54.果たされた期待
54.果たされた期待
翌朝電車の中で携帯を開くと、徳永さんから出張が延期になったとメールが入っていた。
『出張が長引いてもう一泊することとなった。すまない。』
送信時間は夜中の一時を回っていた。なんだろう、こんな遅い時間まで斎賀さんと話をしていたとかじゃないよね?
よからぬ胸のざわめきを感じた松は、メールを閉じて直接電話をかけた。
彼の声を聞いて安心したかったのである。
が、コール音が数回鳴るだけですぐに留守番電話に変わってしまった。
朝の八時過ぎだから大丈夫だと思ったのだけど。
松は仕方なく
「おはようございます。お仕事ご苦労様です。出張の件、了解しました。」
と、返事を書いた。
「徳永さんがいない間に勉強を頑張ります」
とも、書こうかとも思ったが、やめておいた。
松の勉強の進み具合なんかより、昨日の出来事、斎賀さんから松に直に徳永さんの進退に関わることで話があったことを、先に伝えるべきではないとも思ったし、何と言っても、こんな重大な事をメールや電話で話すような簡単な話ではないだろうと思われたからだ。
何より徳永さんは昨日斎賀さんとこの件で会っているのだ。
戻ってからいくらでも話す機会はあるだろう。
会社に着いて仕事が始まっても、毎度の事だが、徳永さんが留守中のオフィスは味気なく感じられた。
視界に彼の姿が入るだけで、元気が出るのは片思いの時から婚約した今も同じだ。
彼の存在自身が元気のバロメーターと言っても(決して大袈裟な言い方ではなく)過言ではない。
結婚したら、こういった生活はどうなるのだろうか、と、松はぼんやりと考えた。
同じ社の人間同士が結婚することは、ここの会社ではよくあることらしい。
その場合、どちらかが異動になる。
今の状況では、徳永さんが海外事業部からどこかへ異動になるのは考えにくい。
その頃には松は親会社の契約社員になっているはずで、(神様の御心に叶えば)となれば、松の方がシステム課から出ることになるのだろうか。
そもそも、結婚後も、松は今のシステム課に在籍し続けることは可能なのだろうか。
昨日斎賀さんは、徳永君をニューヨークに異動させた場合、但馬さんをニューヨークに戻さずに、花家さんを代わりに遣って現地社員として採用することもできるとか何とか言っていた。
しかし、わたしは英語が苦手でたとえ少し話せるようになったとしても、仕事場で通用するレベルには決してない。
となると、結婚して徳永さんと一緒に居る道を選択するには、松が会社を辞めて専業主婦となり、彼と一緒にニューヨークに行くしか道がないように思われる。
『わたしの稼ぎであれば、松さんを養っていけます』
と、この前徳永さんは、松の親の前でそう宣言していたが、その話が現実になりつつあるような気がした。
デスクの片隅に立てかけてある簿記や貿易実務のテキストがチラと目に入る。
せっかく親会社の社員になれると思ったのにな。
そのために一生懸命勉強を頑張ってきたのに。
だががっかりするのは松だけでないだろう。
本人以上に力と期待をかけていた徳永さんはどう思うだろう。
しんどかったけれど、松は、これまで心と体力を注ぎ込んできた時間が無性に惜しく思われた。
「花家さん、ちょっといい?」
来客が引け、会議室の湯呑茶碗やらコーヒーカップなどを片づけていたら、隣の打ち合わせ室から顔をのぞかせた神楽さんから、こっちこっちと、呼び出された。
松は眉間の皺をよせずに頷くのが精いっぱいだった。
今のこの状況で神楽さんと接触したくなかったので、今日は彼女と視線を合わさないように、極力努力していたのだが。
「何でしょう、あの、あまり時間がなくて」
呼び出されたのなら無視するわけにはいかない。
しぶしぶ言われた部屋に入って行った。
神楽さんは松の後ろで注意深くドアを閉めた。
