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65.騒動⑩

65.騒動⑩



 暗闇の中で複数の人間の息遣いが聞こえる。


 それはこの空間に取り残された松と、明らかにもう一人の人間によるものだと松もはっきりと分かった。


 相手は松の今立っている位置からそう遠くな場所に居ているようだが、松の前にも後ろにも背が高くめい一杯書類が詰め込まれた書棚が存在していて、確かなところは分からなかった。



「だ、誰?」


おそるおそる声を出してみる。



 シーーーーン。



「誰かそこにいるのですか?」


と、松は再び疑問を解くため口を開いたが、全くの梨の礫。



「・・・・・・・」



 息遣いが聞こえてくるのに返事がないのは薄気味悪いが、ここでジッとしててもはじまらない。


 とにかく携帯を回収しなくては。


 松は片手片膝をついて、床に転がったままの薄暗い明かりを放っている携帯にもう一方の手を伸ばした。


 携帯にあと一歩近づいたところで着信音が途切れ、


『もしもし、ショウ?』


という徳永さんの声がかすかに聞こえて来た。



 松が携帯をを取り上げて「徳永さん」と、返答しようとした寸でのところで、闇間から突然、艶のあるぴかぴか光った女物の靴の先がヌッと現れたかと思うと、あっという間もなく床に転がってあった携帯がそれによって蹴り飛ばされた。



「あッ!」



 カラカラカラーーーーン…



 より一層身を低くして腕をグンと伸ばしたその瞬間のことであった。


 携帯が固い音をたてて冷たい床を滑り、最後にカンと壁にぶつかった音が聞こえた。



 ちょっと、いったい誰よ?何してくれるのよ。



 視線をあげて問題の人物を探してみるも、あたりは真っ暗で人間どころか虫一匹視認することもできない。


 恐怖より驚きや怒りの方が大きかったが、相手が誰でどこにいるかわからないままでは、面と向かって文句をいう事も、携帯を拾ってこいと命じることもできなかった。


 携帯はどこまで飛んでいってしまったのだろう。


 徳永さんは変に思っただろうか。



 とにかくこう暗くちゃ何も見えないし、自分の居場所さえわからない。


 こんな真っ暗な所で、正体不明の人間とふたりきりだなんて嫌すぎる。


 まるで得体のしれない動物と森の中で鉢合わせしたような気分だった(経験はないが)。



 松は、とにかくこの場から離れなければと、直観的に感じた。


 携帯はあきらめて外に出るか。


 自分は出入り口からそう遠くない場所にいていたはずだ。


 廊下側のドアは近くにあるに違いない。


 しっかし、なんだって急に電気が落ちたりしたんだろう。


 さっきの派遣さんとの話で、彼女が例の特殊能力?を発揮させ、書庫の灯りを消してしまったのだろうかと想像したが、実際そんな事ができるとするならば、彼女は単なる静電気体質なんぞではなく本物のエスパーかなにかに違いないと思った。



 そんな事を考えながら、回れ右をしてまっすぐ進めばドアに行き当たるだろうと、そろそろと壁を横手に身を起こして、立ち上がろうとしたその時、今度は、件の輩が足を床に這いつくばっていた松の体に引っかけてしまい、松の傍らで大きな荷物が高い所から落っこちたような、めちゃくちゃ激しい音がした。



 ガッターン!!



「いッターーッッ!!!」


今度は松も大声を上げた。



 明らかに女と思われる人間の体が松の上に乗っかっている。


 重い。


 何なんだ、何だって上から人間が落ちてくるんだ。


 いったい誰がこの部屋にいるんだよ。


 松は幾分どころか相当腹立たしく思いながら、



「ちょっと、痛いじゃないのよ!」


と、大声で叫ぶと、自分の体の上に乗っかっているさっきから無体な所業を働いている誰ぞの体を乱暴に押しのけた。



 女は倒れた拍子ににどこかに体をぶつけたのかウンウンと唸っているが、やはり暗くてその正体はわからない。


 かなり痛がっているようだが、事此処に至ってもウンともスンとも発しなかった。


 ホント誰なんだよコイツ?


 なんでこんな所にいるの?


 何してるの?


 まさか泥棒?


