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55.私達の未来

55.私達の未来



「ショウは本当はだいぶ前から聞いていたんだろ?」



「え?」



「オレがニューヨークに戻されるかもしれないって噂が広まっていたのは知っている。それ、聞いていたんじゃないのか」



 次に目が覚めたのは、翌朝の五時だった。


 松は徳永さんの腕の中で身動きひとつできない状態でぴったりと寄り添っていた。


 徳永さんは、静かに微笑んで松の前髪を撫でていた。


 松は黙って静かに頷いた。



「一昨日、斎賀さんに『お前のニューヨーク復帰が決まった』って言われた時は、頭が真っ白になった。ついこの前まで、日本に戻してやる、任せてろって言っていたのに、そりゃないだろうって」



 徳永さんが出張で行った先に、なぜか突然いるはずのない斎賀さんがそこに現れたかと思えば、話があると呼び出され夜の食事を一緒にしたという。


 そこで、彼がなぜ帰らなければならないのか、なせ彼を必要としてるのか詳しい話をされた、というのだ。



 徳永さんは、滔々と松にニューヨークに戻らないといけない理由―――ビジネス上の理由を話し始めた。


 その内容はほぼ、昨日聞かされた神楽さんの話と一致していた。


 ただ彼の口から聞くと、彼がいかにその仕事に情熱を持っていてやりたがっているのか、携わりたいと考えているのか実感として感じられた。



「あまり反応ないみたいだね」


徳永さんは言った。


「こんな話、興味なかったか?」



「いえ、そんなはずないです。ただ、昨日同じ話を神楽さんから聞かされていたから」



「あいつ、ショウに話をしたのか?」


彼はちょっと深めに眉間を狭めた。


「ほかに何かいっていたか?」



「え…と」


松は逡巡したが、徳永さんと結婚した後は、松は今の会社を辞めニューヨークの現地社員となり、代わりに但馬さんを東京のシステム課に異動になるという、神楽さんの例の話を打ち明けた。


「神楽さん、私達が結婚するっていうのを知っているみたいでした。それを前提とした話をしていました」



「・・・・・・・・・・」



「誰から聞いたんでしょうね?」


間隔をおいて松は尋ねた。



「…まあ、斎賀さんだろうな」



「徳永さん、斎賀さんに話したんですか?だって、前は報告するのはもっと後にするって」



 そうなのだ。


 徳永さんと松が結婚することを知らないはずの斎賀さんが、それを前提に話をし始めたので、驚いてしまったわけだけど。



「結婚する事は前々からにおわせていたんだ。相手が誰だか紹介するのは後にするとまで言明しなかったけれど」



「じゃ、何で相手が私だって事が分かったんでしょう?」



「誰からか聞いたのかもしれないな」



 松は、誰かって誰?と思った。


 鈴木さんとか南田さんだろうか。


 このふたりは松が徳永さんにネツを上げていたのは知っているけど、結婚するまで話が進んでいることまで気がついていなかったと思うんだけど。


 まあ、鈴木さんは徳永さんの同期で仲がいいみたいだから、個人的に打ち明けていたのかもしれないが。



「神楽も確定もしていない話をまあベラベラと。聞いたのはそれだけか?」



「え、と。後、徳永さんを説得してほしいって言っていました」



「え?」



「神楽さん、徳永さんにはニューヨークに戻ってほしいようで。わたしが徳永さんとニューヨークに行くとなれば、社内試験も受けられないし、契約社員にもなれないし、残念かもしれないけど、でも、ニューヨーク支社で現地採用してもらって徳永君と一緒に居られる方がいいでしょって。だから彼をそう説得してほしいって」



