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70.佳き日

70.佳き日



 結婚式は、一生に一度の一大イベント―――のはずであろう。少なくとも当人達にとっては。


 にも関わらず、その日の事を、松は雲一つなく晴れ渡っていた事ぐらいしか記憶にない。


 もちろん、霞のような薄いシフォン地にビーズをあしらった繊細なレース飾りのついた優雅なドレス姿の松を、輝く程美しいと一己さんは感嘆の眼差しで褒めてくれたし、真っ白なカラーとオフホワイトのバラ、そして動きのあるグリーンでまとめれたクラッチブーケは松の美しい装いを一層引立ててくれた。


 バージンロードを歩く父親役の斎賀さんの腕を借り、当代一のイケメンにバトンタッチされ、彼の横に並んだ時の松は、参列者全員に感嘆のため息をつかせたにも関わらず、である。



 なぜなら松は、式の間中、牧師の長々と喋る英語の説教はいまいち意味がピンとこないし、かと言って“イエス”と返答するタイミングを逃したらダメだと、そればかり気にしていたからだ。


 が、あまりに緊張しすぎて、松は“Yes”と返答する時、しゃっくりでも飲み込んだのかのような裏返った妙な声を出してしまった。


 指輪の交換をしている間、一己さんは笑いを必死にこらえているのがまるわかりだったし、誓いのキスに至っては、極めつけ唇に思い切り歯をぶつけてしまった。



「流石はショウだよなあ」


後々彼は何度もその時の事を繰り返して話のネタにした。


「ウチのショウは、一番肝心の時に大技を披露できるんだ」



 大技って何よ…



 その後は、一己さんの横に立って、参列した彼の仕事関係者と次々と握手を交わし、笑顔で挨拶したが、名前を覚えようにも、どの女が、松の愛する夫の直属の同僚なのか、色目を使っている女なのか、覚えるどころか外人の顔は全て同じに見えてしまう松にはさっぱり見分けがつかなかった。(おそらくその中にあのローレンスという名の女もいたはずだが)


 そればかりか、当の新郎は結婚式当日にも関わらず、油断すると、同僚に囲まれて仕事の話をしだすし、酒を強引に勧められて式の最後の方にはめずらしくへべれけになってしまった。


 ホールの中央でお決まりの新郎新婦のダンスを披露した頃には、彼はすっかり出来上がってしまって、一曲踊り終わる事には彼の瞼は殆ど閉じかかっていた。



 一番パーティーを満喫したのはカイ君だったかもしれない。


 彼は、会場の隅に設けられた立食スペースから一歩たりとも動こうとはせず、料理を腹の中に詰め込むのに忙しかった。(そういう意味ではニューヨークに来た事を満足してくれたようだ)


 その代わり、南田さんは当てにしていた男にかまってもらえず、パーティーの間じゅう暇を持て余さなければならなかったが。



「これで花家ちゃんも人妻かぁ~」


南田さんは肘をテーブルにつき、行儀の悪い恰好でシャンパングラスをお供にウェディングケーキをつっついている。


「わたしの春はいつくるのかしら…」



「カイ君はお眼鏡に叶いませんでしたか?」


隣の椅子の上で半分眠りかかっている新郎を、なんとか寝さすまいと苦心しながら松は尋ね返した。



「あの子はまだまだ発展途上だわよね」


南田さんはキッとシビアな眼差しになる。


「外見は一人前の大人に見えるけど、中身は子供よね。まずは腹いっぱい食べる事があの子の仕事なんだと思うわ」



「まあ確かに」



 二人は皿にかぶりついている青年の後姿をぼんやりと眺めた。


 美味しそうに頬張る彼の顔は、食べ物のこと以外何も考えていないように見えた。



「でもねえ、あの食べ物に関するこだわりは、ちょっと普通じゃないような気がするわ。食べないと、気持ちが満たされないというか」



「それだけじゃないんです」


松は言った。


「彼の場合、単に食べるだけじゃダメなんですよ。ちゃんといい材料でキチンと調理されたものじゃ気に入らないんです。だから一己さんもカイ君もすごく料理が上手だし、わたしにもそのレベルを要求してくるんですよね」



「若い頃に親が離婚したって言っていたでしょ?それがトラウマになってんじゃないかしら」



「確かに、食べ物と愛情が、ひっついているのかも」松は同意した。「彼がレベルの高い調理を要求するのは、単に食べるだけでなくて、彼は、愛情を、料理の凝り具合とか手間で量っているのかもしれないって思う事もあります」



