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57.騒動②

57.騒動②



 夜の七時を過ぎてもチェックは一向に終わらなかった。


 鈴木さんはシステム会社の人まで呼び出してあれやこれやと話し込んでいたが、解決の糸口はみつからない。


 南田さんも今日の夜はお稽古事があったはずだが、終業時間をとっくに過ぎているにも関わらず、パソコンと睨み合ってあれこれ調べまわっている。


 七時半近くになって、松はトイレに立つついでに徳永さんに電話をかけて、急な仕事(トラブル)が発生して抜けられず、今夜の会食には出られなくなってしまったという旨を伝えた。



「本当に申し訳ありません。斎賀さんに宜しくお伝えいただけますか」


と、平身低頭に謝るしか言いようがなかったが、

「徳永さんのためなら、いつでも時間は空いている」などと大口をたたいておきながら、このざまとは本当に自分が情けなかった。


 徳永さんは、


「仕事なら仕方ないから、気にせずそちらを事を優先して」と言ってくれたが、その優しさが一層堪えた。


 嘆いたところで事態が改善されるわけがないのだが、こんな大事な日にこんな事が起こるなんて本当に悲しくなってしまう。



「ねえ、但馬さんにもチェックを手伝ってもらえないかな。呼んできてくんない?」


南田さんが頭を掻きむしりながら派遣さんに向かって頼んだ。


「会計表のチェックは但馬さんにだってできるでしょ?そっちは但馬さんに任せてさ、花家さんこっち手伝ってよ」


さすがの彼女も、目が疲れてきたようで、目頭を押さえている。ところが、



「但馬さんはさっき帰ってしまいました…」


と、派遣さんは言いにくそうに返答した。



「はぁ?帰った??!!」


南田さんが白目を剥く。



「はい、今日は用事があるとかで。それに、チェックはわたしの仕事じゃないって言って…」


南田さんはあんぐりと口を開け、疲れ切ったように、椅子に背に仰け反った。


「…全く信じらんない!なんで、但馬さんがさっさと帰るわけ?いったいどういう神経してんの?あの人、計上(インプット)の責任者じゃのいのよ?」


南田さんはイライラを隠さずに毒づいた。



 そういわれても。


 派遣さんも困り顔だ。


 どうやら但馬さんは仕事の匙を投げだしてしまったらしい。


 対外的な人間(コミュニ)関係(ケーション)は最悪でも実務だけは常に完璧で、それだけが彼女の憧れの徳永さんが彼女を評価し、重宝していた唯一の要素だった。それなのにその仕事さえも放りだしてしまうとは。



「あ、あ、あ、あの。この海外店口銭のデータですけど、計上されていなかったら結局、最終的にはどうなるんでしょう?私はどうしたらいいんでしょう?」


但馬さんがいなくなってしまったので、派遣さんは縋るような目で松と南田さんに訴える。



「これって、先月入力するはずだったモノでしょ?とりあえずは、今からでも会計側から手入力するしかないんじゃないの?」


システムが当てにならないなら手入力するしか仕方ないじゃん、と南田さんが答える。



「そういう場合、何か不都合な事が起こったりしますか?」


先月絶対に入力しろと言われていたものを、一か月も遅れて計上したらどうなるか派遣さんは心配しているようだった。



 不都合って言ったらそりゃ、アタシ達にとっちゃシステムに穴があったという事実の方が不都合極まりない事んだけどさ…と、南田さんはブツブツ言っていたが、



「まあ海外事業部としては、予定外の費用(マイナス)を計上するわけだもん。今月の売り上げが予算通りにならないってことじゃない?まあ、営業担当者に報告したほうがいいと思うけど」


と、派遣さんの立場になってそう答えた。



「営業担当者…」


それを聞いて派遣さんは青くなった。



「この件の担当者って誰なんですか」


松が尋ねた。



「徳永さんです」


彼女はシュンとなって小さく呟いた。


「徳永さんからも、先月何度もチェックしておくように言われてたのに。きっとものすごく怒られる…」


彼女は殆ど泣きそうだった。



「それで、但馬さん逃げちゃったんだ」


南田さんはコソっと松に耳打ちした。


「自分の不手際を徳永さんに報告したくなかったんだよ、きっと」



 南田さんは相変わらずな人よね、と肩をすくめたが、松にとっては他人事ではなかった。


 未計上を見逃していたのは松も同じで、“あの時”発見できていれば、こういったトラブルは当然もっと早く解決できていたはずだ。


 この件で徳永さんの評価が下がったり、傷がつくような事になったらどうしよう?