「・・・・・・・・・・」



 あ、黙っちゃった。



「あの、わたしはどっちでもいいと思ってますよ?」



「ん?」



「徳永さんがどっちを選んでもいいと思っています。わたしは、神楽さんが、説得してほしいから、一緒について行くって言ったわけじゃなくて、どうするかは徳永さんに決めてほしいって思っています。ニューヨークでの仕事がやりたいって思っているのなら、わたしは会社を辞めてついて行くし、日本に残るのなら、わたしもここに残って社内試験を受けて、契約社員を目指しますから。徳永さんの意志で自由に決めてくださいね」



 松は、そう言って一層近く彼に寄り添った。


 徳永さんは、漆黒の瞳を切れ長に細めてこちらを見ている。



「ショウ」



「何ですか?」



「ショウ…」



 甘ったるい声音が耳元をかすめる。


 だけど、ん、何だ、この動きは?


 なんか違和感があると思ったら、彼の手が撫でていた松の前髪から離れて、なんと胸の上をまさぐり始めているではないか。



「こういうのはあの、朝っぱらからどうかと」


今後の展開が見えて、松は慌てて、彼の手を払いのけようとした。



「どうかって?」



「だから、その、今はやめておきません?」


松は、さっきとは逆に彼から離れて身を海老のように縮こませようとした。



「何言ってんだ、ショウ。だって、まさか一回こっきりで終わりだなんて、思っていないだろ?」



 えええ?いっかいこっきりって。



「そんな事言われたら、こうせざるを得ないことぐらいわかるだろ?」



 そう言って、徳永さんは今度は松の胸の谷間に顔をうずめた。


 わかるだろってわかんなんいんですけど、全然!



「本当に、やめておきましょう。き、き、今日は平日ですし、ね?」



 松は顔を真っ赤にさせて訴えるが全然耳に入っていないようだ。



「ねえったら、徳永さん!」



「・・・・・・・・・・」



 こりゃだめだ。


 松は仕方なくガシッと彼の手首を掴みあげ、強引に松の体から引き離し、お仕置きとばかりに手の甲を捻り上げた。



「いてててて」



「言っているでしょ?今日はもう店じまいです!」


ビシっと突き放す。ここはしっかり態度で示さなければ。



「えぇー…何でそんなに頑なに嫌がるの…」


とても残念そうな声。


眉毛をㇵの字にさせて、あまりにも悲しそうな声を出すもんだから、悪い事をしたような気になってしまった。ちょっとキツく言い過ぎたかな。



「ご、ごめんなさい、つい。痛かったですか?」



 徳永さんは松の消沈した顔が可笑しかったらしい。


「あっっはは、本当にすぐにムキになるんだから、ショウは」


と、笑って、手を離してくれた。


 その代わりに両腕を松の背中に回して体をぎゅっと抱き寄せた。


「分かっているって。今日はもうしないよ」



 ほ…よかった。


 彼は再び松の前髪を撫で始めた。



「じゃあ、どうする?辞めて、オレと一緒にニューヨークに行って現地社員になるかい?」



「実は、その話を聞いたとき、ちょっと嬉しかったんです。外国で仕事ができるなんて、なんか夢みたいだなあって。でもよくよく考えたら…それは、現実的に無理だなって事に気が付いて」



「なんで?」



「だって、わたしの英語力では、本当にカンタンな会話ぐらいで。仕事で使えるレベルでは決して」



 おそらく、斎賀さんは松の英語力を知らずに、松を現地社員だなんて話を思いついたに違いない。



「オレはね、ショウなら現地社員で採用されてもすぐに馴染めると思っているよ」



「ええ?」



「今までの上達の仕方を見れば、そんなに遠くない未来(さき)にオレと変わらないレベルで会話はできるようになると思う」



 やっぱりな。徳永さんならそう言うと思った。



「何て顔してんの。現地で揉まれて経験を積む事も、悪くないっていう話をしていんるんだよ」



 言われちゃったな。


 ネガティブだって思われただろうか。



「でも、仕事で雇ってもらうからには、やはり語学はそれなりの条件が必要だし、こっちがよくても向こうに迷惑かけることになりかねないでしょ?」



「ショウがそう言うのはもっともだと思うけど」


徳永さんはずっと松の前髪を梳き続けていた。


「まあそれは、今はそういう可能性があるというレベルで考えておけばどうかな。いずれにせよ、この話は斎賀さんが何も言ってこなければ、今すぐに決断は下すことはできない話だし」



