エピローグ(最終話)
前ページで、後書きを追記しています。
エピローグ(最終話)
「ねえ、今日は早く帰れそう?」
「今日は東京から出張者が来るんだ。夜は食事をする流れになるかもしれない」
「じゃ、遅くなる?」
「なるべく早く帰れるようにするよ。あいつらと飲みだすと遅くなるからな」
いつもの朝の忙しい夫の出勤の合間の私達夫婦の会話である。
一己さんはワイシャツのボタンをかけ、素早くネクタイを締めると、新聞を走り読みしながら朝食のトーストを口にした。
松はそんな彼の為に、熱いコーヒーをカップに注ぎながらそっと彼の姿を垣間見た。
そろそろ三十代半ばに差し掛かっているというのに、眉目秀麗な容姿は結婚当時と少しも変わらない。
体重も増えなければ、お腹が出てくることもないし、もちろん髪が白くなる事もない。
結婚した後、幸せ太りと称してメタボになったり色気が消えてしまう男性は多いというのに、妻の目から見ても、彼は独身時代と変わらないどころか、より一層麗しさが増したように感じられるのだ。
少し前まで松にはそれが自慢だった。
自分との結婚によって、容姿が衰えるよりさらにカッコよくなる夫。
彼のパーフェクトな外見は、松との結婚が幸せだから、と思っていたからだ。
だが最近、松はその考え方を改めるようになった。
彼は一寸も隙もないイケメンレベルをキープしているというのに、自分はどうなのだと、ここ最近疑問を抱くようになった。
きっかけは、同期で友人の千歩が、ニューヨークに遊びにやって来た時に遡る。
まだ松が子会社に在籍していた時、千歩は、当時、仕事をとるか恋をとるかで迷っていたが、結局仕事の道を選んだ。
今ではバリバリ営業職をこなし、主任と呼ばれている。このままいけば来年は係長に抜擢されそうだと彼女は語った。
「その年で係長?千歩おめでとう!すごいじゃないの」
「フフありがと」
と言った千歩の目はまんざらでもない。
当時、彼女の想い人だった瀬名さんに彼女の気持ちは通じなかったが、今の仕事の充実ぶりをみたら、それもよい選択だったのだと思わずにはいられない。
だが反面、松の心は暗かった。
同じ年に入社した同期が、社会でバリバリ働いているというのに、松は、子供が生まれてから、外の世界とは全く縁遠い生活を送っていた。
毎日ペラペラの安い服を着て髪型もろくすっぽ整える事もせず、ボサボサの伸びた髪を後ろに束ねるだけ。
顔もすっぴんで毎日毎日子供の世話と、料理、買い物、掃除、洗濯で終わる日々だ。
生き生きと仕事に邁進している千歩との差を愕然と感じてしまったのだ。
彼は、今のわたしに満足してくれている?
こんな家に一日中ひっこんでボサボサ頭の冴えない服をきた自分を、まだ愛しいと思ってくれているかしら?と、松はぼんやりと考えていた。
「ショウ、どうかしたのか?」
コーヒーを淹れている手がいつのまにか止まっていた。
松は、宙を眺めていたようだ。
慌てて温めたミルクをカップに注いで一己さんに渡した。
「最近ぼんやりしている事が多いな。どうかしたのか?」
カップに口を付けながら一己さんが言う。
「最近ちょっと夜眠れなくて」
「体が辛いときは無理する必要ないが、雅己と一緒の時は気を付けてくれよ。アイツは最近派手に動き回るようになって何をしでかすか分からないから」
一己さんは、そう言ってカフェオレを飲み干し、
「なるべく早く帰れるようにするよ、雅己」
と言って、妻にではなく息子の方に目尻の垂れた顔を向けた。
そして鞄を持って、さっさと出て行ってしまった。
「雅己には気を付けろ、か」
確かに息子の雅己は、松も目に入れても痛くない程可愛いいし、夫にそっくりな面差しは松の自慢でもあった。
だが、夫の息子の可愛がりようは、母親の松の比ではない。
一般的に息子は母親の方になつくらしいが、一己さんの雅己への愛情は尋常ではない。
