大津と鬼の妹
…大津悟。
娘を我の元に寄せるな。
こちらは危険な世。
人間として娘を遣ったのだ。
力を使わせるな……。
大津はその瞬間目が覚めて、即座に起き上がった。
ぼんやりとした影が語りかけてくる夢。
しかし、大津は汗を大量にかき、のどがカラカラだった。
なにか、力のある存在が自分に語りかけた。
はっきりと覚えていることば。
『娘をこちらの世界に寄せるな。』
娘、とはもしかして…。
近頃、研究室に遊びに来る仏頂面の女性を思い出した。
荒神良、鬼の娘である。
彼女の父親だったのだろうか。
大津は台所に行き、水を1杯飲みほしてから身震いした。
自分は踏み込んではいけない領域、妖怪の世界へ一歩踏み出してしまったのかもしれない。
季節はもう6月。
京都ももれなく梅雨に入った。
しとしと、静かな雨音に耳を傾けていると、コンコン。
丁寧なノック音が聞こえる。
例のごとく彼女だった。
「先生、失礼します。」
ぬっと無表情の女性が現れる。
最近、毎日ではないが、時々研究室に来て鬼の資料を漁っている。
荒神良、国文学科院生である。
彼女の父親は鬼、らしい。
確かな証拠はないが、人並みはずれたパワーは本物である。
しばしば彼女の父親捜しを手伝い、京都の様々な寺社仏閣を巡っている。
始めの鞍馬山以外、大抵、観光で終わっていたが。
もうスーツ一張羅はきつい。
父親捜しの旅に付き合って、何度スーツをクリーニングに出すはめになったか。
しかし、今は長雨のせいで、探索(観光)はできなくなっていた。
良はいつも一人で研究室にやってくるが、今回は違った。
「失礼いたします。」
もう一人、女性が後ろについてきていた。
良によく似た、ロングヘアーの女性だ。
大津は訳が分からず、良を見る。
「すいません、妹の翔です…、どうしても先生に会ってお礼を言いたいって。」
良は少し眉尻を下げて、その女性を紹介する。
妹、ということは双子のもう一人の片割れ。
人間の方、ということだ。
大津は改めて妹を観察する。
良をほんの少し可愛らしくした風貌。腰ほどまである髪はよく手入れされており、艶々と輝いている。
そして良と断然違うのは、笑みを浮かべていることだった。
なにより、恐ろしいほど蠱惑的な瞳の輝きに、大津は後ずさりしたくなるような畏怖感を覚えたのだった。
「あなたが良が噂している大津せんせえですか?良、男前なせんせえやな。」
京女らしく、含みのある話し方をする。
良は翔を疑わしく見ている。
なぜなら翔は男を手玉にとるのが非常にうまいからだ。
良と翔は見た目はほとんど変わらないが、翔は人を魅了するのが小さな時からうまかった。
良はいつも思う。
翔の性格は、鬼の本質に近い、と。
自分は力だけを受け継いだが、本当は翔の方が鬼らしい。
そのことを、大津も感じていた。
現に今、大津は翔に魅了されかけている。
必死に理性で、彼女は教え子の妹さんだと言い聞かせる。
そうでもしなければ負けそうなほど、強い魅力だった。
「うちは荒神翔。いつも良がお世話になっています。」
翔が深々と頭を下げたことで、大津はその魅了から解き放たれたのだった。
良と翔が小さな丸椅子に座り、大津はコーヒーを一口飲んでから体勢を整える。
いかんいかん。
セクハラ撲滅、絶対だめだ。
「大津せんせえは、良の秘密、知ってはるんですよね?」
翔は直球で質問を投げかけたので、大津はコーヒーを吹き出しそうになった。
ええ、まあ、となんとか体裁を繕う。
「まあ、せんせえと学生で秘密かあ、やーらし。」
くすくすと翔が笑うと、良はさすがに我慢が過ぎたのか、先生をからかうのはやめて!と怒った。
昔から翔は憎めない毒を吐く。
いつも振り回されているのは良だった。
でも…良には分かる、これは大津先生を天秤にかけているのだと。
大津は戸惑いながらも、真摯に翔の質問に答えていく。
どんな些細なことでも丁寧に。
良の彼氏はいつもこうやって翔の魅了の耐久をやって、陥落していくやつらばっかりだったので、良は祈るような思いで大津と翔の会話を見つめていた。
そうして、翔のジャッジは下ったらしい。
「分かりました、良、初めてええ男はん見つけたね。」
翔は良の手をとって喜ぶ。
良はほっとして、翔に笑いかける。
翔の目には涙が浮かんでいた。
「良が鬼の力を持っているってことを知って、なおうちの押しに勝つやなんてなかなかおらんで!おめでとお!!」
二人で和やかになんか喜んでいる姿を見て、一人っ子の大津は兄弟っていいなあ…とぼんやり眺めていた。
「これで結婚相手も見つかったやん!!」
翔が発した次の言葉に良と大津は固まった。
え。
言葉の意味をいち早く噛みしめた良は、
「なにいうてんの!先生に失礼でしょ!!」
と翔にチョップをした。
いたあ!!と翔が頭を押さえるのを見て、良ははっと我に返る。
そして急激に顔を赤らめた。
一方大津は言葉の意味が分かってなかった。
結婚相手?だれと?あ、話途中から聞いてなかった。
大津は分からないまま、とりあえず荒神さんおめでとう!と言った。
その言葉に良と翔は唖然とする。
そしてひそひそ話をする。
「にぶいな、このせんせえ。」
「うん、さすがににぶいでしょ…ってうちはべ、別に好きじゃ…!!」
「あんたもにぶいなあ…。」
大津は二人の話をよく理解できていないまま、二人を帰したのだった。