63.騒動⑧
63.騒動⑧
「――――な、なんて?」
松は声にならない声を上げた。
「私の荷物を送ったって?」
「ええ送ったわよ。あんたの服だけじゃなくて食器や残っていた食料品も全部」
と、母親は厚かましくも平然と言い放つ。
松はすぐさまクローゼットからキッチンに飛んで行き、食器をしまっていた戸棚からストックしていた食料品庫の扉をバッとあけた。
空だ。全てカラッポ。
「何でそんな勝手なことをするの?人の部屋に勝手に入ってきて、人のものを勝手にどこかにやってしまうなんて」
ブルブルと拳を握りしめる。
無断で部屋に侵入してきた事すら許しがたいのに、荷物までも勝手に触られてしかもそれを家に送ってしまうだなんてありえなない。
松は母親が横暴で身勝手で他人の領分に遠慮なく入り込んでゆきたがる性分は以前からよくよく分かっていたが、まさか今このタイミングで現れてここまで強引な事をするとは考えもしなかった。
「二月末で東京の仕事が終わりになるってきいたから迎えに来てやったんじゃないの。ここで過ごすのもあと数えるぐらいでしょう。代わりに荷造りして素早く地元に戻れるようにしてやったんじゃないの」
さも当然と言い放っているが、母が親切心でそんな事をするわけがないのは松はよく分かっていた。
「昨日突然僕の方にお母さまから電話があってね、君の家の方に来てくれないかって頼まれたんだよ」
怒りのあまり言葉を失っている松に、事の成り行きを見守っていた天野さんが説明を加える。
「来てみたら君はいないのに、お母さんは君の荷物を運び出す真っ最中でね。荷物を運び出すのを手伝ってくれって言われてさ。もう吃驚して、本人に内緒で本人のものを留守中に運び出すだなんてそんな勝手な事をしない方がいいんじゃないかって何度も言ったんだけどね。聞きいれてくださらなくて」
松は振り返って天野さんの顔をまじまじと見つめた。
なんだって?母がお前に何を言ったって?
「いったい…何で…は、母があなたにそんな頼み事をしてくるんですか?」
と、松は切れ切れに言葉を紡いだ。
「え?」
「な、何で母が東京に出てくる事をあなたに知らせたりするんですか?何でわたしの荷物をこっそり運び出すのを母はあなたに手伝ってくれと言うんですか?」
「何でっていわれても、えとまあ、その、成り行きと言うか…」
「成り行き?」
松は眉を吊り上げた。
天野さんは、言葉を曖昧に濁して、そんな事僕に聞かれても頼んできたのは向こうだからと、母の方に視線を振ってアメリカ人のように肩をすくめてみせるも少しも悪びれていない様子。
むしろこの状況を楽しんでいるかのようにさえ見える。
成り行きだって?
松は、なんとなく読めてきたような気がした。
と同時にものすごく腹が立ってきた。
この男はこれまで松が考えている以上に松の東京での出来事を母に知らせていたのではないだろうか。
今月末でこっちでの仕事が終わろうとしている事も、徳永さんと結婚しようとしていることも、母に逐一耳にいれていたのではないだろか。
きっと母はそれを聞いて近々松が実家に戻ってくると期待して待っていたに違いない。
だが連絡のひとつもよこそうともしないから、母は、松が三月以降も東京に残ろうとしている事に気が付いたのではないか。
だから急遽母はこちらに出てきたのだ。
強引に娘を実家に連れ戻すために。
松は舌打ちした。
なんてこと。こんなに近くに内通者がいていただなんて。
松は、未だかつてないほど鋭い目つきで母と天野さんを代わる代わる睨みつけた。
「なんなの、その目は。わたしはお前から礼を言われるならまだしも、文句をつけられるような事をした覚えはありませんからね」
その言葉に松は再びいきり立ちそうになった。
控えめに言っても猛烈に腹がたつという表現では収まらないぐらい脳ミソが沸騰して頭のてっぺんから噴出しそうだったが、してやられた感も否めない。
