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8.新しい道の提示

8.新しい道の提示



 突然自分に話がふられて、ビックリして運転席の方へ向いた。



 瀬名さんは相変わらず、前を見て普通にハンドルを握っていた。



「どのみちここの支店には長くいられなかったんだ。最初は、営業職に戻るということで殆ど関東支店への異動が決まっていたんだ。でも、花家さんと知り合ってから考えが変わって。花家さんはここの支店から動くことは絶対ないだろ。だから…」



「ちょっと待ってください」


確かに松は、支店専属と言う条件の事務職として採用されているので、他店や本社に異動になることはあり得ない。しかし…


「どうして私のためにそんな」



「その理由は前にも言ったと思うけど」


彼は、淡々とした調子で話し続ける。


「オレ、花家さんのことが好きだから関東には行きたくなかったんだ。それで、関東支店への異動願いを取り下げた。丁度、来年からウチの社の体勢が変わるから、それに合わせて本社にこないかって誘われてね。考える間もなかったよ。渡りに船。本社勤めならここからそう遠くないし、こっちの支店にも行き来出来るし」




 雨が一層激しくなって、車の屋根にたたきつける音が耳に響く。




「そんなことで、ご自分の希望を曲げちゃっていいんですか。瀬名さんは、本当は、営業に戻りたかったんじゃないんですか?」



「少し前まではそうだったけど」


と、彼は答えた。


「かなり長いブランクがあいて、営業に今更もどったところで同期や後輩とも差が出てきて、ちょっと追いつけないような年齢になってきたってこともあるし、人事の仕事もそれなりに面白くなったってこともあって。別に、花家さんのことだけが、理由じゃないよ。まぁ、大部分はそうかもしれないけれど」



「・・・・・・」



 

 雨音がもっと強く耳に感じた。渋滞で車はノロノロとしか進まなかった。ブレーキランプが点いたり消えたりしている。




「この前の事、考えてくれた?」


沈黙を破って彼は静かに切り出した。



「・・・・・・」



「いつも、送って行くって誘っても、花家さん、断っていただろ。今日はオーケーしてくれたんで、すごく嬉しくてオレ、自分から誘っといて、ものすごく動揺してんの」


彼は、クシャっと顔を歪め笑った。



「すみません、わたし…」


松は、声を絞り出した。


「今日は、お言葉に甘えてしまったんですけど…わたし、瀬名さんのことをそんな風に見たことなくて」



「今はそれでもいいよ」


瀬名さんは言った。


「この先、少しでもその可能性が残っているんなら」



「いえ、そんな。待たせてしまって後でお断りするような事になったら、申し訳ないし」


それならなぜ、キッパリハッキリ断れないのだろうかと松は、自分でも不思議だった。



「誰か他に好きな人がいるの?」



「・・・・・・」



「ひょっとして、あの」



「・・・・・・」



「いや、あまり詮索しない方がいいよな」


言葉に詰まっている松に、瀬名さんはハハっと笑ったけれど、その顔が少し寂し気だった。



「そもそも、オレのこと嫌いなら仕方ないけどさ」



「いえ、そういう訳では」



「でも、なんでオレなんだって思っているだろ」



「別にそんな」



「いいよ、自分でも自覚している。オレ、人遣いは荒いし、酔っぱらうとクダを巻きたがるし、少なくとも花家さんに好かれることしていないから」




 なんだ。


 この人自分が人遣いが荒くて、酒グセが悪いこと自覚してるんだ、と、松は思った。




「瀬名さんこそ、わたしのどこが好きなんですか?」


松は単刀直入に聞いた。


「わたしこそ、瀬名さんに好かれるようなところ、どこにもないと思うんですけど」



「んー…どうなんだろうなぁ」


瀬名さんは昔を思い起こすような懐かしい目になった。


「一目惚れってヤツかな?」



「は、一目惚れですか?」


松は、馬鹿みたいに繰り返した。


「わたし、一目惚れしてもらえるような人間ではないと思うんですけど…」



 そうそう、そんな美人でも目立つ人間でもないし。



「んー、その謙虚なところもかな?」




 謙虚?