「なんでですか?」



「こういった社員の異動には各方面の調整が必要だから、こっちがその気になっても受け入れ先がなんというかどうか分からないからね」



「じゃ、その話は本決まりじゃないんですか?」



「システム課が嫌だって言えば、どうしようにもない話なんだよ」



 神楽さんと同じ事言っている。


 やっぱそうなのか。


 但馬さんを受け入れようとしている先のシステム課がダメだって言えば、ダメって話なんだろうか。



「そうですか。あっ、でもそういう場合になっても、わたしは専業主婦になって、ちゃんと徳永さんについて行きますからね?ええと、これを機会に、向こうで英語がペラペラになるかもしれないし。それで、話せるようになったら向こうでできる仕事を探してみます。現地社員でなくたって、向こうで仕事が見つからないわけじゃないでしょうから」



「おっ。頼もしいね」



「はい。これを機に海外生活を楽しむのもいいんじゃないかなあって、ちょっとそういう気持ちになってきました。でもそれは、徳永さんがニューヨークに行く場合の話ですけど」



「そうかい?」



「はい」



「じゃ、僕がニューヨーク行を承諾したら、どっちに転んでもちゃんと付いて来てくれるんだね?」



「もちろん」



「後悔しないか」



「しません。わたしがそんな事で後悔すると思っているんですか?」



「女だって仕事は大事だよ。ショウは今の仕事好きなんじゃないのか」



「…そりゃまあそうですけど」


嫌いじゃないし、遣り甲斐も感じている。


「でももっと」



「もっと?」



 ふたりは枕を並べて、見つめ合っていた。


 肌掛けが肩からズレ落ちてスースーしていたが、徳永さんの胸の側では少しも気にならなかった。



「もっと、大事な事だってあります。わたしの一番の望みは徳永さんを幸せにすることだから、徳永さんを幸せにすることを一番にやりたいんです」



 徳永さんは松を抱いていた腕に力をいれてさらに強く抱き寄せた。



「…お母さんに約束した事を守れなくなってしまうね」


と、彼は静かに言った。



「そうですね。必ず試験に受かって、契約社員になってみせるって言ってしまいましたよね。そういえば」



 まあ、あの時と状況が変わっちゃったんだから、仕方ないと言えば仕方ないか。



「試験を受ける前に辞めちゃったら、結婚も反対されるかな?」



「まあ、あの母の事ですからねえ」


松は小さくため息をついた。


どう考えても母がこちらが望むような反応を示すとは思えない。


それどころか、いい口実ができたと、せい一杯の反対をしてくる可能性大だな。


「でも、反対されてもいいじゃないですか?」


松は気を取り直して言った。



 徳永さんは松のその言葉に両目を見開いた。



「反対されたって、わたしは構いません。徳永さんが賛成さえしてくれれば」



「ショウ…」



「母だって、いつかは分かってくれますよ」



「そうかな」



「そうですよ!時間をかけて、機嫌が収まるのをどーんと構えてアメリカで待っていればいいかと思いますよ?」


松は笑顔で請け負った。



 そんな自信はなかったけれど、わたしが気弱な態度をとっては、よけいに彼に心配をかけると思ったのだった。


 徳永さんは松のそのマジメな顔をしばらく見つめ返していたが、突然プっと噴出した。


 そして続けてクククと笑い始めた。


 ええ?笑う所じゃないじゃないの、せっかく人が一生懸命言っているのに。



「何が可笑しいんですか?」


頬を膨らませて抗議する。



「いや、今のそのフグみたないなほっぺたが可笑しくて」



「フ、フ、フ、フグって」


何よそれ。


「そ、その前ですよ、笑ったのは!私なにか変な事いいましたか?」



 徳永さんはまだクツクツ笑っている。



「いやあ、変な事なんて一言も言っていないよ。ただ、侍っぽいと言おうか、相変わらずの花家節だよなあって思ってさ」



 侍ぃ~?


