大津と鬼
とある京都の小さな私立女子大学。
緑の美しい山の中腹にその女子大はあった。
大津悟、34歳はそこで授業の教鞭をとっていた。
今はちょうど風薫る5月。
12月の誕生日を迎えれば、アラサーではなくなり、アラフォーの大台に乗る。
年を重ねるうちに感じる老いと戦いながら、(いや負けそうになっているけど)大津はそれなりに自分の研究と授業を楽しんでいた。
コンコン。控えめに研究室をノックする音が聞こえた。
少し汗ばんでくる季節、エアコンをつけるのは心苦しいので、窓を開けながら、大津は、はーいどうぞと声をかけた。
「失礼します、文学部国文学科院1回生の荒神良です。」
女性にしては少し低い、しかし聞き取りやすい静かな声が大津の耳に届いた。
振り返ると、たおやかな京美人が立っていた。ただし、無表情だったが。
大津は彼女のことを知ってはいた。でも、研究室を訪ねてきたのは初めてだった。
さらさらの黒い髪のボブに、白くくすみのない小さな顔、涼やかな目元には涙黒子が一つ。
恐ろしいほど整った綺麗な子だな、と大津は思った。
だが、能面のようだとも思った。
それほど彼女は美しい顔には不釣り合いな仏頂面だったからである。
そこまで考えて、いかん、セクハラになってしまうとよこしまな目で見るのを止めた。
最近は本当に厳しい。
「先生にご相談があって・・・。」
研究のことか何かだろうか?
大津はとりあえず立って話を聞くのもなんだからと、丸い椅子に座るように勧めた。
「私、鬼なんです。」
そう、彼女は切り出した。
大津は、意味が分からなくて、え、と言った。
この子は無表情なだけの普通の子だと思っていたけど、中二病を患っていたのか?
よくは知らないけど、初めて人前で言う人を見たな。
こういう時、どう対応したらいいんだ?
大津が悶々と考え込んで、どう返事をするか思考していると、良は見透かしたように、ほんの少し口角を上げた。
「先生、私が中二病でもかかっていると思っているんでしょう?」
大体分かります、と良は目を細めて若干小ばかにしたように足を組んだ。
大津はそれでも、努めて先生らしくいようと胸を張った。
「荒神さん、あなたの言っている趣旨が分からない。冗談を言いにきたの?」
「本当のことです、私、鬼なんです。なんなら証拠を見せますよ?」
良の強気な態度に、少しビビりながらも、馬鹿にされていると感じた大津は口を開いた。
「確かに、僕の専門は妖怪の歴史だけど、別に出会ったことはない。大体、鬼が大学院に通いますか?大抵の鬼とされてきたものは、飢饉などによる人が多数死ぬのを神隠しなどと呼んだりして、実際は恐怖の対象を具現化されたものだと言われている。鬼は存在しなかったのではないかというのが僕の説だよ」
言いたいことは言った、と大津は良に視線を戻した。
すると、彼女はさっきまでの態度とはうって変わり、また無表情になっていた。
「・・・大津先生はふたご座の神話を知っていますか?」
良の言いたい意図が分からず、大津は困惑した。
「ふたご座のカストルとポルックスは仲良しでしたが、母親が神と不倫をしていて、ポルックスは神であり、不死でした。しかしカストルは人間で死ぬ運命にありました。ポルックスは神に頼んで自分の不死性を半分兄に分け与えました。その兄弟愛が星座になったっていう神話・・・。」
大津はなぜだか、無表情の良が少しだけ悲しそうに見えた。
「私にもふたごの妹がいます。彼女は普通の人間です、でも・・・私たちの母も鬼と呼ばれるものに愛され、私だけが鬼の能力を受け継ぎました。」
そう言って、良は前髪をそっと掻き上げた。
大津は目を見張った。
彼女の、小さな額には小さな角が二つ、ありありと確かに生えていた。
大津は思わず声を上げそうになったが、悲しげな良の姿にぐっと息を止め、我慢した。
「私は、普通の人間になりたいんです、先生。」
良の目には決心した意志が宿っていた。
「そのために、鬼の方の父親を探しているんです。」
先生、手伝っていただけませんか?
良は前髪を整え、深々とお辞儀をした。
大津は混乱する頭を押さえながら、いくつか良に質問した。
「ほんとに、鬼、なの?」
「なんで手伝うのが僕なの?」
「僕が他の人に君のことを言ったら・・・?」
良は、はい、先生が良かったんです、先生は絶対言わないから、と淡々と答えた。
い、い、言えないだろ~!教え子が鬼とか、学会からつまみ出される。
大津が考え込んでしまうと、良は少し焦ったのか、矢継ぎ早に鬼の能力について話し始めた。
「人間と違って鬼は死ににくくて、長寿なんです。身体能力も高くて、りんご握りつぶせるんですよ。角は普段は術で隠せるし、案外近くにいたりして!なんて・・・。」
それでもなお大津が黙っていると、良は無表情が緩み、悲しそうに笑った。
「先生の妖怪への知識しか頼れるものがなくて・・・すいません。」
大津は、沈黙が流れる中、必死に考えた。
そして、一応答えを出した。
「その角、こぶとかじゃないよね?」
はい、と良は静かに答えた。
「まだ本気では信じてないけど、けど!こぶだとしても、荒神さんが勇気を出して僕に言ってくれたのは分かるから・・・。他の人には言わないし、言えないし!・・・僕の知識で良ければ力を貸すよ。」
大津は、まだ本気では彼女のことを信じてはいない。
ドッキリ、かもしれないし。
でも、彼女の目は確かに真剣だったと、感じた。
今はそれを信じてみよう、そう大津は考えたのだった。
大津の言葉に、良は花が咲くような笑みを浮かべて、
「おおきに、せんせえ」
と嬉しそうに言った。
しかし、良は我に返ったかのように、慌てて無表情に戻してはいたが。
このようにして、大津と良の関係は始まったのだった。