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7.見えない向こう側

7.見えない向こう側



「今日も遅いの?」



 考え事をしていた松は、声が降って来た方にハッと顔をあげる。



 就業時間が終わったというのに、机の上を片づけるそぶりない松に、臨席の瀬名さんが声をかけてきた。



「もう少しで終わりなら、待っていようか?駅まで送っていくよ」



「大丈夫です」


 松は瀬名さんに返事をしながらも、視線をまともに合せることができなかった。


「これやり終えるの、あと三十分以上かかると思いますし、その時間なら、誰か残っていると思いますので、誘い合わせて帰りますから」




 嘘。


 本当は、瀬名さんと帰り道、一緒になりたくて、終わりの時間をずらそうとしていたのだ。



 あの「告白」以来、松は返事をしておらず、今もしていない。そして、仕事以外で、まともに瀬名さんと話をする機会を極力避けていた。



「そう、じゃ、くれぐれも一人では帰らないようにね」


瀬名さんは頓着ない様子で、やんわりとほほ笑むと、


「お先に」


と言って、帰って行った。



 松は、フロアーを後にする瀬名さんの背中を視線の先に見送った。




 あれ以来、瀬名さんは、松に返事を急かすこともせず、別段普段と変わらないようにふるまってくれる。


 それでいて、帰り時間はきまって声をかけてくれる。


 瀬名さんはやたら松のことを気にかけてくれていて、近頃は、物腰も以前よりずっとソフトになった。




 松はふぅーっと息を深く吐いた。


 松の席の横には、半年前までは、二つの机が向かい合うように並べられてあった、今は空っぽになってしまった空間があった。



 斜め前の席。



 ちょっと顔をあげて、伸ばした視線の先にある、整った徳永さんの顔を、今でもはっきりと思い出すことができる。


 当時は、徳永さんの慌ただしく上下するご機嫌や、かかってくる国際電話などが気になって仕方がなくて、彼の美しい顔をじーっと眺めて喜んだり、ときめいたりする暇など殆どなかった。


 困ることも多々あったにも関わらず、いなくなられて初めて、自分の心に占める徳永さんの存在の大きさを知ったような気がする。


 気分屋だけど面白くて、ぼーっとしていても頼りがいがあって、厳しいように見えて優しかった。


 松はキーボード上の手を止めて、物思いに耽った。


 瀬名さんは、返事は今でなくても、全然かまわないと言った。


 松は、就職してからこっち、徳永さん以外の男性を男性として見た経験がなかった。


 千歩から


「瀬名さんはショウのことが好きかもしれない」


と指摘された時でさえ、考えたこともなかった。


 だから、今回の告白には本当に面喰ってしまった。




 瀬名さんは、返事はいつでもいいと言ったけれど、いつまでもズルズルと先延ばしをするのは失礼であろう。



 早々に断った方が誠実なのだと思う。



 なのに、心のどこかで棲くっている、臆病な女心が、いつまでも彼と向かい合う事をズルズルと躊躇わせていた。




 心を捧げようと思っていた徳永さんは、今はもう松の隣に居ない。



 再度会えるという保証もない。



 会える機会があったとしても、以前のような良好な関係に戻れるとは限らない。



 そして松は、新しい出会いを望んでいた。




 瀬名さんは松の上司で、千歩の思い人であり、あまりに近しすぎて、これまで候補にさえなっていなかった。ちょっとルーズで気難しいところがあるかもしれない。だけど根は善人だ。相手が瀬名さんでいけないという理由はなかった。






 松は携帯を鞄からとりあげると、電話をかけはじめた。


 相手はニューヨークにいる徳永さんだ。


 徳永さんとは、最後に向こうから電話があって以来、連絡をとっていなかった。


 けれど松は、瀬名さんから交際を申し込まれてから、今回ばかりは何としてでも彼と話そうと心を決め、取ってもらえないことを覚悟し、何度も何度も彼に電話をかけていた。




 電話は一度もつながらなかったが、松は粘り強く、日を変え時間を変え、何度も何日も徳永さんに電話をかけ続けた。


 繋がったところで、何を話してよいやら、自分でもはっきりしなかったけれど、たとえ、このまま終わりになるにせよ、いや、もう終わっているのかもしれないけれど、あんなシリキレトンボな喧嘩のまま、自然消滅させるのだけはどうしても嫌だった。