 あたしそんな侍っぽい事なんて言ったか?


 むしろ徳永さんを気遣って優しく言ったつもりだったんだけどな。



 怒ったり不思議がったり拗ねたりしている松の顔が更に面白いことになっているらしい、堪えきれなくなったのか、徳永さんは松の体から手を離して起き上がるとベッドの上に座り込んで、腹をかかえて本格的に笑い始めた。


 もぉ~何よ。


 何がそんなに可笑しいのかわかんないよ。


 松も起き上がって、丸めている徳永さんの背中をバシバシと叩いた。



「もぉ!そんなに笑う事ないでしょ!」



「悪い悪い」


といいつつ、徳永さんは笑いがとまらないようだ。本当にもう!


「ショウ、こっち向いて」


 笑いが収まると、徳永さんは松を迎い合わせに自分の目の前に座らせた。


「こっちむいて座ってくれ。ほら、拗ねてないでこっち向いて」



 松はまだ怒っていたが、彼が両肩をもってこっちに向けとひっぱるので、しぶしぶ彼の方に体を寄せた。


 目の前に彼の厚い胸板があった。



「あ…あの」



「ん?」



 松はふたりとも生まれたままの姿であることに今気が付いた。


 昨夜の行為(・・)の後何も身に着けずにそのまま眠ってしまったのだ。


 早朝だったので部屋は暗かったが、暖かなオレンジ色のフットライトで部屋は薄ぼんやりとしていて、松の貧層な胸が露わになっているのがはっきりと見える。


 松は、何か隠すものがないかと、昨晩脱ぎ捨てた自分の服を視界にないか目で追ったが、服はベッドの下の床の上んの手の届かないところに投げ捨てられてあるようだ。



「ショウ、よそ見してないでこっち向いて」



 松は、腕で自分の胸を隠しながら諦めて徳永さんの方を向いた。



「何恥ずかしがっててんだ今更」



「今更じゃないですよ、恥ずかしいもん」



「今更だろ、昨晩さんざん…」



「その先は言わなくていいですから!」



 徳永さんは、嬉しそうに笑いながら、松を見下ろしていた。(彼の方が座高が高いという意味。決して見下しているのではナイ)



「ショウ、オレと結婚してくれ」



「?」



「結婚してくれ」



「あの…」



「返事してくれないのか?」



「だって、この前その話はしましたよね?」



 もともと、私達結婚する予定になっていたよね?


 プロポーズのやり直しをしたいのかな?



