5.電話越しの喧嘩
5.電話越しの喧嘩
翌日の朝一に部署に行くと、瀬名さんは珍しく席に座っていた。
彼の席の上には書庫から持ち出してきたのであろうと思われる大きなファイルが積み上がっていた。
「花家さん、話があるんだけどね」
早速瀬名さんが、こちらに向いて話し出す。
瀬名さんの「話がある」は、大きな仕事を言いつけられる事が多い。また何か命じられるのだろうかと、彼の机の上に積み上がっている大量のファイルに嫌な予感を感じ、身構えながら「はい、何でしょうか」と言って、彼と向き合った。
「このファイルの中で星印のついているデータを拾い出してほしいんだよ」
瀬名さんは、彼の机の上に置いてあるファイルの束を示して言った。松は、それを手に取って、パラパラっとめくってみた。
「これ、営業一課の貸借対照表ですよね?どの勘定科目を見ればいいんですか」
松は言った。
「全部の勘定だよ」
瀬名さんは言う。
彼の言う星印とは、ヒゲのデータのことだ。
プラス出るところが通常なデータにマイナスが出る場合は、イレギュラーなデータとして頭のところに星印がつくことになっている。
「でも、星印出ているデータは殆どないはずです。印がついたデータは決算中に全て修正しますから」
「でも、数字の小さいのは印はつかないだろ?」
瀬名さんは言った。
「その中にある、印がついた状態で敢えて放置しているデータも中にはあるはずだ。例えば費用の項目でヒゲが出ているデータとか」
費用の項目は、色分けがされてあって、普通は緑色で印字されるから、ヒゲがでているようなデータは赤色で印字される。
「ああー、そうですね。たまにそう言うのはありますが、逐一その度にチェックしますし、担当課に事情を確かめて、入力間違いなら正しますし、正しければそのままおいておくこともあります」
「そうだろうね、だからね、そういった細かいデータを全て拾って欲しいんだよ」
「どうしてですか?」
不思議に思って松は尋ねた。
「データを拾ってきて、また、蒸し返すんですか?」
「蒸し返すことはないよ。ただ、上からの通達でそういったイレギュラーなデータが出ている過去一年分の案件を、全て拾って来いって、言われているんだ」
「上からの?」
「今度、会計システムが新しくなるだろ?もっと見やすく、そういったデータが出ても早く見つけられるように、改善を重ねる意味もあって、現状がどうなっているのか知りたいって言っているんだ」
松は、ふーん、と心の中で思ったが、何で私がしなくちゃならないんだ、という気持だった。新システムの導入は、松の居る関連会社ではなく、親会社主導でするべきことのはずだ。ついこの前、テスト運用を頼まれたが、東京でやるべき案件を、なぜ関連会社の、しかも東京から離れた支店の経理課にいる自分がしなくてはならないのかと不思議に思う。
「これ、営業一課の分なんだけど」
瀬名さんは、返事もできずに考え込んでいる松に向かって話を続けた。
「八課の分までよろしく頼むよ」
「営業一課から八課まで、過去一年分全部さらうんですか??」
松は叫んだ。
「一週間でできる?」
一週間?