松は東京に出てくる前、“お見合いは東京に居ている間は絶対にしない”と宣言して地元を出てきたのだから、母親が東京での仕事が終わったのならさっさと戻って結婚相手を見つけろと考えるのは当然であった。
だが松は賢くも震える拳を大人しくしまった。
待て、松。怒ってどうなる。
母はいつも松が困るような事を平気でしでかしておいて、松の文句を面白半分に聞いて楽しむような人間じゃないか。
こんなところで感情的になってはいけない。
よくよく考えれば、たかが服と日用品がなくなっただけだ。大した損害ではない。(そもそも松はあまり高い服など(徳永さんからもらったあの赤いドレスは別として)持ち合わせていない)
現金とパスポートは持ち歩いているのでとりあえずそっちは無事だ。
最悪の状況にはまだ陥ってはいないのだ。
それに松には、もっと大事な事が―――もっと大切な存在がいた。
松が守りたいもの、主張したいことは既に明確になっていて、自分のすべき事はとうに決まっていた。
もう黙ってなんかいまい。
ここではっきりと決着をつけてやる。
松はリビングの方に戻ってくるとコートのまま膝をついて、母親の前に正座をした。
「―――お母さん、話があるの」
松は未だかつてないぐらい落着きはらった低い声で母親に話しかけた。
だが母親は、松の方向を見もせずテレビの方ばかり見ている。
松はじれったそうにリモコンをいじってブチリとテレビを切った。(テレビは荷造りの対象ではなかったようだ)
母親は真っ暗になった液晶画面の方から視線を離そうとしなかった。
「私は話なんかありませんよ」
顔をそむけたまま母親はそっけなく言った。
「でもわたしは話したいことがあるの。お母さんが言った通り、私の親会社での仕事は今年の秋までだったのが急遽二月末までという事で決まってしまったの。お母さんに言わずにいていたのは悪かったけど、今週末にでも報告しようと思っていて昨日からずっと実家の方に電話をしていたのよ。わたし、親会社を辞した後は子会社に戻らず退職して、徳永さんと結婚してニューヨークに行こうと思うの」
辺りは水を打ったようにシンとなった。
松は母親の表情をじっと見守っていた。
彼女は石のように白く硬くこわばっていて身じろぎひとつもしなかった。
「―――ニューヨークだって?」
しばしの沈黙の後に呟いたのはいままで壁と化していた母親ではなく継父だった。
「ええ、徳永さんが急遽ニューヨークに転勤になってしまったので、結婚してわたしも一緒に行く事にしたの。お母さんと約束していた社内試験を受ける事は出来なくなってしまったし、親会社で契約社員になろうと目指していたのにそれが叶えられなくなったので、辞めなきゃならないのは私も残念だったんだけど」
継父にそう説明すると、彼は少し納得したようにかすかに頷いたように見えた。
「今月末で辞めてくれって急に言われてしまったの。本当に仕方なくて」
松は説明をつづけた。
「なんでも春から新しい新入社員を採用するから席がひとつ必要になったみたいで、わたしが辞めるしか方法がなかったみたい。本来なら私はこのまま子会社に戻るべきなんだけど、丁度徳永さんが、来月からニューヨークに転勤を命じられてしまったから。だったら、いっそ結婚して一緒にニューヨークに行こうって事になったのよ」
松は淡々と事実を説明した。
大したことないでしょ?ちょっとした予定の変更なのよ、という風に。
またしばらく沈黙が続いた。
松は母親の反応を固唾を飲んでじっと待った。
「結婚するのは、大いに結構だと思いますよ」
といった母の声は鷹揚に響いた。
「若い娘が、いつまでもお局みたいに未婚のまま会社に縋りついているのはみっともないですからね。女って言うものは、結婚して半人前、子供をもって初めて一人前なんですから。このままお前が親会社だろうが子会社だろうが、将来の目論見もなにもないまま居続けるなんて、世間体が悪いですからね。ふさわしい相手と結婚して、その上望まれる場所で働ける環境があるというのなら、それ以上にない幸せじゃありませんか。お母さんは、お前にとってこれほどいいご縁はないと思いますよ」