 いやいやいや。


 これは、ちょっと謙虚とは違う気がする。



 わたしの容貌は、ひいき目に見てくれる友達から美人と言ってもらえることもないこともないが、個性的でも目立つ顔でもない。



 どっちかって言えば、やる気がない系で、面倒なことを回避したくてまわりに遠慮しちゃうような性格だと思うんだけど。




「それに、責任感強いし」


と、瀬名さん。




 それも違うと思う。


 結果的にハッキリ断れなかったことが、最終的に自分に役目がまわってきて、むしろ墓穴を掘ってしまうことの方が多い。


 そんな時は、なんで自分がこんな目に遭わなきゃならないの~と、心の中で愚痴りながらこなしている。そんな人間は、責任感が強いとは言わないだろう。




「瀬名さんは、わたしを買いかぶりすぎていますよ」


松は否定した。


「わたし、多分、瀬名さんがイメージしているようなそんな素敵な人間じゃないですよ」



「それなら、どんな人間かもっと知ってみたいね」


と、彼はすぐに言った。


「それに、花家さんだってオレのこと、そんなに知らないだろ。付き合わなくとも、お互いもっと、深く知り合うように努力する関係でもいいよ」




 何だそれ。


 付き合ってもいないのに、努力する関係って、どんなの?


 と、ツッコミたくなった。


 で、努力してお互いのことをよく知ったところで、やっぱりやめておこうっていう流れになる可能性もあるのかなって思った。




 が、それを口に出して言うことは控えておいた。


 カイ君みたいな子になら、きついツッコミも平気で言えるのだが、瀬名さんは年上だし、何と言っても上司だし、あまり生意気なことは口に出さない方がいいのではと、持ち前の消極的な性質を発揮してしまったのである。





「今日ハッキリと返事を聞けなかったってことは」


松が答えないので、瀬名さんが話しを進める。



 車が松の住む町に近づいていた。


 彼はスピードを少し緩めた。



「期待を持ちこしてもいいってことかな?」



「・・・・・・」



「また、雨の日にでも誘うよ」


彼は静かに言った。



 松は、答えられなかった。



「着いたよ」



 途中、道が混んでいた所為で思いのほか、電車で帰るより遅くなってしまった。


 車は松の家の目の前に停まったが、母と義父が暮らしている母屋と離れを渡す廊下から道路が見えたらしい。


 松が見知らぬ車から降りてきたのをちょうど目撃した母親が、飛び出すように玄関から姿を現した。



「ショウ!遅かったじゃないの」



「た、ただいま、お母さん」


いきなり玄関から出てきた母親の登場に、松は驚いてそれしか言えなかった。



「その方、どなたなの」


運転席でハンドルを握っているスーツ姿の若い男性の姿を認めた母親が、思いっきり眉間に皺をよせて、戸口の前で睨みをきかせている。


 