「かまってちゃんなのかしら?」


南田さんは、う~んと腕組みをした。


「例えばあの部屋、ひどい散らかりようだったじゃない。たった数日の旅行にあんなに沢山の荷物を持ってくるなんて、モノに対する執着も半端ない気がするし。なんだかちょっと、心配な人よね」



「そうですね」



「うん、そうじゃないかなって思う…って、何よその顔は。わたしの顔に何か書いてる?」



「いいえ?逆には安心したなあって、思っているだけで」


松は、心配そうに眉を寄せている南田さんとは対照的に微笑んでいた。



「は?何でよ??」



「カイ君に、南田さんみたいな、しっかり者の姉さん女房がもし側にいてもらえたら、わたしも義理姉として嬉しいなあって、ちょっと想像してしまいました」



「姉さん女房?」



「だって、そうでしょ?こんなに短い期間の付き合いで、カイ君の弱点を分かってくれて心配してくれた女の人なんて、南田さんが初めてですよ?」



「ちょっと、待ってよ!!!」



「え。だって、南田さん、彼の事が目当てだって言っていたじゃないですか」



「そ、そ、それは…」



「イケメンが好みとも言っていましたよね?今回のこの結婚式に来るのだって、カイ君を当てにしているから一人旅でも安心だって言っていたし」



「そ…そりゃ、そんな事を言っていたけどさ!」


南田さんは慌てている。


「でも、あんなに若い弟だとは思わなかったし、食い気盛りのティーンエイジャーみたいなヤツだと思わなかったし、しかも物凄く口悪いし…!そもそも、花家ちゃんもさ、なんだってそういった重大な情報を事前に教えてくれなかったのよ?」



「え。だって。南田さんは、徳永さんの弟なら人格は問題ないって確信を持ってるみたいだったから、水さしたら悪いかなあって。確かにカイ君は、口は悪いし、食い意地が張っている上に、態度はデカくて、人を顎で使いたがる傍若無人な人間ですけど、結構いい奴なんですよ?」



「口悪くて食い意地張っていて態度のデカくて人を顎で使いたがる傍若無人な人間を、いい奴だって言う?」



「彼は成長途中ですから」


松は自信を持って言った。


「これから良くなっていきますよ」



「・・・・・・・・」



 主役とはいえ、知らない人ばかりのパーティーは退屈な時間だったが、たった一つ印象的な場面があった。


 南田さんがビデオレターを持ってきてくれたのである。


 親会社の面々―――システム課と海外事業部の連中はもとより、松が足しげく通った経理部や財務部、営業課の人達、懐かしい彼らの顔が声と共に映像が映し出された時は、殆ど泣きそうだった。


 松は、祝電をもらった時以上に、心温まる感謝の気持ちを胸いっぱいに感じた。



「うっ…ありがとうございました、南田さん。こんな素敵なビデオレター。一生の宝物にします」


涙ながらに礼を言った。



「イーエ。どういたしまして!強引に押しかけてきたんだからさ、このぐらいはしないとねって思ってさ。その様子じゃ喜んでもらえたみたいね?」



「ええ、本当にありがとうございます」



「ここに招待された人達も喜んでいるみたいだし、反応がよくって、わたしもホッとしたわ」



 出席者からも普段電話でしかやりとりしない東京オフィスの連中が、スクリーンに次々と登場すると、会場は沸きに沸いた。



「お手間だったんじゃないですか」



「手間?ううん。これさ、鈴木さんの発案でわたしが主に制作したんだけど、なかなか面白かったわよ。昼休みと残業時間を使って各部署を回ったの。あの営業課の鬼瓦課長なんか、いの一番にいいよって言ってくれてね。殆どの人が好意的に協力してくれたのよ」



 文句しか言われなかったあの鬼瓦顔の課長にまで「おめでとう」と言われるとは夢思いもしなかったので、松はあの課長の顔が出てきた時には、画面越しにまた文句を言われるのではと思わず固まってしまった。



「ほんっと面白かったのよ」


と、南田さんは忍び笑う。


「あの財務部のお姉さま方も海外事業部のお姉さま方も、以前は二人の売れ筋商品を独り占めしていた花家ちゃんに散々嫌味を言っていたのにさ、あの態度の変わり様ったら見物だったわ!こんな風にさ、目尻寄せて“花家ちゃん、おめとう~”なんて、口が裂けても言うような人達じゃなかったのに」


南田さんは人差し指を自分の目尻にあてて、その時の状況を面白そうに再現してみせる。



 あのシステム異常の件で、不正にデータを操作したのは松が犯人だと、海外事業部内であくどい噂を流したのは果たして誰だったのか、結局はっきりわからずじまいで事は終わってしまった。