ただいまと帰ってきて松が玄関で出迎えても、彼は妻をすっとばして息子の部屋にすっ飛んでいくし、夜泣きをすると母である松より先に目を覚まし、泣き止むまでいつまででも抱いてあやしている。
明日に障るから自分が代わると申し出ても、彼は子供を放そうとしない。
息子も父親の腕の中が心地良いのか、父親に抱かれている時の方が機嫌がいい。
まるでその仲の良さは新婚夫婦のバカップル並だ。
松は、子供部屋に行って赤ん坊にミルクを飲ませてオムツを換えた。
子供はぐずっていたが、お腹がいっぱいになったと見えて、すぐにまたスウスウと寝入り始めた。
だが今日の松は、いつもと違っていた。
子供が寝ている間に、超特急で片づけ物を済ませて部屋に掃除機をかけると、クローゼットのドアをガバリと開けた。
持っている中で今一番自分に似合っている服を選び、化粧をした。
そして息子を連れて外に出た。
息子を馴染みのベビーシッターに預けると、松はその足で美容院に行き、髪を切ってパーマまでかけた。
そして買い物を済ませて部屋に戻り、まだ日が高いというのに、夕食の準備を始めた。
一己さんはああ言ったけど、相手が出張者なら取引先ほど気を遣う相手ではないので、早く帰ってくるパターンが多い。
今夜はきっと早く帰ってくるだろう。
松は彼の好物メニューをあれこれ考え、念入りに下ごしらえし、よそいきの食器を準備し、とっておきのお酒を冷蔵庫にいれた。
時間になったので、松は子供を迎えに行った。
息子はぐずってはいたが、母親の顔を見ると嬉しそうに機嫌がよくなった。
松はセットしたばかりの髪を気にしながら、今日はお願いだから、夜更かししたり夜泣きしたりしないでねと、息子に囁きかけた。
家に戻ってくると、キッチンの隅でけたたましい音がいきなり鳴り始めた。
この音は一己さんのプライベート用の携帯だ。
どうやらいつもの忘れ物癖で、彼はプライベート用の携帯を忘れていったらしい。
仕事用ならあまり覗いたりすることはしないのだが、プライベートは(カイ君など)身近な人から緊急の要件でかけてくることもある。
松は携帯画面を開いて相手を確認した。
「神楽さん…?」
電話の相手は神楽さんだった。
「はいもしもし」
『あっもしもし、神楽です、、って、え。あ、これ徳永君の携帯じゃないですか?』
慌てた、そしていつもの神楽さんの元気な声が聞こえてくる。
「神楽さんですか?これは一己さんのプライベート用の携帯ですけど」
『ああ、花家ちゃんか、びっくりした』
突然女の声が聞こえてきたので驚いたのだろう。
『徳永君は?そこにいる??あたし今ニューヨークに仕事で来ててさ、彼と待ち合わせしてるんだけど、彼、こないのよ』
「プライベート用の携帯を家においていったんです。仕事用携帯に電話してもらったら繋がると思うんですけど。番号はですね…」
『ああ、仕事用の方の番号知っているから、そっちにかけてみるよ。ごめんね、忙しいところお邪魔しちゃって』
そう言って電話は切れた。
相変わらず彼女らしいせかせかした喋り方である。
松は舌打ちしながら切るボタンを押した。
仕事で待ち合わせをしているのなら、最初から仕事用の方に電話すればいいじゃないか。
彼女は未だに昔の名残で、仕事の話をするときも、一己さんのプライベート電話に遠慮なく掛けてくるのだ。
母親の機嫌が下向きになったのを察知したのか、息子がぐずり始めた。
松は抱き上げてあやし始めたが、なかやか泣き止もうとしない。
オムツも大丈夫だし、着替えもしたし、お腹いっぱいなはずなのに、何が気に入らないのかわからない。
何度も何度も部屋の中を往復して泣き止まそうとしたが、子供が静かに寝入ってくれたのは日が暮れた頃になっていた。
松はほっとして子供をベッドに寝かすと、お気に入りの洒落たドレスに着替えなおした。
そして、鏡台の前に座って化粧を直し、乱れた髪型を整えた。
