58.騒動③
58.騒動③
どういうことなんだろ。徳永さんは私に本当は仕事を辞めてほしくないと思っているのだろうか。
昼間に天野さんに言われた『まさか、仕事を辞めたりしないよね?』という言葉がうっすらと浮かんでくる。
「徳永さん」
と、松は彼の頭の上から声をかけた。
「お腹すきませんか」
「…空いた」
「待っててください、何か作りますから」
松はリビングに彼を残してキッチンへとんでゆき、冷蔵庫をあけてみたが中はほぼ空だった。
もとから炊事下手だったが、ここ最近は徳永家にお邪魔することが多くなって殆ど買い物にいっていなかったのだ。
仕方なくストックの材料から何か作れないかとごそごそと漁ってみるが、ろくなものが入ってない。
仕方なくあるものでなんとかして出来上がった物をリビングにもっていくと、お椀から立ち上る湯気に、徳永さんは
「うわ、美味しそ」
と言って、嬉しそうに頬をほころばせた。
目の前に置かれた料理はとても料理と呼べるものでなく、お土産にいただいた乾麺にドライパックの野菜の刻みを一緒にいれてスープの素と共に煮込んだ、いわゆる料理音痴な松でも作れる単なるインスタント食品である。
「こんな簡単なものしかなくてすみません」
「そんな事ないよ、すごく美味い」
徳永さんは美味しそうに麺をすすっている。
お世辞を言っているようには見えないのでとりあえずホッとした。
実はこれ、鈴木さんがこの前東北に出張に行ったときにお土産で頂いたんだよね。
この辺では簡単に手に入らないレアもので、インスタント製品の中でもちょっと値の張るお品らしい。
徳永さんの食事にがっついている姿をみて、口に合ってよかったと安心する傍ら、お腹を空かせた彼に即席麺しか用意できない自分がものすごくもどかしく感じた。
「あの…」
松は切り出した。
「斎賀さんのお気持ちは有難いですけど、わたしは仕事をどうしても続けたいとは思っていませんよ?」
徳永さんは丼鉢から顔をあげた。
「ん?」
「わたし、料理とか家事とか得意じゃないし、いざ仕事と両立しようと思ってもすぐには無理だと思うんですよね。だからいっそ、家庭に入って家事を覚えるのも悪くないかなって」
徳永さんは以前、できる方がやればいいって言ってくれていたが、松が真面目に家事に取り組まない限り、このままでは起用になんでもこなしてしまう徳永さんにおんぶにだっこになってしまうのではと危惧していた。
「それはよく分かっているよ」
と、徳永さんは言った。
「でも、そんな風に考えるのはオレがニューヨークに行かなきゃならないからだろ?もし日本に留まることになれば、仕事はやめないだろ?両立しようと頑張るだろ?」
「それはそうですが…」
再び沈黙が訪れる。
松も食べ物に口をつけた。
お土産の東北の乾麺はここらでは味わえない上品なまろやかさがあった。
美味しいと思う。
だけど徳永さんのお家で馳走になる彼や彼の弟が作る手料理には到底かなうものではない。
松はそれが悔しかった。
さして取り柄のない自分なのに、家事も料理もろくにできないだなんて。
しかし一方で、確かに仕事を辞めるのは惜しいという気持ちがあるのも事実だった。
「確かに今の仕事は好きですし、続けられればいいなあとは思っていますけど。でもわたしの仕事は他の人でもできますし、わたしが居なくなっても迷惑はかかからないと思うんですよね」
本来なら松の結婚は、相手が社内の人間であってもなくても、寿退社と共に祝われるのが常なる道筋であった。
親会社に来る前、子会社で働いていた時も社内の状況は今と同じで、一般職の女子達は結婚が決まるとそそくさと寿退社してゆき、結婚後も留まり続ける方が珍しい文化がある。
結婚後、辞めずに長く続けようとすると、男性上司から『辞めて家庭に入ったら』と、やんわりと勧められることもしばしばだ。
彼らがなぜそのように言うのか、松たち女性陣もよくわかっていた。
結婚して家庭に入ってしまう女子達の優先順位は夫との家庭が一番になって、職場は二の次になってしまう。
使いにくく経費のかかる(給料の高い)年配の女子社員に居すわられるより、身軽で無知でシゴき甲斐のある若い新卒を雇う方が余程勝手がよい、というわけなのだろう。
「そういう意味では、斎賀さんがわたしの仕事の事に気を配ってくださるのは、嬉しいですけど」
「じゃあ、何だ?ショウは若い新卒の女の子達に職を譲るために、仕事を辞めてもいいと思っているのか」
徳永さんは言った。