 松は、彼のことはまだ好きだった。


 できるものなら、関係を続けたかった。


 それでも、彼がそれを望まないのなら、松は、彼のことを諦める覚悟を持たねばならないと腹を括っていた。




 時計は夜の7時を指していた。


 松は、耳に携帯をあててコール音を聴いていた。


 以前、徳永さんがニューヨークから松に電話をかけてくれたのもこの時間だった。


 向こうが早朝なのは分かっていたが、出勤前や終業後や、寝る前のタイミングを見計らってかけても、出てもらえることはなかった。




 ここまであからさまに取ってもらえないのは、確実に避けられていると思わざるを得なかったが、諦めのつかない松は、ひたすら掛けつづけた。


 何度試みてもつながらない現実に心は折れそうになった。




 忙しいのかもしれない、


 いや、そもそも松からの電話を取る気がないのかもしれない。


 しかし松は、どうしても彼と話がしたかった。




 この日もコール音は聞こえるものの、取ってもらえそうな気配はなかった。


 一度だけ


「話したいことがあるのでまた電話します」


というメールを何日か前に送ったが、それにも音沙汰なかった。




 あまりに繋がらないので、このまま着信拒否をされたり、電話番号を変えられたらどうしようかと心配になってくる。


 そうなったらどうする?


 また、ニューヨークまで押しかけてみる?


 そんなことをすればストーカーだと疑われて嫌われるかもしない。



 が、嫌われたところで、そもそも関係が破綻している今、それがどうだというのだろう?



そこまで思いつめたところで、直接訪ねて行くといった無謀な考えはすぐに思い止んだ。


 徳永さんは出張が多く、訪ねて行っても自宅に居ない可能性が高いからだ。






「ふぅー」


 何度目かのトライが不発に終わって、携帯を手に握りしめたとき、コトンという音がして、フロアの向こうから誰かがこちらに近づいてくるのが分かった。


 見まわりに来た守衛さんかな、と思ったらカイ君だった。




「まだ残ってんのか?帰るんなら、駅まで送ってやろうか」


カイ君と最後に話したのは、桐子の結婚式の二次会の時以来だった。



 カイ君は近づいてくると、松が携帯電話を握りしめているのに気が付いた様子だった。



「あ。ゴメン、また電話していたの」


と、彼は言った。


「お邪魔だったら、消えるよ」



「ああ、違うの」


松は慌てて否定した。


「かからなかったから、帰ろうとしていたところ」



「かからなかったって、アイツに?」


と、カイ君は松の手に握られている携帯を見て言う。



「あ、うん」


松は項垂れた。


「ここの所、一生懸命電話しているんだけど、どうしても、出てもらえなくて」



「繋がらないのかよ」



「うん」




 カイ君は、表情を曇らせてジッとこちらを見ていた。

 

 彼は、軽く嘆息すると、デスクに手をついて、おもむろに松の目の前の椅子に腰かけた。




「アイツ、最近、オレが電話してもとらねぇんだよ」


と、彼はボソリと言った。



「ホントに?」



「メールしても、返事こねぇし」



「カイ君にも?」


じゃあ、仕事が忙しいからかな、と思った。



「この前、お前がよ、部署の若い上司といい関係になっていて、(よだれ)ダダ漏れで浮かれているぜってメールして以来、返事が来ねぇんだよな」




 まるで天気の話をするかのように、アッサリと言われた言葉の内容に驚愕して松は飛び上がった。




「な、何ですって!」


鬼の形相でカイ君を睨む。


「何だってそんなメールするのよ!」



「だって、本当のことだろ?」


と、彼はシレっと答える。



「よ、(よだれ)ダダモレなんて、一体誰がそんなことしたっていうのよ!」



「誰って、そりゃ、おめェだろ」



「はぁ???」


顔を真っ赤にさせてキーっと叫ぶ。



「ツバ飛ばすなよ。そんな下品なことできるのは、お前以外にいねぇだろうが。だいたい、ニューヨークみたいな遠い所いっちまったヤツなんてさっさと忘れて、新しい恋をした方がいいって言ったのはお前じゃねぇか」