松は、テーブルに一番いいテーブルクロスを敷き、ワイングラスと準備していたお気に入りの食器とカトラリーを並べた。
料理は冷蔵庫に入ってあるし、簡単に温めて仕上げられるように既に準備ができている。
これで、彼がいつ戻ってきてもすぐに食べられる。
松は天使のような息子の寝顔を眺め、夫が帰ってくるのをソワソワと待ちわびた。
今日が何の日か、彼だってわかっているはずだ。
だから「なるべく早く帰ってくるよ」と息子にそう言って出かけて行ったのだろう。
だが、待てど暮らせど夫はなかなか帰宅しなかった。
時計の針は夜の八時をまわり、九時をまわり、十時をまわり、十時半をまわったところでメールが入った。
>ゴメン、飲みが入った。帰るのは深夜になるかもしれないから、雅己を寝かしつけたらショウも先にベッドに入っていてくれ。
松は消沈のため息すら漏らさなかった。
こんな事は日常茶飯事だったからだ。
期待してダメな事の方が多いのだから、松は最初から結果を期待して何かをすることは少ない。
殆どの場合、ダメモトで準備をするのある。
今回だって、うまくいけば、早く帰ってくれると思っていただけだ。
だけど、できれば今日ぐらいは早く帰ってきてほしかった。
なぜなら今日は、私達夫婦の三度目の結婚記念日だったからだ。
松は、物憂げな動作でテーブルの上の食器類を片づけ始めた。
そして、空いたお腹をとりあえず満たすために、お昼ご飯の残り物を口の中に運んだ。
冷たいピザを食べるとワインが恋しくなるが、母乳で子供を育てている松は、久しくアルコールを口にしていない。
今日の酒も彼のために準備したもので、自分は炭酸水かアルコールゼロのビールでも飲むつもりだった。
「はぁ」
松はようやくため息をついた。
最近ストレスがやたら溜まって発散できていないのは、アルコールもカフェインも口にしていないからじゃないだろうか。
松は毎日、ビールもコーヒーも夫のために準備するが、自分は妊娠してから一滴も摂取していない。
彼は「ショウが飲んでいないのに悪いよ」と言ってくれるが、彼の方が仕事でストレスを溜めているのに、自分のために遠慮なんかして欲しくなかったので、気にしないでと主張している。
「今頃楽しくお酒を飲んでいるのかな…」
東京からの出張者が来ているから、彼らと飲むかもしれないと言っていたっけ。
おそらく相手は神楽さんに違いない。
神楽さんはお酒が大好きだから、以前松も連れて行ってもらった事のある、オシャレで美味しいお酒がたくさん置いてあるバーにでも行っているのだろう。
松が結婚して以降、松は神楽さんと接点は少なかったが、神楽さんは一己さんの重要な仕事のプロジェクトのチームの一員で、電話やネットで頻繁に、一己さんとやりとりしている。
ニューヨークにも間を置かずにやてくるし、来た時は一日中一緒に居る事も珍しくないらしい。
結婚前に松が予想していたとおり、今の時点では、彼との接点時間は、松より神楽さんの方が多いのだと思う。
未だ神楽さんが松に嫉妬しているのかは分からないが、一己さんに対する彼女の気持ちは変わっていないと松は思っていた。
だからそれがどうだと言えば、それだけなのだが、今日みたいな日にわざわざ彼を引き留めなくてもいいじゃないかと、松は思った。
今日が結婚記念日であることぐらい、彼女だって覚えているだろうに。
普段、仕事場で夫を独占?しているのだから、今日ぐらい家に帰してくれたっていいじゃないか。
松はクローゼットの奥から平べったくて細長い紙袋を取り出した。
それは松が夫に用意した、今日渡そうとした結婚記念のプレゼントで、中身はネクタイだった。
松夫婦は、オフの日も突然仕事が埋まってしまう忙しい彼の仕事の都合から、誕生日にお祝いをすることはせずに、結婚記念日だけはお互いを労う日にしていた。
だが結婚一年目はしゃれた店で外食するつもりだったが、松がひどい悪阻にかかってしまって断念。
