64.騒動⑨
64.騒動⑨
松は最初何が起こったのか分からなかった。
だがだんだんと右側のほっぺにじわりと痛みがかけあがってくると、目の前のこの男に自分が平手を受けた現実感が湧いてくる。
なんで?
どーして??
なぜ叩かれたのか理由がわからず、松は徳永さんの顔を見上げたまま言葉を失いぽかんと口を開いた。
「こんなものを振り回して危ないじゃないか。何を考えているんだっ」
床に放り出された椅子を指さし、彼は容赦なく松に鋭い叱責が松に浴びせた。
「怪我でもしたらどうするんだ!」
ええっ?
その思いがけない言葉に松は顔色をなくした。
怪我をしたらどうするだだって?
だって、こんなにまで一生懸命誠意をつくして頭をさげて許しを乞うている徳永さんをこの人達は容赦なくこき下ろしたのだ。
痛めつけようとしたのだ。
怒って至極、相応の報復をして当然ではないか。
なのに、彼はまだ母を庇うつもりなのだろうか。
頭を下げ続けようというのだろうか。
松は彼のために戦いたかった。
彼を母の攻撃から庇いたかった。
それなのに、彼はその松を非難するというのだろうか。
わたしは何にもできないの?
何をしてもダメなの?
松は自分のしたことが責められたようで悲しくなった。
さっきまでマグマのように爆発しかかっていた松の怒りは、風船がしぼむかのようにみるまに消沈してしまった。
その代わりに両目に何やら熱いものがこみあげてくる。
徳永さんは、振り上げた左手を気まずげに下ろすと、凝視していた松の顔から視線をふいとそらした。
怒っているの?
彼の態度に、松の心臓はキューっとわしづかみにされたかのように息苦しくなった。
ピンポーン…
その時、場違いなインターホンの音が狭い空間に響き渡った。
程なくして車のカギをチャラチャラさせながら、
「コンチワー」
というゆるい挨拶とともに、新たな人物が室内に姿をさらした。
徳永さんに引き続き、本日二度目の、絶妙なタイミングで現れた、予想しない客の登場に松は再び唖然と口を開いた。
さっきまで噂をしていた徳永さんの弟のカイ君がなんでここに?
「か、カイ君、なんでここに?」
松は固まっていた口の周りの筋肉を動かして、ようやく尋ねることができた。
彼はいつもの、のほほ~んとしたゆるい表情をぶら下げている。
「なんでって、おめえ荷物を運びだすんだろ?兄貴に頼まれて車だしてきてやったんだけど。…って、あれ、客がいたの?」
カイ君は玄関先で、さっきから言葉を忘れて佇んでいる天野さん、腰を抜かしたのかがくがくと震えながら床にうずくまっている母の存在に気が付いたようだ。
母は、目を白黒させてているし、口は小魚のようにパクパクとヒクつかせている。
さっきまで滑らかだった舌はどこへやら、すっかり毒気をぬかれてしまったようだ。
カイ君は、ちょこりと両者に頭をさげると、まるで引っ越し業者のように気安く
「なあ、兄貴荷物ってどこなんだよ?」
と、すっかり空になってしまったクローゼットを覗き込みながら言った。
「義己、ちょっと黙っていろ」
と、徳永さんは不機嫌そうに言った。
「は?何言ってんのさ。車で迎えに来いって言ったのは兄貴の方だろ?さっさと運び出してしまおうぜ。オレも暇じゃねえんだ。宿題のレポートが山のようにあってよ、今から徹夜で仕上げなきゃならねえんだよ。明日の朝一の講義まで教授に見せなけりゃオレ、留年になっちまう」
その時、床に尻をつけて腰を抜かしていた母は、その新たな登場人物が何者なのか理解したようだ。
茶髪で、こめかみに傷があり、徳永さんとそっくりで、徳永さんと同じぐらい男ぶりの良いこの若者は、ついさっきまで母の中では、徳永さん同様、貶めこき下ろして当然の低レベルの人間だったはずだった。