「ああ、そうか」


徳永さんは気が付いたようだ。


「言い間違えた。今のは訂正」



 彼は仕切り直しに咳払いをひとつすると、息を吸い込んで一気にこう言った。



「ショウ、オレと結婚してニューヨークに一緒にきてくれないか?」



「はい」



「仕事を辞めなくてはいけないが、それでもいいか?」



「いいですよ」



「オレの我儘で、本当にすまない」



「謝らないでください。わたしはそうしたいんですから」



 徳永さんは笑顔を浮かべた。


 なんと形容すべきか。


 光り輝くというか、こんなに爽やかで嬉しそうで、美しい笑顔を見たことがないと、松は思った。



「斎賀さんに報告したいんだ。いつがいい?」



「いつでも」


松は小さく頷いた。



「今日、東京に戻ってくるって言っていた。今夜予定は空いているか」



「徳永さんとの用事なら、いつだって空いていますよ?」



 徳永さんは、クっと口の端をゆがめた。



「だんだんとショウも知恵がついて口がうまくなってきたな」



「どういう意味ですか?」



「オレを喜ばせる言い方が分かってきた、とう意味だ」



 喜ばせるって。


 本心を言っているつもりなのにな。



「じゃあ、今夜斎賀さんを交えて三人で食事をしよう。その時に、ニューヨークに戻るという返事をして、ショウを婚約者として斎賀さんに紹介しようと思う。それでどうかな」



「いいですね、そうしましょう」



 徳永さんはまた笑みを浮かべた。


 本当に満足そうな、それでいて安心したような顔だった。



「徳永さん?」



 徳永さんはガシっと松の体を抱きしめると、



「ありがとう」


と、言った。



 じんわりと、胸と心が温かくなってゆくのが分かる。


 松は彼の体の暖かさを感じていた。


 体が震えているのはきっとふたりともだろう。


 泣きたいほど嬉しくて震えているのと、素っ裸なので生理的に寒くて震えているのと両方だ。


 ああ、なんてここは居心地がいいんだろう。


 一生こうしていたいな。


 生まれてきて今が一番幸せって、こういう事をいうのかな…と、思っていたら、どういうわけか、そのままベッドの上に寝転がっていた。



「え…と?」



「今、何時だ?」


上から覆いかぶさっている状態で彼は尋ねる。



「えっと、六時五分前です」


目だけ動かしてベッドサイドの時計をチラとみやった。


目が覚めてからまだ一時間しかたっていないのか。



「じゃ、あと一回はできるな」



「は?」


あと一回?



「言っただろう。ゆうべの一回で済むと思っていたのか?」



「だってさっき、徳永さん」


今日はもうしないって言ったよね?



「だから、そんな可愛い事を言うと、我慢できなくなるって言っただろ?」



 ええええ???


 うそでしょ??


 のしかかってくる体重にものすごーく男の力を感じた松は、非常なる危機感を感じた。


 もう六時なのに!今日も仕事があるっていうのに!!


 これ以上何かあったら、今日はとてもじゃないが平静ではいられない。


 松はありったけの力を振り絞って、どこか隙間はないかと体をよじり、どういう芸当を使ったのか自分でもよく分からないが、で匍匐(ほふく)前進(ぜんしん)で体の下からスルリと這い出た。



「あれ?」


女の体ではなくうつ伏せに枕につっぷししまった徳永さんは無言で転がっている。


「・・・・・・・・・・」



「ききき、今日は、平日だって言ったじゃないですか?」


松は言った。


「け、けじめはちゃんとつけないとっ」



「ショウは本当に真面目だよなあ」


徳永さんは無念そうに残された枕を腕の中で転がしている。


「ここはアパートと違って、会社とは目と鼻の先だよ?せっかくスイートをとったのに、ゆっくりしないなんてもったいないじゃないか」



「だ、だけどっ。女は支度に時間がかかりますしっ。シャワーにも入りたいですしっ。それに、わたし夕べ着替えとか買いに行く暇なかったですから、買い物に行ったりしたりしたいんです。もう起きますから」



 松はそう言って、自分からベッドから、えいとそのままベッドの外に這い出てしまった。


 そして、昨夜来ていた服を拾い上げて慌てて身に着け体裁を整え、着替えを買いに鍵と財布をもって部屋の外に出た。


 ドアを閉める前に、徳永さんがベッドから「あ~あ」という残念そうな声と、起き上がる音が聞こえた。


 戻ってくる頃には、彼はシャワーをすっかり済ませてさっぱりしていた。



「オレは恐妻家になるかもしれない」



「は?」


恐妻家だって?失礼な。


さっきまで可愛いだのなんだと言っていた口が何を言い出すかと思ったら。


「恐妻家の意味が分からないです…」


松は、すっとぼけた。



「知らないのか?妻に頭の上がらない夫のことだよ。有名なのが古代ギリシアのソクラテスという哲学者だ。彼にはのクサンティッペという妻がいて、恐妻家の妻は一般的にはソクラテスの妻と呼ばれているんだ。その妻がどんな人かと言うと…」



「わ、わかりました!!ソクラテスの妻ぐらい知っていますよ。説明してくださらなくって結構ですっ!」



 もお!ソクラテスの妻って悪妻の代名詞じゃない。


 なんでわたしがその人と一緒なの?