「ななな、何言ってんのよ!」


松は引き攣った叫び声をあげた。あぁ、どうやらカイ君は、とんでもない誤解をしているらしい。


「わ、私は、少なくとも部署の上司といい関係になってなんかないし、涎をダダ漏れになんかした覚えはないから!!」



「んでも、時間の問題じゃねぇのか?いずれ近いうちにあの男と付き合うつもりなんだろう?今更、アイツに電話する必要あるわけ?可能性がある時ならまだしも、ヨソの男に心なびいてしまっちゃ今となっちゃ、電話しようが会いに行こうが、無意味どころか、向こうにとってもいいメイワクだろうと思うがね」


カイ君は、回転式の椅子をキーキーといわせてくるくると回りながら、ニヤニヤと笑っていた。



 何なの、ソレ?



 人をおちょくって楽しそうに笑っているこの男に、どうしても腹が立って仕方がなかった。



 彼の目の前で仁王立ちになると、腰に両手をあてて言い始めた。


「あんたって本当に、嫌ナヤツ」



「オレ?」


カイ君はキョトンして、苦にもしていない様子。


「前は、徳永さんに電話しろだの何だのと、散々煽っていたくせに、いざわたしが電話をしようとすれば、余計なこと言って、邪魔しようとするし。今だって、まるでわたしの考えが分かったかのような言い方をしているけれど―――」



「余計な事じゃねぇだろ?」


彼は松の言葉なんて聞く気もないらしく、言葉をかぶせてきた。


「オレは、真実を話しているだけ。あのいけ好かない上司にお前が言い寄られているのは事実なわけなんだし」



「それも、総務部のおばさま方の情報なの?」


松は、カイ君を睨みつけながら言った。



「まぁな、でも、聞くまでもなくそんな事、見てりゃ分かるだろ。この前だって、二人きりで会議室にこもっていただろ?見られてねぇとでも思っていたのか」



 

 えっ。



 一瞬、心臓がヒヤリとなった。


 あの告白された日、瀬名さんと会議室で二人きりだったあの日、見られていたとは知らなかった。総務部のおばさま方だけでなく、もうあちこちで噂にでもなっているのだろうか。



「た…たとえ、そうだとしても、徳永さんにわざわざ報告する必要ないじゃない!」


どもりながらも抗議を続ける。



「別にオレが自主的に報告しているわけじゃない。お前に何かあったら、知らせろと向こうから言ってくるから、オレが親切に教えてやってるだけ。なのにアイツときたら、せっかく色々と気を利かせてメールしてやってるのに、ありがとうの礼のひとつもない。相変わらず愛想のクソもない野郎だよ」




 松は、思い切り眉を顰めた。


 わたしに何かあったら知らせろって、徳永さんがカイ君に言うのだろうか。


 何のために?


 どうして??




「まあ、別に大したことを知らせているわけじゃない。お前が、例の新しい上司にコキ使われているとか、それが原因でインフルになったとことか、その後、飲みに誘ったと思えば、言い寄られて、最近じゃ、お前の方が(なび)きかかっているとか、その程度だよ。ところが野郎、そこまで話をしたところで、最近パッタリと向こうから返事をしてこなくなってさ」




