52.嵐の後
52.嵐の後
徳永さんのアパートにふたりして帰り着いたのは夜の七時頃だった。
もっと遅くなるだろうと予想していたのだが、話の密度?は濃かったものの、実家で話していたのは小一時間ほどだったので、案外早く帰ってこれたようだ。
本来の結婚の挨拶なら、祝杯をあげ、食事でもご馳走してもらって、それなりに時間をつぶして帰ってくるのだろうが。
帰りの新幹線でも徳永さんは行きと全く同じ、頓着なく、別段疲れた様子も見せず、テーブルの上に例のノートパソコンを引っ張り出して、仕事をしていた。
松が寝がえりをうったり、隣のイケメンの横顔をジッと見つめたりすると、微笑み返して、無駄話に付き合ってくれた。
途中で外食をしようかと松は提案したが、カイ君が夕食を作ってくれていると連絡があったので、何も食べずに部屋に戻ってきた。
「ただいまーあれ、義己、いないのか?」
玄関は鍵がかかっており、中は真っ暗だった。
部屋は寒かったが、キッチンには夕食が準備されており、テーブルの上には「バイトいってくる」という簡単なメモ書きが残されていた。
「あいつ、気を利かせたんだな」
徳永さんはそう呟くと、嬉しそうに目じりをよせて自室に着替えに入って行った。
本当に仲のいい、絆の強い兄弟だよな。
素敵なことなのに、なぜか松は、ぎゅっと胸を締め付けられるかのような苦しさを感じた。
彼が着替えている間、松は料理を暖めなおして、食べられる準備をあれこれとした。
食事の準備ができて、向い合せにテーブルに着き、いただきます、と手を合わせて夕食を頂く。
煮込み料理は昼間から火をいれいたのだろうか。料理上手という以上に、作り手の人柄とか優しさが伝わってきて、こんな美味しくて家庭的な料理をさりげなく準備してくれたカイ君の気持ちが五臓六腑に行きわたってゆくようだった。
「ショウ?」
美味しそうに食べていた徳永さんは、松が突然食べることを忘れて泣き出したので、ものすごく驚いて口に運んでいたスプーンを慌てて止めた。
「ど、どうした?口に合わなかったのか?」
「ち、違う…」
松は、スプーンをテーブルに置いて両手で顔を覆った。
「違う?」
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさい?」
「ごめんなさい…なんか…なんていうか、その、会わす顔がなくて」
「へっ?」
徳永さんは理解できずに怪訝に首をかしげている。
「今日は徳永さんに、ううん、こんな美味しい料理を作ってくれるカイ君にだって、ウチの母親がとんでもないひどい事を…」
松は、今日の母の態度や彼女の発した言葉の隅々まで思い出すと、胸がつぶれるほど、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ひどい事?」
切れ切れな松の言葉に、徳永さんは聞き辛そうに耳を寄せた。
「どこの馬の骨だのとか…徳永さんのご先祖がどん百姓とか平民のくせにとか…厚かましいとか…他にも色々…ひどい言葉ばかりで、ごめんなさいでは済まされないような失礼な事を、本当にすみません…」
「ああ、そのことか」
徳永さんは、小さく息を吐いて頷いた。
「別に気にしなくていいよ。今日は相当な事を言われるだろうなって覚悟していったから、大したショックではなかったし」
松は顔を覆っていた手をのけて顔をあげた。
「どこの馬の骨とか、平民?呼ばわりは時代錯誤な言い回しだったけど、ウチの先祖が百姓だったのは本当の事だし、賛成されていないのを分かってて挨拶に行ったのは確かに厚かましかったと思うしね」
徳永さんは、うちの先祖が四代前までド田舎の百姓だったたことまで知っているなんて、本当に良く調べているよなあ、なんて別の意味で感心していた。
「徳永さん…」
松は目を大きく見開いた。
徳永さんはいつもの屈託のない笑顔になっている。
本当に気にしていないの?
「ほら、泣いてないでもっと笑ってよ」
「笑う?」
どこに笑える要素があるというの?