 その日は結局、会計側を全てチェックしてみたが取り消しデータは存在しなかった。


 終わったのが夜の十時近くということもあって、松は帰りに南田さんと派遣さんと一緒に軽く食事を摂って帰宅した。


 途中で『今日は行けなくてすみませんでした』と、徳永さんにメールをしたが、返事は返ってこなかった。



 その日は殆ど眠れなかった。


 自分があまりに至らなくて、情けなくて、落ち込みのあまり胃に穴があきそうだった。


 翌朝、松は始業時間より一時間早く出社した。


 布団にはいっていても眠れないのだから、さっさと会社に行ったほうがいい。


 オフィスに着くと鈴木さんともう一人がすでに到着していて、よくよく見れば、もうひと方は徳永さんだった。


 まる一日会わなかっただけなのに、松は徳永さんを久しぶりに見たような気がした。


 鈴木さんは徳永さんに昨日の出来事を説明しているようだ。



「…とういうことで、この件に関しては計上できていないということなんだ」



「つまり、先月は利益が出すぎていたということか?今から計上するとなると、今月は予定外な損がでるということか。場合によっては下期の業績予想の下方修正を上に報告しなくちゃならなくなるな。それで今後はシステムは改善できるのか?」



徳永さんの、ものすごく真剣な声に松は聞き耳をたてた。



「なんでこんな事態になったのか、理由はまだわからないんだ。修正はこれからになる。だから万全を期すために、今後海外店の計上をするときは、システムが改善される迄、暫く会計側から手入力をしてもらいたいんだよ」



「それはそうするが」


徳永さんは鈴木さんの意見に同意したが納得はいっていないようだった。


海外()事業部()としても海外店(むこう)に、なんで振替が一か月も遅くなったのか報告しなくちゃならないんだよ。システムに異常があったとしてもどうしてこんなに発見が遅くなるんだ?何とも腑に落ちない話だな。うちの入力担当者は何度も計上をチェックしてくれとそっちに頼みに行ったようなのに、してくれなかったそうじゃないか。だいたい画面上入力できているのに、会計側で計上できなかったというのは、明らかにシステム課の落ち度だろ。うちは入力件数が多いんだ。入力するたびに、システムが当てにならないからと言って、一つ一つ会計票をさらって計上できているかどうかチェックするわけにはいかないんだ」



 松は、話を聞いていて身のすくむ思いだった。



「え。ウチにチェックを頼みに来ていたのか?」


その話は初耳だったようで、鈴木さんは驚いていた。


「そうだったのか?花家ちゃん、そんな事があったのか?」


鈴木さんは近くに居た松にこちらに来るよう呼びかけた。



 松は立ち上がって二人の側に行った。



 徳永さんは手元の書類に視線を落としていたが、おそろしく機嫌の悪い顔を松の方に向けた。


 松は、イケメンは不機嫌になると、しごく冷徹と言おうか酷薄と言おうか、なんとも言えない迫力がでるものだな、と変なところに感心していた。



「はい、先月、但馬さんの下で入力を手伝っている派遣さんからチェックしてほしいと頼まれました」



「で、その時はデータは存在していたのか?」



「入力確認票では存在していました。ただ、派遣さんには会計票でもチェックしておいてねって、頼んでおいただけで彼女が会計側でチェックをしていたかどうかまで把握していませんでした」



「じゃ、その時きちんと計上できていたかどうか確認できていなかったんだな?」


鈴木さんは残念そうに言った。


「何で確認してあげなかったんだ?」



 花家ちゃんならそんなの朝飯前でしょ?