「なななななな、何よそれ?」


松は、我慢ができなくなって大声を出さずにはいられなかった。


「大したことないことないじゃない!そんな根も葉もないこと言うなんて酷過ぎる!!」



「どこが根も葉もないんだよ」


カイ君は軽蔑するかのように言い捨てた。


「それにヒドイのはどっちだ。どうせ、お前のことだから、自分がスッキリしたいためだけに話をしようとしているんだろうがな、アイツだって、別れ話だと明らかにわかっているのに、電話に出る気分になるわけがない。何度も言うが、向こうは嫌がっているんだよ。別れ話をするぐれぇなら、電話なんてすんじゃねぇよ。勝手に終わらせておいて、今になってわざわざ電話して何になるって言ってんだよ」




 カイ君は、まるで法を説く弁護士のような顔つきで滔々と語り続ける。




「どうして、わたしが終わらせたと思うの」


松は湧き上がって来た疑問の回答を求めたくて、彼に質問を投げかけた。


「わたしのどこが終わらせようとしているように見えるの」



「そうだろ?」


カイ君は答えた。


「お見合いをするって言ったり、新しい上司に隙を見せたり、挙句、せっかくニューヨークから電話をかけてもらってきても喧嘩売ったり、お前は、もう、アイツには見切りつけてんだろ?」



「あたし、そんなつもりない」


松はきっぱり言った。



「嘘だ、見切りをつけている。もう、ヤツなんぞ必要ないって思っている」



「思っていない!!あんたがどんな勘違いしているのか知らないけど――――」



「勘違いしているのはおメェの方だろうが」



「わたしが何を勘違いしているっていうのよ!!」




 なによそれ。勘違いって、どういうこと。




 徳永さんは、松からの電話が別れ話だと思い、取る気がないのだと言う。


 別れ話をされたくなくて電話をとらないと言う。


 勝手に終わらせておいてって、まるで、こちら主導で終わってしまったかのような言い方だ。



 どうして、なぜ?



 忙しいから連絡するつもりはないって言ったの、徳永さんの方じゃないの。


 さっぱり訳分からないよ。



 が、ふとその時、電話で話したときに漏らした徳永さんのあの強烈な言葉が浮かんできた。




『オレが、キミの見合いがどうだったか知りたくないわけないだろう!』




 あの時の彼の言葉の意味が分からず、松は腹を立ててばかりだったけれど、放置していた疑問の欠片が今、ひとつの意味を帯びて、浮かび上がり始めた。



 彼は、あの時、何を言いたかったのだろう。



 あの時の彼の焦りを含んだ怒った声。



 まるで、そこに、カイ君と徳永さんの話をするとき、時々感じられた、正体のつかめなかった話のズレが、形をなして目の前に現れたような気がした。



 もしや…





「前にさ」


眉間に皺を寄せて反論しようとしている松にカイ君が話し始めた


「オマエ、したくないことでも、義理立てなきゃならねえこともあるって、言ってたろ。嫌でもクソでも、親のいう事をきかなくちゃならないこともあるかもしれねえ。でもな、そーゆー不便な人間関係に縛られているのはオマエだけじゃねぇんだよ。誰にだって、いろいろ不自由を感じながら生きてるもんなんだよ。言葉通りに受け取るんじゃねぇよ。何でもっと信じてやれねぇんだよ」





 信じる?


 信じるって、どういうこと?



 物事の核心に近づけず、まわりをグルグルとうろついているかのような会話に、歯がゆさを感じずにはいられなかった。



「あんた、徳永さんが、何かに縛られているとでも言いたいわけ」



「さぁね」



「何よ、途中まで言って教えてくれないなんて酷いじゃん」



「だって、オレ、アイツから口止めされてっもん」


 彼は答えた。



「口止め?」



「アイツにだって知られたくない事があるってこと」


と、彼は言った。



「知られたくない事ってどんな?」



「だから、知られたくない事だよ、知られたくないんだから、話す訳にはいかない」




 カイ君は徳永さんに何かしら事情があることを匂わせているようだが、なぜ彼は、徳永さんが隠したがっている「彼の事情」の存在を、敢えてここで自分に知らせようとしているのかと思った。