「いえ、決してそういう訳じゃありません。むしろ、なんで結婚したからってやめさせなければならないんだって、腹を立てていた時期もありました。けど、逆の立場になれば、それも一理あるなあって思うようになって。結婚して養ってくれる人がいるのに、どうして仕事続けるんだって、何で仕事を譲ってくれないんだって、若い人の目からそう見られて当然だよなあって。彼女たちだって仕事も出会いも欲しいでしょうし」
そういう意味では、我々の仕事は椅子取りゲームみたいなものだ。
低賃金で雇われる元気な若者が優先的に座れる椅子取りゲーム。
誰でもできる仕事ゆえに、既婚者は体力的に有利な彼女達にいやがおうにも押し出されていく。
まあ全てではなく例外もあるが。
親一人子一人とか、病気の両親を扶養しなければならないとか、ひとりで一家の家計を担っているような場合は話は違う。
会社とて鬼ではない。
彼女らに向かって、既婚組の女性陣とは扱いは別で、おいそれと辞めろと言わないものらしい。
徳永さんは静かに松の話に耳を傾けていたが、
「ふぅん」
とだけ言って、両手で丼を持ち上げて汁をごくごくと飲み干した。
「でも、徳永さんは私達とは立場が違うじゃないですか」
松は尚も言った。
「斎賀さんは徳永さんしかできない仕事だから、徳永さんにニューヨークに戻ってほしいって言っているんでしょ?」
「まあね」
そう言って徳永さんは箸をおいた。
「でも、それはショウの仕事だって同じことなんだよ。ショウのしている仕事は替えが効くかもしれないが、ショウの存在は誰にもどこにも替えはないんだって思わないの?確かに派遣でも新卒でも、松と同じ仕事はこなせるかもしれない。だけど質の高さは決して同じというわけではないだろう」
それは的を得た意見だった。
派遣さんでも新卒でも、今の仕事をキチンと教えれば誰だってこなせると思う。だけど、松のこだわりやアイディアで築いたやり方やシステムを松は誇りに思っていた。
「そうですけど。そういう意味では辞めるのは惜しいという気持ちはありますけど」
そう言いながらも松は言い淀んだ。
たとえそうであったとしても、そんな理由で仕事を優先するわけにはいかない。
松の仕事より徳永さんにかけられている期待の方が大きいのは一目瞭然だ。
どこからどう考えても、諦めるべきは松の方であろう。
いくら仕事に未練があるとはいえ、やはり松はこの仕事に留まりたいとは言えなかった。
ここで辞めなければ、彼に付いて行く道を選ばなければ、また一緒にいられなくなってしまうではないか。
「ごめん」
と、彼は突然言った。
「は、何がですか?」
「本当は昨日この話をするべきだった。メールもくれていたのに返事もしなくてすまなかった。斎賀さんとあれこれ話す事があって」
「斎賀さん怒っていませんでしたか?」
「怒る、なんで?」
「だって、昨日は約束していたのに会食に行けなかったし…」
「いや別に、怒ってはいなかったよ。むしろこっちの事情でショウに仕事を辞めさせるようなことになって悪かったよなって言っていた」
松にはそれが驚きだった。
経費削減の名目で若い連中でさえバッサバッサとリストラしてゆくご時世だというのに、斎賀さんは松が職を辞する事を悪いことのように思ってくれているらしい。なんだかこちらの方が恐縮してしまう。
「斎賀さんに会うのはいつでもできるんだから、昨日の事はそんなに気にすることはないよ」
と、徳永さんは優しく言った。
「はい…」
「気分は晴れたか?まだ何か抱えている事があるのなら、今の内にいっておけ」
そう言って、徳永さんはずいと松に顔を近づけた。
「抱え事があるように見えますか?」
「大いに見える。さっきドアの前で会ったとき、幽霊が歩いているのかと思うぐらい暗かった」
幽霊って…まあ、落ち込んでいたのは本当だけど。
「抱え事っていうか。なんか落ち込むことが多すぎて」
何を悩んでいるのかさえ忘れてしまった。
「ひとつは、但馬君の事か?とにかく何であんな事態になったのか教えてくれ」
松はかいつまんで、この前起こった事件の成り行きを説明した。
徳永さんは話の内容が余程気に食わなかったのか受け入れられなかったのか、聞き終わると眉間を指でつまんではぁーっと深いため息をついた。
「怖かっただろう。本当にすまなかった」
と、めちゃくちゃ申し訳なさそうに謝られてしまった。
え、そんな。
だって、徳永さんに一方的に熱をあげていたのは但馬さんの方で徳永さんには関係ないでしょ?