 いきなり母親から睨みつけられた瀬名さんは、少し驚いたように、怯んだ様子を見せた。


 すぐに紹介したらよかったのだけど、あまりに母親が威嚇してみせるもんだから、松はアワアワと慌ててすぐに言葉がでてこなかったのがいけなかった。



「ショウ、その方、徳永さんって方なの?」


ズバリと、ハッキリと、しかもものすごく嫌そうにその名前を口にする母。



「ち、違う!!」


とんでもない名前を出されて、松は叫んだ。


「この方は、瀬名さんよ、私の上司の。いつもお世話になっているの。雨だったので車で送ってくださって」



「あら…そうなの」


と、母は少しほっとしたかのように胸をなでおろすと、声色も顔つきもガラっと変えた。面白いぐらいの百面相だ。


「松の母親でございます、娘がいつもお世話になっておりますのに、申し訳ありませんでした」



「こちらこそ、はじめまして、瀬名と申します」


瀬名さんは紳士然と答えた。



「失礼しました。よかったら、上がってお茶でもいかがですか」


母はうってかわった態度になって、彼に家に上がって行くことを勧め出した。



「お母さん、こんな遅くにお引止めしたら失礼だよ」



「あら、そんなことないでしょう?ここまで送っていただいて、このままお返しする方が失礼じゃないの」



「ありがたいお申し出ですが、明日も早いものですから、今日は失礼させて頂きます。お気持ちだけ頂いておきます」



「ではまた、おより下さい」


母親は、最初の勢いはどこへやら、にこにこ顔で瀬名さんをお見送りする。



「あの、送っていただいてありがとうございました」


松は運転席にいる瀬名さんに声をかけた。



「じゃ、明日会社で」



「はい」




 瀬名さんの表情は、暗くて雨粒が光に反射してよく分からなかった。


 彼は来た道を引き返して、去って行った。




「どうしてお引止めしなかったの?」


車が角を曲がって見えなくなってから、母が、咎めるような口調で言い出した。


「ああいう場合は、お引止めしなくちゃ。それに、家に来る前に一言位電話してもらわないと」



「単に、向こうが車で、ついでがあったから送ってもらえただけ。イチイチ連絡する必要ないじゃない」



「でも、急に家にこられても困るじゃないの。散らかっているし…」



「だから、家には上がらないんだから、家の中がどうなっていても関係ないじゃない」



 

 松は、そこまで言うと、母がどういうシチュエーションを想像しているのか、これまでの母の行動から手に取るように分かって、無性に苛々して、先に家の中に入ってしまった。




「待ちなさい、ショウ」


母が後ろから追いかけてきた。


「あの方、瀬名さんっていうの」



「そうよ」



「ショウの上司なのね?」



「そうだよ?」



「年齢はおいくつなの」



「さぁー、わたしより四、五歳上だったと思う」



「どちらの大学のご出身なの?」



「・・・・・?」



「下のお名前は何ておっしゃるの」



「・・・・・・」



「お名前はどんな字を書くの?」



「・・・・・・!」



「お住いはどこ?」




 次の質問はきかなくとも分かっていた。


 きっとご両親のお仕事は?とか、詳しい住所はどこなのか、とか、生年月日を教えろだとかとか、そんなことを聞きたがるに違いないなかった。




「それが、お母さんと何の関係があるの?」


松は、低い声を出した。


「瀬名さんの名前だとか、出身大学とか、それが何の関係があるのよ!もしかして、瀬名さんに家に上がるように誘ったのは、お茶を飲んでもらっている間に、それを全部聞き出そうと思っていたんじゃないでしょうね?」



「そりゃ、当たり前でしょ」


母は、ドヤ顔全開で言う。



「あたしが、誰と付き合おうと、お母さんには関係ないじゃないの!!」


松は悲痛な叫び声を上げたが、母は全く意にも介していないようだった。



「じゃ、やっぱりお前、あの瀬名さんって人と付き合っているのね?」


母は、したり顔でたずね返した。


「でも、あの人、お前の上司ってことは、同じ会社の人ってことでしょう?そんな上場企業でもない会社の人となんて…」




 上場か非上場かは、会社の質や規模をそのまま表すものではないだろうが、見た目や知名度でしか判断できない松の母には、“お勤めの会社”がそれのどれに当たるか、重要な問題らしかった。




 松の心は爆発寸前だったが、


“誰とつきあおうがお母さんには関係ない”