その言葉に、眩暈を感じた。営業一課から八課といえども、取扱量が多い課は、膨大なデータを見なければならない。それを過去一年分やれと言うのだ。
「時間がないなら、乙部さんにも手伝ってもらって」
そう言って、瀬名さんは後ろに座っている乙部さんに声をかけた。
「何ですか?」
後ろを歩いていた乙部さんは、瀬名さんに声をかけられてたちどまった。
「じゃ、花家さん、よろしく頼むね。乙部さんに今言った事を説明して手伝ってもらって」
彼はそう言うと、またいつもの如く、さっと立ち上がってどこかに行ってしまった。きっとあの足取りは人事部に行くのだろう。
「今度は何なんですか?」
乙部さんが尋ねてくる。
「一課から八課の一年分をさかのぼって、ヒゲ印の出ているデータを拾えって」
「一年分?」
乙部さんは目を丸めた。
「何のために必要なんですか」
「新システムに移行するにあたり、イレギュラーなデーターを発見しやすくするために改善したいらしいんだけど、現状がどうなっているか知りたいんだって」
「それだけのために、一課から八課、全部のデータをチェックするんですか?」
乙部さんは驚いて言った。
「そうみたい」
「あり得ないわね」
乙部さんはものすごく不思議そうにしていた。
松も同じ気分だった。
ただ、慎ましくも乙部さんは、それ以上は言わなかった。彼女は、
「空き時間にチェックを手伝いますので、説明してくだされば、いつでもやりますよ」
と、言ってくれた。
松は、書庫から過去一年分の貸借対照表のファイルを、八課分を台車に乗せて会議室まで運び入れた。席で作業をするには、あまりに膨大な量過ぎたので個室にこもって作業をすることにした。
「一週間でできるかな…」
乙部さんの手を借りることができた陰で、なんとか二人で協力して進めることが出来た。が、乙部さんは派遣社員で残業は絶対しない契約なので、五時半を過ぎれば、彼女は、判を押したように帰ってしまう。その後は、松一人での作業になった。
夜の八時半まで頑張る毎日が続いた。
再び残業生活が始まった。
さすがの瀬名さんも松が残業してデータを拾って、集計する作業をしているのを見かねたのか、夜、一緒に残って、人通りの少ない地下鉄の駅までの帰り道を送ってくれるようになった。
そんな折、偶然なのかどうなのか、夜のバイトに備えて地下の食堂で食事を終えたカイ君と、出入り口でばったり出会うことがあった。
瀬名さんと二人きりでいるところを、何か言いたげな顔で、
「お疲れ様でした」
と言って、挨拶して通り過ぎてゆくだけだったが、彼の顔を見る度に、徳永さんのことを想い出さずにはいられなかった。
徳永さん…
分厚い過去のファイルと睨めっこしながら、細かなデータを拾ってゆく作業に集中している合間に、徳永さんの部屋に通う、赤い口紅の女のことが、ふと思い浮かんだ。
広いフロアにたった一人、こうやって、残業し、目の下にクマを作り、仕事に没頭しているその時ですら、彼は今その女の側にいて、笑ったり話したりしてるのだと思うと、何とも言えないやるせなささが募って来た。
元の奥さんってどういう人なのだろうか。
徳永さんの選んだ人だ。
あのエスティーローダーの赤い口紅の似合う素敵な女性に違いない。
彼女は、真っ赤なドレスを着て、徳永さんの腕に引かれ、一緒にオペラを観たり、夜景の見えるレストランで食事をすることもあるのだろうか。
それとも二人は、ふたりにしか分かち合えない共通の趣味があって、松の知らない世界で楽しみを見出したりすることもあるのだろうか。
松はあれこれと、想像をたくましゅうさせるのだが、想像したところで胸が疼くだけで、何も見出すことはできなかった。
徳永さんに女がいたところで、松には反撃できる手段など何もなかった。
何もできないくせに、あれこれと想像してしまう自分に、腹立たしさを感じた。
こんなにも悩むのなら、カイ君のいう通りに電話をすればいいのかもしれない。
別れた奥さんと会っているのかと、直接聞けばいいのかもしれない。
でも、もし、もしも、尋ねたところで、彼が真実を話してくれなかったら?