どうやら母親は松が一番理聞いてほしいところを、耳を塞ぐつもりらしい。
松はイラっと尖る神経を抑えて
「わたしも、徳永さんみがいな素敵な方とご縁が持てて、結婚できるなんてこれ以上ない幸せだと思うわ」
と、平然と言い返した。
「ええ、そうです。お母さんはお前の幸せを望んでいるのですからね。ねえ、天野さん、こんな娘ですけど今後は宜しくお願いしますよ」
と、母は背後にいる天野さんに突然話を振った。
「このようにうちの娘は、単純で物事の上辺しか見えない頭のニブい子でござんすが、まあ平凡と言える部類の中でもそれほど悪い容姿でもありませんし、意固地な一面がたまに出るとはいえ、今まで育ててきてこの子の唯一の取り柄は、親に従順だった事ですわ。今は、欲に目がくらんで物事の正しさが見えてないようですが、あなたの様な立派な男性が側について手綱を引いてくださったら、きっとお宅様の家名に相応しいよい嫁となると思いますの。お宅様と我が家の高い血統の結びつきこそ世に相応しき正しき交わり―――誠実で真実で美しいご縁はないに違いありません。少なくとも私はそうと信じております」
松は今立っている場所から、天野さんの方に視線を投げて彼の顔を見た。
彼は母の毒にまみれた演説を耳にしても、まるで他人事のように何食わぬ顔でそこで突っ立っている。
この男は何も感じないのだろうか?
こんな奇妙な論理を堂々と口にする選民思想の持ち主の親を持つ松とまだ結婚したいと思っているのだろうか?
それとも、自分は選ばれた特別な血筋を持っている種族の出身だから、母の意見に賛成なのだろうか?
もしそうなら、この男はなんて貧相な思想の持主なのだろうかと松は思ったが、本当の彼はそうでない事を松はよく知っていた。
彼は松が簿記を教えたときも、飲み込みが早くて打てば響く明晰な頭脳の持ち主だった。
その彼が、なぜこの頭が悪くて感情的で自分勝手な論理を他人に押し付けようとする母に同調するのであろう。
天野さんは何を誤解したのかじっと見続ける松にニコリと微笑み返したので、背筋にゾクリと悪寒が走った。
その微笑は優し気ではあったが、温かみのあるものには感じられなかった。
前にも思ったが、この人は頭は切れるし口も立つが、何を考えているのか分からないところがあった。
「さ、帰りますよ」
母親はそう言うと、いきなり立ち上がって娘の腕をぐいとつかみ立たせようとした。
「は?」
さっきまでお菓子を口にしながら呑気にくつろいでいたのに、いきなり立ち上がったので松も吃驚した。
「帰る??」
「何度も言わせないで頂戴。帰るって言っているのよ。あんたはもう東京には用のない身でしょう、さっさと家に帰るのです。これから嫁入り支度だの引っ越しの準備だの色々しなくちゃならないのに、こんな用のないところでぼやぼやしている暇ないでしょ」
「何言ってんの?わたし、帰らないからね。それにまだ話は終わっていないじゃない」
「話すことなんて何もないといっているでしょう。お前が天野さんと結婚する話は決まっているのに、いったい今更何を訳の分からない事を言っているのか、わたしにはまるで理解できませんよ」
「訳の分からない事を言っているのはお母さんでしょ?何で人の話を聞こうとしないの?」