「ごめんね!時間中に。すぐ済む話だから」
神楽さんは言った。
ふたりは椅子にも座らず立ったまま、向かい合っていた。
「昨日、斎賀さんからお話があったでしょ?」
彼女は早速始めた。
「えっ」
「ニューヨークに行くのは私じゃなくて、徳永君に決まったって斎賀さん、そう仰っていたでしょ?」
神楽さんもこの件の当事者の一人なのだから仔細は聞いているのだろう。
が、松にそれを話す必要があるのだろうか。
「いいわよ、返事しなくても。わたしが勝手にしゃべっているだけだから」
神楽さんは言った。
「上がどういう事情で判断したのか、この件に関してはわたしもよくは知らないの。とは言っても、表向きはわたしの親が病気で介護が必要になったからいけなくなった、という事になっている」
「はあ」
「でも、実際はそんな事は殆ど関係ないと思う。要は斎賀さんは徳永さんが欲しくて、側においておきたいからなのよ」
神楽さんが坦々と話し続けるのを、松は黙って聞いているしかなかった。
「今ね、ニューヨークで大きなプロジェクトが始まっていて、もともとその案件の発案者が徳永君なの。これは彼が上海に居てた頃から温めてて来たもので、決済を下したのが斎賀さん。斎賀さんがニューヨーク支社長になった時点で、ふたり二人三脚でやっていこうとやり始めてきた矢先に911の事件が起こって、取引先が撤退しちゃって頓挫しかかっていたのよね。だけど先月になって新しい出資者が見つかったので、棚上げになっていたプロジェクトを再稼働させる事になったのよ」
「そうですか」
と、松は言った。
神楽さんは普通に喋っているように見えて、口調は歯切れがいい。
この事態を歓迎しているように見える。
「そうなのよ!そういう事もあって、斎賀さんは最終的に徳永君をニューヨークに連れて行くっていう判断を下したんだと思うの」
松は苛立たし気に下を向いたりして落ち着かなげにそわそわした。
わたしに何を言ってもらいたいのだろう。
「神楽さんは、それでよかったんですか?」
と、松は静かに問うた。
「え?」
「だって、親御さんのご病気がもしなかったらニューヨークに行くのは神楽さんだったんでしょ?」
行きたがらないような事を言っていても、ここの会社での海外駐在は、出世の必須条件だ。
しかも海外支社の中でもニューヨークが一番グレードが高い。
出世する人達は、皆、ここに派遣されると言われている。
ニューヨークへ行きを示唆されるということは、彼女は能力を買われたと言っても過言ではないだろう。
「さっき言ったでしょ?取引先が変わったって。前の相手と違って、今の相手はこの案件に詳しくないのよね。なのにやたらプロジェクトをリードしたがってさあ。要は、わたしとは相性が合わないのよね。だけど徳永君ならあの人達ともウマが合うみたいだし、何より徳永君はプロジェクトの発案者だから、あちこちコネがあって、押しが利くのよ。だから、斎賀さんも徳永君に任せたいと思っていると思うんだ」
そういえば、神楽さんセクハラに遭っているって噂があったよな。
相性が合わないってこの事を言っているんだろうか。
「だからさ…」
だから?
「花家さんには、是非徳永君にはニューヨークに行くよう勧めて欲しいんだよね」
「・・・・・・・・・・」
「あの人、頑固でしょ?こうと決めたら絶対に翻えそうとしないし。多分、仕事の内情がどうなっているのか花家ちゃんにも言わないと思うんだ。自分が情熱をかけてずーーーっと温めて来たプロジェクトをやれるチャンスにあるって言っちゃえば、花家ちゃんの性格からしてみれば、反対できないでしょう?」
だから、わたしが代わりに言ってあげているのよ、と彼女はドヤ顔を浮かべる。
なんかイラっとする。
そんな事ないもん。
徳永さんはちゃんとわたしに何でも話してくれるわよ!