 いや、金目のモノどころか古い書類とダンボール箱しか置いていない書庫なんぞに盗みに入る馬鹿はいないでしょ。




 松はだんだんと腹が立ってきた。


 こうなっちゃ、何がなんでも相手の顔を拝んでやらねば気が済まない。


 松は、怒りに任せてその辺に積み重なってあるものに身を預けて体制を立て直そうとした。


 だが体重をかけたその先は、古い家具などにかぶされてある埃避けのような頼りない布がひっかけてあり、松がぐいと引っ張ったために、それは床にバサリと音をたてて落ちてしまった。



 ヴーーーン…



 目の前でモーター音を発してる物体が現れた。


 暗闇だった部屋に新たな光がパっと差し込んできて、闇間になれていた松の目は眩しさに瞬いた。


 だが光にだんだんと目が慣れてくると、松は自分が何を目の前にしているのかすぐに理解した。


 外界から漏れてくる光ではない。


 それは、松がよく知る、仕事で何度も使ったことのある、社内システムの本体(メインサーバ)と、それに繋がったデスクトップの画面だった。


 モーター音はデスクトップから聞こえて来るもので、新たな光の正体はデスクトップの画面から発光していたものだった。



「なんでこれがここに…?」


 と、口にした瞬間思い出した。



 多くのの配線がごちゃごちゃと入り組んでいる本体(メインサーバ)を、オフィスの目立つ位置に置いておくのは外観がよくないとクレームが出て、書庫の中に移動させたのはつい最近の事だった。


 システムがトラブる度にわざわざ書庫まで走って行かなければならないのが面倒であったが、松は間もなくこの会社からいなくなってしまう身だったので、強くは反対しなかったのである。


 しかし、単に移動させただけだとしても、この状態はどうも変だ。


 本体(メインサーバ)は二十四時間稼働しているものだから、電源が入っていても不思議はない。


 だが、なぜ付随している画面(モニター)が今現在稼働しているのだろうか?


 画面は必要に応じて使われるべきもので、もちろん使用していない時は電源は消えているし、それが常なる状態である。


 たとえ使われることがあっても、省エネが口やかましく謳われているこの会社で電源の付けっぱなしは殆ど見受けられない。


 しかもこんな分厚い布切れで画面を覆い隠す事など、普段はしない。


 松は床に滑り落ちた埃避けっぽい布切れに目をやったが、こんなものがモニターに被せられているのを見たことがなかった。




 不思議に感じた松は、起き上がってすぐさまその画面を覗き見た。


 その画面は松がよく知る社内システムの画面が表示されていた。


 明らかについ今までここでこの画面を使ってシステムに入り込み、閲覧もしくは入力をしていたような状態になっていた。



「・・・・・・・?」



 ますます松は眉を顰める。



 何なのコレ?


 誰がここを触ったの?


 松は条件反射で画面の左上の隅っこに視線を飛ばした。


 そこにはログイン中のパスワードが表示されてあるのだ。


 幸い松は、システムを使用している社内の人間―――は全てでなくとも、少なくとも頻繁に呼び出しを食らう海外事業部員全てのパスワードを全部暗記していた―――が、思い出す必要などなかった。


 画面に表示されていたのは、ついさっきまで目にしてた番号に間違いなかったからである。



「この番号は…」



 間違うはずはないし確認するまでもない。


 松は息を飲んだ。


 画面左上に表示されていたのは、さっきまでここに居て、計上ができないと嘆いていた派遣さんが使っていたパスワードだったのだ。



 どういうことだ?


 松が、今しがたオフィスで神楽さんに指摘されてオフィスでアクティブになっている回線を調べた時、稼働しているのは、その時自分が使っていた松のパソコンと、神楽さんと派遣さん、そして本体(メインサーバ)だけだった。


 だから、ほかの誰かが派遣さんのパスワードを使い込んでいるとは思わなかった。


 だが、そうではなかったのだ。


 派遣さんでない誰かが、彼女のパスワードを盗んで本体(メインサーバ)を使ってシステムに入り込んでいたのである。



(ウソでしょ?ここでシステムを使っていたってわけ?わざわざサーバーのあるところまでやってきて、入力作業でもしていたってこと?)



 しかも明かりが漏れるのを隠すために、分厚い布を画面にひっかけていたようだ。


 何でそんなことを?