 入力の初心者の派遣さんがチェックしてくださいとわざわざ頼みにきているのだから、会計側でちゃんと計上できているか確認してやるぐらいのこと当然じゃないのか、と彼は言いのだろう。



「わたしもその時バタバタしていましたし、彼女には会計側でチェックする方法は前から教えていたので…」


当然彼女はチェックするものだと思っていましたと、松は答えたが自分が自分の都合のいい言い訳をしているのは自分でも分かっていた。



 入力は本来営業課の責任である。


 きちんと計上できているかどうか(会計側にちゃんと反映されているか)確認する作業は本来彼らのの仕事である。


 計上したものが会計上問題のないものかどうかチェックするのが経理課の仕事ではあるが(そういった仕事を松も子会社に居ている時は担当していた)営業課も経理課もシステムが完璧に稼働していてモレなど存在しない事を前提にしているので、日々の計上される膨大な量のデータのチェックを全て行ったりなどしない。


 万が一モレが発生しているのではと疑われるような場合は、システムを製作したシステム課が責任を負うことになる。


 今回の場合も、先月派遣さんが


『チェックしてくれませんか』


と、頼みに来た時に、松が不慣れな彼女を手伝ってデータを探す手伝いをしていればその時システムの不具合を発見できたはずであった。



「じゃ、その時発見できていれば、計上遅れが発生することはなかったんだな?」


徳永さんは厳しい声を出して松に確認する。



「は、はい。すみません。派遣さんもあの時忙しかったようですし、経理も忙しそうにしていたので確認する間がなかったんだと思います」



 ちがうちがう。派遣さんの責任ではない。


 松は心の中で打ち消した。


 派遣さんも少しは責任はあっただろうが、松はあの時、派遣さんがまだ未熟で不慣れで、松なら簡単にできる会計票のチェックまでしないだろう事を、ある程度予測していた。


 それなのに、自分も忙しさにかまけて、それをうっちゃらかしておいたのだ。


 いやそれも違う、忙しかったからではない。


 本来但馬さんがやるべき仕事を、松に対して常にきつくあたる但馬さんに腹が立てていた松は、なんでワタシがアンタの仕事をやらなくちゃならないんだ、というふてぶてしい気持ちがあったため、但馬さんの下の派遣さんにも冷たくあたってしまったのだ。


 これは松の落ち度だ。



 松はうつむいていた顔をチラとあげて徳永さんの顔をみた。


 表情は、一層険しくなっていた。


 松の都合のいい言い訳をしている事なんぞ、彼の目には、お見通しなのかもしれない。



「わかった」


と、徳永さんは低い声で言った。


「とにかく今日は改めてデータを会計側から入力すると言う事で、但馬さんに支持しておくよ」



「迷惑をかけて悪いな、徳永」



「…いや。不可抗力なら仕方ないが」



「ここはもういいよ、花家ちゃん」


鈴木さんは頷くと、松に向かって言った。



「え?」


カチコチに固まったままうつむいていた松は頭を上げた。


 

 徳永さんはすでに席に戻っていて、そこにはいなかった。


「会計側の計上は経理課の入力(パン)担当者(チャー)さんがするだろうから、花家ちゃんはシステムのチェックを手伝ってくれ」


と、鈴木さんは言った。



 松は、「はい」と松は答え、徳永さんの背中をチラと見やった。


 その背中を見るだけで松は凍り付きそうだった。


 何も言ったわけではないが、ものすごく怒っている。


 昨日は、斎賀さんとの約束をすっぽかした上に、この不始末である。


 相当松に呆れたに違いない。


 昨日の会食をドタキャンした事も謝りたいのに、これじゃ話しかけることすらできない。



 今日は英会話ランチの日だったので、一緒にお昼を食べられるかと期待していたが、昼の直前になって、


『斎賀さんとランチなので今日の昼は行けない』


というメッセージが来た。



 そうよね。お仕事が大変な時なんだもん。


 わたしとの事なんて二の次三の次で当たり前。


 それに、わたしはもう会社を辞める身で、すなわち、社内試験を受ける必要も、英語の勉強もする必要ないんだもん。


 わたしにかまけている暇はないよね…



 突然一人になってしまったので、松は誰にも見つからない場所(落ち込むことがありすぎて、一人でいるところを誰にも見られなくなかった)を探して、一階のカフェの一人席でお昼を食べることにした。


