袂を分かつとしても、前に進まなければならない。
彼は机に向き合うと、静かに筆を手に取った。
翌日、岳洋のもとには短い手紙が残された。
僕は行きます。
身勝手をお許しください。
君立
「老田茶館」は今日も読書人達でごった返していた。田じいは時折彼らに引き留められて、愚かしい問答にも嫌々顔でつき合っている。
岳洋はすっかり打ちのめされた顔で、いつもの席に座っていた。こんなことになるとは思いも寄らなかった。年老いた自分に代わって、息子が理想を成し遂げてくれると信じていたのだ。
茶館で意気消沈していたところ、鄭秀文がやってきた。一部始終を話すと、彼は優しく慰めてくれた。
「憎むべきはご子息ではありますまい。道を誤らせた革命一派の人間こそが悪いのです。そう気を落とされますな。変法運動が成功すれば、ご子息も目を覚まし、あえて国を滅ぼそうという考えも無くなりましょう」
「確かにそうじゃ」
「明日、私は教え子達と北京に行きます。どうです、あなたも一緒に参りませんか」
岳洋は大きく頷いた。
「行くとも。そうするとしよう! 必ず変法運動は成功する! 変法じゃ、変法……」
突然、岳洋は喉が詰まったように言葉を切った。全身に冷や汗のようなものが流れていく。まるで自分が、これまで軽蔑していた存在と同じものになったような気がした。
隣の卓では、あの無知な読書人達が相変わらず「立憲!」「仇教!」「変法!」と喚いていた。