「知りたいのなら、自分から聞けばいいじゃん」


と、カイ君は言った。


「どんな事情をかかえているのか、直接本人に聞けばいい」



「何を隠しているのかと聞くの?」




「そうだよ、お見合いをしろと勧めたくせに、なんで結果はどうだったか知りたがるとか、電話もメールもしてくれるなって言っておきながら、シレっと向こうから電話をかけてくるのはなぜだとか、未練タラタラの態度なのは、何か事情があるからんだんだろ。それが何なのかは、まぁ、だいたいの見当はついているが、オレは言う事ができねぇ。だから、自分で聞いてみろって言ってんの」



 カイ君は松の眉間皺のよった暗い表情を眺めながら、ずっと椅子をキーキーといわせていた。




「でも、何度電話しても取ってもらえないし…」


松は、俯いて手の中にある携帯電話に視線を落とした。



 カイ君は、何か思いついたかのように、その辺にある一枚のメモ用紙をピッとちぎると、手近にあってペンで何かサラサラと書きはじめた。



「コレ」


彼はそのメモを松に差し出した。



「何?」



「アイツの自宅の電話番号。オレは携帯に繋がらない時はそっちにかけている。今ぐらいの時間ならいる確率は高い。明日ならいると思う、かけてみなよ」



 松は受け取ったメモを眺めながら言った。


「今ぐらいの時間って、向こうじゃ早朝じゃない」


そんな非常識な時間にかけられないよ、と言うと、



「だからいいんだよ。アイツ早起きだから。丁度目を覚ますか覚まさないかぐらいの時間だから、アイツ、絶対電話とるって」



 松は、メモとカイ君の顔を交互に見比べて逡巡していた。



「自宅の電話番号、教えてもらってねぇんだろ?」



「うん…」



「お前と話したくなくて、携帯にかかってきてもでないんだったら、そっちに掛けた方が出る確率が高い。ま、でたところで相手がお前だって分かった時点で切っちまうようだったら、仕方ねぇけどよ」




 うっ…。


 そうなったら、それはそれでさすがに悲しい。




「でも、そうならそれで、今度こそ本当に、諦めもつくってもんだろ?」




 まぁ、そうかもしれない。


 少なくとも、この中途半端な状態から脱出することはできるはずだ。



「分かった、こっちに掛けてみるよ」


松は言った。



「頑張って」


と、カイ君は珍しく爽やかに微笑んで応援してくれた。








 翌日、松は、カイ君からもらったメモの電話番号に、電話をかけてみた。


 決心が鈍らないうちに、何も考えずに、ただひたすら、徳永さんが電話に出て来るのを期待して、電話をかけた。




 ニューヨークは午前五時。


 心音がうるさい。


 血管の中を血が流れる音が耳元で聞こえるかのようだ。




 鳴り響くコール音を聴きながら、胸を落ち着かせる。


 

『そーゆー不便な人間関係に縛られているのはオマエだけじゃねぇんだよ。誰にだって、いろいろ不自由を感じながら生きてるもんなんだよ』



 カイ君の昨日の言葉を頭の中で回っている。


 彼は今頃、ベッドの上で微睡み、夢の中にいるかもしれない。


 寝起きの頭できちんと話してもらえないかもしれない。


 何て言おう。


 早朝に電話で起こされて、相手が私だと知って、どんな態度を示すだろう?

 

 嫌がるだろうか?


 それとも少しは歓迎してくれるだろうか?