 と、自身に問うてみるも、よい答えは浮かんでこない。


 だが、操作自体は実際問題不可能なことではない。


 ここで入力作業をしようと思えば普通にできるのだ。


 いったい誰が?


 何のために?


 ひょっとして但馬さん?


 さっき入退室記録帳に書かれてあった但馬さんの名前を思い出したその時だった。




 バサバサバサバサーーーーーッッ!!




 松の立っていた真横の棚に詰め込まれていた書類の山が、向こう側からこちらに押されたのだろう、決壊したダムの水のように大量の書類がダンボール箱ごとにこちら側に崩れ落ちてきたのだ。



「うわッッ!!」



 塊と化した書類の束が、松の体めがけて降ってくる。


 松はとっさに避けて頭を守ったが重みのある大量の書類が一方方向に崩れてバランスが悪くなったのだろう、鉄製の書棚も一緒になってこちら側に倒れてきた。



「ひぇっ!」


松は必死になって、書棚の柵に手を伸ばして倒れるのを阻止した。



 書棚は幸いにもちょっとバランスを崩しただけで、もとの場所にとどまってくれたが、書類が全て床に滑り落ちてしまったために、書棚の向こう側が丸見えになっていた。


 薄暗くはあったが、サーバのモニターが部屋を照らしてくれているお蔭で、敵の姿を目の端にとめることが出来た。


 顔は分からなかったが髪が長く大柄な女であった。


 彼女はくるりと踵を返して書庫のドアに向かって走って行くところだった。



 

 あの背の高さ、そして長い髪、先のとんがった艶のある靴、そして松に無体な事を平気でやらかすあの態度と行動―――――やはり彼女は但馬さんではないのか?



「ちょっと、待ちなさいよ!」


松は、足元に散乱している書類の海をかきわけ、ものすごい勢いで、目の前を走って行く女の後ろを追いかけた。


 

 今度という今度はこっちが黙っちゃいない。


 顔をしっかり拝んで、とっくりと話をきかせてもらう。


 事と次第によっちゃ、これまでのケリをつけさせてもらう。



 松は、普段ではありえないほどの俊敏さでその女に追い付くと、後ろ襟首をつかまえて力いっぱいグイッと手前にひっぱった。


 女は一瞬こちら側にぐらついたが、すぐに態勢を立て直し、両手を伸ばしても松の体を思い切り壁に打ち付けた。



 バンッ!!



「つぅ…」


かなりの痛みだったが、幸い打ったのは尻だったので、すぐに立ち上がることができた。



 女は気が済まなかったのか、もがく松を壁際に追い込むために、体重をかけて松を床に組み伏せようとする。


 怪力だ。


 相手のワンレングスと思われる長い髪が左右からだらりと落ちて来て、ものすごく恐ろしかった。


 まるで貞子みたいだ。


 松は何か反撃できないかと、武器に代わるものを手探りでその辺を必死に探し回った。


 何とか固くて冷たくて軽い銀色の大き目のあられの缶を手の先に見つけることが出来た。(あられの缶は、出張土産でもらって中身を食べ終わった後、出張旅費の領収書の書類を束にしてゴム紐でしばってまとめておくものに使われていた。書類を束にして保管しておくのに丁度よいサイズらしい)。



 松は、かまわずその貞子めがけて、あられ缶を振り下ろした。


 最初の一撃は、彼女の肩にあたった。


 女は呻き、一瞬肩をかばったが、松が二発目を背中に命中させた所で、敵の出方がぴたりと変わった。


 どうやら向こうも怒りに火が付いたようだ。


 さっきから松を床に抑え込んでドア側に逃れようとしていたのをやめて、体制を変えて本格的に抑え込もうとしてきたのである。


 しかも相手は、手近にあったパイプ椅子(高いところの書類を上げ下げするために使わわれていたもの。もとあった脚立が壊れてから、経費削減のため新しいのを購入するのをためららってパイプ椅子で間に合わせていた)を手にすると、それを引きずってこちらに向かってきたのだ。