と言い返したかったが、何も言わない方が得策な気がした。
ここでノせられたら向こうのペースにはまってしまう。
「もちろん、ニューヨークに行くとなれば今の会社を辞めなきゃならないし、ウチの会社の契約社員にもなれないし、花家ちゃんも今まで契約社員になるために、勉強してきて心残りかもしれないけれどさ。でも、ニューヨーク支社で現地採用してもらって徳永君と一緒に居られる方がいいでしょ?私は、一緒にニューヨークに行く方が絶対いいと思うわ。お勧めする」
その言い方は、さっきよりさらにひどい苛々を煽った。
想像している事を神楽さんの口から言われると、なんだかとても嫌な気がした。
なんでこんな第三者から自分の進退に関わることを、なにより夫になる大事な人の事をあれこれ言われてアドバイスを受けなければならないのか。
「わたしの言いたい事はそれだけなの。徳永君、昨日斎賀さんと話をしていると思うんで、きっと明日以降この話をしてくれると思うけど、この点を考慮してよく考えてほしかったんだよね」
「…仰りたい事は、わかりました」
話を早く切り上げて欲しくて松は頷いた。
「話はこれで終わりなの。ごめんね、時間中に呼び出したりして」
彼女は満足そうに笑顔を浮かべると、ドアを開けて松を先に出るように通してくれた。
松は軽くお辞儀をしてその場を辞して、やれやれとデスクに戻った。
背後の席の神楽さんが、こちらを見ていないのを見計らって机の下でこっそりメールチェックをしてみたが、徳永さんからは何も入っていなかった。
松は、
『明日、到着の時間がわかったらお知らせください。時間外だったら駅まで迎えに行きます』
というメールだけ打った。
その後、午後じゅうずっと返信が来ていないか、何度も携帯を確認し続けたが、音沙汰は何もなかった。
徳永さんから返事が来たのは、松が帰宅して丁度夕食を済ませたところだった。
風呂の準備でもしようかと立ち上がったとき、リビングの机に放置していた携帯がけたたましくなり始めた。
「はいッッ!ももも、もしもし!!」
『ぶっ』
松の勢い余った応対があまりにおかしかったのか、受話器の向こうで噴出している。
『えらく元気だね。そんなに電話を待っていたのか?』
もぉ~~、えらく元気だねじゃないよ。
こっちはずっとやきもきしながら待っていたっていうのにさ。
「・・・・・・・・・・」
『ごめんごめん。昼にメールくれていたのに返事ができなくって今になっちゃってさ』
「まだ名古屋なんですか?」
気を取り直して尋ねてみる。
『いや、あれから移動して今は大阪だ。飛行機で明日帰るから駅までの出迎えはいいよ。夕方遅くか夜になるからオフィスには寄らないけど、その代わり外で外食にしないか?』
「外食ですか?」
外食なんて久しぶりだ。徳永さんが今の部屋に引っ越してからめっきり外で食事することなくなっていたよな、そういえば。
「わあ、嬉しいです」
『じゃあどこかいいお店がないか調べておくよ』
「それぐらいわたしがしますよ」
『いや、最近いい店をみつけたんだ。そこどうかなって思って』
徳永さんがそういう言い方をする事はめったにないが、彼に連れて行ってもらった店で外れた事はないので、きっと間違いないに違いない。
「そうですか?分かりました」
『後で、メールしておくよ』
「はい、待ってます」
『じゃ』
「あの…」
『ん?』
電話の向こうでガヤガヤと複数の人達の話声が聞こえた。
きっと会食中を抜け出て電話を掛けてくれたに違いない。
「何でもありません。明日、楽しみにしています」
そう言って、電話を切った。
翌日の夕方、終業ベルの音とともに松は早々に仕事を仕事を終わらすと、急いでオフィスを後にした。
彼が伝えてきた飛行機の時間からすると今ぐらいにはこの辺りに到着しているに違いない。
松は、彼が指定してきた店に急いだ。