松は自分を嗤った。
私は臆病者だ。
「君はお見合いをした方がいい」
「もう連絡をするつもりはない」
と言い渡してきた彼に、自分は、彼に問い質す権利があるのかと、そう思ったのである。
瀬名さんから言い渡されたデータを拾う作業をやりはじめて一週間。
「お願いしていた例の資料、今日中にできるかな。月曜の朝一には必要なんだけど」
「はい、殆どできています。あと、もうちょっとです」
エクセル画面を操作しながら松は瀬名さんに向かって答える。
「じゃ、すまないけど、出来上がったら、机の上に置いておいてくれる?今日はちょっと用事があって今から出なきゃならならなくて」
と言って、瀬名さんが時計を見ながら、席を立っていた。
今は金曜日の夕方。針は、夕方の五時半時を指していて、じき終業時間だった。
何の用事かは言わなかったが、人事部長と、その上の役員との飲み会であることは乙部さんから聞いて知っていた。乙部さんは部長秘書になってから、その手の情報をよく教えてくれる。
「印刷して、デスクの上においておきますよ」
と、松は言った。
「頼んだよ」
そう言って、瀬名さんは帰って行った。
どうせ一緒に居残ってくれても、手伝ってくれるわけでもない。
松は彼を見送ると、入れ替わるように、後に残った郵便物がないかどうかBoxをチェックに来たカイ君が部署にやってきた。
「あれ、瀬名さんは今日は帰ったの?」
「うん、用事があるからって」
「オマエ、今日も遅くなるの?」
「ううん、これ終わらせて印刷したら終わりだから、六時には終われると思う」
「オレ、帰り送ってやろうか」
カイ君は言った。
「いいよ、バイトでしょ?」
「今日は遅番で六時半からだから。地下鉄の駅までだったら送ってやるよ。じゃ、六時頃に、守衛室の横の裏口で待っているから」
そう言って、カイ君は去って行った。
ここの所、残業ばっかりだったので気にかけてくれているのかな、と思った。
このビルは地下鉄の駅から歩いて十分ぐらいだが、通勤路の風紀がよくなく、近頃、ご近所で痴漢事件が起こって以来、夜、女子社員は一人で出歩かない方がいいと総務部からお達しがでていた。ゆえに、男性社員などは、残業になると残っている女子社員に気を遣って声をかけてくれることが多くなった。
「カイ君を待たしたら悪いから、さっさとやっちゃお」
松は、エクセルの印刷ボタンを押して、出てきた書類を一枚一枚確認してページ番号順に揃えてゆく。全部揃ったところで、ダブルクリップでとめて、瀬名さんの机の上においておいた。
やれやれ。
一連の作業を終え、これで残業生活もこれで終わりかと思うと、安堵と、何とも言えない達成感を感じる事ができた。
松は机の上を片づけ、最後に手鏡で顔を確認しながら、脂取り紙で鼻の頭や額の脂をぬぐった。
(ひどいクマだ…明日、お見合いなのに)
度重なる残業のお陰で、見事なクマは、最近、松のトレードマークになりつつあった。もはやコンシーラーで誤魔化せるレベルではない。
気休めにファンデーションをはたき込んで誤魔化そうとしたが、あまり変化はないように思われる。
(ハハ、お見合いどころか、これじゃあ、百年の恋も冷めちゃうよ)
と、自分でツッコミを入れてみる。
(ま、こんなブサイクなら、向こうも顔みて即効断ってくるだろうな)
と、変に安心している自分がいる。
さてと、いい加減帰らなきゃ。
時計を見たら、ちょうど六時になるところだった。
さあ席を立とうとしたとき、バッグの中の携帯が鳴りはじめた。
急いでいるのにぃ~。
着信相手も確認せずに、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『・・・・・・・・』
「もしもし?」
『・・・・・・・』
うっすらとした呼吸音が聞こえて来るが、返答が返ってこない。イタズラ電話か?
「あの、もしも…」
『…ハナイエちゃん?』
「へ?」
『あの、オレ、徳永だけど』
「徳永さん?」
低くよく通る、あの懐かしい声が耳元から聞こえてくる。
松は、意外な人からの電話でどうしてよいか分からず、あたふたと、携帯を意味もなく左手から右手に持ち代えて耳に押し当てた。
「…本当に、徳永さんなんですか?」
『ああ、オレなんだけど、今、話しても大丈夫?』
「大丈夫です。えっと、あの」
何を言ったらいいのだろう。
なんで徳永さんから電話がかかってくるのだろう。
電話かかってくる用事なんてあったっけ?