「徳永さんが謝ること?」
「当たり前だろ?上司として部下の管理不行き届きだと言われても仕方がない」
徳永さんはイライラを隠せないのか、立ち上がるとその辺を歩き回り始めた。
腹立たし気に眉間に皺をよせ激しく唇をゆがめながら舌打ちをしている。
その表情は上司と言うより身内を傷つけられて猛烈に激怒している男の顔であった。
なにやらブツブツ物騒な言葉を口にし始めた彼に、松は、今まで見たことのない男の狂暴性を感じた。
目の前に当人がいれば殴りつけんばかりである。
男の人って本気で怒ると普通こんあ風になるものなのだろうか。
それとも(自称)喧嘩っ早い徳永さんだからこんな風になってしまうのだろうか?
ここまで徳永さんに憎まれるなんて(あんなに目あったくせに)何やら但馬さんが気の毒なぐらいだと松はこっそり彼女に同情した。
あの時の怒り狂った鬼の形相の但馬さんは、あまりゾっとしたものではなかったが、チラチラと見え隠れしていたあの感情は松は自分にも覚えがあった。
あの声、あの気持ちの昂らせ方、あれは明らかに恋する女の表情だ。
あれだけは間違いなく彼女の真実であったに違いないと松は確信していた。
「但馬さんは、相当徳永さんの事が相当好きだったんですよ」
松は徳永さんを宥めるように落ち着いた声で背中から呼びかけた。
「徳永さんの事が好きで好きで徳永さんを追いかけて東京までやってきたのに、それがわたしみたいな、チビで平凡で子供で取るに足らない浮かれポンチが徳永さんと結婚するって耳にして、我慢ができなくなったんじゃないかと」
松は但馬さんの発した台詞を思い出しながら説明したのだが、当の徳永さんは最初の方は真面目に耳を傾けていたものの最後はガックリと肩を落として、再びハァと深いため息をついた。
「ショウは相変わらず、自分の事が分かっていないみたいだね」
「何がですか」
「自分の長所には無頓着なのに、なんで自分を貶める言葉はスラスラとでてくるかな」
自分で貶めると言われても、但馬さんにそう言われたのは事実だし。
「それにどうして、そんな事があったってすぐにオレに知らせなかったんだ?昼休みだったら、電話ぐらいすぐにできただろうに」
「え、だって、但馬さんって縁故入社の人でしょ?どこぞのお偉いさんの耳に入って、後で徳永さんの迷惑になりはしないかと」
むしろ内緒にしておこうと思っていたぐらいだ。
「なんで俺の迷惑になるんだ。暴力をふるったのは向こうなのに?」
しかも天野に助けられるなんてと、徳永さんはかなり不服な様子だった。
そうは言っても、但馬さんは最初から松の事が気に入らないようで、何かにつけて攻撃的にイチャモンばかりをつけたがった。
松が子会社からきている長期出張者にも関わらず、徳永さんから英語の個人教授を受けていたのを見て一層怒りを募らせたのだろう。
そんな彼女の神経をこれ以上逆なでしたくなかった。
これ以上話を大きくして、問題をややこしくしたくないという気持ちもあったのだ。が、
「黙っているとよけいにややこしくなる事もある」
と、彼はぴしゃりと断じた。
「あいつにはキチンと釘を刺しておくよ。言い合うだけならまだしも、靴の踵で殴りつけようとするなんて見逃せるわけがない。こういうことは、これは松ひとりの問題じゃない。そんな人間をおいそれと社内に放置するわけにいかないんだよ」
「そうですよね、すみません」
松はシュンとなった。
よかれと思って判断したつもりだったんだけど、逆だったんだな。
「以後気を付けます」
「それにしても一言も相談がなかったのはショックだったな」
と、徳永さんは自嘲的にクっと目じりを寄せてボソっと呟いた。
「今日は一日オフィスにいなかったしこんな事言えた義理じゃないけど、電話ができなくともメールぐらいできたはずだろ?」
「あーそうですね。時間があったら話そうと思っていたんですけど。徳永さん怒ってるみたいだったからなんとなく言いづらくて」
「怒ってた?」
「今朝怒っていたでしょ?システムの事で、私、ヘマしちゃったんで」
「ああ、あれはショウが但馬君に殴られたって天野から直接電話で聞かされて頭にきていたんだよ。なんでこんな重大な事を本人じゃなくてあの男から聞かされるんだって。相談してもらえないっていうのも、頼りがいのない男だと思われているようで情けない気持ちになるもんなんだよ」
え。情けない気持ちにさせてしまっていただなんて知らなった。
そんなつもりは微塵もなかったのに。
昨日は色々とあって落ち込む事に忙しくて単に電話する暇がなかっただけの話で。
「本当に、色々すみませんでした」
今度は松の方が謝った。
「色々?」
「ええと、メールできなかったことも、システムの穴を見逃してしまった事も。わたしがちゃんと派遣さんをフォローしておけば、こんな事にもならなかったし、徳永さんが困ることにもならなかっただろうし」
松が何を謝っているのか理解したのか徳永さんは眉を晴らして気軽に言った。
「ああ、あんなの別にどうってことないよ。計上が一か月遅れただけの話だろ」
「でも予算の下方修正しなくちゃならないって…」
徳永さん、困るんじゃないの?