「ショウ、こっちこっち」
松が到着すると、徳永さんはすでに店に入っていて、松を待っていてくれていた。
彼は席の向こうで優雅にお茶を飲みながらこちらに向かって手を振っている。
が、松は完全に面食らっていた。
言われた通りの場所に赴いてみれば、最近できたばかりの都内でもエグゼクティブクラスの高級ホテルのビルに入っているレストランだったからである。
こんな店ならそうと言っておいてほしかった。
「もっと、マシな恰好をしてくればよかった…」
松はポツリとつぶやいてボーイさんが引いてくれた椅子に腰かけた。
「別に気にすることないよ。ここは接待で使った事があるけど普段着姿の人も多いし、こう見えてわりと気さくな店なんだ」
とはいえ、徳永さんは夕方にも関わらずいつものビシっとしたスーツ姿がキマっていて、店のグレードともバッチリつり合いがとれている。
まあ、徳永さんなら普段着だろうがタキシードだろうが作業着だろうが何を着ていてたって、どこでも出入りできそうだけど。
食事はフレンチだった。
高級そうな食器が運ばれてきて、一瞬恐れおののいた松であったが、大皿のとりわけ料理だったのでわりと気軽な気分で過ごせた。
徳永さんは食事中も数日前と変わらない様子で陽気だった。
ワインをボトルで頼み、盛られた料理を美味しそうに口に運んでいる。
彼の笑顔を見ると松はほっと落ち着くことができた。
ああ。こんな雰囲気は前にも過ごした事があったよな。
ニューヨークに遊びに行ったとき彼が予約してくれたレストランでのことだ。
安価で美味しくて雰囲気のよい店で、松はあの時、彼に買ってもらった赤いベルベットのドレスを着ていた。
もし松がニューヨークへ彼と共に行けば、あの店にもまた行く事になるのだろうか、と思った。
アメリカ人は取引先ともファミリーでの付き合いが多いらしい。
松は、食事を口に運びながら、自分が外国人家族と一緒に小洒落たレストランに赴いて一緒に食事をしたり、会話を楽しんだりする姿を思い浮かべていた。
「美味しかったかい?」
徳永さんはネクタイをゆるめて、かなりくつろいでいた。
彼の目の前のコーヒーカップはもう空だった。
「えっと、はい」
「食事がすんだのなら、ちょっと買い物にでも行こうか」
あたりはすっかり帳がおりていて、窓の外は真っ暗だった。
柔らかなクッションの肘掛け椅子はふかふかだし、テーブルの上には暖かなキャンドルがともされているし、レストランの中はとても居心地がよかった。
まだもう少しこのまま徳永さんの笑顔を眺めていたかったが、彼はそんな松におかまいなしに、早々に席を立って会計に行ってしまった。
松は名残惜し気に彼の背中をぼんやりと見つめた。
買い物って、何か欲しいものでもあるのかな。
いや、買い物ではなくて、今日は何か重要な事について話し合わないといけない気がするのだけど。
酔いが少し回った頭を支えながら松は徳永さんの後を追いかけた。
松は彼がこのままビルの外に出るものだと思っていたが、彼はホテルの地階に繋がる絨毯の敷き詰められた階段を下りてゆく。
「???」
「ここでゆっくり買い物でもしようか」
徳永さんは降り立ったフロアーをゆっくりと歩きながら、そう言った。
「徳永さん、ここって」
「何か好きなものがないか選ぶといいよ」
徳永さんは、ずんずんとたくさんある店のあちこちに入っていく。
いわずもかな、ここはホテルに入っている高級ブランドのブティック街だ。
「こんなところで買い物だなんて」
店の前で怖気づいて進めなくなっている松である。
「たまにはいいじゃないか。ほら、こっち来てみろよ」
彼はそう言って、いかにも高級そうな店に入り、ハンガーにかけられている色鮮やかなワンピースやスーツを取り上げて吟味しはじめた。
「これなんかいいんじゃないか?」