 徳永さんはまた、クツクツ笑っている。


 だからそこ笑う所?



(※ソクラテスの妻。悪妻で有名。ある日、ある時クサンティッペはソクラテスに対して激しくまくしたて、彼が動じないので水を頭から浴びせた。しかしソクラテスは平然と「雷の後は雨はつきものだ」と語ったとという逸話がある)



「ほらほら、機嫌直して。朝飯でも食べよう。ルームサービスでも頼まないか?ショウが風呂に入っている間に頼んでおいてやるから」



「じゃあ、わたしオムレツと、フレンチトーストをお願いします」


急激に空腹を感じ始めていた松は、朝御飯ひとつで簡単に機嫌を直した。アタシって相当な現金かも。




 風呂から出て昨日買ってもらった服を着るかどうかとても迷ったが、昨日のクリーム色のスーツはあまりに高級すぎて、さすがに会社には着ていくには気が引けた。


 仕方なく昨日着て来たこげ茶のウールのスーツの上下に、昨日買ってもらった薄紫のセーターを合わせてみたら、ぴったりだった。


 ケーブル編みのカシミヤの風合いと優し気な発色がなんとも上品だ。


 自分では似合わないと思っていた色で紫など今まで買ったことなどなかったが、やはり、徳永さんの見立てはさすがというべきか。


 徳永さんも松の来ているものに気が付いたようで、何も言わなかったけれど、感嘆の眼差しで松の装いを眺めていた。(たかがセーター一枚のことだが)



 朝食をしたためて、名残惜し気にスイートルームを後にした。


 松は足取りも軽くホテルの廊下を徳永さんと手をからめて歩いていた。



「次、こういうところに来れるのは長期休暇の時だな」


と、彼は言った。



「長期休暇?」



「結婚したらまとまった休みがとれるんだ。松は、新婚旅行どこへ行きたい?」



 新婚旅行…たちまち松の思考は、未来へと飛んだ。


 南国の椰子の木のあるコテージで海に沈む夕陽を眺めたり、輝かしいイタリアの太陽の下でゴンドラに乗って街のあちこちを散策したり、ニューヨークの洒落たレストランでの食事や、ショッピングが目に浮かんだ。


 そうだ、ニューヨークに行くんだったら、あの素晴らしいオペラ劇場には是非もう一度行きたい。


 あのオペラは素晴らしかった。


 美しいプリマの歌声、心揺さぶられる芸術とはああいったものを言うんじゃないだろうか。



「また心がどっかに飛んでいるようだね」


徳永さんは、また松の顔を面白そうに眺めながら言う。


「ま、どこへ行きたいか、考えておいてくれ」



 新婚旅行かぁ~。


 ああ、夢みたいだよなあ。


 だけど、もう近い将来の事、現実的な話だなんてまだ信じられない。



 もう結婚するんだし、斎賀さんにも報告するんだし、一緒にいるところを見られても(松は)かまわなかったのだが、生憎徳永さんはオフィスに寄らずに直接取引先に寄るとのことで、途中の駅で別れてしまった。



「今日はオフィスに戻れそうにないから」



 ええーー。そうなのか。今日も会社には元気の素がいないのか。



「斎賀さんが日本に居るときは、たいがいオフィスには戻れないんだよ。お供で方々まわらなきゃならないから」



「そうですか。大変ですね」



「そんな顔しないの」



 そんな顔?どんな顔になってたんだ私。



「会食の場所を知らせるから、終業前までには連絡を入れるよ」



「はい」



 駅についた。


 というか、ターミナルに直結しているホテルなので殆ど歩いていないのだが、ここで彼とはいったん別れなけばならない。



「じゃ、また夜に」



「はい」



 徳永さんはもういつもの顔になっている。


 さっきまでほっぺたゆるませて笑っていたのに相変わらずの変わり身が早さである。



「ああ…」


彼は何か言い忘れていたか、突然立ち止まった。



「何ですか?」



「そういえば、体は大丈夫か?」



「は?」


いきなりなんだ?