二年目は子供が生まれたばかりでどこにも預けることができなかったのでまたまた断念。
今年は子供が一歳をようやく超えたとはいえ、外食に連れていけるような年齢ではないし、松も期待はしていなかったが、小さな子供と一緒の生活にも慣れてきたので、ちょっとお家飯を豪華にして記念日らしく振舞いたかったのだ。
松は、プレゼントの箱を見下ろした。
リボンの先に
<一己さんへ、愛をこめて。結婚三年目の記念に。松より>
と、書かれてたカードが添えてあった。
去年も一昨年も外食はできなかったけど、プレゼント交換だけはしていた。
松は彼に、一年目はお財布を、二年目は名刺入れを送った。
今年は彼の手元に似合うカフスボタンか、それともネクタイしようかと迷ったが、ネクタイの方を選んだ。
松のお気に入りの彼が一番よく似合う、濃いグレーのスーツにピッタリなヨーロピアン系のきれいな紫と紺のまざった発色の良い色のネクタイだ。
松は、最初の結婚記念日の時に、彼から送られたダイヤのプチネックレスを首から外すと、丁寧にケースの中にしまった。
大変綺麗なものだし、身に着けると松の華奢のうなじを一層ひきたてるので、松はそれが好きだったが、子供がやたらいじりたがるので普段身に着けることは殆どなかった。
子育て中の女にネックレスやイヤリングなどの装身具のオシャレは不可能だ。
下手すりゃ結婚指輪ですら舐めまわされる事もある。
高価で形の整った綺麗な衣服も赤ん坊を抱っこすればシワになるし、ヨダレが垂れればシミになってしまう。
ゆえに松は、日中でも部屋着なのかパジャマなのか区別のつかないようなラフで安価な服ばかり着るようになった。
だからなおさら、今日はお洒落をしてネックレスを身に着けている姿を彼に見せたかったのだ。
松は子供が安心して寝静まっているのを確認して、急いで風呂に入った。
そして明日の子供用の離乳食と、自分達の朝食の準備をして寝る準備をした。
いつもと変わらない生地のヘタったパジャマ姿である。
髪もせっかくのセットが崩れてすっかりぺったんこになってしまった。
鏡を覗けば、表情の冴えない女がそこに居た。
なんてうつろで、面白くなさそうな眼をしているのだろうか。
時計を見ると、針は夜の十一時半を指している。
まだ彼は神楽さんとお酒を飲んでいるのだろうか。
楽しく話をしているのだろうか。
彼女が酒に酔った勢いで、松の夫の体に触れたり、しなだれかかったり、ふらついた彼女の体を彼が支えたりしているのだろうかと思うと、松は嫉妬で心がかきむしられそうだった。
彼は松の事を、まだ昔と同じ気持ちで愛しているだろうか。
最近、天野さんから結婚の報告が松宛てに直接メールが来た事があって、松は
「おめでとうとざいます」
と簡単に結婚を祝う返事を天野さんに送った。
松はその後、うっかり天野さんとメールのやり取りをしている事を、一己さんに話してしまったのだが、彼は
「天野が結婚?そりゃめでたいな」
と喜ばし気にそうに言っただけで、ヤキモチをやく素振りなど全く見せなかった。
ヤキモチを期待していたわけではないが、少しぐらい気にしてくれてもいいのではないだろうか。
自分ならおそらく普通ではいられないだろう。
だが松の夫は、妻がかつての妻の求婚者とメールでやりとりしてても全く気にならないようであった。
体がダルくてたまらなかった。
なんでこんなに眠いのだろう。
自分では気づいていないが、おそらく彼が帰ってきてくれなかったことが、予想以上に堪えたのかもしれない。
子供は母親の希望を叶えて素直に眠り続けている。
雅己だけは本当に聞き分けのいい、母親思いの子だねと、そんな事を考えながら、松は深く寝入り込んでしまった。
強い花の香で目が覚めた。
パチリと瞼を上げると、目の前に大輪のバラの花束がベッドサイドに置かれてあった。
強い花の香はここから流れてきたようだ。
いったいいつの間にバラの花がここに?