鮮やかな色合いのワンピースを松の体にあててみる。
「と、徳永さんこれとても高そうだしいいよ」
松は、まわりに聞こえないよう小声で必死に訴えるのだが、徳永さんは耳を貸そうとはしない。
「そうだな、ショウにはちょっとこのデザインは合わないよな。色も派手すぎるし。もうちょっと抑えた色味のほうがショウにはいいかもしれない」
突然のイケメンの登場で、気をよくした店員は次から次へと徳永さんが気に入りそうな服を裏方から持ってくる。
なんかこういったシチュエーションは前にも体験したことがある。
あの赤いベルベットのドレスを買った店でも、松が他の安い服を選んでこれにしようと言っているのに、彼は赤いドレスにしろと拘って譲らなかったことがあった。
ちらっと値札を見るとやはりとんでもない数のゼロがついていて、松はずっと冷や汗のかき通しだった。
こんな服、試着すらしたことがない。
だいたいこんな高級な服を買ったところでいつ着る機会があるだろうか。
散々骨を折った挙句、松はバーゲン品のごくシンプルで地味なクリーム色のツイードのスーツと、それに合う淡い薄紫のセーターで彼を納得させた。
バーゲン品とは言え、やはり相当な金額がしたのだが。
店を出た頃には松はヨレヨレになっていた。
「徳永さん、今度はどこに行くんですか?」
ようやく一息ついたところで、松はハタと足を止める。
「だって、服の次は靴だろ?」
「靴?」
「ほら、あそこに靴屋がある。ちょっと覗いてみないか?」
徳永さんの体は半分そっちに向いている。
はあああ???靴????松は卒倒しそうになった。
「いい、いいです!これだけ買ってもらってもう十分ですよ!」
「だってこの服に合う靴が必要だろ?」
は?
こんな高級な服を買って更に靴を買うだと??
「いいえ!うちにいっぱい靴がありますし、足りていますから、必要ないですよ!!」
松は、冷や汗をダラダラ流しながら彼に訴えた。
急にどうしちゃったの、徳永さん?
「そうかい?」
「はい、家にこの服にあう靴が山のようにありますから、お気持ちはありがたいですけど、また、今度にしましょうよ」
彼に気を悪くさせないように、松はにっこりと笑いかけて両手で彼の肘を引っ張った。
徳永さんは
「それなら、仕方ないな」
と言って、残念そうではあるが靴屋をあきらめてくれた。
はぁ~~よかった……ん??
「あの、どっちへ行くんですか?」
「ほら、こっちにエレベーターがあるから」
「地下鉄に直結している出口はエレベーターではいけないですよ?」
「電車には乗らないよ」
「は??」
松はずんずんと歩いていく徳永さんの後ろを歩いていく。
彼は、ぴかぴかに磨きあげられたエレベータのドアの前で立ち止まった。
「今日はここのホテルに泊まろうかと思って」
「ええっ?」
「たまにはいいだろ?」
にっこりと彼が笑っているのを松は呆然と眺めるしかなかった。
チンと華麗な音がしてドアがスーっとが開き、徳永さんは買い物したブランドバッグの紙袋をさげてない方の手で、松の腕をを引いてエレベーターに乗り込んでしまった。
松はさっきから足が震えっぱなしだった。
なぜなら、松が今いる場所は、松が今まで聞いたことはあるが見たこともない、生涯出入りすることなどありえない縁遠い世界であったからだ。
徳永さんが予約していた部屋はどうやらスイートと呼ばれる類のものであろう。
恐ろしく広い部屋にでかいベッドが鎮座していて、重そうな緞帳のカーテンの向こうの広い窓から東京の夜景が一望できる、そんな部屋だった。(松のような人間でもスイートと呼ばれる部屋にグレードがいくつかあるのは知っている。が、いくらの値段の部屋かもはや聞くまいと思った)
「ショウ、そんなところに突っ立っていなくて、こっちに来て座りなよ」
徳永さんは外した腕時計を何気ない仕草でベッドサイドのテーブルに置きながらそういうが、そのベッドがやたらとバカでかい。