だが、今の母の彼を見る目は軽蔑の色は全くなくむしろその逆で、彼女は、森の中で恐ろしい猛獣に遭遇したかのように、怯えて一層ひどくブルブルと体を震わせ始めた。
「…あっ、じゃッ、じゃ、あっ、あなたがッ」
母はカイ君に向かって指をさすと、喘ぎ声のような変な音を出した。
「あん?」
カイ君は眉間に皺を寄せ、床に座り込んで自分に視線を向けている母を見下ろした。
単にそれは彼はなぜ、見知らぬ女から突然指さされたのか分からなかっただけで、機嫌を損ねたわけではないのは、カイ君をよく知る松はよくわかったが、母には彼のそのすご味のあるひと睨みが効いたらしい。
母は、
「ひ…ひぃ」
と、いう擬音を発すると、すぐ側にいる夫の腕を取り、
「アッ、あなた、あなたッ、か、かッ、帰りましょう」
と、呟いた。
「そうだな…そろそろ失礼しよう。もう帰ったほうがいい。そうだろう?」
一体誰に言っている。
そっちが勝手に人の家に上がり込んで来たんじゃないかと松は呆れ半分思った。
松は、何も返答しなかったけど、継父は自分と妻の鞄を肩にかけると、二人分のコートを両腕にぞんざいにひっつかんだ。
そして妻の尻を叩いて急き立てると、まるで泥棒のように足早にその場から姿を消した。
リビングの隅で壁と化していて、存在を忘れられていた天野さんは、母達の退場と共に今時分がどこにいるのか思い出したらしい。
松は彼の顔を見たが―――その時視線が合った。
彼は松を化け物を見るかのように顔をこわばらせていた。
「あ…じゃ、ボクもこれで…」
と言って、彼は続いて部屋を後にした。
バタン…固くて重い玄関扉が大きな音を立ててをしまる音がすると、とたんに部屋が静かになった。
脇役の退場の後、シーンと静まり返った部屋の中に取り残されたのは、この部屋の主である松とその婚約者、未来の義弟のカイ君の三人だった。
カイ君は殆どの荷物と家具がなくなってしまった部屋の中をうろつきまわり
「運び出す荷物ってどれだよ?どの部屋にも何もねぇけど?」
なんて言っている。
松と徳永さんは未だに睨み合っていた。
いや正確には松の方が目尻を吊り上げているだけで、男の方と言えば、伏し目がちに視線を泳がせていたのだが。
「どうしたんだよ、兄貴?」
さすがのカイ君も、ふたりの間の異変に気が付いたようだ。
「何そこで突っ立ってんだ?」
「…わたしッ。よかれと思ってやったのに」
松は絞り出すような声を出した。
「え?」
徳永さんとカイ君が同時に声をだした。
「よかれと思ってやったのにっっ!なんで邪魔したの?」
松の低い声がやけに空間の広くなってしまった部屋にひどく木霊した。
松はぜえぜえと呼吸を荒らげ、
「なんで?」
と、繰り返した。
一層視線を鋭くさせたその目はだんだんと潤んで視界がぼやけてくる。
その光景に徳永さんは息をヒュッと吸い込むような喘ぎ声を出した。
「あんなひどい事言われて、なんで徳永さんは黙っているの?何も言い返さないの?平気な顔していられるの?こっちが下手に出れば出るほど向こうはつけあがって図に乗って好き放題な事を言ってくるんじゃないの」
松は思っている事を素直にそのまま口にしただけなのだが、徳永さんはなぜ松が自分を責めているのか理解できない様子であった。
彼の見開いた両目は中央に寄ってものすごく怪訝そうだし、首はナナメに傾けられて腕を腰に当ててこちらを向いている。
彼は、松の言葉を理解するのにものすごく苦労しているようだった。
その様子がますます松の苛立ちと不安を煽った。
「それとも徳永さんは、何も感じないの?」
松は、吐き捨てるように言った。
「何も感じないもんだから、何言われても平気なの?」
あまりの彼のへりくだった態度に業を煮やした松は、思わずこう尋ねてしまった。
だがその言葉が彼のプライドをチクリと刺激したらしい。
片方の頬がピクリと震えた。
「何も感じないとはどういう意味だ?」