「まあ少しはイジらないといけなくなるが、大した数字じゃない。気にするほどの事じゃないよ」
「ほんと?」
本当に大したことじゃなかったのかな。
あの時はあんなに怒っていたのに。
「それならいいんですけど。でも海外店に謝らなければならなかったんでしょ?」
「まあね。確かにそりゃミスはない方がいいけど、今回の事は不可抗力だろ?確かにチェックをちゃんとしておけば見過ごさなかったかもしれないが、起こってしまったものは仕方がないじゃないか」
それはそうだけど、徳永さんは相手がわたしだから敢えて優しくいってくれているんじゃないのかな。
こんな風に仕方がないで済ましてしまってはよくないような気がする。
松は、まだ自分のしでかしたことにくよくよしていた。
但馬さんが松を嫌っていなければ、いいや、松を嫌っている但馬さんに変な先入観を持たずにもっと派遣さんに親身になっていれば、松はあの時と違った行動をとっていたに違いない。
問題が起こる前に、システムの穴を発見できたかもしれない。
まあ、徳永さんが言う通り、今更言っても仕方のない事だけど。
「ほら、また落ち込んだ顔になっている」
「えっ」
「もうくよくよすんな」
松は慌ててて表情を整えた。
マズい、徳永さんの前でまた暗くなってしまった。
「すみません」
松はうるっと涙が出そうになっている顔を慌てて背けて食器を片づけるふりをした。
「徳永さんに色々気を使わせちゃって…ほんとすみません」
「謝らなくっていいよ。この話はもう終わりにしよう」
本当に終わりにしたそうな顔をしていたので、松は口をつぐむことにした。
話をネガティブな方向に繰り返しても生産性がないばかりか、不愉快になるだけだ。
松は食べ終わった食器を持ってキッチンに持って行き、急いで洗い物をした。食事はあれだけで足りただろうか。
本当は疲れた彼にもうすこしキチンとしたものを食べてもらいたいんだけど店屋物を取るには遅すぎるしな。
それに今夜は徳永さん、もう家に帰らないといけない時間じゃないだろうかと、時計を気にしながらリビングに戻ってくると、徳永さんは背広のジャケットを脱いだ状態で松のリビングの床に座り込んでベッドを背にして眠ってしまっていた。
かがみこむとクークーと可愛らしい寝息が聞こえてくる。
松は慌てて予備の毛布を取り出して彼の上にかけた。
オフィスで見慣れた厳しい顔つきから想像もできない無防備なこの表情。
お疲れなのかな。連日斎賀さんおお供で外出ばっかりだったって言っていたし。
早く帰って家のベッドでちゃんと寝た方がいいんじゃないかとと思いつつも、可愛らしい寝顔を見ていたくて、もっとここに居てほしくて、なかなか起こす事ができなかった。
だがさすがに十分以上も眠り続けられるとその体勢でいるのは辛いのではないか、せめて身体を横にした方がいいのではないかと気になってきた。
が、横になるとはいっても、ホットカーペットを敷いているとはいえ、絨毯のない床の上と同じぐらい固い床の上に寝かすわけにはいかないし…どうしたものかと、あれこれ考えてとりあえず枕でも当てがおうと頭を支えた拍子に彼が目を覚ましてしまった。
「あれ?オレ…寝てた?」
「あ、起こしてしまいましたか?」
掛けられた毛布に驚いたのか徳永さんは両目をぱちぱちさせてキョロキョロしていた。
「頭ぐらぐらしていたから寝ずらいだろうと思って」
と言って松は、クッションを頭の後ろに差し込んだ。
「いや、オレどのぐらい寝てた?今何時だ?」
徳永さんは慌てて腕時計を見て目を瞬かせた。
今日は平日。明日も会社がある。やっぱり早く戻った方がいいよね。
「ごめんなさい、起こさなくて。もう帰りますよね?」
松は徳永さんの上着を取って彼の肩にかけた。
もうちょっと一緒にいたかったのに、こういう時間はすぐに過ぎてしまうもんだ。
「もう少し早く起こせばよかったですよね」
ところが彼は松の顔に横切った寂し気な表情に気が付いたのか、
「…オレ、今日は帰らないほうがいい?」
と、言ったのだった。
その言葉に松の心臓はドキリと高鳴った。
え、ここに居てくれるの?
