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4・時間を止めて、未来に別れを

 何もかもぶちまけたかのような、さっぱりとした気持ちで雑誌をめくる。

今の自分にとってはどれもこれも手に余る気がして、静かにそれを閉じる。

惰性のように続けてきた仕事は、何のスキルも私にはもたらしてはくれなかった。寿退社をしていった先輩方に言わせれば、伴侶がそのスキルだよ、と、笑われるのかもしれないけれど。

離職の時期はもう僅かにせまっている。

切りのよい時期を選んだ年度末はもうすぐで、こんなことならもうすこし粘れば良かったと、まだまだ先に設定されていた披露宴を思い出す。そのとき隣に立っている人物を想像しようとして、どこまでもその新郎の顔が真っ暗ではっきりとしない。

コレだけはっきりと太志さんと結婚をすると決めていたのに、思いのほか重症な自分に驚く。

口からでまかせじゃない。

結婚したいのかどうかわからなくなってきた、のは本当だ。

こんなことを相談すれば、ただのマリッジブルーだの、どうして今さら、だの、思いつく限りの陳腐な言葉で慰められそうで、千歳にも話せないでいる。いや、千歳ならどこかで理解してくれるような気がして、それすら今の私には重荷だ。

どちらにせよ、自分自身が理解していない今の説明をするのは、とても困難で面倒くさい。

はっきりと言葉にして説明できないもやもやを蓄積した結果がこれだ。

誰にでもわかるような原因があるわけじゃない。

だから再び転職雑誌をめくる。

後戻りできないほどまで突っ走りたくなる衝動を押さえながら。






「百合」


頭の中は付箋の貼られた転職情報でいっぱいで、私は人生で二度目に驚いた先日の出来事をすっかり忘れさっていた。

再び現れたそれは、前回よりもいくらか穏やかな視線で私をみつめていた。


「藤崎さん」

「今日は知らない振りじゃないんだな」

「ええ、同級生ですものね」


ニッコリと形作った笑顔は、最高の出来に違いない。

僅かに視線を外した直人の表情を見ながら悦に入る。


「話せないか?」

「乱暴しないとお約束してくださるなら」

「前回のことは悪かった。俺も少し性急すぎた」

「あら?いつものことでしょう?」

「……百合」

「呼び捨てにはなさらないで」

「いや、ああ、春日井……、さん。って変な感じだな。いや、おまえ、変わったな」

「二十歳を越えてあの当時のままでしたら、ただのアホな子、じゃなくって?」


ニヤリと、笑った私に再び視線を外し、食事をしていないという彼に合わせるようにして気軽な居酒屋へと足を進める。

ああ、久しぶりに太志さん以外の男の人と二人きりだと、思いついたのはビールが運ばれた後で、結局のところ私は直人と太志さん以外の男の人とこうやって対面に座って食事をしたことが無い事に気がついた。

それが寂しいと思ったことはないけれど、そんなにも私の生活範囲は狭かったのかと軽く驚く。


「結構いける口、だよな」

「そう?藤崎さんほどじゃないとおもうけど。申し訳ないけど、煙草吸っていいかしら?」


私の提案に目を見開くようにしながら驚く。

その表情がおもしろくて、軽く吹きだしてしまう。


「いや、あ、もちろん。俺も吸っていいか?」

「ええ、ご自由に」


備え付けの灰皿を中央に出し、バッグから煙草ケースに入った煙草を取り出す。

興味本位ではじめたそれは、今では一日数本を吸うだけではあるけれど、やめられなく現在に至っている。

もちろん、会社でも太志との付き合いでも吸ったところを見せたことはないし、どうやら直人にも私は見せていなかったようだ。

どこまで私は猫を被っていたのだろうと、今までの自分が滑稽で笑い出してしまいそうになる。

煙をゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

どこか儀式めいたその所作は、私は幾分落ち着かせてくれる。

こうやって、死にたいほど憎んだ相手と相対して座っていても、私は私のままでいられる。

どこかで叫びだしたい衝動は隠れてはいるけれど、それを今直人にぶつけようとは思えなくなった。

これが年をとる、というやつなのかもしれないけれど、太志さんに本音をぶつけてからの私はどこか変だ。

いや、案外こちらの方が地なのかもしれない。


「こちらのことをかぎ回っていたそうね」

「それは、おまえ」


一杯目のビールが空になり、次のジョッキを待つ間に私が切り出す。

どちらも少しずつ突付いたおつまみでお腹はそこそこ満たされたらしく、どこか穏やかな雰囲気が支配している。

別れてからはじめての出会い、とは程遠い、恐らく同級生が久しぶりに出会ったぐらいの親密さで会話が続けられている。

有耶無耶のままに終わらせることは出来たのかもしれない。

この邂逅を二度三度と続けることも出来たのかもしれない。

だけど、私はそれを望まなかった。

どこかではっきりと過去と決別をしたかった。


「おまえ、恵美に伝言残しただろ?」

「恵美?」

「妹」


記憶をたぐる。あの当時の私は直人に夢中すぎて、それ以外のことにはあまり頓着はなかった。

子供同士の付き合いにありがちで、直人の家族のことなどもあまり興味は無く、だから彼の家族構成にしてもおぼろげにしか覚えていない。


「そういえば、妹さんがいらしたような。って、まって?その子って学祭に来た事ある?」


直人が浮気をしている、と、まことしやかに囁いてくれた周囲の人間たちの戯言に危うく乗っかりそうになった出来事を思い出す。

なんのことはないただ直人が妹さんを連れて学祭を案内していただけのことだったのだけど、何をしても目立つ直人が私以外の女を連れていればあっという間に噂になる、ということを証明したような出来事ではあった。