 松は青くなった。


 まずい。


 どうやら本気にさせてしまったようだ


 ―――パイプ椅子とあられの缶ではどう考えてもこっちが不利だ。


 しかも相手は貞子である。


 いやいや幽霊(さだこ)なら椅子を振り回したり、少なくとも持ち上げれるような力は出ないはずだ。


 松は、あられの缶をひっくり返して頭にかぶりとっさに身をかばった。



 ガンッという大きな金属音がして、松の近くに硬い椅子が振り下ろされた。


 間一髪身を身をよじったので、何とか攻撃から逃れることができたが、向こうははずしたお蔭で余計に気が立ったようだ。


 松を壁際に追いつめると、ふたたび貞子はパイプ椅子を振りかぶった―――




 松はひっくり返したあられの缶の下の脳ミソを必死に回転させて、なんとか逃れる場所や方法を探そうとしたが、目の前の女が大柄なうえ、左右を荷物の山に阻まれて、しかもさきほど散乱した書類の山が邪魔で一歩だって身動きが取れなかった。


 ああ、万事休すか。


 自分はもうここで終わりなのか。


 なんで自分ばかりがこんな目に遭うのだと、松は人生で百万回目に神に訴えたが、毎度の事ながら神はなんの返答もしてくれない。


 それとも、神が情の一つもかけてくれないのは、松が、母親に盾ついて椅子を振り上げて怪我をさせようとしたバチなのだろうかと、松は自身の所業をひどく呪った。


 自分がもっと優秀な頭脳を持っていたら、良い娘だったら、母親を満足させる事がでるような人間だったら、今の状況はもっと違っていたものになっただろうかと、松は悲しい気持ちの底で考えた。



 まあ、兎にも角にも、短くはあったけど、精いっぱい生きた人生だった。


 何はともあれ、自分はベストを尽くしたと思う。


 やって後悔したことはなかったし、し残したものもなかったと思う。


 願わくば最後に徳永さんに会いたかった。


 会って、ごめんなさいと謝りたかった。


 愛しているって言いたかった。


 何が悪かったのか自分でも分からないけれど(松は、徳永さんを侮辱した母親に喧嘩を売っただけで彼を傷つけたわけではないし)、喧嘩したのは自分だけの責任でなかったのかもしれないけれど(そもそもビンタしてきたのは徳永さんの方)、話し合いもせずに、逃げるように飛び出してきたのは松の方だった。



 

 松は頭の上のあられの缶を唯一の頼りに、うずくまった。


 そして自分でも知らない間に大声でこう叫んでいた



「ヤダーーーーッ!徳永さん、助けて!!!!!!」



 薄暗い光の中で、貞子なる大女が、松に向かってパイプ椅子が振り下ろされるのを松の目はスローモーションでとらえていた。


 冷静になれば、その時の女の顔が、たとえ貞子のような恐ろし気な形相であっても(松は、貞子とは知り合いではないが、噂からするとおそらく貞子とは身の毛のよだつ悪魔のようなコワイ顔をしているに違いない←松は小説も映画も見たことがないので単なる想像)、左右からたれさがる長い髪の間からのぞく白い顔は、但馬さんでない事が分かったに違いなかった。


 が、松はその時、人生をしめくくるために、人生を走馬燈のように回想することに忙しかったので―――そんな余裕は全くなかった。





 パッ。





「へ?」



 物語の最初がいきなり始まったのと同じに、何の前触れもなく終わりがやってくるのは、松の人生の特徴のひとつであろう。


 さっきまで真っ暗だった部屋にいきなり電気が点いたかと思うと、松達の真後ろにある書庫の出入り口である扉が、天の岩戸のようにさっと開いて(ふたりはドアのすぐ近くで揉みあっていたようだ)、背の高い若い男が白い逆光を背負ってカミサマのように現れた。(後光がさしていたわけでナイ。単なる廊下の蛍光灯の灯り)



 