「え。でも、明日も会社だし、着替えとか持ってきてないでしょ?」
「下着の替えぐらい、近くのコンビニで買えるだろ」
シャツもスーツも予備が会社のロッカーに一着ぐらい入れてあるから、一日ぐらい大丈夫だよ、と彼は言った。
「で、でも…」
「でも?」
「だって、この家、予備の布団がないし」
「なくても大丈夫だろ、一緒に寝れば」
「へ?」
「前にもここのベッドで一緒に寝たことがあっただろう」
ずいぶん昔の話のように聞こえるが、彼は去年の暮の話をしているのだろう。
酔っぱらった松に帰るなとせがまれて彼は松のベッドにもぐりこんで一夜を過ごしたことがあった。
「あ、…そうでしたね」
と、松は答えたが無意識に頬が真っ赤になるのを止められなかった。
「変なヤツだな。別に一緒に夜を過ごすのは初めてじゃないのに、何を恥ずかしがっている」
彼はあぐらをかいた膝に肩肘をつけてクスクス笑っている。
「そ、そりゃそうですけど…!」
この前のハジメテを捧げた夜の事を思い出して松はもっと真っ赤になった。
あー恥ずかしい。
本当の事だけど面と向かって言われるとやっぱり恥ずかしい。
「何か面白い事を想像しているなら、もちろんこっちは喜んで御期待に応えるけど」
彼は興味深そうに松の表情を見守っている。
「別に面白い想像なんてしていませんっ」
顔をを向けて猛烈に否定するが本心はバレバレだ。
「本当か?」
徳永さんは疑わし気に片眉を吊り上げた。
「ほ、ほ、ほ、本当ですっ」
その言葉に徳永さんはブッと吹き出すと
「相変わらず思っている事が顔にでるよな、ショウは」
と、言った。
「別に無理することも恥ずかしがる必要もないだろ今更。さ。そうと決まったら買い物に行こうか」
そんなわけで、松は今コンビニへの道すがら徳永さんと手をつないで歩いているところである。
いつもは遠くに感じられる店までの道であるが、徳永さんとふたりで歩くとあっという間だった。
繋がれた手から暖かな体温が伝わってきて、何ともこそばゆい。
結婚すれば、こういった事が日常になるのかと思うと一層くすぐったい。
果たして今の自分より幸せな女が世の中にいるだろうかと、改めてわが身の幸福をかみしめながら、彼を幸せにしたい、こんなにも自分を暖めてくれれる彼に尽くしたいと言う気持ちがますます高く湧きおこって、やはり自分は何をなげうってでも、彼とともに行くべきなのだ、という気持ちが強まっていくのだった。
コンビニで着替えや明日の朝食の他に“色々”と必要なものを買って、早々に帰途に就いた。
手は常に繋がれたままで、心も身体もぽかぽかと暖かった。
徳永さんは鼻歌混じりに他愛のないおしゃべりを続け、松は軽く相槌をうつだけであるが、それはそれで楽しかった。
遠慮のいらない気の置けない人と一緒に居ると言う事は、何と心地よいことなのだろう。
視界に収めるだけでも癒される彼の美貌にうっとりと心を奪われながら、松はなぜ自分のような平凡でとるに足らない人間が彼のような素晴らしい人と“気が合う”と感じるのか、次元の違う人間と感じないのか、不思議に感じた。
但馬さんは松のことを、平凡でとるに足らない浮かれポンチだと形容したけど、侮辱ととれるその言葉もあながち間違っていないと松は納得していた。
外見も学歴も能力も月並みで突出した特技など何も持ち合わせていない自分と徳永さんとの間に、どこをどう探したって共通点など見つからない。
なんで、徳永さんみたいな素敵で優しくて優秀な彼が自分みたいな人間を選んでくれたのか、妻にする気になったのか未だに分からなかった。
徳永さんの周りに群がっていたあまたの美貌の才媛達―――たとえば彼の元妻と比較しても(彼女とは会ったこともないので外見の比較はできないが経歴だけ抜き取っても)松の方が格段と落ちるは誰の目から見ても明らかであった。
徳永さんは松は自分の長所を全く分かっていないと言うが、じゃあその長所ってどんなところ?と松はく首をひねってしまう。