 ここは植え込みの陰になっているから、通路に面している割には、誰にも見られなくて済むのが利点である。



「あれっ。花家ちゃんのここでランチとは奇遇だな」


おひとり様ばかりが座っている、細長いカウンター状のテーブルの横に、突然トレイを置いて座った人物が話しかけてきたかと思えば、天野さんだった。


「こんなところで一人で昼飯?今日は徳永さんと英語の日じゃなかったの?」



「はい、まあ」



 おひとり様が大勢座っている席なんだから、もうちょっと静かにしろよ。


 一人になりたい昼に限って鉢合わせしてしまうのは、わたしはこの人にストーキングされているんじゃないだろうかと、松は本気で心配になってきた。



「あっ、別に後をつけてきたわけじゃないからね。ここのカフェの一人席はオレも愛用の場所なもんで」


彼はニコニコしながらトレイに載せてあったカフェオレに口をつけ、サンドイッチをほおばりはじめた。


「ところで、怪我は大丈夫?」



「は?」



「昨日叩かれたところだよ。足首も怪我していただろ?痛くないか?」



「ああ…」


何の事を言っているのかやっと分かった。



 あれこれありすぎてまだ昨日の昼の事件など、殆ど忘れていた。



「昨日は助けて頂いてありがとうございました。大丈夫です、これぐらい」


まだ腫れは残っているが痛みは殆どなかった。



「ならいいけど」


天野さんはニカっと笑った。


「そういえば、何やらシステム課と海外事業部の間でトラブルがあったらしいね。その件で、システムに異常があることが分かったって聞いたんだけど」



「何でシステムの異常の事を知っているんですか?」



「え。なんでって、海外店口銭の計上に不具合があるから、入力は控えるようにって、必要な場合は手入力をしろって、今朝通達が来ていたから。システム課の鈴木さんから佐伯部長経由で全社宛てにメールが来ていたけど?」



 ああ、その件の事を言っているのか。



「ああ…えっと、そうなんです。理由は分からないんですが、一件だけ入力されたものが会計側に繋がっていなくて計上できていなかった事が判明して。まだ原因究明できていなくて解決できるまで、しばらく皆さんにご迷惑をかけてしまう事になってしまうんですが」



「あまり気にしない方がいいよ、花家ちゃん」


と、天野さんは突然言った。



「は?」



「その事で気に病んでいるんじゃないの?入力の担当者は但馬さんだったんでしょ?派遣さんは花家ちゃんにチェックをお願いに行ったのかもしれないけど、本来これはキチンと派遣さんを教育すべきだった但馬さんの仕事だろ?花家ちゃんが責任を感じることはないよ」



「でも、私があの時ちゃんとしておけば…」


こんな事にはならなかったのに。



「花家ちゃんらしいね」


天野さんは言った。


「責任感が強くて真面目なのは素晴らしい素養だとは思うけど、自分から進んで損を買う必要はないだろ。そんなの美徳でも何でもない。世の中そういった真面目にやっている人間の足をひっぱりたがる連中が山ほどいるっていうのにさ」