「何落ち込んでるの。それに今日は、八割方成功だったじゃないか」
「は?成功??どこがですか?」
「だって、試験に受かりさえすれば、結婚を認めるって言ってもらえたでしょ」
そりゃあまあ、そう言いはしましたけどさ。
「東京に住むことも理解してもらえたようだし、花家家から立派に嫁に出すって、はっきりとそう仰っていたし、ほぼ承諾をもらったも同然じゃないか」
「まあ、そう言えなくもないですけど…」
確かに、会話の最後はそんな感じで締めくくられたけど、あれほど怒っていたんだよ?そんなに安易に喜んでいていいものなのか。
「で、でも」
母の性格をよく知る松は、徳永さんのように安心はできなかった。
あんな言われ方をして、いい結果になるとは思えなかったのだ。
「それとも、ショウは、自信なくなったのか?」
徳永さんは松の頬に流れた涙を手の甲で優しく拭うと、近くにあったティッシュの箱を渡して、洟を拭うように勧めた。
「お母さんに、“試験に受からない”って断言されて、そんな気持ちになったのか?」
「そんな」
「“お前はきっと家に逃げ帰ってくるに決まっている”って言われて、そんな未来を想像してしまったとか?」
「そ、そういうわけじゃないです」
松は、強く否定した。
ああいわれて、気分は悪かったが、昔みたいに母の予言めいた言葉にそれほど動揺しなくなっていた。
おそらく徳永さんがいてくれたお蔭だろうと思うが。
「―――じゃ、違う理由があるから、そんな顔をしているのかな?」
と、彼は言った。
「違う理由?」
「オレに失望したとか?」
「え…?」
「オレが女に暴力をふるって入院させるほどの怪我を負わせるような人間だって知って、嫌になっちゃったとか?」
「・・・・・・・・」
徳永さんは、悲し気に睫毛を伏せた。
「なんで聞いてくれないの」
しばらく間をおいてから、徳永さんは不満そう言い足した。
「え…」
「なんで女に暴力ふるったんですかって、それは本当なんですかって、何で聞いてくれないの。それとも、そんな事はどうでもいいことだったのか?」
「どうでもいい事ではなかったですけど」
松は言いにくかった。
母にああいわれた時、とっさに浮かんだのはカイ君の話だった。
“兄貴は武道をやっていた経験があって、ものすごく強い”
彼自身も、今日の話していた中でも喧嘩が強いことを自分でも認めていた。
だから、怪我をさせた相手の中に女性がいても不思議はないのではとも思っていた。
「嫌になったとかそうじゃなくて。そういう事もあるのかなって、思いましたけど」
松は何と言っていいか分からなかった。
「多分、言いにくい話だったんだろうと思って、敢えて触れない方がいいかなって」
徳永さんは、今度はフゥーっと長く息を吐くと、ハハハと緊張をほぐすかのように軽く笑った。
「気配りしてくれるのは嬉しいけどね」
と、彼は言った。
「いけなかったですか」
「ちょっと寂しいと感じるときもある。いつになったら、もっと近づいてきてくれるんだろうって思う事があるよ」
「別に距離を置いているつもりはなかったです」
なんて言うのかな。
「単に、踏み込まれたくない話なのかなあって思っただけで」
徳永さんは再びスプーンを取り上げると、食事をつづけた。
松も無言でゴハンを食べ続けた。
「失望するのが怖いからって、思っていない?」
食べ終わると、徳永さんは静かにそう問うた。
「え?」
「花家ちゃん、オレにはまだなんかとんでもない高い理想を見ているところがあるでしょ。耳の痛い話は聞きたくないって、そう思っていないか?」
そういわれると、そんな気がしてしまう。
そうなのかな。徳永さんを気遣って聞かなかっただなんて言い訳だったのかな。
聞きたくない事に蓋をしていたのかなわたしって。
「ごめんなさい」
松は素直に謝った。
「でも、母の話を鵜呑みにするような質問をするのも嫌だったし」
ううん、それだけじゃなくて。
「今日は母にあそこまでひどく言われて、これ以上徳永さんを問い詰めるような事もしたくなくて。だって、もし、この話題で徳永さんと喧嘩にでもなったら、それこそ母の思うつぼのような気がして、口にするのも嫌で」
真剣に話す松の言葉に、徳永さんは納得したようで、
「わかったよ」
と言いはしたが、寂しげな表情はそのままで、微笑んではいるけれど眉尻を下げて息をついていた。