彼は低い声で尋ね返すと松の方に一足分歩み寄った。
「感じないわけないだろう。あんな重いものを振り上げたら危ないに決まっているだろう。怪我をすると思わなかったのか」
だから止めさせたんだ、止めに入ることのそれのどこが悪いんだ、という顔。
松はますます不満を募らせた。
いったいこの人、何を言ってんの。
「なぁ兄貴、何してんの?」
事の次第と状況の読めないカイ君が、話に割って入ってくる。
「さっきから何を話しているんだよ。荷物がないなら、さっさと帰ろうぜ、オレも暇じゃねぇんだし」
喧嘩は家に帰ってからやってくれよと、彼は車のカギをチャラチャラ鳴らしている。
徳永さんは、部屋をぐるりと見まわすと、弟の方に振り返り、
「ああ、そうだな、手間取らせて悪かった」
と答えた。
「早く帰ろうぜ、今日はおめぇがメシ作ってくれんだろ?」
と、カイ君が松に声をかけて、玄関に向かって歩き出す。
だが松は一歩も動こうとしなかった。
「徳永さん、わたしを馬鹿だと思っているの?」
松は、声を絞り出した。
母に対する怒りより、徳永さんに理解されない悔しさが勝って、松の視界はぼやけて彼の姿が殆ど見えなくなっていた。
「まさか徳永さん、わたしが危ない事だと知らずに椅子を振り上げたとでも思っているの?」
身の危険を感じさせるぐらいの事をしないと、あの母にこちらの思いを分からせる事ができないから、ああやったんじゃないの、それぐらいわかんないの?
だが徳永さんは、松の言葉が理解できないらしく
「は?」
と呆けた返答しか返ってこない。
それが松にはたまらなかった。
なんでわたしの言っている事が通じないんだろう、わたしの気持ちを理解できないんだろう。
通じ合わない心の苦痛が、打たれた頬の痛みと比例してずきずきと響いた。
松の涙腺がついに決壊して、ぼたぼたと大粒の涙が瀧のように床にめがけて落ちて行った。
もう限界だった。
松はありったけの声を出して目の前の男に向かって叫んだ。
「徳永さんのバカッッッ!!!!バカバカバカバカ!!!!もう知らない!!!!!!」
涙が落ちた瞬間、視界にはいってきたのはものすごく吃驚した徳永さんの顔だった。
(もとからぱっちりお目目だったが)普段の倍以上に見開かれた徳永さんの眼を松は生まれて初めて見た。(イケメンは仰天してもイケメンである)
松はこれ以上彼の顔を見ていられなくて、そのまま足早にリビングを横切り、玄関にまっすぐ走って行くと、靴を履き、先ほど脇役達が退場した同じ出口から外にでて行った。
バタンと重い扉が再び締まる音がする前に
「ショウ!!」
という声が聞こえたような気がしたが、かまわずアパートの階段を駆け下りて行った。
外はひどく寒かったが、松は無我夢中で気が狂ったかのように歩き始めた。
寒風が頬を横切っていく。
松は混乱した頭で絶望的に考えた。
なぜわたしの身の上に、こんな事ばかり起こるんだろう?
ひどい目に遭うんだろう?
もとから何も持っていなかった私だけど、小さい頃から、幸せになろうと頑張ってきた松であったけど、何かを得ようとするたび、幸せをつかもうとするたび、邪魔が現れて、行く手を阻まれ続けてきた。
だが今回は前回の失敗と違う点がひとつだけある。
以前徳永さんが松から離れてしまったとき、その原因を松は、母が邪魔をしたせいだと思っていた。
だが今は、松にとって親の反対なんてもうどうでもいいことだった。
確かに混乱の種を撒きちらし、暴風雨を起こしているのは母だけれど、松はその雨風をもはや苦痛とは感じなかった。
徳永さんを理解できない事、徳永さんに自分の考えが通じない事、彼が何を考え、何をしようとしているのか分からない事の方がもっと辛くて、絶望的に感じられた。
なぜ彼と気持ちが通じ合わないのだろう?
行き違うのだろう?