「別に損を買っているわけでは…」



「まあ、オレが出しゃばって言う必要はないけど。徳永さんはなんて言っているの?」



「え?」



「カワイイ彼女が落ち込んでいるのに、独りぼっちにさせて平気なの、あの人」



「・・・・・・・・・・」



「そういえば、彼、ニューヨークに戻るのが本決まりになったって噂がたっているけど、花家ちゃんはどうするの、これから」



「どうって…」



「まさか会社辞めてついて行くとか?そんな事はしないよねえ?」


彼はかまわず食事にパクつきながら淀みなく話し続ける。


「花家ちゃんは社内試験を受けるんだろ?契約社員になるつもりなんだろ?そのために勉強を続けてきたんだろう?」



 心臓がギュっとわしづかみにされたように苦しかった。



「まあ花家ちゃんなら、試験に落ちても家成さんのお兄さんの会社があるし、地元に戻らずに済むじゃない。もちろん日本に残るんでしょ?」



「わたしがどうしようが、天野さんとは関係のない話です」



「そんな事言わないでよ」


再びニカっと笑うがその余裕さが嫌だった。


「オレだって、花家ちゃんのお婿さん候補のひとりなんだからさ。もうちょっと相談に乗らしてよ」



「なんで天野さんがわたしのお婿さん候補なんですかっ」



「だって、オレ、ご両親からも承諾を頂いているし、いくらでも好きなだけ口説いていいって、許可もらっているし」



「わたしの結婚とウチの親は関係ありませんっ」



「じゃ、花家ちゃんは本当にご両親の反対を押し切ってあの能面野郎と結婚するつもり?」



 能面野郎?誰だよそれ!!


 松は額に青筋をたてた。



「大事なカノジョが落ち込んで暗い顔してこんな狭いカフェの隅っこで冷たい食事をしているっていうのに、隣にいることも励ますこともしないで、余裕だよね?オオカミに攫われても知んないよ?」



「オオカミって誰の事ですか?」



「あのね、花家ちゃん。男はみんなジェントルマンなんかじゃじゃないからね。殆どの男の頭の中は女の事でいっぱいなんだよ」



「あらそうなんですか。世の中の人間の半分は女性ですものね」


松はツンと澄ましてみせた。



「そ。男って単純な生き物なんだよ。だけど女性は違うだろ?もっと複雑で現実的だ。家族関係や人間関係、仕事やお金と、人生で考えるべき事がたくさんある。その次が男だ。年頃の女の子にとっちゃ、イケメンだろうが優しかろうが金がなくて稼ぎのよくないヤツは相手にしない。結局は金を持っていていい仕事にあり就いていて、将来安泰な男を選びたがっている」



「ずいぶんと女の頭の中に詳しいんですね」


松は皮肉をこめたが、彼は少しも動じる様子もない。



「まあねえ。オレも姉貴がいるから。女の人が社会的に大変なのは側で見てわかるよ。女性は肉体的に男性よりハンディがあるのに仕事を真面目にしても男性より評価されないし、女だからと言って親の老後の面倒を見させられやすい。アドバンテージが得られにくい分、女性が将来的に親の財産を当てにしてしまうのは当然の成り行きだとオレは思うね」



「わたしは別に親のお金を当てにしていませんけど」



「まだ現実的な問題に直面したりしてないからそんな事言えるんだよ。考えても見てご覧。もし、旦那と別れたくなったりしたらどうする?」



「はい?」



「実家を頼りにするのが当然の成り行きだろう。仕事をしていなければ」



「・・・・・・・・・・」



「どんなにうまくいっているカップルでも、破綻の可能性は否定しきれないもんだろ?」



「何が仰りたいんですか?」



「オレと結婚したら、仕事を辞めずに済むよ」



「え?」



「オレの事は花家ちゃんのご両親も賛成している。結婚しても実家から離れて東京にも住める。仕事も辞めずに済む。余計な荒波を立てずに結婚できて理想の生活が手に入るとと思わないか?」



 まるで、わたしの理想の生活がどんなものなのか知っているかのような口ぶりだな。



「理想の生活?好きでない人と結婚して?」


胡散臭そうに松は目の前の男を眺めた。



「えらくハッキリに言うねえ」


天野さんは面白そうに笑っている。



「傷ついた顔したって無駄ですよ。天野さんだって、本当は私の事なんて何とも思っていないくせに」



「花家ちゃんって正直だよね。まあそういうところが面白いとは思うけど」


天野さんは言った。


「まあたとえ好きでなくとも、結婚してまえば自然に愛情が湧いてくるかもよ?いい環境に恵まれていればさ」



「あなたが今仰った “いい環境”というものが、わたしにはさっぱり理想的に聞こえませんでしたけど」



 徳永さんがいない環境がどこが理想的なんだ。



「そう?たとえ愛があっても、環境に恵まれていなければ破綻する事だってあり得るじゃないか。リストラに遭ったり経済的に困窮したりしても相手を愛し続けられる?」



「誰がリストラに遭うと仰っているんでしょう?」



 まさか徳永さんがリストラに遭うとでも言うのだろうか。


 あんたより徳永さんの方がエリートだし、仕事もできるんだけど!