洗い物をしている間もふたりは黙っていた。
なんとなく気まずい。
松は、どうしようかと思った。
結婚してからでも、これから何度もこういったやり取りはあるだろう。
行き違いや誤解は、話さなければ解決できないのだ。
松は、やはりこのままにしてはダメだと思った。
「もし、話すのがお嫌じゃなかったら―――」
何があったのか話してくれませんか?と、松がおずおずと口を開こうとしたとき、
「あれは、女の記者だったんだ」
と、彼が突然口火を切った。
「え?」
「怪我をさせた女性っていうのは、オレが野球選手になって間もない頃だ。もう十年以上前の話だ」
「そんなに前?じゃ、まだ十代?」
松は、洗い物をやめてキッチンから振り返った。
「そう。トレーニングのために球団が指定していた宿舎に寝泊まりしていて、オレ以外にも多くの選手がそこに泊まっていた。当時オレは鳴り物入りで入団して、注目されていたんだよ」
「鳴り物入り?」
「外国帰りの強腕の持ち主だって言われて…」
今じゃそんなの嘘みたいだろって、あの時代と比べたら腕の太さは半分以下だな、なんて二の腕を持ち上げて笑っている。
「まあ、若かったし外見がいいとか言われて、だいぶ評判がたっていたんだ。記者もワンサと集まってきていて、宿舎のまわりはオレ目当てのファンだの記者だのたくさんいたんだ」
そんなに有名だったのか。
松は当時の記憶を手繰り寄せようと思ったが、いかんせん十数年前の松と言えばまだ十歳前後の子供で、男っ気のない世界で生きていた彼女は、野球のやの字どころか、そういった世界には全くもって知識がなかった。
「ある日、女がひとり宿舎に入り込んでね」
と、彼は言った。
「オレはひとりで廊下を歩いている時、その女と偶然鉢合わせてしまったんだ。それをまた運悪く、同僚の選手に見つかって」
徳永さんは淡々と続ける。
「オレはその女が何でそこにいるのか分からなかった。宿舎には職員や球団の関係者もいるからそのうちの一人かもしれないと思ったし。だが、その選手はオレがその女と逢引していると思い込んだらしくて、なんだかんだと、言いがかりをつけてきて」
「いいがかりって?」
「黙っていてやるから、あれをしろとか、コレをこうしろとか、まあ、口にするにはちょっと憚れるような事をね」
松は、ゴクリをツバを飲み込んだ。
華やかに見える野球の世界の裏側を見たような気がして嫌な気持ちになった。
「オレはまだ高校を出たばかりのガキで、世間のしきたりとか、礼儀とかまるで知らなくてね。しかも外国帰りでまったく習慣の違う日本の球団でもちょっと浮いていたんだ。彼は、きっとそれが気に食わなかったのかもしれない。まあそんな感じでオレもイライラしていて、そんな時に、あれこれ言われてついカッとなって手がでてしまって」
「手が出てって、誰のことですか」
「もちろん、オレがさ」
徳永さんは拳をつくって振り上げるしぐさをして見せる。
彼がイライラして手が出るだんてあまり想像できない。
「誰に手をあげちゃったんですか」
「もちろん、男のほうにだよ」
「で、殴っちゃったと?」
「いや、襟ぐりを掴み上げただけ。だけどオレの方が背が高かったから、向こうが浮き上がるような感じになっちゃって」
徳永さんは、襟首を持ち上げる真似をして、当時の状況を再現してみる。
「で、事もあろうか、さっき側にいたその女がオレがソイツを掴み上げている姿を、カメラを取り出して撮ろうとしたんだ。その女はオレのファンでも球団の関係者でもなく、スクープを狙っていた記者だったんだ」
「そんなところを写真に撮られたら大変な事になるじゃないですか!」
「そう。だからオレは咄嗟にその男から離れて女のカメラを奪いにいったんだ。女は当然ながらカメラを抱いて離そうとしない。揉みあっているのが、オレが女に暴力をふるっているように見えたんだろう。その男が後ろから掴みかかってきて、オレを女から引き離そうとした。それがものすごく頭にきてね。この野郎、何すんだって感じでつっぱねたんだ。だけど、武道をやっていた習慣から、つい相手の手首をねじり返した上、壁に突き飛ばしてしまったんだ。それが発端になって喧嘩が始まってしまった」
「その男の人と?」
「そうだ」
「で、その時に、肘を怪我されたんですか?」