 南田さんはおそらく但馬さんじゃないのと言ったが、あれ以降あの噂はパタリと消えてしまった(というより事件が片付いてしまったので皆、興味を失せてしまったのだ)ので、誰も松が犯人だと言うこともなかったし、反対に、犯人ではないと口にすることもなかった。


 もともと、家成さんがまとめていた海外事業部内で、松はあまり前向きな存在として認められていない所があったのだ。


 が、それでも彼女達はこうやってお祝いのメッセージを送ってくれたのである。


 もしかしたら、衷心からのお祝いではないかもしれない―――が、これもひょっとして、神楽さんの言う“社内の力関係”が変わった現象のひとつなのかもしれないと思うと、彼女達の行動も理解できるような気がした。



 料理の皿がさげられ、会場を流れる音楽も緩やかな曲調に変わると、そろそろ宴もお開きの時間である。


 日本の披露宴のように花嫁からの手紙だの花束贈呈だの、NY(ここ)ではそういった日本的な習慣を誰も期待しないので、(酔っ払いの夫を急き立てて)松は彼と共に出口に立ち、来てくれた人達に記念品を手渡し再度握手を交わし、お別れの抱擁をして彼らを見送った。



「花家ちゃんも苦労しそうね~~」



 酔っぱらって会場のソファーで沈むように腰かけて、うつらうつらしている夫を介抱しようとしている松に、南田さんはそんな言葉をかけた。



「普段はそんなに深酒はしないんですよ?」



 今日の飲みっぷりは特別だったように思う。


 熱くなったのか彼は上着を無造作に脱ぎ捨てるとまた瞼を閉じてしまった。



「兄貴は、オメエといるとどうもタガが外れるみてえで、しまりがなくなるんだよな」


残りの料理を未練たらしく口いっぱいに頬張っている夫の弟が、不躾に口を挟んだ。


「気が抜けるときもあるし、逆に落ち着かなくなる時もあるし。まったくざまあねえよなあ、こんなにぐでんぐでんになっちまって」



「何いってんのよ、お酒を飲みすぎると誰だって酔っぱらうものでしょ?」



「だから言ってんだよ、兄貴は本来、あまりキッチリした性格じゃねえんだから、酔うとタガがはずれて本性がでちまうんだよ」



「そんな事ないわよ」


仕事場での彼を知らないからそんな事を言うのだろう。


「一己さんほどキッチリした人わたし知らないわよ」



「わかってねぇんだな~」


チッチッチッと指をたててカイ君は笑う。


「所詮兄貴も昔ながらの肉食タイプなんだよ。獲物を狙う戦闘モードのときは、一ミリの隙もねえほど用意周到だけど、獲物を捕まえちまったら結構管理はずさんな方なんだよな」



「は?」


獲物ってワタシの事よね?



「ま。これから兄貴の世話を宜しくたのむや」



「・・・・・・・・」



 カイ君と南田さんはその後、一時間近くべらべらと松とおしゃべりをしていたが、夜の便の飛行機を予定していたので早々に帰って行った。



「じゃあな兄貴。嫁さんに飽きられんようにしっかりやれよ」


と、言い残して。




「全くあいつら、好き放題の事をベラベラと…」


一己さんは頭を抱えながら、ふうと椅子の背から身を起こす。


「酔っていなかったら一言言い返してやったのに」


と、はあ、と二度目のためをつく。



「捕まえた獲物の管理がずさんだなんて、いったい誰が言ったんだ?」



「わたしじゃないですよ?」



「それに、オレはしまりが悪いなんて言われた事ないぞ?」


彼は松に睨みを効かせた。


「これでも取引先から几帳面の徳永と言われて信頼されているんだ。まさかショウもそう思っているんじゃないだろうな」



「だから、わたしが言ったんじゃありませんったら!」



「全くアイツラめ…覚えておけよ」


そう言って一己さんは歩き出した。



「一己さん、上着!」


ソファーの上に脱ぎ捨てた上着を松は手にとって彼を追いかけた。



「あ?」



「あ?じゃないですよ、上着忘れている!!」



「ああ、そっか」



 そっかじゃないでしょ。


 早速忘れ物癖を発揮しているし…


 なんか心配になってきた。


 カイ君の言う通り、彼は松の前だとタガが外れやすくなるのは否定できない。



「悪いな」


彼はそう言うと、上着を受け取った。


「何、不審そうな顔をしている」



「別に…ただ、その、昔の事を思い出していただけです」



「昔の事?」



「昔、一己さんの隣の家のご夫婦が言っていた事を、思い出していたの。最初に徳永さんに会ったときの印象がどんなだったかって」



 一己さんはいったいいつの誰の話をしているんだと、目をパチクリさせていた。



「で、どんな印象だったって?」



「顔は不精髭に覆われていて熊みたいだったって。休日は、高校の体育の授業で着るような名前の入ったジャージを着て、縁側に座って、おじいさんみたいに、ぼーっと何時間でも座っている人だって言っていました」