 という、恐ろしい言い間違えをしてしまった自分にガクゼンとした。


 それ以上その場に居られず、松は、自分の部屋に足早に引っ込んだ。









 松は、三月の後半に、東京へ出張した。




「東京出張だなんて、いいなぁ」




 都心近くとはいえ、建物の中でモクモクと事務作業ばかりしている内勤女子にとって、外出や出張は結構な気晴らしとなる。


 しかも、親会社の本社は都内の中でも「東京一部上場企業」に相応しい、立派なビル群の一角にある真新しいビルの中にあった。


 初めて東京に来て、松の住む町とはちょっと勝手の違う電車に乗ったりして、右往左往しながら、目的地に向かった。


 東京駅に着いて最初に感じたのは、松は、普段はかなり標準語に近い言葉を使っているつもりだったが、生粋の江戸っ子弁というのだろうか、イントネーションの違いに背中がむず痒くなる思いだった。


 生まれながらの日本人が、たかだが数百キロ離れた土地で、抑揚の違いを肌に感じるのだ。世界中で使われている「英語」という言語が、様々な様式や発音方法で喋られているのは、当たり前なのだなあと、ぼんやりと感じた。





「いらっしゃい。迷わず来れましたか?」



 美しく立派なビルの中、指定された部署に赴く。電話でやりとりしていた、システム情報管理課の鈴木さんが出迎えてくれた。



「はい、お陰さまで、まっすぐこれました」



 鈴木さんは、三十歳前後の男性社員で、多分、徳永さんと同世代ぐらいの人だ。


 年齢からすると、ポジション的に課長補クラスなのかもしれないが、ここの課には、課長も課長補もおらず、佐伯部長という女性の部長と、その上に、噂に聞いた次期ウチの社の社長に決まっている「川崎常務」という人物がいた。




 その日、川崎常務は、部署に設えられた役員席にどっかりと座って居た。


 ここで一番エライ人ということで、といあえず五日間の間、お世話になりますと挨拶に行くと、ちょっと話そうと言われた。


 

 川崎常務と松は、役員席のところで、十分ほど向かい合って話をした。


 新システムの使い心地はどうだとか、テスト運用はどうだったとか、旧システムと違ってどの点がいいかとか、そんな事を聞かれた。


 松は、


「新システムは、改善されて本当に見やすくなり、業務の効率もupしていると思います」


 と、旧システムにはなかった利点いくつか挙げて、素直な感想を述べた。



 川崎常務はウンウンを頷きながらジッと私の顔を見て頷いていた。


 小柄で白髪が印象的な眼光の鋭い六十代前半ぐらいのオジサマという印象だったように思う。




 鈴木さんの指示を受けながら、彼と一緒にビルの中を歩いていると、ゾロゾロと黒っぽいスーツの男性の集団と頻繁にすれ違った。心なしか、ビル内も慌ただしいような気がする。




「ああ、今週、年に一度の定例の役員会があって、その準備に追われているんだよ」


鈴木さんが不思議そうに黒服集団を目で追い駆けている松に説明してくれた。


「役員連中が集まってきているんだ」



「ふーん、そうなんですか」



 目の前を恰幅の良い威厳のある中年の男性が通り過ぎた。



「あれっ」


その男性に何となく見覚えのあった松は、彼の顔をじっと遠くから見つめ続けた。


「あの人、見たことあるけど、誰だったかな?」


 と、呟いた。



「ああ、あの人は執行役員のニューヨーク支社長の斎賀さんだよ」



「ニューヨーク支社長?」




 思いだした。


 チラっとしか廊下で見たことがなかったが、まだ徳永さんがウチの会社に居た頃、徳永さんを支店長室に呼び出したあの人だ。


 ニューヨーク支社長に呼び出されるなんて、やっぱり徳永さんってエリートなんだなぁと、あの頃は思ったものだ。




「斎賀さんはね、次期社長と噂されているんだよ」



「そうなんですか?」



「めちゃくちゃヤリ手なんだけど、ワンマンで有名で。お気に入りの社員を見つけたら、すぐに引き抜いてしまうんだよ。他部署の精鋭を強引にニューヨークに連れていってしまったって、去年それで大騒ぎになってね」