身を起こすと、ベッドルームのドアがわずかに開いていて、リビングの明かりが部屋に漏れていた。
どうやら一己さんが帰ってきているようだ。
松は目をこすりベッドから降り立った。
時計を見ると夜中の一時前を指していた。
息子は大人しく眠っている。
松はカーディガンを羽織り、ベッドサイドの花束を取り上げてリビングに歩いて行った。
一己さんはシャワーを浴びた後なのかバスローブ姿で髪は濡れていた。
炭酸水を飲みながらくつろいでいるようだ。
「おかえりなさい、帰っていたの」
「ただいま。遅くなってごめんな」
彼はそう言って、微笑した。
「神楽だけだったら今日は早く帰るつもりだったんだけど、斎賀さんから、どうしても話があると言われて、さっきまで三人で飲んでいたんだ。ショウは?ずっと待っていてくれたのか?」
「十二時ごろまで起きていたけど寝ちゃった」
「実はさ」
彼はそう言うと再びボトルの水に口をつけた。セクシーな喉仏が上下していた。
「昇格の発表が斎賀さんからあったんだ。来月付けで部長になる事になった」
「ホントに?」
松は意外なタイミングでの意外な知らせに驚いた。人事シーズンでもないのに昇格の知らせとは思いもよらなかった。
「すごいじゃない、おめでとう」
「ウン、ありがとう。仕事の内容はあまり変わらないがね。だがそれに伴って、人員を増やしてもらえる目途がついてね。来月からひとり部下が増える」
「部下が増えると言う事は、仕事が楽になるの?」
「まあそういう事だ。これからは少し早く帰れる事ができるかもしれない。そんなわけで、祝杯と称して飲まされた。だからどうしても断れなくて。ゴメンな」
松はウウンと、首を横に振った。
昇格したというのならこんなに喜ばしいことはないではないか。
彼が謝る必要はない。
「今日は美容院に行ってきたのか?」
「え、分かるの?」
「当たり前だろ、髪が短くなっているし、パーマがあたっている」
「ああ、うん…」
赤くなりながら松は前髪をいじった。
ぺちゃんこになってしまったので、気がついてもらえるとは思わなかったので嬉しかった。
「今日は色いろ準備していたんだろ?」
「え?」
彼はそう言うと、手元にあった長方形の包装された箱を松にずいと差し出した。
「ハイ。これプレゼント」
「じゃ、今日が結婚記念日だって知っていたの?」
松は渡された箱に驚いて尋ね返した。
「冷蔵庫を覗いてみたら、食事の準備をしていたみたいだし。酒も冷やしてあったし、ショウもちゃんと覚えていたんだろ?今朝も出かけるとき早く帰ってくるかって聞かれたから、オレも早く帰ってきたかったんだけどね」
松は急いで包装を開いて箱を開封した。
箱のサイズから何が入っているかすぐにわかったが、中身を見て一層驚いた。
箱の中は女性物のとてもスマートでオシャレな、真っ白なスニーカーだった。
「この靴…」
持ち上げてみると軽くて、とても履きやすそうだった。
「前にショッピングモールで見つけたとき、いいなあって言っていただろ?次行ったときなくなってしまって残念がっていたから、ネットで探して買っておいたんだ。去年ほど高価なものじゃないけど、実用的かなと思って。今晩帰ってきたら渡すつもりだったんだ。だけど帰りが、遅くなりすぎて靴だけじゃ恰好つかないと思ってさ、慌てて帰り道に花屋にかけこんで、花を付け足したってわけ」
「ありがとう、すごく嬉しい」
なんだか涙が出そうだった。
あんなに悩んでいたのに、真夜中にこんな急展開とは。
靴は足にぴったりだった。
これなら毎日愛用する事ができそうだ。
松は、靴を一通り堪能すると、慌ててベッドルームに行ってさっきの細長い箱を持ってきた。
「ネクタイ?」
箱をさっそく開封して、一己さんは目を丸めている。
ありふれた物にも関わらず、彼は意外そうに目を見開いて、しげしげと眺めていた。
「気に入らなかった?」
「いや、今までになかった色だったから。綺麗だ。ありがとう」
「どういたしまして」
松は、彼がネクタイを気に入ってくれたようなのですっかり機嫌が直ってしまった。
安心したせいか急激に眠気が襲ってきた。
すぐにベッドルームに行きたかったが、松はせっかくのバラの花束を水につけておかなきゃなと、バラを取り上げた。
本当に綺麗な花だよな、と匂いを嗅ぐために花に顔を近づけた。
「…う」
「?どうした?」
「気持ち悪い…」
松はバラを放り出して、慌ててバスルームにすっ飛んで行った。
そこで夜に食べたはずのピザをすっかり戻してしまった。
「ショウ、どうしたんだ?」