隣の部屋には絹張の高そうなソファーセットが設置されてあり、大理石のテーブルの上にはバカラ(と思われる)の花瓶に生けられたバラの花が飾られていた。
松は歩みを進めたが絨毯がふかふかすぎて、足が半分以上うまるかと思った。
なんとかベッドのところまで到達すると、松はおとなしくそこに腰かけた。
純白のリネンのカバーで覆われたベッドは言いようにもないほどふかふかで柔らかった。
「あ、あの、徳永さん…」
「ん?」
「なんで急にホテルに泊まろうと思ったんですか?」
「いつもオレの部屋で過ごしていたでしょ?羽田に着いたときにね、たまにはいつもと違うところで、ゆっくりとのんびりしたいと思って、ここを予約しようと思いついたんだ」
「…そうですか」
「急ですまなかったね」
「そんな、びっくりしたけど、嬉しかったし」
徳永さんの松の窺うような表情に気が付いて、松は慌てて笑顔を作った。
「もっと事前に知らせておけば着替えとか用意できたのに。今日は何も持ってきていないんじゃないのか?」
「ええまあ、それはそうですが」
「化粧品とか下着とか、女性は色々と必要だろ?そういえば地階に、着替えや化粧品を売っているような店も入っていたと思う。後でまた買いに行こうか」
そんな店はいっていたかな?と、松は思った。
だいたい徳永さん地階に降りてからすぐ、さっき買い物した店に直行していったもん。
地階にどんな店がはいっているか、事前に下調べしてくれていたんじゃないだろうか。
「・・・・・・・・・・」
「でも先に一服させてくれる?」
徳永さんはネクタイをはずすとそれをぽいとソファーになげた。
一服って煙草でも吸うのかな?
と思ったら、彼は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
また飲むの?
さっきレストランでワインを飲んだばかりなのに、まだ足りなかったのかな。
松は彼がプルタブに手をかけている姿を眺めていた。
何をやらせても彼の姿は絵になった。
彼は、喉を鳴らしてビールを美味しそうに飲み始めた。
だが、松が座っているベッドの側には近寄らず、松に半分背を向けて視線は窓の外の夜景に向けられていた。
そういえば、いつもああいった洒落た店で外食しても、グラスワインをそれぞれ一杯づつぐらいしか頼まないのに、今日はボトルを頼んで空にしてしまったっけ。
松が飲んだよりはるかに多く彼の方が飲んでいたような気がする。
今日はいつもよりお酒がすすんでいるよな。
「お仕事、大変だったんですか」
と、松は言った。
「予定より出張が長引いたからね」
と、徳永さんは答え言たが、背中は向けたままだった。
「大阪に行く予定がなかったので、疲れているのはそれでかな」
松は、そうかな、と思った。
海外出張で予定が変わることは徳永さんの場合、昔からよくあるのにな。
徳永さんは再びビールに口をつけた。
こうしていると男らしい喉ぼとけが上下するのがはっきりと見える。
まるで猛烈に喉を渇かせた動物が、わき目もふらず、がつがつと水にくいついているかのようだ。
その姿が何とも獰猛で肉欲的に感じられた。
明らかにいつもと違っている。
食事をしている時には分からなかった違和感がいまでははっきりと感じられて、松は少し不安になった。
どうしちゃったんだろう。
何かあったんだろうか。
あの件以外に。
「ねえ、徳永さん」
「なんだい?」
松に呼ばれても徳永さんは松の方向に向かない。
そしてもう一度ビールを呷った。
彼の左手に持たれたビールの缶が小刻みに震えているのがわかった。
よく見ると、手だけではない。
彼の体も心なしかブルブルと揺れているように感じられる。
なんで震えているんだろう。
この部屋は、暖房も効いているし寒いってことないよね?