「だってショウ、昨夜はハジメテだったんだろ?大丈夫だったか?今は平気か?」



 何の事を言っているのか分かって、松は真っ赤になった。



「ととっとっ、徳永さん!こんなところでそんな事を言わないでください!!!」



「だって、まわりに誰もいないじゃないか」



 ちょっと改札から離れた隅に立っていたので、確かに近くに人はいないけどさ、だけど。



「かなり痛がっていたし、大丈夫かなあって思って」



「だだだ、だいじょうぶですっ!」


そりゃ確かに痛かったけどっ!今も何かが挟まっているような気がするけどっっ!!


「でもっていうか、だから、こんなところでそんな事聞かないでください」



「ならよかったよ」


と、彼は、またニッコリとクールにビジネス用のスマイルを浮かべ改札をくぐり、反対側にやってきた電車に乗って行ってしまった。



 はぁぁぁ~~~徳永さんってあんな性格だったけけ?


 なんつーデリカシーがない人なんだだか。


 あたし、この先あの人とちゃんとやっていけるのかなあ。



 のろけ感半分、脱力感半分な状態で会社についてしまった。


 隣駅だったので、移動の間に顔を元に戻す間がなかった。


 この緩みっぱなしの顔をなんとかしてからオフィスに入ったほうがいいよな。


 ロッカーに荷物とコートを置いた後、休憩室に飲み物を買いに行った。


 そこには何人か松と同じように飲み物を買いに来た人がいて、その中には天野さんもいた。



「やあ、花家ちゃん、おはよう」


何気ない様子で普通に挨拶してくる天野さん。



「おはようございます」


松は、慇懃に頭を下げて挨拶をした。



 天野さんはその場にいた他の営業課の男性と一緒に立ち話をしていた。


 松は背後にそれを聞きながら、コインをいれてどのドリンクにしようか悩んでいた。



「…斎賀さんがこの時期にもどってくるなんて、やっぱり普通じゃないよな」



「社長に直談判するために、東京に戻ってきたって噂があるけど」



「談判って、出資先が見つかったんだから資金の面は、もう問題ないんだろ?」



「でも今回は、条件があまりよくないらしい。担当者をまた神楽から徳永に戻すらしいけど、それでもうまくいくかどうかって言われている」



「そもそも、あのプロジェクト、勝算あるのかねえ?911が起きる前ならまだしも、今はまるで状況が違っているだろ?お前何か聞いている、天野?」



「いや、私は何も…」



「いったいどうなるんだか」



「徳永も、今の状況じゃ組合の規定を盾に日本に残るだなんていっていられないんじゃないか?これがコケたら斎賀さん、次期社長どころかクビになるんじゃ」



「シッ。めったな事を言うな。口を慎め」



「オレが言っているわけじゃない、皆噂してんだよ」



 噂話をしていた人達は、そのまま飲み物を片手に出て行った。



「どうしたの、花家ちゃん」


ぼーっとしている松に、天野さんが声をかける。



「え?」



「もうすぐ始業のベルが鳴るよ」


彼はそう言って、意味深に松の目をじっと覗き込むと、空の飲み物のカップをゴミ箱に捨てて出て行った。



 松は、十秒ほどそこに佇んでいたが、はっと我に返ると、ミルクティーのカップに口もつけずに、そのまま部署へ急いだ。




<56.騒動①>へ、つづく。


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