「いったいいつ、そんな話を聞いたんだ?」



「わたしが、パスポートとチケットを届けに行ったときです」



「あん?」



「つまり、一己さんの最初の忘れ物を届けに行ったときですよ」



 一己さんは面食らった犬のように、落ち着かなくソワソワし始めた。


 松の耳に入る自分の噂は全て知り抜いているつもりでいたのに、いったいどうしてそんな話を聞かれてしまったのか、と言いたげだ。



「一己さん、どっち行くんですか?」



「え、帰るんだろ?駐車場はこっち…」



「今日は車で来なかったでしょ?」



「あれ、そうだっけ?」



「そうですよ?今日はアルコールが入るだろうからって言って車でこなかったんですよ?タクシー呼ぶなら正面玄関から出ないと」



「ああ、そういえばそうだったな…」


彼はそう言って素直に回れ右をしたが、まだ足元がふらついている。



 タクシーに乗ってからも彼はブツブツと煩かった。


 ショウはオレの噂をどこで聞いてくるんだ、それはどんな噂なんだとしつこく喋っていたが、車が動き出すとすぐに寝入ってしまった。


 どんな噂を聞いたかですって?


 松は彼の寝顔を見つめながらほくそ笑んだ。


 松は、彼の家の隣に住んでいたご夫婦のセリフをもう一度思い出していた。



“わたしが予定日より二週間も早く破水しちゃって、その時主人もいなくて大変だったとき、車で病院まで連れていってくれて、赤ちゃんが生まれるまで、外で待っててくれたことがあるの。本当に気のつく、優しい人よ”










 結婚式の翌日は休暇をとっていたものの、一己さんは二日酔いで一日中使い物にならなかった。


 松もまた、ここ数日の準備疲れのためヘタばっていたので、ロマンチックな休日とは程遠かった。


 その翌日からまた彼の出勤が始まったので、結婚式の余韻も感じる間もなく、いつもの日々が過ぎて行った。


 夫が朝早く出かけて、夜遅く帰ってくる生活が松の日常になった。



 最初松は、この日常になかなか慣れることができず、不安と焦りで拒食症になりそうだった。


 仕事から切り離され、自分の社会的地位とそれに伴う収入が失われてしまった事は、たとえ結婚して夫の扶養の下にはいったとしても、その事実は、やはり松にとって大きな喪失であることに違いなかった。


 夫である一己さんとあまり一緒に過ごせない事も不安の一因だった。


 彼の仕事の内容も良く分からないし、仕事場にウジャウジャとたむろしている彼を狙っている女達の存在など、心配すればキリがないほど悩みの種はあった。



 当初は散々悩ましく考え込んでいたが、ある時松は、イチイチ気にしても解決する問題ではないと、気が付いた。


 気に病んだところでどうにもなりはしない。


 どうにもできないのなら、考えるのはやめようと素直に開き直ったのだ。


 それより一刻も早くこのニューヨークという街に慣れ、彼の存在を支え、自分の生活を楽しみ、生活の質を上げる事の方が有意義ではないだろうか。


 若い時代に、外国で暮らせる機会などそうめったいある事ではないのだから。



 と思いたった松は、ある時から、日本で暮らしていた時では考えられない程活動的になった。


 遠くの市場まで買い物に出かけたり、積極的に町内のサークル活動に参加したり、時には社内のオクサマ方のつどいにまで顔を出す事もあった。



>あんたもようやく“自分の人生”を手に入れたわけね。


と、コメントしたのは桐子である。



 彼女とのやりとりは続いている。


 彼女とは、メールやネットでの交流が主だが、そのお蔭で結婚前より交流が増えた。


 松が彼女にニューヨークでの暮らしぶりを報告すると、彼女は羨ましがると同時に、母親の監視から逃れて初めて自分の人生を謳歌できるようになったんじゃないの、と言った。



>今までは、ずっと、お母さんが知ったら何ていうだろうって、気にしながら行動していたじゃない。今はそれがなくなって、やっと自分の人生が今始まった感じじゃないの?