頭が真っ白で何も思い浮かばない。
オタオタとしつつも、
「その、お久しぶりです、お元気でしたか」
と、とりあえず言ってみた。
『うん、元気だったよ、ハナイエちゃんも元気だった?』
「あっ、はい。なんとか」
シーンとなった。どうしよう、何の用事でかけてきたんだろう。
『まだ、仕事していたの』
と、向こうから尋ねてきた。
「ええ。でも、終わったので、今から会社を出るところです。徳永さんこそ、今そちらは」
松は時計を見て計算した。
「まだ、早朝じゃないんですか?」
『うん、まだ朝の五時をまわったところだよ』
彼は、ハハハと笑っていた。
「早起きなんですね」
『そうでもないけど…眠れなくて、目が覚めちゃうんだよ』
と言いつつ、声色は明るかった。
「お仕事、お忙しいんですか?」
『んー、先週またインドに行ってきたところだよ。相変わらずの生活だけど、近々、日本にも行くよ』
「いつですか?」
『多分、今年の夏になりそう。出張でね。一週間ほどだけど。その後、また上海に行く予定になっている』
「上海ですか、相変わらずお忙しいんですね、身体、大丈夫ですか?」
『大丈夫じゃないかも』
徳永さんは自嘲的に笑った。
『でも、こういうのも慣れたもんだから、何とかやっていけてるよ』
「身体だけは、気を付けて下さいね」
ありきたりな会話だったけれど、徳永さんがニューヨークに居てもこっちに居ていたとき同様、変わらず出張三昧で、忙しくしていたのかと思うと、徳永さんにかまってもらえず、ぶーたれていた自分がなんとも恥ずかしくなってくる。
「あの、今日はどうしたんですか、急に」
松は言った。
『え?』
徳永さんは、意外な声を出す。
「仕事で忙しいから、メールも電話もできないって、前に言っていたから」
『ああ…そうだったね』
徳永さんは松が何を言っていたのか理解したようだ。
『この前、ハナイエちゃんから着信があったからさ、何か用事があったのかと気になってさ』
着信?
松は、電話なんかかけていないけど??
と、思わず言いそうになったが、ハタとたちどまった。
だいぶ前、徳永さんのメルアドと電話番号を消すか消すまいか悩んでいた時、誤って発信ボタンを押してしまったことがあった。かかっていないと思っていたが、着信してしまったのかもしれない。
「ごめんなさい、あの、間違って通話ボタンを押しちゃっただけなんです。すぐに切ったんですけど、繋がってしまったんですね」
『そうだったの』
「すみません」
重ねて謝る。
『…そっか』
すごく残念そうな声。
その消沈したかのような声が、不思議だった。残念なことなどあるのだろうか、と思った。
『実はね、最近、ヨシミから君のことをよく聞いていたもんでね、どうしているか気になっていたんだよ』
徳永さんは続けた。
「ヨシミ?ヨシミさんって誰ですか?」
そんな知り合いいない。
わたしのことを徳永さんに噂する、ヨシミと言う名の女の知り合いなんていない。一瞬、徳永さんと繋がりのある女のうちの誰かと思った。
『カイ ヨシミだよ。知っているだろ?君の会社にいる背の高い小僧』
「カイ君?」
松は声をあげた。
「カイ君のカイって、苗字だったんですか?」
『知らなかったの?アイツの名前は、フラワーの花に、井戸の井と書いて、花井ヨシミって言うんだよ』
嘘でしょ?