一己さんが後ろで心配そうに松の体を支えてくれている。
だがまた吐き気が襲ってきた。松は、吐き気が収まるまで吐き続けた。
「ショウ」
松の様子が落ち着くまで、一己さんはついていてくれたが、お互い思っていることは同じらしい。彼はゆっくりと切り出した。
「妊娠したんじゃないか?」
松は、否定しなかった。
そして、最後の月の印がいつだったか、数えてみた。
確かに一回抜けている。
というか遅れている。
遅れることは珍しくないので、あまり気にならなかったのだけど。
「検査キットある?」
「この前使っちゃって、切らしている。明日買ってくるよ」
「とにかく今夜は早く寝た方がいい。やたら眠いのは妊娠しているからかもしれない」
松は言われた通りすぐにベッドに入った。
ドキドキドキ。
胸が高鳴る。
二人目はいつにしようかと相談していたところだったが、こんなに急に幸運が舞い込んでくるなんて。
翌日松は自分で検査キットを買ってくると言ったが、自分が帰りに買ってくるから絶対外出するなと言われて大人しく家で待っていた。
彼は、昨日の深夜帰宅が嘘のように物凄く早く帰ってきた。
検査キットをためしてみるとやはり陽性だった。
二人目がお腹の中にいるのである。
「二人目かあ…」
アメリカに居る間に二人も子供に恵まれるとは思わなかったので、松は驚くやら戸惑うやらだったが、やはり嬉しさが一番だった。
彼との子供を再び授かるなんてこれほどの喜びがあろうか。
ふたりは明日病院に行く段取りを話し合いながら、ベッドの中であれこれ未来に思いを馳せた。
帰国のタイミングと出産がかち合わなきゃいいんだがなあ。
乳飲み子を抱えて飛行機に乗るのは難しいから、子供が生まれる前に松と雅己だけ先に日本に帰国した方がいいかもしれないな…
「また体形が変わるのかぁ」
松はボソリと呟いた。
「やっとお腹がへっこんできて、昔の服が着れそうになったって言うのに、もう一回妊娠したらアタシのお腹もう元にもどんないんじゃないかって心配だよ」
「別に戻らなくてもいいじゃないか」
一己さんは言った。
「体形を意識しすぎだよ松は。この前も食べなさ過ぎて倒れたじゃないか。母乳の出が悪くなるのもそのせいじゃないのか?」
「だって、細くなりたいんだもん」
ただでさえ太りやすいし、妊娠中もつい食べ過ぎてしまって、太りすぎだってお医者さんに怒られる事も多々あった。
「子供産んだ後も、デブなままだなんて嫌だもん」
「デブじゃないよ。ショウは健康的にふくよかなだけで。子供を育てなきゃならないんだから、体形なんて気にすることない」
「・・・・・・・」
「何で黙り込むんだ?」
「だって…」
「?」
「一己さんに、ちゃんと自分は奥さんだって思ってもらいたくて」
「は?」
松は普段来ているペラペラの服や、ボサボサの頭やすっぴんの顔の事を彼に話した。
少しも綺麗になろうとしない松を、一己さんは最近女として見てくれていないのではと、松は不安になっていたのだ。
それを聞いた一己さんは、ものすごく驚いた顔をしていた。
「オレは一度もそんな事を言った覚えないし、思った事もない。ショウの服の値段が高いか安いかオレはまったくわからなかったし、髪が長いのはその方が気に入っているんだなと思っていた。オレはもともとロングヘアーの方が好きだから何も言わなかったんだよ。化粧をしないのは子供のためだろう?いったいどうしてそんな思考になってしまったんだ?白状しろよ」
「どうしてと言われても。えっと」
「ショウの方こそ何か、後ろめたい事たあるんじゃないのか?」
「わたしのどこに?」
一日中家に閉じこもって、スーパーしか行く所がない生活をおくっている私のどこに、後ろめたい何ができるというか。
「天野とメールをしていただろう」
「天野さん?」
「まさか天野に何か吹き込まれたんじゃないだろうな」
「まさかあ」
松はあまりの突拍子な考えに吹き出しそうだった。
「じゃ、何で結婚報告をわざわざ松にしてくるんだ?」
「さぁ?わたしにもわからないけど、うーん…彼なりのけじめだと思ったんじゃないかしら。とういか、一己さん、あれ気にしていたの?」
「当たり前だろう?オレを何だと思っている?」
ブスっとしている。
「だって、全然そんなそぶりなかったから」
彼は微妙な表情を作った。
おそらく彼のプライドゆえ、あの時、わざと本心を隠したのだろうと、松は今になって気が付いた。
「あれから、天野からメールは来ることなくなっただろ?」
「確かにきてませんけど、でも天野さんとはもともとメル友ってわけでもないし」