「戻ったら、ご近所から親戚からあちこち挨拶回りに行かなくちゃならないんですよ。隣近所の口性のない連中に天野さんのような立派な方と縁付いただなんて知られたら、そりゃ妬みや嫉みを買われて大変だと思いますけどね。でもそれも仕方がない、我が家のような格式のある立派な家に生まれたからには他人様から羨まれるのは宿命っていうものですからね。だから、わたしはお前がどこの馬の骨かもわからないのに、一時の気持ちに絆されて見てくれだけの外面のよい男に惚れるのも分からないわけでもないのよ。ああいった輩は、若くて経験の薄い娘に狙いを定めて巧みに言い寄ってくるもんなんです。全く、悪賢くて姑息な連中ですが、我々の血統と育ちの良さが羨ましくてたまらないのですから仕方ないといえばないですよ。お前も年齢が行けば分かってきます。今に、わたしの言った事が正しかったと分かる日が来るに決まっています。あの男の正体を知って、私が悪かったって、私達に謝ってくるに違いありませんよ。あんな外見と口先だけが達者で、実は中身が空っぽでがめつくて身の程のわきまえぬ下劣な男のことなんぞすぐに忘れるでしょうよ。さ、帰りますよ」
母はそう言うと、松の二の腕を痛いぐらいに掴み上げ無理に引っ張って行こうとした。
あまりの強引さに腹を立てるどころか大いに慌てた。
何だかおかしい。
確かに母の持前の毒舌は相変わらず健在で鋭さを失っていなかったが、前回徳永さんと共に実家を訪ねたときはまだ会話が成立していたのに、今は、松の話がまるで耳にはいっていないようだ。
松と目を合わせる事すらしない。
それどころか、どことなし何かに怯えているようにさえ見える。
何だろう、この母から漂ってくるこのこの焦りは。
松は、親会社の社内試験が受けられなくなってしまい、契約社員になる約束が果たせなくなってしまったので、それを徳永さんとの結婚反対の理由にされると身構えていた。
だが、母にとってはそんな事どうでもいい事のようだった。
今、彼女の頭に今あるのは、自分の娘と天野さんとの縁談を成立させること、ただそれだけ。
それ以外の事は眼中にないようであった。
おそらく娘は、いつもの方法で適当にこき下ろして、押さえつけてしまえば、これまでと同じくこちらの主張をいい聞かせることができるのだと、踏んでいるのであろう。
松は足を踏ん張って、母を引き留めようとした。
ここで連れていかれるわけにはかない。
母を土俵にとどめなくてはいけない。
そう思ったその時、背後から鶴の一声が響き渡った。
「ショウ、そこにいるのか?」
その声に、そこにいる全員が玄関の方向に振返った。
開けっ放しのドアの向こうの暗闇からひとつの人影が現れた。
天野さんが体を斜めに移動させてその人影に道をあけてたので、その人物が何者なのかよくわかった。
いつもの松のお気に入りのチェスターコートに身を包み、出張帰りの気だるげな様子でありながら、シャキッと背筋の伸びた麗しい姿がそこにあった。
「ちょっとお邪魔するよ」
そう言って彼は玄関のドアをくぐって部屋の中に入ってきた。
松は、魔法使いに頼んでも、このようようにタイミングよくタイミングのいい人間を連れてくる事は困難だろうと思ったが、その人は間違いなく徳永さんだった。
「と、徳永さん…?」
松は、夢を見るかのように彼の名を呼んだ。
「なんでここに?」
「何でって、荷物を取りに来るからってメールくれたから、運ぶのを手伝おうを思って駅からそのままこっちに向かったんだよ」
と、彼はにっこり微笑みながら言う。
「え…と」
松は空になってしまったクローゼットにチラと視線をやった。
荷物を運び出そうにも運ぶべき荷物はもう何もなくなってしまっていた。
この事態を何と言って説明したらいいのだろう。
「ずいぶんと大きな声で話していたようだね」
そう言って彼は後ろ手にドアノブを引いた。
バタンと大きな音がしてドアがしまる。
ようやく寒風が部屋に入り込まなくなったので、部屋はさっきより少し暖かくなった。
「外に、まる聞こえだったよ」
徳永さんは「お邪魔します」と断ってから、静かに靴を脱いでリビングに進んできた。
そこで初めて彼はここにいる訪問者と顔を合わせたわけだったが、松の両親から天野さんまでもが、この部屋に居ている事にあまり驚いていはいないようだった。
「も、もしかして徳永さん、今の話を聞いていたの?」