思い当たるフシは、せいぜい忘れ物を届ける能力というか気合ぐらいで、あれぐらいの事など誰にもできそうだし、ほかに大した取り柄は思いつかない。
だからなおさら今回のようなヘマを起こすと、自分はダメな人間だとはげしく落ち込んでしまうのだ。
仕事のロクにできない無能な人間だと自覚すればするほど、彼との格の差をまざまざと思い知らされてしまうのだった。
徳永さんは自分だって欠点はある、と言う。
求婚した次の瞬間にあれはなかった事にしてくれと、サッサと逃げ出したこともあるし、反対されていると分かっていて彼女の親に強引に遭いに行ったりと、こんな好き勝手する男で本当によかったかと、徳永さんは真面目に言う。
だけどこれは松側の問題(正確には松の親の問題)であって彼に問題があるわけではない。
やはりどんなに差し引いても、徳永さんと釣り合うにはまだまだ松は努力するべきであって(努力しても大して差は縮まらないだろうが)少なくとも彼の進むべき道を邪魔するべきでないと松は思っていた。
「明日は斎賀さんはオフィスに来る予定になっているし、昼休みには時間を取れると思う。その時に挨拶をしようか」
と、彼は言った。
「えっ?」
「もちろん、仕事が入れば無理することないけど、タイミングが合えば三人で一緒にランチを取ろう」
松はコクンと頷いた。
徳永さんは嬉しそうに微笑み、繋いだ手を嬉しそうに強く握りしめた。
いよいよ斎賀さんに紹介されるのかと思うと、結婚相手の両親に挨拶に行くような、背筋がシャンと伸びるような引き締まった気持にになった。
雲ひとつない明るい夜で、頭上には無数の星が瞬いていた。
近くにいるとどきどきと高鳴っている心臓の鼓動が彼の耳に聞こえそうだった。
松は、徳永さんとぴったりと寄り添って肩に頭を持たせた。
徳永さんの身体は、心と同じぐらい大きくて広い。
彼に護られていれば安心で幸せに違いないのに、なぜ心がこんなに不安に揺れるのであろう。
徳永さんは、松の身体をギュッと引き寄せて温めてくれたけれど、不安は晴れるどころかくすぶり続けて決して消えることはなかった。
翌朝一番に会社に行くと、松は、早朝会議に出席していて早くから出社していたであろう佐伯部長から
「ちょっと話したい事があるんだけど」
と、別室に呼び出された。
朝一にサーバがダウンしてしまい、急いで立ち上げなおしをしようとメインサーバの横にしゃがみこもうとしていた松は、
「もうちょっと待ってもらえますか?」
と、言おうとしたところ
「サーバの立ち上げ直しなら、南田さんにやってもらって」
と、佐伯部長は席についたばかりの南田さんを呼びよせた。
南田さんは何かあったのだろうか、悪い話でも聞いたかのように顔をしかめていたが、佐伯部長から呼ばれてるとハッと我に返ったように表情を戻し、小走りにこちらに走ってきた。
「話はすぐに済むから、さ、入って」
なんだろう、急ぎの用事なのかな。
陽気な佐伯部長には珍しく無口で表情が固かった。
松は南田さんにスイッチの入れ直しを頼むと、佐伯部長と狭い打ち合わせ室に入り、設えられた机を挟んで向かい合って着席した。
佐伯部長は冬の間のお気に入りのフラノのブルーブラックのスーツではなく、明るいグレーの襟なしのツイードスーツに若草色のブラウスを合わせていた。
彼女の装いを見て、ああ春なんだな、と季節の移り変わりを感じた。
「早速で悪いのだけど、花家さんの長期出張の件で話があるの」
彼女の口ぶりからなんとなく嫌な予感を感じた。
「花家さんは子会社から親会社へ一年間長期出張の形で今年の秋まで、このシステム課で働いてもらう予定になっていたのだけど」
「はい」
「早く切り上げて、あなたのここでの仕事は今月の二月いっぱいまでということになってしまったの」
「え?」
松は初め何を言われているのか分からなかった。
二月いっぱいまで?