「ヘッドハンティング?」



「うん、上海でバリバリやっていた、中国畑(ちゅうごくばた)の駐在員を無理やりニュヨークに連れて行ってしまってね」



 上海からニューヨークに転勤?何か聞いたことあるぞ。


 その話って。



「それって、もしかして、徳永さんのことですか」


松は、思いあまって聞いてみた。



「えっ、花家さん、徳永君を知っているの」




 向こうも徳永さんのことはよく知っているらしく、共通の知人の名前が出てきて、急に機嫌よくなった。


 そして、


「どういった知り合いなの」


と、聞きたがった。



 松は、事情があって、徳永さんが上海からニューヨークに移るまでの半年間、松の会社に居候していた事を、簡単に説明した。



「いやいやいや、徳永君を知っていたとはオドロキだね~~どう、彼、男前だし明るいし、一緒に居てて楽しいヤツだったでしょ?」



「ええ、そればかりでなく、英語を教えてもらったりして、物凄くお世話になりました」



「へぇー、出向先でに行っても、アイツそんな殊勝なことをしていたんだ」


 鈴木さんは、彼の人柄を知っているのか、クククと意味深に笑いながら頷いていた。この際、彼が部下に英語を教えていたのは自分の査定評価のためだったということは黙っておこう…




「アイツ、入社してから海外ばっかりで、本当に一か所に落ち着かないんだよな」



「そうですね、その上、あちこち海外出張されているみたいですし、息つく間もない感じで」


松も同意した。



「何度も日本に帰りたいって、言っていたみたいだけどね」



「そうなんですか?」


そんな話、聞いたことないなぁ、と思いながら答えた。



「うん、アイツとは同期で、定期的にある研修でたまに会う事があるけど、その話はよく聞くよ。帰国子女だから外国に居ていた方が落ち着くのかなって思っていたけど、本人よりも、日本に残してきた家族の方が大変だったみたいでね」




 家族っていうと、別れた奥さんのことを言っているのかな、と思った。


 彼の離婚の原因を思い出して、日本に帰って一緒に住みたかったのかな、と当時の彼の胸の内を想像した。




「ましばらくニューヨークだろうから、その希望も叶えられそうにないと思うけど」



「やっぱりそうなんですか?」



「だと思うよ、少なくとも斎賀さんが次期社長になるとしても、今の社長の任期は最低三年あるし、そうなると斎賀さんとお供で赴任した徳永君も三年はニューヨークに留まることになるんじゃないかな」



「そうですか…」



「ウチの部署にも寂しがっている女の子が沢山いてね」


鈴木さんは楽しげに話を続ける。



「あんなにイケメンなのに独身だろ?ウチの部内に限らず社内にも山のようにファンがいたけど、彼のニューヨーク行が決まった時は、皆、本当に残念がっていた。あんな目の保養になる人を、なんで年のいったオジンひとりにくれてやらなくちゃならないんだって」


冗談混じりに言われた鈴木さんの言葉に、松は笑って応えようと思っていたけど、胸がチリチリ痛んで、うまく笑えなかった。


 ここにも彼のファンが沢山いたんだと思うと、ひどくガッカリした気分と、当たり前だよね、という諦め感情が同時に湧いて出て来たのだ。



 