 パイプ椅子を振り上げていた貞子は突然あたりが明るくなって動転したのか(幽霊というものは光に弱いものだ)、いきなり動きを止めてしまった。


 松は、床にあおむけの状態で、まさに一撃をうける間際であった。


 背の高い男が、ものすごい速さでこちらの方に近づいてくると、貞子の腕から強引に担ぎ上げていたパイプ椅子をいとも簡単に取り上げた。


 貞子は少しの抵抗もなく武器を奪われて、呆然と立ち尽くしていた。



 突然現れた男は、間違いなく徳永さんであった。


 間を開けることなく、部屋の中に神楽さんが



「花家ちゃん、大丈夫?」


という声とともに、彼の後ろから姿を現し、その後ろから派遣さんが、



「花家さん、大丈夫ですか?本当にすみません!」


という泣き声に近い声を出しながら、松の側に歩み寄ってきた。



 松はあっけにとられてその一部始終を見ていた。


 徳永さんは、呆然事実になっている(貞子改め)女に向かって右手を振り上げ、平手を一発お見舞いした。


 痛そうな乾いた音が響いて、女は頬に手をあてた。



「こっ…こんなものを、振り上げて、危ないじゃないか!」


彼は怒鳴った。


「彼女が怪我をしたらどうするんだッ!!」


こんなにも興奮して、ものすごく怒りに震えた低い声を彼が発するのを、松は初めて聞いた。



 女は体重を壁にあずけその後、ずるずると床にうずくまってしまった。


 体格から髪形から但馬さんに違いないと決めつけていたけれど、女が、座り込んだ状態でメソメソと泣き始めると、但馬さんは、こんなひ弱な声をだすような人ではないよなと、すぐに気が付いた。



「ショウ、大丈夫か?」


床に押し倒された状態になっている松に、徳永さんが駆け寄ってきた。



 彼は松の背中に右腕をあてがって助け起こした。


 彼は、前髪は乱れ、ネクタイは緩み、冬だというのに顔じゅう汗をかいて、息を切らしていた。



「だ、大丈夫…です」


と、松はそろそろと立ち上がった。



 負傷は大したことはないと思う。


 ちょっと体のあちこちが痛いだけで。



「怪我はないか?」


彼は松の体をさっと一瞥して調べた。



 彼の顔には見たことのない皺が眉間にも額にも幾筋も表れていた。


 彼は、大事なものを労わるように、やさしく松を胸に抱いた。 


 彼の暖かな体でぎゅっと抱きしめられると、涙が出そうになった。


 彼を傍に感じられてホッとした。


 来てくれて嬉しかった。





「保安を呼ぶわ」


神楽さんはそう言って、すぐに地下の保安室に電話をかけた。



 その間、徳永さんは女を、松の居る場所から引き離し、逃げられないように腕を掴んで書庫の奥の方に連れて行った。



「ご、ごめんなさい…」


と、女はようやく言葉を口にした。


「け、警察には言わないで」



「いったいどういうつもり?」


と、神楽さんは低い声で呟いた。


「勝手に他所の会社に入り込んで、こんなものを振り上げて、何もなくて済むわけないでしょ?」



 一分もたたない間に、駆けつけてきた保安員によってその女は連行されて言った。


 女はずっと泣き続けていた。


 松の横を通り過ぎるとき、女と視線があった。


 松はその女が誰なのかはっきりと知った。


 システムがトラブったときに頼りにしている、電話をして駆けつけてくれる、いつも頼もしいと思っていたシステム会社の担当者だったのである。














 女は保安員が通報して駆けつけて来た警察に連行されて行った。


 もちろん被害を受けた松も警察の取り調べたを受けた。


 松は起こった出来事を漏らさず話したが、その過程で突然電気が落ちたことを話さなければならなかった。


 警察は初め、計画的な犯行だと疑って、電気が消えた原因を詳しく調べまわっていたが、はっきりと掴めなかったようだ。


 だが、最後に派遣さんと二人きりになったとき、彼女はか細い声で、



「花家さん、本当にすみません…」


と何度も謝ってきたのだった。



「な、何で謝るの?」


謝られている理由が分からず、問い返す。



「きっと、わたしが電気を落としてしまったに違いないんです」



「え?」



「前にも言ったでしょ?わたし、静電気体質なんです。前にもビルの電気をブレーカーごと落とした事があって、今回もきっとわたしの所為に違いないと思うんですよね」



「そんなまさか…」


松は口をひきつらせ、苦笑いを浮かべた。



 まあ、考えないこともなかったけど、まさか本人がここまで自覚しているとは。



「本当に、あの時電気が消えたの、自分の静電気の所為だと思っているの?」


改めて尋ねてみた。



「わたし、イライラすると電気を発するみたいで、動いている電気釜が突然とまったりオーディオが動かなくなったり、しょっちゅうなんですよ」



「イライラしていたの?」



「今日ほどイライラしていた日はなかったですよ。自分のミスが原因ならまだしも、締め日だっていうのに、トラブルの所為で思っていた仕事ができなかったんですから。いくらシステムトラブルが起きたからって神楽さんが上に言い訳してくれても、結局責められるのは担当者(わたし)なんですし」