「もうメールを送ってくるなとクギをさしておいたから」
「はい?」
「もう天野から何も言ってくる事はないよ」
全く意外な事の連続だ。
彼が松にヤキモチを焼いてくれたりするなんて、いったい何年ぶりのことだろう。
「何をニヤニヤしている。今度から男と安易にメル友なんかになるんじゃないぞ」
そう言われても松のニヤニヤは治まらなかった。
だいたい天野さんとはもともとメル友でも何でもないし。
「じゃ、一己さんこそ、プライベート用の携帯で女の人と電話しないって約束してくれる?」
「そんな事した事ないぞ?」
「神楽さんには、ちゃんとそう言ってくださいね」
「オレはいつもそうしている。むこうが勝手にかけてくるんだよ」
彼はふてぶてしく言った。
「…わかったよ、着信拒否にしておくよ」
松は、まだニヤニヤを抑えられなかった。
夫を自分の思う通りにコントロールできると感じられる事は気持ちのよいものだ。
「変な顔するな。性格が悪くなりそうな事でも考えているんだろう」
「もちろんですよ」
「昨日、ネクタイをプレゼントしてくれただろ?男性にネクタイを送る意味を知っているか?」
「へえ、どういう意味?」
「“首を絞める”と言う意味だ。オレはいつもショウに首を絞められているような気がするのは、気のせいかな?」
松はクスクス笑った。
「首を絞めるだなんて、失礼だなあ。いつもこんなに尽くしているのに。実は、ネクタイを送る意味はそれだけじゃないんですよ、知っています?」
「へえ、どういう意味なんだ?」
松はニヤリと笑い、一呼吸おいてゆっくりと言った。
「“あなたに首ったけ”って言うんですって」
**
結局松は、二人目の赤ん坊をアメリカ滞在中に産んだ。
乳飲み子と二歳の子供を夫婦ふたりで連れて帰ってくるのは大変だろうと、帰国前にカイ君が有給を使ってニューヨークまで迎えに来てくれた。
普段は口が悪いし、文句ばかりつけて、他人をこき使う彼だけど、人が困っている時、特に兄が困っている時は援助を惜しまない彼の暖かな性質は、昔と変わらない。
日本での新居はとりあえず、会社が提供してくれた社宅を選んだ。
カイ君は以前使っていた美容院の二階のアパートは大学卒業時に出ていたので、今では仕事場近くのワンルームマンションで暮らしていた。(あの大量の大荷物はどうやって処分したのだろう?貸し倉庫の中にでもあるのだろうか?)
新居に設置する家具の選定や、社宅に送った荷物の整理などは、南田さんがカイ君と協力してやってくれた。
南田さんはカイ君の彼女というわけではないらしい。
だが友人かというとそうでもないという微妙な関係のようで、松はふたりにそれ以上は深入りしないようにしている。
「あの子はまだまだオコチャマだからね」
と南田さんは言う。
「彼は私にとって、世話のやける弟のような友達って感じかな。付き合う気にはまだなれないよ。子供と付き合ったりする趣味ないからね~」
と彼女は、あっけらかんと言っているけど、たかが友達の兄家族のために、面倒な引っ越しの手伝いなど、誰がすすんでするだろうか、と松は思った。
まあ、松夫婦があまりに実家から疎遠なので、見かねて手伝いに来てくれたのかもしれないけれど。
例にもれず、二人目が生まれて帰国が決まったとき、実家サイドから継父を通じて援助や日本での新居探しなど、手伝ってあげようかと申し出があったが、松は頑固として断った。
「ごめんね。わたしが実家と断絶しているもんだから、助けてもらえなくて」
普通、面倒な引っ越しや転勤などの場合、特に今のような小さな子を連れている場合は、実家や親戚の助けが当たり前になるものだ。
だが松には兄弟姉妹はいないし、親以外に頼れる親戚はいない。
「そんなに気にするなって。義己だって手伝ってくれているし、何とかなるだろ?それに、実家と疎遠と言えばオレだってそうなんだし」
一己さん兄弟も母親とは断絶している。
母親は、彼が最初の就職先を辞めた頃には全く連絡を取り合うような仲でなくなってしまったし、必要最低限の用事で連絡を取る時も、弁護士を通すことになっているので、向こうの状況もこちらの状況も垣間見ることさえなくなっている。
「お継父さんがね」
と彼は切り出した。
「二人目ができた事を知って、名前のリストを送ってきたんだよね」
「は?名前のリスト?」
「花家の姓と画数の合う、格式に相応しい名前ばかりを集めたからその中から選ぶようにって、言ってさ」
「はあ?一己さん、いつの間にそんな物を受け取っていたの?」