松は声をあげて笑い出しそうになった。徳永さんが、あのカイ君を小僧と呼ぶだなんて思いもよらないことだった。
「知らなかったです。カイ君、全然話してくれないから」
松は正直に言った。
「カイ君が、わたしのことを徳永さんに何か言っているんですか?」
『最近、ハナイエちゃんが、残業が続いているって、キツそうにしているって聞いていたから。それで、大丈夫かなあと思ってたんだよ。風邪とかひいていない?』
その気遣う言葉に、久しぶりに胸がキュンと胸が高鳴った。変わらない徳永さんの優しさが、耳から伝わって、まるで彼が目の前にいるかのような感じになる。
「風邪はひいてないんですけど、実は、最近上司が変わっちゃって、こき使われているんですよね」
今は目の前にいない瀬名さんを悪く言うのも気がひけるけど、彼から言われた仕事で、クマができるほど疲れて、残業続きなのは事実なので、聞かれていないことをいいことにちょっと口を滑らせてしまった。
『ああ、トクミツさんが昇進したらしいね。で、新しい上司が瀬名君なんだって?』
「瀬名さんをご存知なんですか?」
『まぁね』
その言葉少ない返事が、奇妙な感じを受ける。彼は続けた。
『瀬名君とはうまくいっているの』
「ええ、まあ」
『絡まれてない?』
絡まれる…?
よく意味がわからなかった。
絡まれている意識はない。
むしろ、大量に仕事を押し付けられて放っておかれているような気がする。
「いえ、別に絡まれてもいないし、何とかやっていますけど…?」
彼の質問の意図が分からないので、曖昧な返事になってしまった。親会社の徳永さんが、関連会社に過ぎない瀬名さんのことを知っているのも意外だった。瀬名さんは人事部の人だから、顔が広いだけなのかもしれないけれど。
『そっか…』
と、徳永さんは呟いた。
『あまり、無理するなよ。身体こわしたら、もともこもないんだから』
「大丈夫ですよ。ってか、徳永さんこそ、そんなに忙しくしていたら、身体こわしちゃいますよ。ごはんはキチンと食べて、夜は早く寝て、休息はしっかりとって下さいね」
『あはは、それもそうだね、ありがとう』
会話がそこまで続いたとき、フロアの奥からカイ君が姿を現した。松がなかなか姿を現さないので、迎えに来てくれたのだろう。
「あっ、カイ君」
松は思わず声をあげた。
『え?』
「いえ、カイ君が、地下鉄の駅まで送ってくれるっていうんで、席まで迎えにきてくれたんです」
と、松は普通に説明したつもりだったが、徳永さんは急激に機嫌を悪くした。
『え、ヨシミが駅まで送ったりしているの?』
驚いたような、怒ったような声で言う。
「そうなんです」
と、言って
“最近痴漢が出てこの辺りの風紀が悪いので防犯のために…”
と説明しようとしたところにカイ君が、
「おい、迎えに来たぞ」
と、フロアに誰もいないのをいいことに大きな声でぞんざいに叫んできた。
「オマエ、誰と話してんだよ。仕事、終わってんなら早く降りてこいよ」
『もしもし?』
徳永さんが低い声で言う。
「早くしろよ」
カイ君がせっつく。六時半からバイトなのでせかしているのだろう。
「ちょっと、黙っててくれる」
松はカイ君に言った。
「すぐ終わるから」
『ちょっと待って、ハナイエちゃん、切らないで』
電話を切られると思ったのだろう、徳永さんは急に焦った声になって呼び止めた。
『あのさ…』
「はい?」
『あの』
何だろう、この徳永さんらしからぬ、歯切れの悪さ。
『お見合いしたの?』
「エ?」
突然、お見合いと言うワードが出てきて、固まってしまった。
『お正月、お見合いするって言っていただろ、あれ、どうだったの?』
「どうだった…と言いますと?」
『今、その人とつきあっているの』
「えっ、いえ」
詰め寄られて、松は、また頭が真っ白になった。
何と返事をしたらいいのだろうか。
「その、あの、お見合いは、えっと…延期になりまして」
と、事実をそのまま口にした。
『延期?』
「先方の都合が悪くなって、後日することになって…」
『後日って、いつ?』
「それが…」
『…?』
「明日なんです」
「・・・・・・」
再び長い沈黙。
『…本当に、お見合いするの?』
沈黙を破って、徳永さんが低い声で聞いてきた。
その声に、松は眉を顰めずにはいられなかった。
お見合いするのって、
お見合いするのかって、
徳永さんがしろって勧めたんじゃない!