 徳永さんが隠したがっている「彼の事情」を、わたしは知ることができるだろうか。


 そうすれば、ふたりを隔てている溝は少しでも埋まるだろうか。


 ああ、彼は打ち明けてくれるだろうか、


 わたしが彼のことを知りたがっていることを、受け止めてくれなかったらどうしよう。




 不安の波で押しつぶされそうになりながらも、それでも松は、なけなしの勇気をかき集めて、彼が電話に出てくれることを願いながら、受話器をピッタリと耳につけて、固唾を呑んで待っていた。




 ―――ガチャリ、と、電話を取った音がした。


 よかった!!出てくれたんだ。


 と同時に、ゴトリッという、受話器が固い床に落っこちたかのような音がした。




『しまった、おっこちた』


という日本語が遠くの方で聞こえる。



 ちょっと待っても電話口から人の声が聞こえてこなかったので、松の方から


「もしもし?」


と、話しかけた。



『モシモシ』


と、返事が返ってきた。



「・・・・・・?」



『―――モシモシ?』



「・・・・・・」




 松は、受話器を持ったまま、身体を硬直させて、言葉を失っていた。


 何か喋らなければ、何か。




「あの、その、そちらは、徳永さんのお宅ですか?」


松は、ひと喘ぎすると、掛けた番号が間違っていたのではないかという疑い半分、期待半分、震える声で尋ねた。



『そうですけど、どちらさまですか?』



「・・・・・・」


松は、言葉を失ったまま、硬直していた。受話器を持つ手が震え、妙に汗ばんでいた。





『電話、誰からなんだ?』


 

 電話の近くで、男の人の声が聞こえる。


 この声は、この声は…紛れもなくあの人の声…。




『代わってくれる?』


その男の人は言うと


『お電話変わりました。どちら様ですか?』


と、電話口に出ててきた。




 松は、名乗ることが出来なかった。




『どちら様ですか?』


と、何度も問い掛ける声が続いたが、松は答えなかった。



 暫く沈黙の後、



『…ハナイエちゃん?』


と、彼は低い声で尋ねて来た。



 途端に、冷や汗が背中に流れ落ち、心臓がバクバクと激しく鼓動を始めた。



『ハナイエちゃんだろ?』


と、電話の主は言った。





 気付かれた。


 どうしよう、気づかれた!





 松は、一言も発しないまま、卑怯者のように名乗りもせず、いきなりプツリと回線を切った。


 切った後も、激しい動悸は収まらなかった。




(女の人だった…)


松は呟いた。


(徳永さんの部屋に、女の人がいる)




 松は時計を見た。


 午後八時。


 ニューヨークでは、朝六時だ。




 その女の人は、朝の早い時間に徳永さんの自宅に居て、徳永さんにかかってきた電話を取るぐらいの、親しい間柄の人に違いなかった。




 目の前がクラクラする。


 天井がまわったように見える。


 貧血で倒れそうだった。




 松は、何をどう考えたらいいのか、


 どう頭の中を整理したらよいのか分からず、


 近くに会った椅子にしばらくじっと座りこんでいた。








 翌日、千歩が関東支店に転勤して行った。


 松は、桐子の退職時と同様、送別会を開いて彼女を送り出した。


 千歩はとても晴れやかな様子で、この栄転を心から喜んでいるようだった。


 千歩は、最後の日に、松の部署に挨拶に来た時も、松の隣の席の瀬名さんと、二、三別れの言葉を交わしていたが、未練のないサバサバとしたものだった。




 仲の良い同期がまた一人減ってしまった。


 残った同期の中には、婚約中や、彼氏とゴールイン間近の女子が沢山いて、そのうちの何人かは今年中に寿退社してゆくことだろう。ひどく寂しく感じるに違いない。




 自分はまだ若いのだし、社会に出たからにはしばらくは仕事を頑張るつもりで、まわりがいかに変化してゆこうとも気にしたことなどなかっが、徳永さんに恋をして以来、人生に対する考え方がコロリと変わってしまった。