松はおずおずと尋ねた。
徳永さんは答える代わりにニッコリとほほ笑んだ。
「い、いつからそこに居たの?ううん、どこから話を聞いていたの?」
「―――ん?そうだね、『何でそんな勝手なことをするの?人の部屋に勝手に入ってきて、人のものを勝手にどこかにやってしまうなんて』って、ところから聞こえていた」
徳永さんは松の声色を真似て言った。
松はギリリと奥歯をかみしめた。
ほぼ最初からという事か。
ということはまたあの母の聞くに堪えないウンチクを徳永さんに聞かせてしまったということか。
そんなに前からここに居ていたのなら、もっと早く部屋の中に入ってきてほしかった。
松は、彼から庇おうとしていた衝撃を彼にまともに食らわせてしまったのだと思った。
徳永さんは、松の腕をつかんで固まっている母の方にずんずんと歩いてきた。
さすがの母も彼の突然の登場に、鳩が豆鉄砲をくらったかのように驚いて目をまるめて突っ立っている。
「あ…あの、徳永さん…」
松は何か取り繕うと思ったがどんないいセリフも浮かばない。
だが徳永さんは平然と母の顔を見下ろしている。
「お義母さまがお出でになっているなら、話がはやい」
徳永さんは母の目の前にたつと、静かに口を開いた。
その目はすこしも怯んでおらず、むしろ情熱的に光っていた。
「今週末は、ショウさんとの結婚のご報告をするために、そちらにお伺いするつもりだったんです」
母は、怒りというより、むしろ怯えているかのようにわなわなと唇を震わせはじめた。
「先ほど、ショウさんが仰られた通り、わたしとショウさんは結婚することになりました。そのお許しを頂きたいのです」
彼はそう言って、腰を折って美しい背中を傾けて頭を下げた。
とてもシンプルな言葉で発せられた台詞は、とてもとても真摯に響いた。
松は慌てて母親の手を自分の腕からどかして徳永さんの隣に立ち、自分も一緒に母親に頭を下げた。
「お願いします、お母さん。徳永さんとの結婚を許してください」
場は再び水を打ったように、いや氷が張ったように静まりかえった。
母の顔は見えなかったが、彼女の荒い鼻息だけは聞こえてきた。
「じゃ、ニューヨークに行くというのは本当なんだね?」
と、沈黙を破って継父がまた口を挟んだ。
「はい」
徳永さんはゆっくりと頭をあげたので、松もそれに倣った。
「えらく急な話だね」
と、継父は言った。
「―――ええ。先ほどショウさんが仰られて通り、この三月からわたしのニューヨーク転勤が決まりまして」
と、彼が言った。
「こんなに急に結婚することになって、お母さまも驚かれたかと思います。本当はお母さまとお約束した通り、ショウさんが親会社の社内試験に合格して契約社員になる見通しが立ってからと考えていたのですが、それを守れずに本当に申し訳なく思っております」
「私が一緒に行きたいと言ったの」
松は慌てて言った。
「本当は、徳永さんは、わたしが東京に残って試験を受けるつもりでいるんなら、ニューヨーク行の話を蹴って日本に残ろうとしてくれていたのよ。でも、詳しくは言えないけど徳永さんでないとできない仕事が急にニューヨークに発生して、今すぐ来てくれってニューヨークの支社長から直々にお願いされたの。で、どうしても断れなくて。だから、わたしも一緒に行くって言ったの。彼の側にいたいと思ったから」
母はまだ、鼻息を荒くしたまま徳永さんに視線をそそぎ口をつぐんでいた。
母が黙っているので継父が話を促した。
「―――ショウちゃんはそれでいいのかい?」
「え?」
「こっちでの仕事を辞めてしまって、本当にいいのかね?後悔はないのかね?一生の一度の問題なんだよ?」
「後悔はないよ」
松はしっかりとした口調で言った。
「もちろん東京で仕事を続けられたらよかったんだけどね。でもどのみち、徳永さんの転勤の話がなくとも、わたしの仕事は二月末で終わりということになってしまったし」