深い失望が目も心も暗く覆いつくして、深く分析しようにも、何をどこでどのように掛け間違えたのかまったく見当もつかなかった。
行くあてもも決めずにずんずんと足をすすめたせいだろうか、いつもの半分の時間で駅に到着してしまった。
ここまで来るつもりはなかったのだが、帰宅中のサラリーマン達でごった返している明るいネオンの眩しい駅前のロータリーに差し掛かると、その頃には打たれて熱を持ってジンジンしていた頬も、涙で腫れた瞼も寒風ですっかり冷たくなって、さっきまで喚き散らしていた感情はすっかり大人しくなっていた。
むしろ、時間の経過とともに、怒りを爆発させたことで何かを失くしてしまったのではないかと、松の心に深刻な不安が心に広がり始めていた。
(戻ったほうがいいよね…)
感情にかまけて飛び出して来てしまったけど、いきなりあんな行動をとってしまって、徳永さんはきっと心配しているだろう。
コートのポケットにつっこんであった携帯を取り出すと、何度も徳永さんから着信があった。
掛け直した方がいいかな…それともまっすぐ家に帰るか…逡巡しているうちにまた携帯が鳴った。
けたたましい音にいつもの通りに俊敏に対応する事ができない。
徳永さん?
なんて言おう、やっぱりゴメンと謝った方がいいのだろうか。
でもわたし悪い事してないよね…(少なくとも彼に対しては)
と思ったが、着信の相手を確認すると、発信者は全く予想だにしない人物だった。
『もしもし、花家ちゃん?』
「神楽さん?」
こんな時間にこんな人から電話がかかってくるなんてものすごく珍しい事である。
『よかったぁ捕まって、もうどうしようかと…』
嬉しそうな声が受話器の向こうから聞こえてくる。
「どうかしたんですか?」
『花家ちゃん、今どこ?わたし達今まだ会社にいるんだけどさ』
「家の近くの最寄り駅ですけど、どうかしたんですか?」
わたし達って他に誰かと一緒なのだろうか。
『いま、会社で残業しているんだけど、システムがトラブっちゃって大変な事になってるのよ』
ものすごく困った声。
どうしたのかと問いただしてみると、例の派遣さんが今日中に今月中のシメの仕事を終わらせようと残業をしていたらしいのだが、システムがトラブって思った通りに計上ができないらしい。
困った彼女は遅くに帰社してきた営業担当者の神楽さんに泣きついたのだが、システムに関することは彼女では全くお手上げだった。
『花家ちゃん、申し訳ないんだけどちょっと助けにきてくれない?鈴木君も南田さんも捕まらなくって、頼みの綱は花家ちゃんしか…』
ものすごく困っているようだ。
うーん。助けてあげたい気持ちはやまやまなのだが。
「システム会社の人に直接来てもらった方が早く解決すると思うんですが」
自分が行っても対処できるものかどうかわからない。
それならシステムを作った専門家を呼び出してやってもらったほうがずっと早い。
『電話したわよ。いの一番に』
腹立たし気に神楽さんが言う。
『でもぜんぜんかからなくて』
松は駅前の時計塔に目をやった。
時間外であっても、この時間ならつかまる可能性は高いのだが、システム会社の担当者も最近ひとりが産休に入ったため人手不足でオーバーワーク気味だった。
「今日中にしないといけない仕事なんですか?わたしが行っても着く頃にはシステムは終わってしまっているんじゃありません?」
と、松は時計を見ながら言った。
『彼女、今日は遅くまで残業申請しているの』
残業を奨励しないためにシステムは終業直後に終わる事になっているのだが、どうしてもやむを得ない場合、事前に残業申請をすれば申請者に限定してシステムを稼働させることもあった。
派遣さんは但馬さんがいなくなって、残業をすることが多かった。
『ほんっっとゴメン、今日中にやらなきゃならない仕事みたいなの。月がまたがるとマズい案件でさ。ほかに用事ないならちょっと会社でてきてくんないかな?』
松は頭を掻いた。
自分が行っても何の役に立たないかもしれないのに、わざわざ行く必要あるだろうか。
「わかりました、少しだけなら」
『ほんと?ありがと!助かる』
明るい声がして神楽さんとは通話が切れた。
松はどうしようかと思った。