>そうなんだよね。時々失敗もしちゃっているけどね。この前散歩に出かけて、道に迷って半日ぐらい家に帰るのを遅くなってしまったんだ。



>半日も?旦那は何も言わないの?



 あの几帳面で心配性の一己さんが何も言わないわけがなかった。


 新しい土地に慣れずに俯き加減に過ごしていた妻が、突然行動的になった。


 買い物に行ってくると出かけて道に迷うのは日常茶飯事。


 時には、知らない人の車に乗せてもらって帰ってきたこともあった。


 その時の彼の顔は、松がギャングの親分と帰ってきたような顔をしていた。


 彼は、松が内向きな性格なため、松の個人的な行動が彼の範疇を超えるとは想像していなかったのだ。


 しかしここはニューヨーク。


 松はまだ治安のいい場所と悪い場所を熟知していない。


 彼は妻に一人で散歩に出かけるのはなるべくやめるように言い渡した。


 すると松は、めげずに車の運転を始めた。


 初めて車を運転して遠出したと知った時の一己さんの反応を、松は忘れる事ができないだろう。



「シ、シ、シ、ショウが?ショウが運転したって?市場までひとりで行ったって??」


あの()が運転するなんて、信じられないといった言いぐさである。(失礼な)



 新しいレシピを試したときなどは傑作だった。


 カイ君という優秀な料理の先生がいなくなってしまったので、松はめったにオリジナルレシピを試していなかったのだが、ある時松は、おそらく彼が今まで一度も食べた事がないであろうハンガリー料理なるものを食卓の上に出してみた。


 その時彼は、文句も言わずに箸をつけたが、その顔にはものすごく困惑した表情が浮かんでいて、料理の味云々より、その顔には、これは食べれる代物か、体内に入れて大丈夫なのかと書かれてあった。



 確かに松の行動範囲はとても大きくなった。


 気になる事があればすぐに調べるし、行きたいところが出来れば可能な限りどこでも出かけて行った。



>英語ずいぶん上達したんじゃない?帰ってくる頃には、バイリンガルだね~


と、桐子は言う。



>そうだといいけど。



>そっちにいる間に、子供ができればいいよね。小さい頃から英語に慣れさせることができれば理想的じゃない。



 もともと一己さんも帰国子女である。


 彼も英語は現地で母国語同様に使っていたから、今もベラベラに操ることができるのだ。



>子供作る予定ないの?あんたはまだ若いけど、旦那さんはもう結構ないい年じゃない。



>そうなんだよね、欲しいとは言っているんだけど。



>けど?子作りしている暇がないとか?



>そういう訳じゃないんだけどさ。



>じゃ、子供嫌いなの?



>ううん、むしろ反対。彼は、よその家の子供ですら目の下やに下げて可愛がっちゃうような人だから、自分の子供ができたら、どうなっちゃうんだろうかって思う事があるし。



>よかったじゃない。



>うん、私も楽しみにはしている。



>子供ができればさ、松のお母さんも折れる気になるかもしんないよ?孫って可愛いもん。



 実はそれが問題だったのだ。


 結婚式の前日、一己さんは松の継父と話したと言ったとき、彼から何やら頼まれ事をされた事を白状したが、その内容まで教えてくれなかった。


 だが、子作りの話がふたりの間で持ち上がったとき、彼はその話をついに打ち明けたのだった。(というより、松が強引に口を割らせたのだった)



>は?養子?



>そ。わたしと彼との間に子供が生まれたら花家家の養子にもらえないかって、言ってきたの。まあそう言いだしたのは、母ではなく祖父母なんだけどね。祖父母は、わたしが結婚してしまったもんだから、その事はもう諦めて、現実的に、子供をよこすなら許してやるって態度に考え方を修正したんだと思う。だから突然、結婚を祝福するだなんて気味の悪い電報を送ってきたのよ。



>はぁ~~相変わらず抜け目のなさと、厚かましさは健在だねえ。


桐子は松が一己さんと出会って結婚するまでの経緯をかなり詳しく知っているので、松の両親や家族のこれまでの態度も熟知している。歯に衣着せぬ物言いをするのもいとわない。



>その通りよ。


それを聞いたときの松の怒りは憤慨なんてものじゃなかった。


>あれだけ酷い暴言を吐いて罵ったくせに、子供をよこせだなんて、どの口がそんな事を言えるのやらって思うわ!



>でも、アンタはそれでいいの?



>何が?



>花家家がなくなってもいいの?由緒正しい家柄なんでしょ?花家家をあんたの代でおわらせてよかったの?



