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2.奪われる

 夢をみた。

あの人の背中を追いかけて追いかけて。

でも追いつかなくて。

自分の指先だけが視界の中に溶け込んで。

私は、くぐもった悲鳴をあげて目を覚ました。


 アナログの時計を見ると、まだ起きるのには早いけれども、二度寝をするほどの時間ではなかった。

仕方がなしにベッドを降り、パソコンの電源を入れる。

普段ならば忙しさにかまけて、こんな事はしない。それでも、何かをしていなくてはいられないような軽い苛立ちを抱えている。

それが、先ほどまで見ていた夢に起因していることは承知している。

だけど、もう未練などないと言い聞かせた自分としては、それを認めること自体、何かに負けてしまったかのような気にさせられてしまう。

何件かの新着メールをチェックして、要らないものゴミ箱へと捨てる。

友人からのたわいもないメールを読み、返事をかく。送信のボタンを押し、ふうと、体中から空気を抜くようにため息をつく。

結局何時も通りの起床時間となってしまったため、そこから先のスケジュールは何時も通りあわただしいものとなった。

忙しさにかまけていられるほうがずっとずっと、気が楽だということにも気がついてしまった。

これは、ただのマリッジブルーだと、何度も何度も繰り返し言い聞かせながら。




「ごめん、今忙しい?」


電話越しに聞こえる千歳の声は、実際よりも少しだけ高くてかわいらしい。

そんなことを考えながら、会社のロッカールームで制服のまま千歳と会話をする。

これから太志さんと食事にいくので、今日は少しだけいい服で出勤している。ロッカーに吊り下げられた洋服を眺めながら、何かをいい辛そうにしている千歳を促す。


「……、あのさ、藤崎君、だけど」


今朝みた夢を思い出す。

いや、違う。

私はそんな夢はみていない。


「うん、懐かしいね、その名前」

「あのさ、なんか日本に帰ってきたみたい、だよ」


フラッシュバックのように、この間見かけた車の後姿が思い浮かぶ。

あの色の、あの車。


「そう、そうなんだ。いいかげん里心でもついたんかな?」

「おばさんが病気みたい」

「ああ、それで。さすがの藤崎君も親御さんの病気を無視するってわけにはいかないんだ」


私の事は、無視したくせに。


「あー、うん、そうみたい。もう日本で転職先も決めたみたいだし、ずっとこっちにいるつもりって」

「へーー、って、千歳も詳しいね」

「うん」


妙な沈黙が二人の間を支配して。私はまた息苦しくなる。


「あのさ、あのね。藤崎君から電話があった、の……」


そっと頬に何かが触れたような気がして、何も答えられなくなる。


「百合のこと、色々聞いてきた」


ヒステリックに千歳に怒鳴りつけそうになり、慌てて爪先を見つめる。綺麗に塗られたネイルを眺め、深呼吸をする。


「聞いて、どうするつもりなんだろう?今ごろ」

「百合と連絡とりたがってる」

「今さら?」

「うん、ごめん、だから百合は結婚するって言っちゃった、んだけど」

「ああ、ううん、こちらこそごめん、気を使わせて。でも、言っておいてくれてよかったよ」

「本当にごめんね、あまりにも勝手なことばかり言ってたからさ」

「変わらないねーー、相変わらずか」

「そう、相変わらず。でも私は百合にしたこと、許してないし、って、私が許すも許さないもないんだけどさ」

「……、ありがとう、千歳」

「ごめんね、言おうかどうしようか迷ったんだけど。いきなりばったり、なんてことになるとも限らないし。それにあいつ諦めてないみたいだし」

「わかった、こっちもちょっと根回ししとく。といっても、私の連絡先を知っているのって千歳ぐらいか」

「んーーー、職場とかは知ってるかも。百合の会社って有名だし」

「まさか、会社までこないでしょ」

「わかんない、わかんないけど、藤崎君ってやろうと思えばなんでもやってしまいそうだから」

「警戒しとく、本当にありがとう。でも、どうして今ごろ、なんだろうね」


二つ三つ日常的な会話を交わし、千歳との通話を終了する。

何かを支えにしながら立っていないと、その場に崩れ落ちそうになる。

ぐっと気を引き締めながら、少しだけ良い服に袖を通す。

今から、私は太志さんと食事をするのだから。

千歳との会話を反芻しながら、のろのろと着替えをする。

簡単に化粧直しをして、空気のこもった部屋から、エアコンのあまり効いていない廊下へ出る。

無意識のうちに深呼吸をして、気持ちを整える。

大丈夫。

ただ、それだけを繰り返しながら。




 藤崎直人との付き合いは高校時代に遡る。

同級生で、何をやっても目立つ直人は憧れの人であり、そんな人が自分と付き合うようになるだなんて、出会ったころには考えもしなかった。

ひっそり目立たず、典型的な田舎の優等生だった私と、成績は優秀だけど、やることなすこと破天荒な彼との接点などあるはずもないのに、気がつけば全校生徒が認知する恋人同士となっていた。