さっきまで徳永さんに電話してアパートに戻ろうかと考えていた松である。
このまま彼と顔をあわせるのも気まずいが、何も言わずにどこかに行ってしまうのはもっと心配をかけてしまうだろう。
電話をしようかと何度か逡巡したが、結局
>神楽さんから電話が来て、急遽会社に戻る事になりました。また後で電話します。
と短いメールを徳永さんに送り、そのまま駅に入ってきた電車に飛び乗った。
会社には一時間もしないうちにに着いた。
ビルのエントランスは半分の電気が消えていて、松の部署のあるフロアーも部分的にしか蛍光灯がついていない。
暖房も切られていて(省エネと残業奨励防止のためである)空気が冷たかった。
オフィスの中に入っていっても松はコートを脱がずに目的地にむかった。
「ごめんね花家ちゃん、わざわざ。来てくれてほんと助かる」
果たして神楽さんは海外事業部の自分のオフィスの席に居た。
その隣の席で派遣さんが、松と今日最後に挨拶した時と同じ席に座り、同じポーズでパソコンにむかってはいるが、やる気に満ちた表情はナリを潜め、眉間に皺をよせウンウン唸っている。
「何があったんですか?」
どうか自分で解決できるレベルのトラブルであってほしいと願いながら、鞄をそっと自分の机に置き、彼女達に近づいて行った。
派遣さんはうつむけていた頭をあげた。
「システムが急に使えなくなっちゃいまして」
と、は訴えた。
「つい一時間ぐらい前まで快調に使えていたのに、急に画面がひらかなくなってしまったんです」
松は派遣さんのパソコンに近づき彼女のマウスを借りてカチカチと画面を操作したが、どのボタンを押しても操作できなかった。
「ほんとですね、使えない」
「でしょ?」
「今日は何時までシステム延長申請していたんですか?」
と松は派遣さんに聞いた。
「十一時です」
「じ、じゅういちじ!?そんな遅い時間まで残業するつもりだったの?」
「終電間際まで頑張ろうと思っていて。今日で月末締めの最終だから取りこぼしはできないし…」
派遣さんは涙目になっている。
横の神楽さんを見ても同じ顔だ。
どうやら当月中にどうしても計上しなければならないものがあるらしい。
取りこぼすとマズいことがあるのだろう。
松は何度も画面を操作してみたが、やはり同じである。
「おかしいですね…でも、さっきまでは普通に操作できていたんですね?」
と松は言った。
「はい、七時ごろですかね、途中でいきなり拒絶されるかのように使えなくなって…」
松も何度か操作してみたがお手上げ状態だ。
だいたいなぜログインすらできない状態になっているのか腑に落ちない。
「なんでログインすらできなくなってしまったんでしょう?」
派遣さんが言った。
「…わかんない」
派遣さんは松ならなんとかしてくれると思っていたのだろう、松の頼りない返答に失望したように表情をくもらせた。
う~ん、そんな顔されてもなあ。
わたしだって分からない事があるんだよ。
普段からエラそうに「分からない事があったら何でも聞いて」と言っていた自分が何だか気恥ずかしく感じられた。
「十一時まで延長しなきゃならないのを、間違って夜の七時までにしてしまった可能性はないの?」
横から神楽さんが口をだした。
残業申請は所属長が許可印を出した後、システム課に回されて希望時間まで“その人に限り”延長して使えるようにシステム課で延長登録することになっている。
その登録が、夜中の「23時まで延長」というのを、「19時まで延長」と入力間違いを犯している可能性があるというのだ。
「そうですねえ、ありえなくないですね。調べてみます」
松はシステム課の自分の席に座ってパソコンを立ち上げた。
この時間は入力はできないが、履歴の閲覧は問題ない。
松は自分のパスワードをいれて画面をすすめていった。
こちらのパソコンで松のパスワードでなら問題なくログインすることができた。
「でました。派遣さんのパスワードは○○××△△ですよね?ええと、本日は残業申請が出ていて、やっぱり夜の十一時まで使えるように延長登録なされていますよ」
入力者は南田さんになっていた。
彼女はこういった入力は忘れないし、間違いも少ない方だ。
「はぁ~~おかしいわねえ。じゃどうして入力できないの?」