>わたしは全く未練はないけど。


と、松ははっきりと断言する。



 自分の存在ばかりか、愛する夫さえも貶め、拒絶し続けた実家が潰えたところで、松は痛くもかゆくもなかった。


>そっか…じゃ、徳永さんはお継父さんに断ったのね?



>ううん、断らなかった。



>そうなの?



>断らなかかったけど、ウンとも言わなかった。“そうですね、もし子供に恵まれるような事があったら、子供が成人したときに本人に選ばす事にしますよ”って返事したって。



>え~~ナニソレ、子供に丸投げ?



>でも、角をたてないためには、彼にとってはせいいっぱいの返事だったと思うんだ。



>じゃ、どうするのよ。子供が将来花家になりたいってい言い出したら、そうさせるの?



>そんな事になるわけないでしょ?



>なんで?



>あたし、子供ができたら、彼との結婚の経緯を全て子供に話す事にしているもん。あれだけ酷い暴言を吐いて罵っていたくせに、謝りもせず子供だけよこせって言ってくる家に養子に行きたがる人間がいる?



>まあ…いないでしょうね。



  この件について、一己さんはあまり興味がないようで、その後、それについてあまり口にする事はなかった。


 彼にとって名前が変わるぐらいの事など、あまり重要ではないらしい。


 それについては彼の弟が補足してくれた。



「もともとオレと兄貴は男兄弟だったから、どっちかが養子に行ってもいいって言っていた事があったんだよな」


カイ君は言う。



「そうなの?」



「案外兄貴は、頼まれたら素直に婿養子にはいったんじゃあねえかな。あんた一人娘だろ?あんたが養子をとらなかったら花家姓が潰えるって言うんなら、十分考えたとは思うけどね」



 だが、そうはならなかった。


 下手に反対なんぞしてしまったために、母達は花家家に養子をとりそこねてしまったわけだ。


 結果論ではあるが、最初から許しておいた方が彼らにとっても好都合な事柄が沢山あったに違いない。


 松の母は、娘の決断力を甘く見すぎた。


 それゆえ、求めすぎてしまった。


 だが、結局は、一番大事なものを失ってしまった。


 自業自得だと松は思った。



 そんな訳で、子供ができた暁には、とりあえず子供は徳永姓を名乗ることが決まっているし、この先結婚でもしない限り、その子の姓が変わる事はない予定になっている。








 その後松は、ニューヨークに転勤してきた翌年に妊娠し、そのまた次の年に、母親となった。


 玉の様な男の子(比喩的な意味ではなく、本当に玉のようにまん丸の子供だった!)を、初めて腕の中に抱いたとき、松は、母性の喜びに打ち震えた。


 一己さんは松の妊娠が分かったとき、女の子がいいと言っていたが、生まれてきた子供のぱっちりとした目を彼の腕のなかで見たとき、彼は世界じゅうのどの父親よりも、子供を可愛がるようになった。


 松がひとり寂しくアパートで待っていた時でも早く帰ってこなかったのに、赤ん坊が生まれてから、人がかわったように早帰りになってしまったその変わり様に、松自身が驚いた。


 子煩悩な人になるとは思っていたが、ここまでとは。






 そんな訳で徳永家は、今、親子三人ニューヨークで幸せな生活を送っている。


 相変わらず、夫の仕事は忙しいし、子供はまだまだ手はかかるけれど。

 

 カイ君は兄夫婦がまだニューヨークに居る間に、大学を卒業した。


 今では就職して働いている。


 ときたま休みを利用してこちらに遊びに来ることもある。


 南田さんとは、お付き合いをするような親しい間柄ではないらしいが、付かず離れずの微妙な距離で浅い友情関係が続いているらしい。



 松はあいかわらず自分から実家に連絡をとろうとはしなかった。


 ただし、一己さんには継父から定期的に連絡が入ってくるようで、息子が生まれた暁には祖父母名でお祝い金を送ってきた。



「受け取ったの?」



「受け取ったよ」



「突っ返せばよかったのに」



「なんでだよ。もったいない」


一己さんはムキになっているの松を揶揄いたくて仕方ないようだ。


「有り難く頂戴して何が悪いんだ?それにこれは子供がもらったものだ。親に取り上げる権利はない」



 松はやきもきしていた。


 こうやってなし崩し的に贈り物を受け取り、祖父母に懐柔されて、将来、子供が花家家に(なび)くような事になったらどうしよう?