「オレが言いたいのは、愛で全て乗り越えられるわけじゃないって事」



「は?」



「愛なんてお金とか仕事の前ではちっぽけなものだよ」



「さっきから何を仰っているんですか?」



「金の切れ目が縁の切れ目って言うでしょ?先々を見据えて足元を固めておく事も考えることも大事だよ」



「はあ?」



「ご馳走様でした」


と彼はまたニカっと笑って、


「じゃ、またね」


と言って、空のトレイをもってその場を去ってしまった。



「・・・・・・・・・・」



 相変わらずずけずけと人の心の中に入り込んでくる人だな。本当に鬱陶しいったらありゃしない。


 こうなったら、さっさと徳永さんと結婚することを公表して、退職手続きをとったほうがいいんじゃないだろうか。


 …と、思いつつも肝心の徳永さんが話しかける暇もなく、今日も一日オフィスに不在でどこで何をしているのかさえ分からなった。


 となりの海外事業部の出欠ボートには


《徳永:斎賀支社長と外出。後、会食後直帰》と書かれてあった。



「斎賀さんの帰国中は徳永さん忙しいもんねえ。相手してもらえなくて残念ねえ、花家ちゃん」


と、海外事業部のお姉さんに言われてしまった。



 相手…そう、相手してもらえず松は一層落ち込んだ。



 


 はぁ。なんか疲れた。


 徳永さんとハジメテを過ごしてすっかり浮かれてウキウキしていた一昨日の夜の事が遠い昔の事のようだった。


 会社にいても但馬さんからは恐ろしい顔で睨まれるし、どれだけ探してもシステムの異常の原因が分からないし、松は疲れて切ってその夜、ひとりでトボトボと帰宅した。食事をして帰るのももどかしい。


 何か家に作り置きでもあったかな。


 そうしてアパートの前に到着したが、なんとドアの前に男の人影があるではないか。



「・・・・・・・・・・!」



 痴漢だろうか。


 ストーカー?