二月なんてもうすぐ終わりじゃない。
松の頭は真っ白になった。
「どういう…ことでしょうか」
「この春から新卒の新入社員が来ることになったのよ」
「新入社員?」
「…もとは予定していなかったのだけど、急遽システム課に入ることになってね。新しい社員は大学が春休みになって卒業式までの間、つまり三月のあたまから会社に来て慣れてもらうために早めに部署に入ってもらって業務をやってもらうことになっているの。彼女のために空きがひとつ必要になってね。それで花家さんに抜けてもらうしか方法がなくて。だから予定が早まって悪いのだけど、花家さんには二月いっぱいで終わりと言う事になってしまったのよ」
松はばかみたいに口をぽかんとあけた。
いったい何が起こっているのだろう?
「二月…いっぱいですか?二月って、もうすぐ終わりですけが」
松は近くの壁に貼り付けてあるカレンダーにちらを目をやる。
ただでさえ二月は短いというのに、二月いっぱい?
「幸い、花家さんの業務は南田さんと重なっていているでしょう?南田さんなら数日で引き継ぎをすることができると思うのだけど」
「南田さんですか…まあ、それはできなくもないですが」
もちろん松がひとりで請け負って専門的にやっている仕事もあるが基本的に松が今している仕事は南田さんがやっていたことなので、彼女に仕事を返すだけなのでそう問題はない。が。
「あの…」
「突然の事でびっくりしたでしょうね」
佐伯部長は同情を込めて言った。
「花家さんは契約社員を目指していてたのは知っているわ。社内試験も私が勧めたしね」
「あ、はい」
「受験できなくなってしまって、本当に申し訳ないけど、本当に急に決まってしまったことで、私の方でもどうしようにもなかったの」
“急に決まってしまったどうしようにもなかった人事”というフレーズをやたらと主張したがっているように聞こえた。
松は一瞬で理解した。
縁故入社の新入社員を迎え入れることにしたのだろうとピンときた。
こういった急で強引な人事は親会社に限らず松の所属する子会社でも同じような現象がしばしば起こったことがある。
「そうですか…わかりました」
松は、ようやく返事を口にした。
決まってしまったことなので、松に反論の余地はない。
それに松は社内試験どころか仕事を辞めて、彼とともにニューヨークに行くつもりであったのだし、ショックと言えばショックだが、契約社員への諦めはとっくの昔についていた。
佐伯部長はこの件は松の所属する子会社に今日中に通知する予定にしているから、そのうち連絡が入ると思うと、今後の事務的な予定をてきぱきと伝えた。
打ち合わせ室から出ると、南田さんが代わりに部屋に呼ばれた。
おそらく今の話をするためにであろう。
五分少々で佐伯部長と南田さんは部屋から出てきた。
松はふたりの姿をぼんやりと眺めていた。
景色が昨日と違って見える。
あと数日。
ここに居られるのもあと数日なのだ。
昨日の夜まで徳永さんと仕事を続けるか辞めるかで話しをしていたのに、なんとも妙な展開になってしまったものだ。
「花家ちゃん」
席にもどってくると南田さんは思いっきり低い声で松を呼び寄せた。
「ち、ちょっとこっち来てくれる?話があるの」
南田さんは険しい顔つきでちょっと廊下まででくんないと松の袖口を引っ張った。
「な、なんでしょう?」
さっきの話かな?
もう業務が始まる時間なのに席に着いていないとマズのではないかな。
「いいから!ものすごく大事な話なの。ここじゃ話せないから」
南田さんは強引に松を人気のない廊下の端まで引っ張っていった。
「佐伯部長から聞いたでしょう?」
南田さんは言った。
「はい。わたし今年の二月までって言われました」
「何でか知っている?」
「え?新入社員が入ってくるからって伺いましたけど」
「わたしも佐伯部長からそう聞いた」
南田さんは鼻息を荒らげた。
「ち、違うんですか?」
なんかものすごく怒っている?南田さん。
「いえ、佐伯部長がそういうには本当だと思う。私が言いたいのは何で突然こんな時期に新入社員がウチの部署に急遽入ってくることになったかって事。花家ちゃん知ってる?」
「え、そこまでは流石に。南田さん、知っているんですか?」
「きっと強引に新入社員を引き受けさせられたのよ、佐伯部長」
「何でですか」
「不祥事があったから」
「え、どういうことですか」
不祥事って何?