というセリフが口から飛び出しそうになる。
松は、なぜお見合いの結果について聞きたがるのか、彼の気持ちが理解できなかった。と、同時に彼の部屋に出入りしている女の存在を思い出した。
あの赤い口紅。
彼には、彼の家に堂々と遊びに通う女、復縁を願う元の妻が存在するのだ。
松は、彼にとって、自分はすっかり遠い過去の存在になってしまっていると思っていた。
「でも、徳永さん、したほうがいいって言ったじゃないですか」
松は、訳が分からなくなって苛々した口調で言った。
「親の勧めなんだから、そうした方がいいってわたしに言ったでしょ?」
『だから?』
徳永さんが不機嫌度全開にして、低い声で言う。
『勧めたんだから、結果を知りたく思うのは当然だろ?』
は!?
ますます訳が分からない。
「ど、どこが当然なんですか?なんで、徳永さんにわたしのお見合いの結果を事後報告しなくちゃならないんですか?」
松も負けじと不機嫌な声をあげる。
『知りたくないわけないだろ!?』
まるで、なんでそんなこと聞くんだ?と言いたげな、怒鳴るような、叫ぶような声が、海の向こうから伝えられる。
『オレが、キミの見合いがどうだったか知りたくないわけないだろう!!』
ものすごく怒っているらしいが、彼の怒りの原因がどこにあるか理解できない松は、少しも恐怖を感じることができないばかりか、キレられていることに、更に腹を立てた。
好きな人がいるのに強引にお見合いをさせられる上、その好きな人から、親の勧めなのだからとそのお見合いを勧められ、
「電話もメールもできない」と言い渡され、
挙句、なんで、その好きな人から
「お見合いの結果を知りたく思うのは当然」
と言われなくちゃならないのか、全く理解できなかった。
「な、な、なんで知りたくないわけないんですか?」
松は、一生懸命冷静さを取り戻そうとしたが、唇はワナワナと震え、刺々しい声は少しも和らぐことはなかった。
「徳永さんだって、そっちで仲良くしている女の人がいるくせに、なんでわたしにそんなに構おうとするんですか!」
『女?』
物凄く意外そうな、それでいて馬鹿にしたような低い声が聞こえてくる。
『誰に女がいるって?』
しまった。
ものすごく機嫌の悪い声。
一緒に居ている時に、こんなに不機嫌にさせてしまったことはただの一度もなかった。
ヤバイ。
地雷を踏んだかも。
女の事は口にするつもりはなかったのだ。つい口を滑らしてしまったのだが、後悔しても後の祭りだった。
「徳永さんにはニューヨークに親しくしている女の人がいるんでしょ」
言ってしまった手前、引っ込みがつかず、なんとか言葉を繋げるが、自分でも声が震えていることが分かる。
「徳永さんの住んでいる所に遊びに来てくれるような仲のいい女の人がいるそうじゃないですか。な、なんでそんな人に、わたしのお見合いのことを報告をしなくっちゃならないんですか」
『誰がそんなこと言ったんだ』
と、徳永さんは言った。
『オレに女がいるだなんて、誰が言ったと言うんだ』
松は、カイ君を目の前にして犯人はこの人です、と、すぐに言うことができなかった。
しばらくして、
『…ヨシミか』
と、徳永さんは、自分で呟いていた。
また沈黙になった。それがあまりに長いので、松の心は、怒りより心配が募って来た。
もっと普通に話すこともできたはずなのに、なぜ、こんなにも感情的になってしまったのだろう。
電話口からは、徳永さんの息づかいが聞こえてくるので、彼がまだ受話器を持っていることは分かったが、それでも、彼は何も言おうとはしなかった。