「子供が花家家に靡いたからって、それのドコが問題なんだ?」


カイ君が言う。



「だって、母が謝ってきたならまだしも、そんなつもりも態度もまるでないのに、こっちからへりくだるなんて!」



 相変わらず母の態度は頑なである。


 松に子供ができたと知ったときは、ものすごく会いたい素振りを見せていたそうだが、継父の話によると(気持ちは別として)やはり母は自分から頭を下げるつもりなど全くないらしい。


 椅子を振り上げて脅してきたのはそっちなんだから、謝るのはそっちでしょう、と、言っているようなのだ。



「じゃあ、兄貴は別に花家家に靡く気なんてないんじゃないか?単にお祝い金だからそれを受け取っただけだろ?」



「そう思う?」



「もしオメエが金輪際実家と縁を切ってくれと言うのなら、絶対にオメエの味方をしてそうすると思うぜ?」



 彼の弟によると、兄貴はこうと決めたらとことん貫く人間だから、松が望むのなら、母親が頭をさげて心から詫びの態度を見せない限りは、もはや絶対にこちらから折れることはないだろうと言った。



「テメエも本当にニブイよな。その鈍感なのどうにかなんねぇの」


相変わらずもったいを付けた口調である。


「最初から兄貴は、オメエの実家に引け目を感じているわけじゃないんだ。兄貴があんだけ腰低くして、頭下げまくって、結婚を許してくださいって何度も会いにいったのは、いわゆるポーズってやつなんだよ。単にオメエの両親に許して欲しかった、それだけじゃねぇんだぜ?」



「どういう意味?」



「つまりはよ、最終的には、オメエの両親に許してもらわなくてもよかったということ。本当の確約さえ得られればな」



「本当の確約?」



「オメエ、椅子持ち上げて親に立ち向かっていったんだって?」



「あ…」



「謝れ、ワリャーって叫んだんだって?」



「・・・・・・・」



「それが全ての答えだとオレは思うぜ?」


カイ君は言った。


「兄貴が本当に欲しかったのはそれだと思う」



 つまりは、わたしは徳永さんから、愛情をあの時点でまだ試されていたということなのだろうか?



「兄貴が苦労人なのは良く知ってんだろ?」


カイ君は続けた。


「兄貴には味方が少ないんだ。身内の愛情にはひときわ敏感なんだ。それはオレも同じだけど、オメエの両親や親戚が敵だっていうのなら、(オメエ)がどれだけ自分を想ってくれるのか確信が欲しかったんだと思う」



 それを聞いて一層複雑な気持ちになってしまった。


 あの事件があった時は、ふたりは既に気持ちを確かめあっていて、結婚することを決めていたのに、まだ何か試されていたのというのだろうか。



 松は義弟の口から聞いたその話を聞いて以降、夫の微妙な態度や表情に一層気を付けるようになった。


 彼が自分を疑っていないか、不安になっていないか、冷静に観察するようになった。





「どうしたんだよ、さっきからじっとこっちばかり見て」



「え?別にじっと見たりなんかしてないですよ?」



「見ていただろ?なんだ?オレの顔に何かついているのか?」



「いいえ、何もついていませんけど」



「じゃ何だ?さっきの電話の事をまだ気にしているのか?あれは完全な仕事の話で、あの女に愛想良くしたのは、向こうが取引先の役員で今度の契約で大きな役割を担っている人間だからなんだよ。別に意味なんてない」



「仕事の話だったんでしょ?別にそんな事、全然気にしていません。気にしすぎじゃないですか?」



「じゃ、なんでそんなにソワソワしているだ?」



「ソワソワなんてしてないもん」



「ショウが喧しく言うから髭の剃り残しもないようにしているし…」


と言って、彼は心配そうに鏡をのぞいている。



「そんな事気にしていたの?」


あたしそんな事、喧しく言った事あったかな?