「・・・・・・・・・・」
松は、ベッドから立ち上がった。
そして音もなく彼の方に近寄り、そのままソッと彼の体を背中から抱きしめた。
徳永さんは一瞬ビクリと体を震わせた。
松はそれでも、包み込むように彼の体を抱きしめ続けた。
「…急にどうしたんだ?」
と、彼は缶ビールを手にもったまま低い声で尋ねた。
「急じゃないよ。この前、途中でやめちゃったでしょ?だから」
「だから?」
「だからね」
松は言った。
「徳永さんにギュッとされたかったし、わたしもギュッとしたかったの」
彼はしばらく何も答えなかった。
沈黙だけがこの広い空間を支配していた。
松は自分の心音と彼の心音を、体中で感じていた。
松は、自分が今すべき事を直感的に感じた。
徳永さんを苦しめるもの、怯えさせるものから守りたいと思ったのだ。
「徳永さん、わたしどこにも行かないから」
「え?」
「ずっと、徳永さんの側にいる。会社を辞めなくちゃいけなくなっても、徳永さんと一緒ならどこへでもついていく」
「・・・・・・・・・・」
「たとえそれがニューヨークでも」
「…ショウ」
「どこへでも行くからね」
徳永さんは、ビールの缶を窓枠の隙間におくと、松の手を振りほどいて突然くるりと振り返った。
「キミは何を言っているのか分かっているのか?」
と、彼は言った。
「分かってもいるし、覚悟もできているよ」
と、松は言った。
「それも、遠の昔に。徳永さんも知っているでしょ?」
彼は松の両手を自分の手に包み込んだ。
そして、引っ張って行っていくと、彼女をベッドに座らせ、自分もその隣に腰かけた。
彼は、松の唇に顔を近づけ、そのまま接吻した。
「…んっ」
かみつくような深いキスだった。
舌が入ってきて、息ができないくらいの快感と息苦しさが増してゆく。
松はそのままベッドに押し倒された。
逆光でよく見えなかったが、彼は、ひどく真面目な顔で松を見下ろしていた。
「オレは君が思っているような立派な男じゃないんだよ」
と、彼はいきなり言い始めた。
「好きな女性に求婚した直後に、あれは嘘だと言って、突然去っていってしまうような酷い男なんだ」
「知っているよ」
「カッとなって見境なく喧嘩をし始めたり、女に怪我を負わせるようなそんな情けない人間なんだって、分かっているのか?」
「うん、それも知っている」
松のその言葉を聞いたとき、暗闇の中でも、彼が不敵な笑みを浮かべたのが松にもわかった。
彼がこんな顔をしたのを松は初めてみたような気がした。
「わたし、徳永さんの事を愛しているの」
と、松は言った。
「本当に愛しているの」
徳永さんは一瞬、大きく目を見開き、くっと微笑んだ。
「知っている」
と彼はそう言うと、顔を傾けて松の唇に再びキスを落とした。
ゴツゴツした手が松の服に手を掛けてゆく。
細くてしなやかでいつも見惚れていた徳永さんのセクシーで美しい指や手を、松は初めて男な手なのだと感じた。
彼は頬と言わず、唇と言わず、胸と言わず、接吻の雨を降らせた。
息遣いは荒々しかった。
松は彼の想いに応えるために、必死に彼の求めに応じた。
それはとても自然な行為だったように思われた。
最初は固くなっていた松の体は、次第に溶かされていった。
だけど、固くなっていたのは松だけではなかった。
彼は夢中で松の体を貪っていた。
松は、彼の事が愛しくて愛しくてたまらなかった。
彼の頭と体を胸いっぱいに抱きしめ、彼の匂いが心も体も松の全てに降り注がれた。
わたしは徳永さんを愛している。
徳永さんに愛されている。
わたしが望んでいたものはこれなのだ。
松は肺一杯に空気を吸い込んで、深呼吸をした。
松は、自分の気持ちがどんどんと落ち着いてゆくのを感じた。
<55.私達の未来>へ、つづく。