神楽さんはそう言って頭を抱えた。
「そうですよね…てか、ログインすらできないなんておかしいというべきか」
「社内のどこかで勝手に彼女のパスワードを使ってシステムを利用しているなんて事ないでしょうね?」
神楽さんは疑わし気に尋ねた。
残業申請は、許可を受けた人しか延長されない。
逆にどこかで自分のパスワードを使われていたら、本人は使う事ができない。
「誰がそんな事をするんですか?」
松は驚いて、神楽さんに問い返した。
「わ、わたし、誰にも自分のパスワードを貸したことなんかありませんし、教えたことすらもありません!他の誰かが使っているなんてないと思います」
派遣さんは慌てて打ち消した。
「そんな事わかっているわよ~」
と言ったが、神楽さんは退かなかった。
「でも、この状況なら悪意があるかは別として、そういう人がどこかにいるかもって疑わざるを得ないじゃない。花家ちゃんのパスワードはログインできるのに、あなたのだけできないのよ?社内のどこかであなたのパスワードを勝手に使っている人がいる可能性があるかもしれないじゃないの」
「誰が何のためにそんな事するんです?」
松は言った。
「そんな事知らないわよ。単にわたしは可能性の話をしているだけ」
神楽さんは相当イラついているようで、コツコツと指の先で机をたたき続けている。
まあ確かに可能性はなくはない。
鋭いツッコミに松は、慌ててパソコンに向き直った。
「調べてみます」
社内で現在アクティブになっている回線がないかどうかぐらいならわかる。
松は、画面をひらいて確認してみた。
「う~ん、稼働してないみたいですね。現在システムが稼働しているのは、本体と今使っている私のパソコンと、派遣さんのと神楽さんのだけです」
今日は他に残業申請がでていないらしい。
社内の人間は自分達意外にひとりもシステムを使っている人はいないようだ。
三人は頭を寄せ合って、その後ああだのこうだのと、調べてみたが大した解決策は出てこなかった。
「はぁ~万事休すかぁ~~」
神楽さんは情ない声を出した。
「今月は諦めろってことかあ」
「すみません、わたしも原因がさっぱりわからないです。システム会社の人に来てもらうしか」
松も頭を抱えた。
「スミマセン神楽さん…もっと早くできていれば」
派遣さんは小さくなってしまった。
自分の作業の遅さを申し訳なく思っているのだろう。
「システムのせいだから仕方ないわよ。いいわ、部長に説明して納得してもらう。とにかくこの件は、明日鈴木君に言って、根本的に改善策を考えてもらわないと。あぁ~何だってこんな事になるの。社内の事であれこれで足引っ張られて時間取られるなんて本当に頭にくるったら」
後半部分は独り言のようだった。
「すみません神楽さん、お役に立てなくて」
松も謝った。
「いいのよ。こっちこそゴメン、帰ったのにわざわざ呼び出したりしてさ。ウチの会社の事なのにもうすぐ辞めちゃう花家ちゃんに頼って申し訳なかったわね。気にしないで」
と、神楽さんは愛想よくそう言ったが、そのセリフがなんとなく癇に障った。
あなたはもううちの会社の人間じゃないんだから、これ以上心配なんかしてもらわなくてもいいわよと言われているような気がしたのだ。
まあ、事実そうなのだが。
「こんなパターンわたしも初めてで」
松は弁解した。
「いいのいいの、ごめん。気にしないで」
神楽さんはひらひらと手をふる。
「派遣さんも今日はもう入力できないんだから、残業やめてもう帰ったら?」
派遣さんは、残念そうだったが、しばし考えたのち、
「はい」
と、ぽつりと言った。
「わたしはもう少し残っているけど、遅くなると物騒だし、用事ないなら、花家さんもほんと早く帰った方がいいわよ」
と神楽さんは念をおした。
「そうですね、そうします」
と、松も言った。
神楽さんは管理職でもある。
我々下の仕事の責任も負っている立場にある。
無用な残業はさせるべきでないし、女子社員に遅い時間に帰宅させることは極力避けねばならない。
女子という意味では神楽さんも早く帰ったほうがいいのだが。
「じゃあ、このファイルを戻してから帰ります」
派遣さんは、今日入力するのに必要だった過去のデータが載っているファイルの山を指して言った。