ぶっちゃけ実質は、松の仕事は徳永さんとの婚約と共に今年の秋から急遽二月末に狭められしまったのであったのだが。
が、会社の都合を、今はっきり母に伝える必要はないと松は判断した。
誰がどんな噂をしようとも、少なくとも会社から正式に告知されたのは“新しく新入社員を迎えることになった”から。
それが理由だったからだ。
「東京で別に仕事を斡旋してくれる人がいるそうだが、その話も受けるつもりはないのか?」
継父は質問を重ねる。
「その人の言っている仕事は、今までとは全く違う業種だし、わたしに来てくれって言っている人だってそもそもわたしも会ったことがない人し」
「松ちゃん」
継父は言葉を選びつつ言った。
「女が仕事を失うというのは、大変な事だ。一度無くしてしまったら、戻りたくてもなかなか戻れるものじゃない。お母さんはその辺を心配しているんだよ。結婚もしたい、その気持ちはわかる。日本に戻ってきたとき、その人がまたショウちゃんを雇う気になるとはかぎらないだろう。だから、お母さんも、その両方を叶える方法を考えたっていいんじゃないかって、そう言っているだけなんだよ。天野さんは是非そうしたらいいと言ってくださっているそうじゃないか」
松はまただ、と思った。
なぜ皆、『家成さんのお兄さんの会社に就職する=天野さんと結婚する』と考えたがるのだろう?
「わたしは単に結婚したいわけじゃないの」
松は、ここのところは明確にしなければと、はっきりとした口調で言った。
「相手が徳永さんだから結婚したいって思ったの。誰でもいいってわけじゃない。相手が徳永さんじゃないなら、わたしは結婚したいと思わなかったわ」
「―――本当に、この人が好きなのかね?」
と言ったのは母だった。
「この徳永さんという人のことを本当に信頼しているのかね?」
母の視線は松につきさすように鋭かった。
「はい。もちろん」
当然でしょ?という風に。
「この人は前に嘘をついていた事があったのを覚えているだろう。借金がある身でありながら、お前に結婚してくださいと言ってきた事があっただろう?それでも信頼しているっていうのかね?」
「別に嘘をついていたわけじゃないわ!単に黙っていただけで、別に隠しておくつもりはなかったわ」
松は自分の事のように叫んだ。
「隠していたかったから、黙っていたんじゃないか?」
「借金と言ったって、徳永さんが作ったんじゃなくって徳永さんのお父さんが遺したものだったのよ。徳永さんはお父さんの負債を自分で払おうとしていただけで。徳永さんが非難される必要なないでしょ?」
「ショウいいんだよ」
徳永さんは松の言葉を止めた。
「僕があの事を黙っていたのは事実なんだから、弁解はできないよ」
彼は静かにそう言うと、再び静かに頭をさげた。
「あの時は、申し訳ありませんでした。父親の遺した負債とは言え、それを伏せてショウさんに結婚したいと申し出たのは、公平ではなかったと自覚しております。本当に申し訳ありませんでした」
松は息を止めて、目の前にある徳永さんの見慣れたつ旋毛をまじまじと見つめた。
体が怒りのあまり震えてくる。
松は彼にこんな事をさせたくなかった。
こんな真似を母親の前でさせたくなかった。
「嘘をついていたって事は認めるんですね」
母親は気が済んだかのか口角を緩めた。
「御覧なさい。松、この人は自分で自分は嘘つきだと認めたのよ」
「は?何言っているの?」
「自分は信用のならない人間だと、自分で認めたのよ?」
母はつづけた。
「自分の言った事は事実ではないと、嘘なのだと、そう認めたのよ?いったいそんな人間の言う事をどうして、信じられてるっていうんです?」
「お、お母さん?」
「そんな男に騙されて、お前も一緒になって嘘をつくなんて、花家家の一生の恥ですよ」
「お母さん、わたし嘘なんてついてないわよ!一言も!!」
「ニューヨークに急遽転勤だの、ニューヨークの支社長からの命令だの、そんな作り話をどうしてわたしが信じられるって言うんです?」