 徳永さんの登場とともにやって来た、新しい経験と女らしい感情は、これまで灰色で活気のない人生を生きてきた松に、幸福な未来を連想させた。



 気持ちは高く高揚し、表情は明るくなった。


 綺麗になったね、と褒められることも多くなった。


 これまで恋愛に無縁だった自分にも、人並みな幸せを得ることができるのかもしれない、と期待に夢が膨らんだのだ。



 その後、突然訪れた、恋の喪失。


 それはまるで、山の天辺から突き落とされるかの衝撃で、単に落ち込む以上に、ひどい虚無感を味あわせるものであった。



 失恋って、こんなに苦い味がするものなんだ。



 恋人を失うと、世界に色が消えてモノクロになると言うけど、本当にそうだと実感した。




 徳永さんと連絡が途絶えてしまって以来、松は、日常のどんな出来事にも、感動を覚えることが出来なかった。


 美しい花を見ても、美味しい食べ物を食べても、感動的な映画を観ても、表層的な感覚が動くだけで、心から喜ぶことができないでいた。




「帰るんだろ?」


帰り支度の済んだ松に、おきまりの声がかけられた。


「今日は、車できているんだ。雨だし、よかったら家まで送ってゆくよ」




 瀬名さんの住んでいる家は、松の住んでいる町からさほど遠くない。


 通り道だったので、車で来ている時は、必ずといっていいほど声をかけてくれる。


 松は、今まで一度も瀬名さんに車で送ってもらった事はおろか、地下鉄の駅ですら送ってもらった事はなかった。


 だけど、松は今日初めて、彼の車で送ってもらうことを了承した。





 はげしく左右するワイパーがフロントガラスにたたきつけられる雨を蹴散らしている。


 雨粒に光る赤や青の信号、ネオンの光が、窓の外の景色に流れてゆくのを、松は、をぼんやりと眺めていた。




「東京出張、そろそろだね」


信号の止まったところで瀬名さんが話しかけてきた。


「準備はできた?」



「まぁ、準備というほどの準備も必要ないですけどね」


松は、言葉少なげに答えた。




 今回の仕事はあくまでも助っ人的なもので、こちらから下調べして資料などを持ちこむような必要は全くない。身一つで行って、言われるがままに手伝うだけ。




「本来なら、オレが行くべきなんだけど」


彼は忙しそうにハンドルを操作しながら言う。


「役員の交代とかあって、色々と忙しくて」



「役員さんが交代になるんですか?」



「ああ、来年度、社長が交代することになっているんだよ。それに伴ってね」



「えっ、浪野社長お辞めになるんですか」



 我が社の浪野社長は、六十年配のお爺ちゃん社長で、この人も例がに漏れず、親会社から天下りしてきたひとだが、人のいいことで知れ渡っている。



「うん、前から決まっていたことだ。後任は、親会社の川崎常務っていう人」



「川崎常務?」



「ああ、東京の親会社で今度の新しいシステムの責任者でもある。何度かお会いしたが、とてもいい人だよ」



「瀬名さんも異動になったりするんですか?」


ちょっと間をおいてから、聞いてみた。



「…鋭いね、どうしてそう思うの」



「だって、瀬名さんは若手の出世頭だっていう噂ですから。ひょっとしたらそうかなって思って」



「実は、本社異動ってことで希望を出しているんだ」


瀬名さんはハンドルをぐっと握りしめてニヤっと笑う。



 

 ウチの会社の本社は、東京ではない。松達の勤める支店からそんなに遠くない場所にあった。




「本社に?瀬名さんは関東支店異動の希望を出していると思っていました」



「前はね、今は取り下げて本社希望にしているよ」



「どうしてですか」



 瀬名さんは今でこそ人事部になじんでいるけれど、もとは営業部希望だった。


 都会的な雰囲気の体育会系の彼なら、きっと、規模の大きな仕事のある関東支店に行きたがるものだと思っていた。



「ここだけの話」


と、彼はこそっと言った。


「この前何人か若手が関東支店に異動になっただろう。その時オレも候補にあがっていたんだけど、断ったんだ。今では、本社勤務に異動ってことで内示をもらっている」




 本社勤務か。


 もう内示までもらっているのか。


 役員の異動に合せて動くだなんて、やはり噂通り、彼も出世コースに乗っているのかなと思った。



「…っていうのは建前。花家さんが支店専属の内勤だったからっていうのが本当の理由なんだけどね」


と、彼はニコっと笑って言った。





<8.新しい道の提示> へ、つづく。

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