一度では運べないほどの量だ。
「書庫に運ぶんでしょ?手伝うよ」
松は言った。
「二人でやれば早いし」
「すみません」
派遣さんと松は、おのおの両手いっぱいのファイルを抱えて書庫に向かった。
書庫はフロアを出た廊下の先にあるまったく独立した部屋の中にあった。
書庫の中はオフィスより暖かかった。
二人はもくもくと黙って書棚にファイルを直し始めた。
お互い何も喋らなかった。
松は派遣さんの気持ちが手に取るようだった。
今日残業できなければまた別の日に残業しなければならないのだ。
チラと派遣さんの顔をみるが、かなり疲れてぐったりしているようだった。
「…ああは言っていますけど、神楽さん、けっこう腹立てているんですよ」
と、派遣さんはポツリと言った。
「え?」
「神楽さんは結構、細かいところを気にされる方なんです。前の担当の徳永さんは、ポイントだけ抑えていれば結構融通が利いたんですけど、神楽さんに変わってから手間が増えて。間違いもよく目につくようだし、もちろんわたしも間違いはないようには努力しているんですけど…」
「そうなんですか」
「但馬さんがしっかり素早く計上する方だったから、それが普通だったみたいです。なのにわたしは遅いし、間違うし、分かっていない事も多いし。入力の担当がわたしになってから、色々迷惑かけているみたいで」
「最初なんだし、間違う事があっても当然なんじゃない?気にすることないよ。神楽さんだってそのうち慣れると思う」
「だといいんですけど…でも、今日は本当はシステムが動かなくても、ホント言えばもうちょっと残業したかったんですけどね」
「え、そんなに急ぎの仕事がまだ残っているの?」
「いえそうじゃなくて。実はここだけの話、たまに、止まっていたシステムがまた動き出すこともあるんですよね。もしそうなったら、まだ入力するのに間に合うかもしれないしれないから…」
「またシステムが動き出す?」
松は振り返った。
「そうなの?前にも同じようなトラブルがあったの?」
「ええ何度か。原因が分からなくて、私も慣れていなかったし、気の所為かなって思って、その時はシステムが故障しているとは思わなかったんですけど」
そうか。こういう症状は今回が初めてではないのか。
「でも今日は諦めてやっぱり帰りますよ。今日は神楽さん特に機嫌わるいでしょ?もっと残業したいって言っても絶対許してくれそうにない」
「そっか…」
「但馬さんの時にも、こんなトラブルあったんですかね?」
「え?」
「但馬さんが入力していた時も、システムが動かなくなるトラブルがあったりしました?」
と、派遣さんは質問を繰り返した。
「ううん、システムが使いにくいっていう話ならなんども言われた事あるけど、使えなくなってしまうというのは聞いた事ない」
「じゃ、わたしが担当になってから?やだなあ、なんだか落ち込んじゃう。わたし静電気タイプだからさ…」
「は?静電気タイプ?」
「ものすごい静電気タイプなんです。電気体質っていうやつ。家でもすぐに電化製品を壊すって家の人にしょっちゅう怒られているんです」
松はプッと噴出した。
「いくらなんでも静電気でこんなトラブルは起こらないと思う」
「笑いごとじゃないですよ、わたし、前の勤め先でもよく触ったものを壊した事があって」
「システムを壊したことがあるの?」
松は驚いて尋ねた。
「いえ、システムは壊れませんでしたけど、ブレーカーが落ちたことがありました」
「ブレーカー?」
「はい、突然電気が落ちて部屋の中が劇場みたいに真っ暗になりました」
彼女の真剣な物言いがものすごく劇的で松は笑いをこらえるのがせいいっぱいだった。
「そうなんだ」
「信じていないでしょ?真っ暗なオフィスでひとり取り残された時の気持ちわかります?」
「そんな事ないよ、信じているよ」
「ほんと、どれだけ怖かったか。あんな思いは二度としたくありません。だから今日も大人しく帰りますよ。このまま会社にいたらまた何か壊しそうだし」
彼女はそう言うと、最後のファイルをバサリと戸棚に直した。
「駅まで一緒に帰りましょうか」
と、派遣さんは言った。
「あ、そうだね」