心底うんざりしたような声だった。



 彼女は松が想像していた以上に困じ果てていたようだ。



「でも、あの人が私のパスワードを使い込んであんなトラブルになっていたとしたら、今後はこういった事はなくなりますよね?」


その声がちょっと明るくなった。



「と思うけど」



「だけどあの人、わざわざ書庫に入り込んで、他人のパスワードを使い込んでしてまで、何をしようとしていたんでしょうね?」



「何をしていたのか、具体的にはわたしも確認できなかったけど」


わたしも画面を見たのはちょこっとだけだったし。


「きっと、見られてマズい事だったんだろうね」



「前に、データが消えたことがあったじゃないですか。あれひょっとして、あの人の仕業だったんでしょうか?」



「おそらくね。警察もはっきりとは教えてくれなかったけど、たぶんそう思う」


と、松は言った。



 あの人、警察が来る前に、自分は頼まれてやっただけで、本意だったわけじゃないって、あれこれ自分の所業?をベラベラ喋っていたもん。


 どうやってデータを消したのか松には分からなかったが、相手はシステムを作ったシステム会社の人間だ。松達の知りえない裏技?があったのかもしれない。



「誰に頼まれたか言っていました?」



「うん、まあ、何人かの人の名前を挙げていたけどね…」



「誰ですか?システム会社の人ですか?」



「システム会社の人だけでもないみたい」


松は声を潜めた。


「ここの会社の人も何人か噛んでいるみたいよ、彼女の話からすれば」



「まさか、但馬さん?」



 松はドキリとした。


 松も同じ事を考えていたからだ。



「な、なんで但馬さんだと思うの?」



「え、だって、書庫の入退室の記録帳に但馬さんの名前があったし」



「あそこに名前があったのは、あの人が但馬さんの名前を使って書庫に出入りしていたからみたいよ。書庫の出入り口の真上に防犯カメラが設置されているでしょ?背格好が似ている但馬さんの名前を書いておけば、何かあったときにバレないって思ったんじゃないかな」



「へえ、そうですか。わたしはてっきり…」


と言って、彼女は顎に手をあてて考えこむポーズを取った。



「てっきり?」



「彼女、但馬さんと結託して私達に嫌がらせをしていたのかと思って」



「ま、まさか」


少なくとも、さっきの彼女の話からでは但馬さんの名前は出てこなかったしな。



「じゃあ、彼女、なんで花家さんを殴ったり叩いたりする必要があったんですか?恨みをかわれていたとか?」



「恨み?」


ドキンとした。



 確かにシステムがトラブったときに、突然呼び出しの電話をかけて助けてもらったことは何度もあるけど、業務の範囲内だと松は思っていた。


 でも、彼女にとっては負担だったとしたら?



「あの人、徳永さんに憧れていたみたいだし」


派遣さんは、だしぬけに言った。



「えっ?」


松の肩が飛び上がった。



「だって、いつも徳永さんの事を目で追っていましたもん。気が付きませんでしたか?」



「う…うん」



 気が付かなかった。


 知らなかった。


 徳永さんは殆どシステム会社の人と接点はないはずだ。


 なのに、時々にしかオフィスに顔をだすことのない彼女のような人からも、そう思われていたのか。



「あの人も但馬さんも、徳永さんの事好きだったんじゃなかなって、わたし、前から薄々気づいていたんです」



「ほんとにそう思う?」



「だって、あの二人の傍に居ると、変な電波を感じるし」



「は?」



「これもわたしの体質で、暗いパワーをため込んでいる人と一緒にると、普通でない静電気がおこるんですよ。だからそう思っていました。さっき彼女が花家さんにパイプ椅子を振り上げているのを見たとき、あの女、花家さんに対する嫉妬が爆発したんだと、とっさに思いましたよ」