今度ばかりは、あまりにも長い間だったので、さすがに向こうの電話代が心配になるぐらいだった。
「あの、徳永さん?」
松はおそるおそる声をかけた。
『別にオレには、キミが想像しているような親しい女がいるわけじゃない』
徳永さんは静かに言った。
『だけど、キミのいう通り、オレは、キミの個人的な事に口を挟める立場ではないかもしれない』
「え?」
突然静かな口調になって告げられたセリフに、松はすぐに反応できなかった。
『ごめん、邪魔したな、それじゃ』
プツリ、と電話が切れた。
松は電話を片手に、呆然として固まってしまった。
「オイ、早く行こうぜ。誰と話していたんだよ」
カイ君が隣で急き立てている。
「徳永さんからよ」
松は、機械的に返事をした。
「へぇー」
カイ君は、面白そうな玩具を見つけた時の子供のように、非常に興味深そうな笑みを浮かべた。
「アイツ、やっと電話してきたんだな。それで何て?」
「お見合いをしたかって」
「それで?」
「延期になって、明日することになっているって答えたの」
「え、明日お見合いすんの?」
他人事のようにカイ君は驚く。
「それで?」
「本当にするのかって聞いてた」
「で、何て答えたの」
「だって、以前に、徳永さんが親の勧めなんだからした方がいいって言っていたじゃないって、そう言ったんだけど」
「アイツ、そんなこと言ってたの?」
カイ君は意外そうに目をまるめた。
「で?」
「そしたら、当たり前だろって、オレが勧めたんだから、オレがキミのお見合いの結果がどうだったか知りたくないわけないだろって」
「おーおー、それで?」
カイ君は唇の端がヒクついている。
「なんで徳永さんに報告しなくちゃならないのって怒ったの。徳永さんにだって、女の人がいるくせに、なんでそんな人に報告しなくちゃならないのかって」
話が一転して修羅場っぽくなってきたのを察したのか、カイ君は相槌を打たずに、ただ耳をそばだてていた。
「そしたら、オレに女がいるだなんて誰が言ったんだって怒りだして」
松はチラとカイ君を垣間見て小さく呟いた。
「徳永さん、ヨシミかって呟いていた」
「なるほどねぇ」
「この話、言っちゃまずかった?」
「いーや、別に口止めされていたわけじゃねぇから、気にするこたねえけど、脇のあまいアイツのことだから、オレがオマエに話すとは思ってもいなかったんだろうな」
カイ君は気安い感じで慰めるように言った。
「で、その後、どうなったの?」
「そしたら」
松は続けた。
「オレには、そんな女はいないけど、キミのいう通り、自分はキミの人生に口を挟める立場にいないかもなって言われて、それで…」
「それで?」
「それじゃって、言われて」
「言われて?」
「電話、切られちゃった…」
カイ君は、コメントしようとひらいて口をあけたまま、固まっていた。
松は、携帯を握りしめながら言った。
「どう思う、もうこれで終わりになっちゃったのかな」
「ビミョーな線だね」
カイ君は目を細めた。
彼は、松の目の前のその辺にある椅子に座って、背を背もたれに持たせてのけぞった。
「しかしアイツも、中途半端だな、わざわざニューヨークから高ぇ電話代かけて、そこまでつっこんでおいて、引き下がったのかよ。理解できねぇ」
松の耳にはカイ君の言葉など入ってこなかった。
ただ、とんでもない失敗をやらかしたような気分で、恐ろしい後悔の念が募ってくるばかりだった。
「あたし」
松は青い顔をして言った。
「今度こそ嫌われたかも」
「なんで?」
「だって、腹が立っちゃってさ、つい、怒鳴りかえしちゃったから。なんてガサツな女なんだろうって、思われたに違いないよ」