その辺りの展開の早さは、今でも不思議に思うのだけれども、流されるままでも私は充分幸せだった。

恋人としての直人は、私を勢いよく振り回し、それでも時折見せる優しさに私は直人から離れられなくなっていった。

違う大学に入学して、それでも半同棲みたいなことをしながら、私はますます直人に夢中になっていった。

何もかも順調だった。

目立つ彼のおかげで、半分嫌味、半分妬みのような女子の視線を浴びることはあったけれども、それでもそんなものは気にならなかった。

いつかは捨てられる、という呪文のような言葉も、跳ね除けることができた。

ある日突然彼が留学する、と言い出すまでは。

私にそう言った時にはすでに全ての準備が終了した後で、すでに体一つ海の向こうへ運べばいい段階になっていた。

私に何の相談もなしに、という文句を思い浮かべはしたけれど、言って聞く人ではないし、と全てを飲み込んだ。

物分りが良くて、優しい恋人を演じ、彼の出発を見送った。

遠距離恋愛は初めてだけれども、私は失敗なんてしない、と、思っていた。

徐々に連絡の間隔があいて、いつのまにかフェードアウト。よく聞く友達の遠距離恋愛はこの轍を踏んでいた。特に大学を期に遠距離になった友達たちは、このパターンを踏む事が多かった。

散々脅されたものの、私だけは、という自惚れがあった。

最初の夏には手紙も電話も、本人すら会いにきてくれた。次の春には電話もメールも減った。

直人には会えなかった。

その次の夏にはとうとう、電話も手紙もメールすらも届かなくなった。最後に宛先不明で私が書いた手紙が帰ってきた頃には、直人のことを口にだすことすらできなくなっていた。

一縷の望みでかけた実家への電話も、彼の妹にあっけなく交わされた。もう会いたくないって、という伝言だけを残して。

私だけは、という思いは裏切られ、今まで形作ってきた春日井百合の大部分を占める何かが壊れていった。

このとき覚えているのは、どこまでも白い天井と、白い床。

持病が悪化して、入院を余儀なくされた私は、結局この年の大学を休学することになった。

今思えば、家にただ閉じこもるよりは幾分ましだったかもしれない、ということだ。

少なくとも、そのまま野垂れ死ぬ心配だけはしなくてよかった。もちろん、進んで自らを傷つける心配でさえ。

どういうわけか、頻繁にお見舞いにきてくれた太志さんとはその期間に随分と親しくなった記憶がある。

大学を卒業する頃には、いつの間にか恋人同士という関係にまで進んでいた。

だから、私は、もう、全てを忘れたのだ。

無かった事には、できないけれど、綺麗な思い出にはまだなれないけれど。

それでも、私はこうやって太志さんの手をとることにしたのだから、全ては過去のことだと言いきれる、はずだ。

エントランスをくぐりぬけ、待ち合わせのコーヒーショップへと急ぐ。

まだ少し肌寒い風を感じながら、地面だけを見つめながら早足で目的地へと進む。

突然、右腕に焼けるような熱さを感じ、そのままそのまま私の右腕が後ろへと引っ張られた。

何が起こったのかもわからなくて、ただ右腕に伝わる痛みだけが事実として認識できるだけ。

恐る恐る顔を上げると、見たくて見たくなかった人の顔がこちらをただただ射すくめるようにして立ちはだかっていた。


「どういうことだ?」


懐かしいその声に、右腕の痛みさえ忘れてしまいそうになる。

私は、直人の前にいる。

そう考えただけで、優しい思い出だけが蘇り、あの頃へと戻ってしまいそうになる。


「そちらこそ、どういうつもりですか?」


だけど、想像よりずっと冷たく低い自分の声に、我にかえる。

この人は、私を振り回すだけ振り回して、あっけなく忘れてしまった人だ、と。

睨みあったまま、沈黙する。

知った顔が遠巻きにこちらを窺っているのがわかる。

何も言わない直人に、こちらから切りつける。ずっと言いたくていえなかった言葉。


「一度捨てたなら、捨てたままにしてください。いいかげん振り回されるのはごめんです」


一瞬緩んだ表情と、つかまれた右腕を引き抜く。

何かを考えるようにして、昔のままの顔をした彼から一歩離れる。


「百合、どうしたの?」


背後から太志さんの声が飛び込んでくる。

気配からすでに私との間にはそれほど距離がないように感じる。先ほどの会話が聞こえてしまったのかどうかはわからないけれど、ようやく私は今の私に立ち戻ることができた。


「なんでもない」

「知り合い?」

「ううん、知らない人。人違いだって」


それだけを睨みつけるように直人へと投げつけ、太志さんのほうへと向き直す。

呼吸を整え、太志さんに笑顔をむける。

心配したような顔から、どこかほっとしたような表情へと戻り、極自然に私の右手を掴む。

無意識に縋りつくように絡めた指先に力をこめる。


「ごはん、いこう?」


黙ったままの直人を置き去りにして二人で歩き出す。

想像していた以上にあの頃の面影を残した、同じ年の直人の顔が網膜に焼きついていく。

それと引き換えにするようにして、私の中の何かを直人に奪われたような気がした。

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