 松はゾッとした。


 顔がひきつる。



「その証拠にあの人、徳永さんの顔を見てすぐに借りてきた猫みたいに大人しくなったでしょ?丸わかりですよ。本当に知らなかったんですか?わたしはてっきり花家さんは気が付いていると思っていました」



「・・・・・・・・うん、知らなかった」


と、松は正直に答えたが、本当だろうかと思った。たとえ彼女が松にひどく嫉妬していたとはいえ、データを消したりするような手間のかかった嫌がらせをするとは、やはりにわかには信じられなかった。


「で、でもね。あの時、彼女がわたしに向かってきたのは、わたしが顔を見てやろうとムキになって服とか掴んで強引に引き留めようとしたからだと思うよ?少なくとも最初のうちは向こうも顔を見られたくなかったみたいで、必死にその場を離れようとしていたし。だけど、もし彼女が、その、と、徳永さんにそんな感情を持っていたとしたなら、わたしもあんまりムキになるのはよくなかったかも。わたしも意地になって、顔を拝んでやらなきゃ気が済まないなんて思っちゃってさ、つい興奮して反撃しちゃったんだよね。向こうもあれにキレたみたいでさ。無暗に怒らせなかったら、椅子を振り上げるような真似はしなかったかも」



 後から聞いて分かったことだが、向こうが床に転がった松の携帯を蹴飛ばしたのは故意ではなく、急いでその場を離れようと慌てたために、誤って靴の先にあててしまったとのことだったらしい。


 ついでに言うと松の体に足を引っかけたのは、単に暗くて足元が見えていなかったからで、好きで松の体の上に落ちたわけでもなかったようである。



「なんか花家さん、すごいですよね」



「は?」



「だって、普通、あんな真っ暗な中で、そんな状況で、誰かもわからないのに、暴漢かもしれないのに、立ち向かってなんかいかないですよ」



 派遣さんは感心しているようだったが、松はちょっと恥ずかしくなった。



「でもやっぱ、その辺にあったあられの缶で反撃しちゃったのはマズかったかも。あの缶固かったし、向こうも相当痛かったと思う。後でちょっと後悔した。今後はもっときをつけるよ」



「は?今後?何を気を付けるんですか?もう二度とこんな事起こってほしくないですよ」


「それはわたしもだよ。そうじゃなくて、無暗に相手を怒らすような事をするのはやめとこうっていう意味」



 松の言いたい事はが分かったようで、派遣さんは「そうですか」と言って、苦笑いを浮かべ、大きく息を吸い込んだ後、ゆくりと吐き出した。


「あられの缶と言えば、何でそもそも、何であられの缶が書庫(あんなとこ)にあったのか不思議ですけど。偶然?」



 なんであられの缶が書庫にあったのか。


 少なくとも暴漢に襲われて反撃するために準備されたわけではないだろう。


 彼女にはここの会社のケチの精神―――ではなく、経費削減の方針がまだよく浸透していないようだ。


 なぜ書類整理ボックスが使われずに、菓子缶で間に合わせてているのか、まあ、この先この会社で勤め続けていれば彼女も理解するようになるるだろう。



「だけどまあ、何ですか。あられの缶みたいなものでも、頭をガードできるものがあってよかったですよね」



「まあね」



「とにかくたいした怪我じゃなくてよかったですよ」


と、彼女は嬉しそうに言った。



「うん、そう思う」


と、松は心から同意した。


「助かったのは、あなたが徳永さんや神楽さんと一緒に助けにきてくれたからだよ。本当にありがとう」



「とんでもないです」


と、彼女はニッコリ笑った。





**

なぜかその後、このオフィスでは、社内の小物の整理にお菓子の空き箱などの硬い缶が多く利用されるようになり、書庫の踏み台変わりにしていたパイプ椅子は撤去され、代わりに書棚と接続されているタイプの立派な脚立が採用された。


 そして言うまでもなく、システムのサーバーは書庫の目立たない場所から、もとあったオフィスの定位置に戻された。


 その後何度見た目が見苦しいとクレームが出ても、誰も―――少なくともシステム課と海外事業部の連中は、決して移動させようとはしなかった。






<66.“私を愛して、私と同じくらい愛して”>へ、続く。


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