 どうしよう。


 管理人さんに言って、警察に通報してもらった方がいいかな。


 と、思っている間に、その人影が動いてこちらに向かってくるではないか。


 恐怖を感じた松は、後ずさりして逃げ出そうとしたその瞬間―――



「何で逃げるんだ?」


という恐ろしい声が降ってきた。



「あれ、徳永さん?」


聞き覚えのある声に松は立ち止まった。



「だから、何で逃げるんだよ?」


めちゃくちゃ怒った声。そんな大きな声出さないでよ。



「び、びっくりしました。こっちに来られる事めったになかったからまさか徳永さんとは思わなくて」



「オレじゃなかったら誰だと思ったんだ?」



「ストーカーか痴漢かと…」


松は思っている事を正直に口にしてしまった。



「誰が痴漢?」という表情が顔に浮かんだ。



「す、すみませんっ!だって、徳永さんがここに来るとは思ってもいなかったから…」



「何でオレが来ないと思うんだよ?」


ものすごく不服そうな顔。



「え…だって、ここ会社の借り上げ社宅だし、男の自分が出入りするのはやめておくとか何とか前に言っていたから」



「それはずっと前の話だろ!オレは夫になる人間だからいいんだよ。早く中に入れて」



 あ。よかった。まだ私の事を妻にしてくれる気があったようだ。


 今朝から(今にかけて)機嫌悪かったから、すっかりわたしと結婚するの考え直してんじゃないかと思ったよ。



「何、ボーっとしてんの」



「は?」



「早く中に、い・れ・て!ここでどれだけ待っていたと思う?凍え死にそうだ。こんなところでウロウロしていたら本当にストーカーに間違われるだろ!」



 松はバッグから慌てて鍵を取り出して扉をあけ、徳永さんを中に通した。


 ストーブを点けて部屋をあっため、徳永さんに椅子をすすめながら、松は部屋をうろうろして見られなくないものをアレコレと片づけ始めた。



「徳永さん食事は?」



「…まだだ」



「あれ、そういえば徳永さん。今日は斎賀さんと会食だったんじゃ…」



「斎賀さんは今頃社長と一緒に飲んでいるよ」



「社長と?え、徳永さんは行かなくてよかったんですか?」



「昨日も一緒だったし、毎夕おんなじ色気のない男の顔を眺めていても食欲もわかないだろう。きれいどころがたくさん居そうな店を紹介して抜けてきた」



「よかったんですか?」



「何がだ?」



「お仕事の話する予定じゃなかったのかなって」



「だから、仕事を潤滑にするために、きれいどころがたくさんいる店に連れて行ったんだよ」



「???」



 オレはそんな()はないんだから、と彼はのたまう。



「はぁ…」



「それよりか、ショウの方こそオレに報告しないといけない事あるんじゃないのか?」



「報告すること?」



「心当たりあるだろ」



 こちらから報告?


 なんかあったかな。


 色々ありすぎてどれを報告するべきだったかも忘れた。


 そんな事より、この前斎賀さんとの会食に行けなかったので、その後どうなったかこっちが聞きたいんだけど。



「ないとは言わせないぞ?」



 なんか怒っている?


 やっぱ松の大失敗を未だに腹をたてているのだろうか。


 海外店口銭が計上できていなかった件をもっと詳しく説明しろと言いたいのだろうか。



「どうした言えないのか?」



「言えないっていうか…」



「ならオレが言ってやろう」



「え?」



「ここに座れ」



「?」



 徳永さんは松が勧めた椅子から立ち上がると、松の腕をグイとつかんでその椅子に強引に座らせた。



「?」



「殴られたのはどっちのほっぺただ?」



 彼は松の顎をクイつかんで上を向かせると、両頬を丁寧に調べている。


 そして膝ついてかがむと、湿布をしている松の足首を丁寧に調べた。(会社ではブーツを履いていたので湿布は見えていなかった)


「足首はまだ痛むんじゃないのか?」



 あ、その事を言っているのか。



「それに、ハイヒールの踵で顔を殴られそうになったそうだな」



「あ…あの」



「なんで襲われた事をすぐに報告しなかったんだ」



 単に忘れていただけ、と言ったら怒るかな。



「誰が言ったんですか?」


って尋ねるも、告げ口するのは一人にきまってんじゃないの。



「但馬さんの直属の上司だから一応報告しておきます、とご丁寧に今朝携帯に電話をもらたよ」



「天野さん、言わないでって言ったのに…」


松は舌打ちした。



「オレにも隠すつもりだったのか?」



「別に隠すつもりは」


だって昨日はそれどころじゃなかったし。


「昨日は色々あって、言う暇なくて」



「はぁ」


徳永さんは突然がっくりと項垂れると、かがみこんでいた頭を突然松の膝に埋めた。



 いきなり子供のようにしがみつかれて松は慌てた。


 さっきまでものすごく怒っていたのに、急にどうしちゃったの。



「ごめん…」



「なんで徳永さんが謝るんですか?」



「昨日夜、メールもらっていたのに、返事しなかっただろ。オレいったい何やってんだろ」



 ああ、そういえば昨日夜メールしたっけ。


 返事なかったよなそういえば。



「あれは、斎賀さんとの会食にいけなかったから、それが気になって。あの後、遅くまでかかったんですか?」



「斎賀さんに昨日言われたんだよ」



「何がですか」


突然重い調子になってしまった口ぶりに、松は慌てた。


約束もろくに守れない女との結婚なんぞ止めてしまえと言われたとか。



「仕事熱心な彼女に仕事を辞めさせるのは辛いだろうってさ」



「え?」



 徳永さんはそう言って黙り込んでしまった。


 松は、松の膝に顔を押し付けて両手を彼女の腰に巻き付けている彼の旋毛を、ずっと見続けていた。




<58.騒動③>へ、つづく。





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