「嘘じゃない!転勤の件はわたしだけでなく会社の人は全員事情を聞いているし、皆知っているわ。全然作り話なんかじゃないわよ!」
「どんなもんだか」
母は言った。
「お前は騙されているんですよ。そのように信じ込まされているだけなんですよ。まったく本当に仕方のない子だねえ、こんなに簡単に騙されるなんて。血筋の悪いうえに、育ちの悪い人間の性質の悪さは、本当に手が負えない」
母は独り言のように呟いた。
「品性なんてどこを探したってありゃしない。そんな輩を人として聞く耳持てるわけないじゃないか」
母は徳永さんが下手に出れば出るほど勢いづいて攻撃し続けた。
結局は、こうなのだ。
母相手にどれだけ誠実に尽くしたところで、許しを得るどころか、非難の口実を与えてしまうだけ。
松はなぜ母がここまで強気でいられるのか、分かっていた。
―――嫌というほど分かっていた。
それは母と松との間には“松が平凡で価値のない人間”という共通の認識があるからだ。
松にとっては認めたくない事ではあったが、松もこれまで生きてきて植え付けられてきた長年のコンプレックスをなかなか改善することができずにいた。
それは母にもよくわかっていた。
だから、“今まで育ててきてこの子の唯一の取り柄は、親に従順だった事”という台詞がいとも簡単に口から洩れるのだ。
その言葉に自信さえ窺えた。
母は、わたしがコンプレックスがあるものだから、どうしても“徳永さんとの結婚の許し”が欲しいと思っているのだろう。
だがそれは真実ではない。
松がここで母に頭をさげるのは、自分が無価値な人間で、平凡だと思っているからではなく、徳永さんが松の母に結婚の許可をもらいたいと思っているからだった。
母に許してもらいたいと、もはや松は思ってなんかいなかった。
松は、これ以上もういいと思った。
徳永さんを傷つけてまで母の許しなんて必要ない。
母に認められる必要なんてない。
母はわたしを、“才能のない子”といくらでもわめけばいい。
“平凡でとるにたりない子”といくらでも言うがいい。
だがもうゲームは終わりだ。
松は、まるで他人のように冷めた目で母を見つめた。
「徳永さんに…あ―――って」
と、松は振り絞るようなかすれた声で唸った。
「え?」
「と…徳永さんに、あ…謝ってって言ったの」
「は?何言ってんの?何で私が?」
「徳永さんに、よくもそんな失礼な事をズケズケと言えたものね。こっちが下手にでてりゃつけあがって、しゃあしゃあとまあ」
松の低い唸り声は続く。
「ここで謝ってくれなかったら、侮辱罪で訴えるわよ?」
「あんた何言ってんの?気が狂ったんじゃないの?」
「狂っているのはそっちでしょ?というより、もう何年も前から狂っているんじゃないの?最初から狂っているもんだから、狂っている事に自覚がないんじゃないの?今回ばかりは、わたしも許さないわよ。徳永さんにこれまで口にした失礼の数々を、全てここで謝ってもらおうじゃないの」
「―――何言っているのよ?馬鹿みたいに腹立てて何怒っているのよ?つまらない事で」
と、母は言った。
「まったくお前の茶番劇につきあっている暇はないっていうのに。まったくお前ときたら、こんな取るに足らない事で、わあわあと喚てばかりで、本当に子供みたいだねえ、みっともない。これから他人様の妻になろうっていうのに、そんな事でどうするって言うんですか。さ、帰りますよ」
母親はそう言うと、また松の腕を掴んだ。
「謝れてって、言っているでしょ?」
松は、仁王像のように両足を踏ん張って、腕を振り上げて母親の手を乱暴に振り払った。
「でなきゃ、ここから帰さないわよ?」
「何を言っているの。最終の新幹線を予約しているんだから、あまりゆっくりしている時間はないんですからね。お前も残りの荷物をさっさとまとめなさい。ああ、天野さんまた、結納の日取りとか決めなくちゃなりませんので、また後日ご連絡させてもらいたいと存じますが、またそれも明日以降ということで…」