「あたし、花家ちゃんの噂を聞いたのよ。今朝」
「噂?」
ドキンと胸がうずいた。どんな噂?
「花家ちゃんがシステムの欠陥を利用して、計上したデータを取り消したっていう噂よ!」
南田さんが憤懣やるかたない表情でものすごく怒った声を出した。
「今朝ね、ここに来る前に途中で先輩に会ってその話を聞いたの。システム課にいる花家っていう子会社から来た子が、データを操作して計上をゴマかしたっていう話を聞いたんだけど本当なのって」
「わ、わたし、そ…そんな事、していません!絶対に!!!」
松は飛び上がらんばかりに驚き、ものすごい勢いで否定した。
「ありえません。わたし、システムに穴があることすら知らなかったんですから」
「もちろんよ!」
南田さんも同意した。
「その後、佐伯部長からさっき花家さんが突然二月いっぱいまでって聞かされて、もう驚いて。あの噂と関係があるのかと思ってさ、すぐにデータの異常の件で変な噂がたっていますけど、そのせいですか、そんなの嘘にきまっていますって、すぐに否定したの。花家さんがそんな事するわけないって」
ち、ちょっと待ってよ。じゃ、不祥事を起こしたのはわたしということになっているってこと?
「佐伯部長は、それはきっとただの噂でしょう、わたしもその話は聞いているし、信じていないけどっておっしゃったんだけどね」
「けど?」
「だけど、今回の人事は上の方で決まってしまった事だから翻せないのよ、って仰って」
松は顔から血の気が引くのを感じた。
結局わたしが不正を起こしたと結論づけられたのだろうか?
クビになったって、いうことなのだろうか?
まさかこんな事になるなんて。
「花家ちゃん、そんな噂、立てられる覚えある?心当たりない?こんな事言いたくないけど、わたしは但馬さんじゃないのかって思うんだけど」
南田さんは声を低めた。
「データ入力の件で彼女、花家ちゃんに怒っていたみたいだったし」
それよりなにより協力な後ろ盾を持っていそうだし、と彼女は付け加えた。
松は答えられなかった。
果たして但馬さんが松が不正をしたという噂を流したのか?
松はこの前、靴の踵で殴られそうになった時に、彼女が意味深な捨て台詞を残して立ち去ったときの事を思い出した。
「だって、あの人何かと花家ちゃんにからんでいたし、この前のシステムの異常の件でも花家ちゃんに逆切れしていたし。それに」
「それに?」
「それに、このタイミングで彼女異動になるんですって、不自然だと思わない?」
「異動って、但馬さんがですか?」
「そう、それも今朝、先輩に聞いたの。ロンドン支社の現地社員に特別枠で席を用意してもらうらしいわ」
ロンドン?
「もとはあの人ニューヨークの現地社員だったのよ?それを強引に東京に席を用意してもらって、次はロンドンだなんて、普通じゃなりえないわよ。全く変な話よね!いったい全体どうなっているんだか―――あ、どうしたの、顔真っ青よ?」
松は、急激に頭がぐらぐらするのをを感じて、壁に寄り掛かって身体を支えた。
どうしたんだろう…身体が急に寒くなってきて、それに、なんだか立っていられない…
「は…花家ちゃん!」
彼女が叫んだ次の瞬間、黒い星が何度も瞬くと同時に地面がせりあがってきてかと思うと、松は冷たい廊下に倒れ込んでいた。
ひどい眩暈がするし、体はブルブルと震えるし、どうしちゃったの、わたし。
「ご、ごめん。急にこんな話をして、気分わるいよね?」
慌てた南田さんの声が遠くの方で聞こえるが、だんだんと遠のいていく。
「花家ちゃん、しっかりして!」
と、南田さんはつづけさまに叫ぶ。
「…と、徳永さん、花家ちゃんが…!」
通りかかったのか、それとも彼女が連れてきたのか、徳永さんが何やら大きな声で叫んでいたのだけは聞こえてきたが、それに答える元気もなかった。
「花家さんが急に倒れて…」
南田さんが涙声で話をしているのが聞こえる。
「ショウ、ショウ!」
と、松の名前を呼ぶ彼の声がする。
懐かしい匂いと馴染みのある広い腕に抱かれてふわっと身体が軽くなると同時に、松は意識を手放した。
<59.騒動④>へ、つづく。