「相変わらずイケメンだなあって思っていただけで、顔に髭の剃り残しなんてひとつもないよ」



「イケメンと言われるのは久しぶりだな。最近は皺も増えて来たしなあ」



お。顔のシワの事を気にするようになったのか。



「顔にシワが出来てもわたしは気にならないよ?」


松はニッコリ笑って言った。


「むしろ大人の魅力って感じがするし」



 一己さんは、松の笑顔に一瞬ピクリと硬直したように見えた。


 ああ、何度見てもパジャマ姿の彼もうっとりするほど麗しい。


 彼は、ハミガキを終えると、こちらにクルリと振り向いた。



「分かったぞ、ショウが今何を考えているのか」



「何ですか?」


何なんだろうな。



「そんな風に思っているんなら、素直に言ってくれよ」



「は?」



「今晩は時間あるし、一回か二回ぐらいは…」



「はい?」



「二人目が欲しいと思っているんなら、なんでそう早く言ってくれないんだ?」



「そ、そんな事思っていませんってば!!!」









 一己さんとは、初めて会った時からこんなだったような気がする。


 初めて彼と会ったとき、松は自分を「花家(はないえ)です」と、自己紹介したのに、彼はいつまでも松の事を「ハナゲ」と呼び続けた。


 鼻の中の毛みたいで松はそう呼ばれるのが死ぬほど嫌だった。


 松が何度も、自分の名前は「ハナイエ」だと言い直したのに、彼はずっと間違ったままの彼女を名前を呼び続け、松の地雷を踏み続けたのだった。



 一己さんは、昔と変わらずたまに、鉄仮面のような冷たい表情で窓の外を睨み付けている時がある。


 そんな時は、やはり何を考えているか分からない。


 たまに何を考えていたのか尋ねてみても、


「昨日の野球の試合の事を考えていた」とか


「子供のオムツのメーカーをどちらにするか迷っていた」とか、


全く予想と反する答えが返ってくるだけである。



 夫婦は「あうん」の呼吸で何も言わなくてもわかりあえると言うが、松は自分はまだまだな気がした。








 アメリカでの生活も間もなく終わろうとしている。


 おそらく来年か再来年の春までには日本に帰国する事になりそうだ。


 長かったようであっという間だったニューヨークでの暮らしは、松に、数え切れない程の価値をもたらしてくれた。


 それは喜びであり、感謝でもあり、または責任でもあった。





「来月、メトに行かないか?」



「なあに?新しいオペラでもかかるの?」



「ああ、新演出みたいなんだ」



 メトロポリタン歌劇場は、彼とのニューヨークでの思い出のデート場所もある。


 あの時観た歌劇(オペラ)は言葉が分からず、どんなストーリーなのか詳しく理解できなかったが、当代一のプリマの歌声は、強く記憶に残っている。



「ああ、このオペラかあ。懐かしいね」



 ふたりは、ニューヨーク駐在の記念に再び観に行くことにした。


 前回感激したのと同じ演目だったにも関わらず、新演出の斬新な舞台は新進気鋭の若い歌手のエネルギッシュな歌声で、松も一己さんもすっかり圧倒されてしまった。


 そして悲劇的な幕切れは、やはり涙を誘われた。



“Amami, Alfredo, quant'io t'amo….”



 帰り道、幕間で飲んだシャンペンがほろ酔いを誘って、ふたりはご機嫌に劇中の有名なアリアの歌詞を口ずさんだ。


 前は、このイタリア語の歌詞の意味が分からなかった。


 だが松は、最近になってこの歌の意味を知ったんだよ、と彼の耳元で囁いた。



「へえ、何て意味?」


と聞いた一己さんは、もちろんその意味を知っていたが、彼は妻の口から聞きたかった。


「教えてくれよ」



松は微笑んで彼の耳元で囁いた。


「“私を愛してアルフレード、こんなにも愛している私と同じくらい愛して”ていう意味よ」※







次回、<エピローグ>で、最終話となります。


///下記追記。


※“私を愛してアルフレード、こんなにも愛している私と同じくらい愛して”


ベルディ作曲の歌劇「La traviata」(ラ・トラヴィアータ)は、"道を踏み外した女"という意味があり、日本名では「椿姫」で親しまれています。


「椿姫」は、パリの高級娼婦と青年アルフレードの悲恋の物語です。

高級娼婦のヴィオレッタは田舎青年アルフレードと恋仲になりますが、

アルフレードの父親に、どうか息子と別れてくれないかと懇願され、泣く泣く密かに身を引くという有名な場面があります。

ヴィオレッタは、彼女が別れようとしている事を何も知らない恋人アルフレードに

“私を愛してアルフレード、こんなにも愛している私と同じくらい愛して”

と、美しい愛の言葉を歌い上げ、去っていきます。

劇中もっとも見どころの、涙を誘う、かつ感動的な場面として知られています。


最初のプロローグでも、主人公二人はこの同劇のオペラを観に行っています。


下記動画サイトの、56:00~で、


“Amami, Alfredo, quant'io t'amo….”

(私を愛してアルフレード、こんなにも愛している私と同じくらい愛して)


の場面がご覧になれますよ。


当時、はまり役として知られたソプラノ歌手、アンジェラ・ゲオルギューが

美しく、ドラマチックにヴィオレッタを演じています。


https://www.youtube.com/watch?v=WpTmUJO0fus&t=4888s


///追記終わり。




お話は、これにて完結致しました!

後は、次回のエピローグで最終話となります。


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