 そうだよね、徳永さんはイケメンで絵にかいたような3高。


 女の人が放っておくわけがない。




「でも、次期社長と言われている方に引き抜かれたんですから、徳永さん、将来は安泰なんじゃないですか」


平静を装って、松は言葉を繋いだ。



「安泰?」



「そのつまり、将来は、条件の良い役職に就けるのかと」



「ああ、うまくいけばそうかもね」


 と、鈴木さんは答えた。


「ニューヨークが終われば、日本に帰ってこれるだろうし」



「徳永さんは、本当に日本に帰りたいんでしょうか」


 松は言った。


「ニューヨークは素敵な街ですもん。三年も住めば、ずっと居たいって思うようになるんじゃないですか」



「花家さんは、ニューヨークに行ったことがあるの?」



「…まぁ、何回か」




 松は、昨年の秋とクリスマスの事を思い出した。


 あの時の楽しかった思い出は、今、松の心に懐かしい思い出となって、苦味のある記憶と共に蘇ってくる。




「確かにね。向こうが気に入って、居ついちゃうってパターンよく聞く話だよ」




 後三年。


 徳永さんは、後、三年も帰ってこないんだ。


 三年の間に、その三年の間に新しい恋人ができ、松のことなんかすっかり忘れてしまって、お互い別々の道を歩んでいても少しもおかしくないのだ。




「ま、そうなったらそうなったで、このビルにいる多くの女性社員を嘆かせることになるだろうね」


と、彼は付け加えた。






 その日の午後、セミナー準備の資料運びのために、両手を荷物にいっぱいにして廊下を移動している途中、出会いがしらにバッタリと知人とすれ違った。



「ショウさん!!」



「津山さん!!」



 

 そこには、英会話講座を一緒に受け、貿易実務講座で講師をしていたあの津山さんがいた。懐かしい顔に突然巡り逢って、両者の顔は驚きと喜びに満ちた。




「うわぁ~お久しぶりです!」



「元気にしてた?」



「はい、津山さんもお元気でしたか?」



「元気どころか、忙しくって」


と、言いつつも、津山さんはとっても元気そうな笑顔を浮かべた。


「ショウさん、三月にシステム関連でこっちに来るって言っていたでしょ?連絡しようとは思っていたけど」




 津山さんとは、貿易講座が終わって以来、彼女が本社勤務に戻った後もメールのやりとりをしていて、三月に、親会社の情報システム課に招聘されて東京に出張する旨を伝えていたきりだった。




「バタバタで結局連絡できずじまいでごめんねー」



 ちっとも悪くないのにすまなそうに謝る津山さん。


 明るい、変わりのないキャリアウーマン系のバリバリな雰囲気は健在で、華やかな笑顔に引き込まれそうになる。



「いえいえ、直前まで予定がはっきりしなくて、わたしも連絡できなかったものですから」



「システム情報課の鈴木君にさっきそこの会議室で会ってね、今、セミナーでショウさんが来ているって聞いてさ、今日あたり、連絡しようと思っていたところだったの」




 鈴木君って呼び合う仲なんだ。


 そうか。津山さんと徳永さんは同期同士なんだから、徳永さんと同期の鈴木さんも津山さんと同期というわけだ。




「そうだったんですか。でも、ここでお会いできてよかったですよ」


松は、言った。



「是非、夕食でも一緒にって言いたいところなんだけどね…今週は役員会もあってバタバタでさ、サイアクなことに一日たりとも空けることができなかったの」



「そうなんですか」


せっかく会えたのだし、ランチぐらい一緒にできるかな、と一瞬期待してしまった松は、少しショボンとなってしまった。


「お忙しいなら、仕方ないです」



 津山さんは松の気持ちを察してくれたのか、


「でも、お茶ぐらいしようか。時間いつならとれる?」


と、言ってくれた。




 松のスケジュールは、システム管理課の都合で綿密に割り振られており、自分では動かせなかった。時間に隙間ができるとしたら最終日の全てのイベントが終わった後しかない。




「オッケー。じゃ、最終日の午後にでもそっちに迎えに行くわ。外に出てお茶でもしましょうよ」


津山さんはそう言って、自分の連絡先を手書きした名刺を松に渡した。



「わかりました、楽しみにしています!」


 