天野さんは突然話を振られてびくりと両肩を震わせただけで、何の返答もしなかった。
「さ、松。今回だけは、許してあげるから、とにかく家に戻りなさい。わかったわね、本当にお前は昔から手が焼ける―――」
次の瞬間、この場に居た全員が、どうして次の展開を予想できたであろうか。
松は、
「謝れっていってんだろうが!!!この、わりゃ―――!!!!!」
と、怒り狂ったトラのように慟哭をあげたかと思うと、真横にあった食卓の椅子をむんずと両手にしっかりとつかみ、母親の眼前で頭上に振り上げたのである。(食卓と椅子は部屋の備品で、これもまた荷造りの対象ではなかった)
流石の母も目を剥いた。
椅子は今にも母親の頭に振り落とそうとされている。
「謝れって言ってんだろうがッッ!!!聞こえんのか、このクソババアアッッッ!!!」
母は、「クソババアって誰の事?」というような表情でぽかんとしていたが、松が、椅子を担ぎ上げたまま、母の方向ににじり寄ってきたので、娘の怒りの対象ががこちらだと初めて気が付いたらしい。
母は生まれて初めて、今まで従順だった娘が(どんなに態度で反抗をみせても概ね意のままに言う事を聞かせていた)怒り狂って夜叉の如く獰猛に自分に向かって牙を剥く姿を目の当たりにしたのだった。
「謝れって言ってんでしょ?」
松は、怒りを鎮めるばかりか、怯えてガクガクと体を震わせ始めた母にどんどんと間合いを詰めていった。
「徳永さんに今すぐ謝りなさいよ。でなきゃ、この椅子をその頭の上に投げつけるわよ?」
「な…なに…言ってんのよ。アっ危ないじゃないのよ。下ろしなさいよ。何興奮しているのよ、馬鹿みたいに―――ヒッッ!!」
ドカッッッ!!!
椅子は、母の立っていた右側スレスレに大きな音を立てて勢いよく振り下ろされた。(ホットカーペットは荷造りされていたなかったので、かろうじて床が傷をいくことは免れた)
だがこれだけで怒りが収まるわけがない。
松は、振り落とされた椅子を再び両手で持ち直し頭上に担ぎ上げた。
「もちろん、お母さんは侮辱っていう日本語を知っているわよねえ?」
「―――は?」
母は、先ほどの一撃で腰が抜けて立ち上がれなくなっていた。
「根も葉もない事を事実のように吹聴して人を傷つけることよ。お母さんが徳永さんに向かって口にした侮辱の言葉の数々を、名誉棄損で訴えることもできるのよ?」
「メッ…めいよ…きそん?」
母は青白い顔を更に青くさせた。
「な…何いってんのよ。あんたがそんなコトできるわけないじゃないのっ、いい加減な事言ってっ…ウギャッッ!!」
松が二発目を今度は母親の左側の隙間に打ち付けた。(もちろん傷ついたのは椅子の足とカーペットだけであるが、母を威嚇するには十分だった)
「徳永さんの弟が、法学部で法律に詳しいの。知り合いに腕のいい弁護士の先生が何人もいるのよ?」
「べ、弁護士の知り合い?」
母の顔からますます血の気が引いてミイラみたいになってゆく。
「そうよ、私達いつでも、お母さんを訴えることができるのよ?」
と、松はそう言って更ににじり寄る。
「だから、さっさと謝ってよ」
「ひ…」
「徳永さんに謝ってって言ってんのよ!!でないと―――」
松が三度目の正直を頭上から振り下ろそうとしたその時、松の手から重い椅子が強引にもぎ取られた。
椅子は、松から離れたところにゴンと投げるように下ろされた。
突然椅子を奪われた松は、猛烈に腹を立てて振り返ると、そこに徳永さんの顔があった。
椅子を取り上げたのは彼だった。
珍しく彼の冷静な顔が興奮して紅潮していた。
だがその表情から彼の真意は読み取れなかった。
次の瞬間、乾いたパンという音が部屋にこだました。
松はその時初めて、徳永さんの手のひらが松の頬を叩いた事を知ったのだった。
<64.騒動⑨>へ、続く。