「ま、それならそれで、いいんじゃねぇの?諦めもつくってもんよ」
と、彼は、残酷な慰め方をする。
そんな…。
「ま…終わったことを、ウジウジしてても仕方ねェだろ?」
カイ君は立ち上がって松に帰ろうと促した。
「今更後悔しても始まらねェじゃないか、ほら、さっさと帰ろうぜ」
「ねぇ、結局、徳永さんは一体何が言いたかったのかな。このままじゃアタシ、死ぬまで今日の事を後悔することになりそうだよ」
松は椅子から立ち上がって、歩いて行くカイ君をあわてて追い駆けながら言った。
「お前の死に際のことまで知ったこっちゃねぇけどよ、そりゃ、アイツにしてみれば、やっぱりオマエにお見合いして欲しくないって、そう言いたかったんじゃないか?」
「ウソ」
「そうでなきゃ、お前の仕事が終わった頃合いを見計らって、わざわざ早起きして電話かけてくるわけねぇだろ」
「・・・・・・」
「ま、せっかくの努力も水の泡だな。アイツも可哀想に」
まるでわざと聞こえるかのように、と、カイ君は、ぶつぶつと一人で呟いた。
地下鉄の駅までカイ君は、送ってくれたけれど、お前のせいでバイトに遅刻だのとぐちぐちを文句ばかりをつけられた。
家に帰ると、母と祖母が、明日のお見合いに着る着物を座敷に広げて、
「この着物に合せる帯をどっちにする?」
と、おかえりも言わずに、有頂天な様子で聞いてくる。
「どっちでもいいよ…」
着物の帯なんて知るもんか。
こっちは、それどころじゃないんだ。
だいたい誰のせいでこんな目に遭っていると思っているんだ、
と、心の中で文句をつけたところで疲れるだけだった。
どうしよう。
やっぱりお見合いなんてするべきでないのかもしれない。
松はその日、徳永さんのことを考え続けて、一晩中徳永さんの夢を見た。
徳永さんが松の目の前に現れては、微笑みかけてくれたかと思うと、ふっと背中を向けていなくなってしまう、そんな夢だった。
朝、目を覚ますと、猛烈なダルさに見舞われた。身体の節々が痛い。布団から出て立ち上がろうとするとひどい眩暈を感じた。これは普通じゃない。熱を測ると39度あった。やっぱり、風邪か。
医者に行くと、インフルエンザと告げられた。ここのところの無理がたたって体にキタところに悪性のウィルスに憑りつかれてしまったようだ。昨日徳永さんから「身体に気を付けろよ」と言われたばかりだというのに、この有様かと思うと本当に嫌になる。
医師からは、一週間は外に出ないようにと申し渡された。
お見合いは再び延期。
月曜になっても熱が下がりきらないので会社に連絡すると、乙部さんが電話にでた。
『インフルエンザなら治るまで自宅療養するように、完治してから出社するようにって、トクミツさんが言ってたよ』
「すいません、迷惑かけて」
と言うと、
『ここの所、しんどそうにしていたから、大丈夫かなって思っていたの。これを機に、ゆっくり休んで』
乙部さんが優しい声で労わるように言ってくれる。
『あ、それと、瀬名さんが資料ありがとうって言っていたよ。昨夜完成して、机の上に置いて行ってくれたやつ。間に合って助かったってさ』
「そうですか」
『だから、もう安心してゆっくり養生してね』
家の人は、松の前では何も言わなかったけれど、せっかくのお見合いが再び延期になって、お見合い事体が白紙にされてしまうのではと、やきもきしているようだった。
松は布団の中で、熱に浮かされ、熱と喉の痛みにうなされながら、夢うつつに、徳永さんは本当に、松に、お見合いをしてほしくないと言いたかったのだろうかと、そのことばかり考えていた。
<6.友達の門出> へ、つづく。