「ここで待っていてください。わたし、パソコンをシャットダウンさせてバッグとコートをとってきます。花家さんの鞄も一緒にとってきますよ」
「ほんと?ありがとう」
「いえ、ここで待っていてください」
彼女はニッコリ笑うと、書庫を出て行った。
システムと格闘している間、問題に没頭していたので忘れていたが、いざ帰るとなって松は我が身の不幸?を突然思い出した。
松はどこへ帰るべきかと自問自答した。
自分のアパートは母が勝手に荷造りしてしまって布団も着替えも生活に必要なものは殆どなくなっている。
もちろん松が今帰るべき場所はたったひとつしかないのだが、ついさっきまで自分の家だと信じていた場所は、彼との喧嘩によっていささか近づき難い場所になってしまった。
松はポケットに手をつっこみ携帯を開いた。
松がメールを送ってから彼からの着信は途絶えていた。
取り合えずどこにいるのか分かったので探す事をやめたのだろう。
カイ君も早く帰りたがっていたし、あのまま車に乗ってふたりして帰宅したのだろう。
そう思うとなんだかとても寂しくなった。
喧嘩して拗ねて暴れて飛び出してきても、追いかけて来てくれたりしないのだ。
心配するような事はないのだ。
松は深くため息をついた。
松が不安に思うような事でも、彼にとってはさして大した問題ではないのかもしれない。
でもこのままにしておいてはいけないと松の心は警鐘を鳴らしていた。
問題が起こったとき、解決を先送りにするべきではないのは、以前彼とお別れしたとき実感した教訓のひとつだった。
彼と話し合わなければいけない。
でも話し合ってもわかりあえなかったら、どうしたらいいのだろう。
結婚はヤメになるのだろうか。
そうすれば自分はどうなるのだろう。
松にはもう会社を辞めてしまった。
母や祖父母とも絶縁してしまった今となっては、頼るべきは徳永さんしかいなかった。
途端に今日継父が言っていた言葉
「仕事は簡単に辞めるべきでない」
というフレーズが蘇ってきて、松の心はジンと冷たくなるのを感じた。
徳永さんに見放されたら、松は天涯孤独の身ではないか。
松は、着信履歴から発信ボタンを押した。
着信音がするので電源は切っていないようだ。
松は電話を耳にあてて彼が電話をとってくれるのを待った。
待っている間に松は、書庫の入退室管理帳をめくって今の時間と自分と派遣さんの名前を欄に書き加えた。
ふとその前のページを見たとき、但馬さんの名前があるのに気が付いた。
なんで但馬さんの名前があるのだろう?
彼女はここ数日ずっと休みで会社にきていないはずだ。―――まあだけど、オフィスのデスクに顔を出さずとも書庫に寄る用事があったのかもしれない…
松はパラパラと入退室管理帳をめくって遡って行った。
するとその前の日もそのまた前の日も、一か月前までさかのぼっても但馬さんの名前が定期的に帳面の中に現れている事を発見した。
「・・・・・・・・?」
松は首をひねった。
書庫には過去の取引を記録した書類が沢山保管されているが、但馬さんが過去のファイルを確認することはめったにない事で有名だった。
彼女は過去のファイルを持ち出さなくとも、昔の取引は帳面にキチンと記録して完璧にしていたからだ。
その時ふとさっきの神楽さんの言葉が思い浮かんだ。
―――社内のどこかであなたのパスワードを勝手に使っている人がいる可能性があるかもしれないじゃないの?―――
何のために但馬さんが書庫に頻繁に出入りしていたのか。
それとも…
「但馬さんの名前を使って他の誰かが、書庫に出入りしていたのか…」
と、松は独り呟いた。
その時、前触れもなく書庫の電気が落ちて真っ暗になった。
唐突な出来事に松は
「きゃあッ!」
と金切り声を上げ―――そうになった。
だが、松は声をあげなかった。
かわりに手にした携帯が床に落ちて転がっていった。
携帯の画面の灯りだけが暗い室内をほの暗く照らしている。
松はそれを拾い上げるために携帯に近づいて行った。
その時松は、この狭い書庫の中にもうひとりの人間がいるのに気がついたのだった。
「きゃっ」
と叫び声をあげたのは松ではなく、もうひとりこの部屋に居た若い女性だったからである。
<65.騒動⑩>へ、続く。