 津山さんと久々にお喋りできると思うと、ちょっと嬉しい。


 もらった名刺を後生大事に名刺ケースにしまった。


 知り合いのいない東京での楽しみが出来た。




「じゃあね」


そう言って、エレベーターホールで別れようとしたとき、津山さんが、思い出したかの様に振り返った。


「あのさ、ショウさん」



「なんですか?」



「あの…」


なんか言い辛そうにどもっていたけど、彼女は思い切った様子で言葉を繋げた。


「失礼なこと聞くかもしれないけど、ショウさん、最近、徳永君とはどうなの?」



「えっ?」


いきなり徳永さんというワードがでてきて、肩がぎゅっと縮こまってしまった。


「徳永さんとですか」



「うん…彼がニューヨークに行った後でね、彼から、その、色々と聞いていて。その後、うまくいっているの」



「えっと」


津山さんの言う「色々」とは、どのあたりまでの事を、どんなふうに聞いたのか分からず、答えに詰まってしまった。



「ゴメンね、急に聞かれても困るよね」


津山さんは返答に困っている松に、申し訳なさそうに言った。


「ちょっと気になっていてさ、わたしにできる事ないかって思って。彼と連絡とれている?」



「連絡ですか」




 なぜ彼女は普通に、「連絡とりあっているのか」とは聞かずに、「連絡とれているのか」と聞くのだろうかと思った。


 今は、彼とは、連絡なんかできる状況でなくなっているし、電話をかけても取ってもらえないのだから、もちろん「連絡とれている」状況にはない。




「もしかして徳永君と喧嘩でもした?」


松の浮かない表情に気付いたのか、心配そうに尋ねてくれる。



「喧嘩っていうか」


松は口ごもった。


 

 喧嘩をしたかと言えば、喧嘩をした。けれども浮かない表情をしているのは、別の理由だった。


 彼女は、彼の自宅の電話に出てきた、女の事を思い出していた。



「喧嘩になっちゃったのは本当なんですけど、まぁそんな風になってしまったのも、半分以上私が悪かったのもあって」


松は、アハハと笑ったがその声は寂しかった。



「あのね」


と、彼女は言った。



「はい?」



「あの…」



「はい?」



「あ、あの」


と、彼女は口ごもってムズムズしていたが、諦めをつけたかのようにため息をひとつつくと、


「いいの、なんでもない」


と、打ち消した。そして、


「じゃ、また」


とだけ言った。



「え」



 津山さんは微笑み返すと、松の返事を待たずに、忙しそうにその場を去っていってしまった。







 最終日の午前中は、役員を交えてのプレゼンがあったが、ランチの後はノープランで、全ての仕事を終えた後は、何時の新幹線に乗ろうかと考えていた。


 片づけを済ませ、鈴木さんをはじめとしたシステム情報課の人達に挨拶をすますと、松は、津山さんが来るのを今か今かと待ち構えていた。




「花家さんに、お客さんですが」


若い派遣社員さんが、声をかけてくれる。



 約束した時間ぴったりだった。



 松は、部署の人達にお世話になったお礼を述べると、荷物を持って、何か言いたげな派遣社員さんに気付かず


「ありがとうございます」


 と言って、お客の待っている廊下に走り出て行った。




 フロアから出た角の所に、訪問者が待てるような狭いスペースがあった。


 松は角を曲がって、津山さんに


「お待たせしました!」


と言おうと口を開きかかったとき、足音に気がついた待ち人が、くるりとこちらに振り返った。




 その人の顔を見た瞬間、松は、幽霊を見たかのように仰天した。


 実際、大きく一歩後ろに飛び退いたと思う。





「ハナイエちゃん」


と、立ち上がり、その人は松の顔を見てハッキリと言った。




「徳永さん」



 生まれてこのかた、こんなにビックリしたことはない。


 松は今、自分がどこにいるのか、どこかで間違ってドラえもんのどこでもドアをくぐってしまって図らずもニューヨークにやってきてしまったのかと、自分の足元を疑ったほどだ。




「久しぶりだね」


そう言って、彼はいつもの美しい爽やかスマイルを浮かべた。





 懐かしい笑顔。


 低く響く優しい声。





 松は、驚きのあまり数秒間呆然としていたけれど、もう二度と会う事もないと思っていた、愛しい人の姿を目の当たりにして、心がこれでもかと言う程温かく上昇し、涙が出そうになるほど、頬が熱を持ち、心音が高まった。





<9.告白> へ、つづく。

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