「受け取ったわけじゃないよ、向こうから勝手に送ってきたんだ。生まれるだいぶ前だし、ショウに見せたらまた怒り出すと思ったから、隠しておいたんだ」
「ちょっと見せて」
松は、おそるおそる継父から送ってきた名前のリストを広げた。
そこには、男バージョンと女バージョン、どちらが生まれてもいいように、二種類十五個程度の名前が並んでいた。
「よかったあ、かぶっていなくて」
松は胸をなでおろした。
どの名前を見ても、長女に名付けた名前と合致する音も字もはいっていない。
「かぶるわけないだろう。かぶっていたら、オレが止めている」
一己さんはクスクス笑っていた。
「ま、女の子がいいと向こうは言っていたから、その希望はかなって嬉しいとは言っているみたいだがね」
「女だろうが男だろうがどっちが生まれようが、どの名前になろうが、あの人達とは関係ないとおもうけど」
松はイライラを隠せなかった。
未だ、母親達が、松の子を養子に取れると思い込んでいるのだと思うと、腹立たしかった。
松は鼻の穴を膨らませ断言した。
「ウチの櫻は嫁に出すまで徳永ですから!この子は、永遠に徳永家の子ですから!!」
「うん、ショウがね、そう言うと思っていたから、名前はこちらで決めますって言っておいたよ。そしたら、幼稚園や小学校に入る時はこっちで学校を選ぶからから、そっちで勝手に行くところを決めないようにって言っていた」
「なんですって??」
継父は―――いや違う、実家はまるで松を怒らせるために次々と子供たちに、いや、松一家にあれこれ横やりを―――いや提案をしてくるかのようだ。
「いつまで、頑なに実家との交流を拒否するつもりなんだと言っていた。子供が大きくなったらどうやって、祖父母や先祖の事を説明するんだとも言っていたよ。子供はじいじやばあばの存在を嬉しく思うものだって。子供が我々に会いたいって言い出したらどうするつもりなんだ、不憫に感じないのかとも言っていた」
「・・・・・・・」
「どうしてそんなコワイ顔をするんだ。オレが言ったわけじゃない。お継父さんが、お母さんがそんな風に言っているよ、と言ってきただけだ」
伝言ゲームか。
松は、心の中で深くため息をついた。
「以前に一己さんが、お母さんは反対する事に意義があるって言っていたでしょ?その意味が今分かったような気がする」
と松は言った。
「うん?」
「結局、自分の意見と反対な事ばかりする娘があの人の生きがいだったのよ。なのに、そのイジメ甲斐のある娘がいなくなっちゃったもんだから、急に寂しくなっちゃったわけ。それで、むこうから喧嘩を売る戦法に出ることにしたのよ。わたしを怒らせて気持ちを引こうと向こうは必死なんだわ」
「へえ?ショウもそう思うようになったんだ」
「怒らせてわたしが実家に怒鳴り込み来るのを首を長くして待っているの。そしたら話し合いの場を持って養子の話を持ち出せるとでも思っているのよ。でもおあいにく様。母が改悛して心から謝る気持ちにならないかぎり、わたしはあの人達に子供達を会わせるつもりは毛頭ありませんから!」
「ショウならそう言うと思っていたよ」
と、一己さんは腕の中の櫻を愛しそうに見つめた。至福のひと時って顔だ。
「おいコラ雅己!そんな遠くまで行くな。また転んだってお父さんは知らないぞ」
「あ~~あ、言う間に、泥だらけだよ。昨日洗濯したばっかなのに、着替えあるかな…」
雅己は、木の根っこに見事に躓いて、泥の中で転がっている。
「歩き出したら、最近ころんでばっかりで。ハイハイ、ほら起きて、土を口にいれないでね」
雅己は最近、頻繁に歩きたがるようになった。
つい最近までアザラシのように這いずり回っていたのに、今ではつかまり立ちをしてどこにでも行こうとする。
「ぱ~」
雅己は、転んだ割に、スッキリした顔で松の腕の中で暴れまわっていた。
「何だ?」
「ぁーちゃん」
「ん?」
雅己は腕を伸ばして櫻の方にひっつこうとしていた。
「さぁーちゃん」
「ねえ一己さん、雅己、櫻の事を言ってるんじゃないかな?」
「雅己、妹の名前が分かるのか?この子がお前の妹の櫻だよ?」
「さあーちゃん!」
と、雅己は再び言った。そして、どうだすごいだろ?と言いたげに、母親に向かって拳を振り上げた。
「そうだよ、雅己。この子がお前の妹だ。妹の櫻だ。お父さんとお母さん、雅己と櫻、ウチの家族は四人でひとつだ。誰一人抜けても徳永家じゃないからな」
と、一己さんは息子に向かって満足そうに言った。
エピローグ終わり
これにて終了です!
長い間、お付き合いくださり、ありがとうございました!m(__)m