気になって学祭に出かけた私は、当時まだ高校生だった妹さんと対面している、はずだ。

思い出せるのはこちらを睨みつけるような視線。

自慢の兄をとられるような感覚なのだろう、と、まだ私自身が子どもながらにその幼い思いを汲み取ってもいた。


「その恵美さんがどうしたの?」

「どうしたって」

「だから、どうしたの?私恵美さんと口を聞いたのは一度だけ。しかも電話越しで、だけど」


あの時にそっけなく切られた受話器の音を思い出し、憂鬱になる。湿気のある思いを流し込むように、程よく冷えたビールを口に運ぶ。


「……覚えていないのか?」


僅かに細められた視線が、ぞくりとするほど色っぽくて、心がざわざわする。


「覚えていないもなにも、突然連絡が取れなくなって、あわててあなたの実家に電話をかけたって記憶しかないですが?」


あの時受話器越しに聞こえた言葉を、思い出したくはなかった。

最後の細い糸を大きなナイフでざっくり切り取られたように、私は直人との繋がりを見失ってしまった。

その後の記憶はまさに混沌としたもので、断片的な映像でしかない。

無理をして通った大学に、哀れむような視線を送る共通の友人たち、暖かかったのか寒かったのか、それすらも曖昧で、私は結局病院のベッドで太志さんの腕に縋ってしまった。

縋りつければ誰でも良かったのではないかと、今まで思わないでいようとした疑問がはっきりと胸の中に浮かぶ。


「連絡が取れなくなったのは悪いと思ってるけど」

「そうね、そちらも色々お忙しかったのでしょうし」

「その他人行儀な話しかたはやめてくれないか?」

「あら?だって他人でしょう?私達」


半分だけ空いたグラスと、八割方空いた料理をはさみ、視線がぶつかり合う。

昔はこの視線に抗えなくて、なんでも直人の言うままになっていたことを思い出す。

この人は我侭な人だからと、それを許せる自分に酔っていた。もっと早く、あの時にこうやって対峙することができたならば、例えあの時のように突然彼から手を離されても私はあれほど傷つくことはなかっただろう。

必然的に、太志さんとの付き合いもなかったことになっていたかもしれない、と、そこまで考えて思考を放棄した。

いくら考えても今が変わるわけではない。


「恵美に、あいつにどうしてあんな事を言ったんだ?」

「あんなこと?」


そこだけはやけに鮮明な記憶をたぐりよせる。

私が言った言葉。

聞こえてきた言葉。

どちらも思い出したくなくて、でも忘れられなくていつまでもチクチクと私を痛めつける。

直人にしては珍しく逡巡するような表情をみせる。どこまでも我侭でどこまでもやりたいようにしかやらない直人も少しは大人になったのかもしれない。


「……もう連絡してくるな、って、そう言っただろう?」


グラスを傾けながら泡が消えていくのを眺めていた私は、彼からもたらされた言葉を半分以上聞き逃していた。


「は?」

「だから、もう連絡するなって」

「誰が?」

「おまえが」


困ったような顔をしながら直人が言いよどむ。

本当にこんな顔をするこの人は珍しくって、直人が言っていたことを理解するまでにもう少し時間がかかってしまった。

口の中で転がすようにしながら何度も何度も声に出さないようにして呟いて、それでも私はその言葉の意味がわからなかった。


「誰が、誰に?」


お互いの何かが微妙に噛みあわないまま、直人は再び私が妹さんに伝言したという言葉を繰り返す。


「都合がいいこと言わないでください。私は逆のことを言われました」


沸騰する血液を押さえつけるように、できるだけ感情を押さえながら直人に告げる。

私ははっきりと妹さんの口からそう言われたのだから。

それ以上のことも投げつけられたけれども、今の私でもそれを思い出すのさえ辛い。

しんと静まり返って、周囲の雑音だけが流れ込んでくる。

店のBGMですら場違いなほど大きな音となって、二人の間を流れていく。


「うそ、だろ?」

「私が嘘をつくとお思いならそう思って下さって結構です」


あの後の私の苦しみを、私の絶望を、全て否定するような直人の態度に、私は押さえつけていた気持ちを開放する。


「そういう、わけじゃ」

「だいたい、段々連絡がなくなって、最後にはフェードアウトなんて良くある話じゃなくって?遠距離恋愛では」

「いや、でも、あの時は」

「言い訳は聞きたくない。聞いたところで何かが変わるわけじゃない」

「百合」

「春日井です」


固く握り締めた左手は冷たくて、いつのまにか抱えられた直人の両手の暖かさだけが感じられる。

何も話せなくて、直人の体温だけが感じられて、私の気持ちはどんどん逆流していく。

この人が好きで、好きで、大好きだった。

違う。

たぶん、きっと。

小さくため息をついてその思いを封じ込める。


「もう帰ります」


カサカサの喉からもれた声はおばあさんのように乾いていて、それを聞いた直人は静かに私の左手から両手を離す。

離れないで。

そう思った気持ちもどこかへ仕舞いこんで、私は伝票の上へと適当にお札だけを置いて店を後にする。


満月に少し欠ける月はそれでは明るくて、私は立ち止まって幾度も深呼吸を繰り返した。

何かを切り捨てるかのように歩き出し、いつものように浴室に体を浸す。

湿度を取り戻した体はどこか頼りなくて、全てを放棄して眠りにつく。

幾度も繰り返される不快な夢の中で、私はひとりぼっちでただ、泣いていた。

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