「そ。向こうも止めに入っただけなのに、壁にたたきつけられるとは思わなかったんだろうな。図体がでかくなってから、あんな派手な喧嘩をしたのはあれが最後だったけど、それが一番最悪だった。オレもけがをしたし、向こうもかなりダメージを受けていた」
「女の人は?」
「揉みあっているうちに、足を滑らせて斜めにひっくり返ったようで、擦り傷を作ったんだ」
「擦り傷?」
「向こうも必死でカメラを奪われまいとしていたから、けっこう大きい力で揉みあってしまったのかもしれない。まあ、転んで膝から血が出た程度だったと思うけど」
松は、なんだそれは、と思った。
徳永さんは再起不能になるようなひどい怪我をしたというのに、怪我の原因を作った記者が転んで擦りむいただけなのか。
「記者の方は、住居に不法侵入した罪もあるから、球団側と示談にしたときに、女を怪我させた云々はもみ消したんだよ。最終的には、オレとその先輩選手と個人的な喧嘩をした、という事で話は終わったんだ」
「でも、そんなのって納得できないですよ!徳永さん何も悪くないじゃないですか。なのに、どうして辞めないといけなかったんですか?」
「あの時、カッとなって本気で殴ってしまったのは、オレの過失なんだよ。喧嘩の相手だった男も投手で、腕と体は商売道具だからそうそう本気の喧嘩なんて、普通はしないもんだ。オレの力がかなり強かったから、向こうも本気を出してしまったんだと思う。それにたとえ、温情をかけてもらって球団に残れていたとしても、結果的に、肘を怪我してしまったわけだし、選手として大して役に立たなかっただろうね」
説明する徳永さんの顔から、当時の事を悔いるような表情は浮かんでいなかった。
過ぎ去ってしまった過去を坦々と述べている、そんな口調だ。
「オレもあの後、色々あって女の記者があの時あの場にいた事すら、忘れていた。そんな話が巷で少し出回ったのは、あれからずいぶん後になってからだった。あの記者がフリーランスになって、あれこれ個人的な事を記事にしたときに、かつて新人の野球選手と揉みあって怪我をさせられて入院したと、小さなく出た事があったんだ。お母さんはその時の記事から、オレが女に怪我をさせたことを知ったんだろうと思う」
そうか、そういういきさつだったのか。
今日の母の言い方では、徳永さんがものすごく酷い怪我をさせたように聞こえたけど、そうではなかったんだ。
「でも、擦り傷だったんでしょ?その人本当に入院するほどの、いえ、記事に書くほどの怪我をしたんでしょうか?」
「オレもそこまでひどい怪我をしたとは思っていなかったよ。入院したのも知らなかったし。だけど、ともあれ事実怪我させたのはこちらだし、そういう記事が載ってしまったのは仕方のない事で、当時のオレの力ではどうすることもできなかったんだよ」
ひどい。
松は絶句した。
「まあ、そのころオレは、世間からまるで忘れ去られていたから、記事がでたところでどうと言う事もなかったけどね」
松は、話を聞きながら変な気分になった。
さっきから、徳永さんが“自分でも忘れてしまっているような事”を、母は知りすぎているような気がした。
興信所って、そんな個人的な昔の出来事まで、事細かに調べ上げる事ができるのだろうか。
「―――徳永さんって、本当に偉いですね」
「え?どこが?」
松のいきなりな意見に、徳永さんは、意外そうに目を見開いた。
「さっきから、オレは少しも偉くないっていう話をしていたはずなんだけど」
「偉いですよ。そんな理不尽な目に遭っているのに、過失があったのは自分って言えるなんて」
わたしじゃ言えないよな、と落ち込んでしまう。
松なんぞは、何か起これば、いつも悪いのは母や家の人であって、責任は全て自分を振りまわす誰かの所為なんだと、言い訳ばかりしているというのに、この人は何でも自分の過失だと考えるのだ。
そんな自分と比較して、松は落ち込むと同時に、徳永さんがとても眩しい人に見えた。
「そうかな?あの場合は、確かに女の記者側が相当悪かったけど、オレがあの時、あそこまで厳しくあの男に手を振り上げていなければ、最悪の事態にならなかったと思うよ。カッとなって考えなく動いてしまうとどうなってしまうか、あの時、身をもって経験したと思っている。オレみたいに武道やスポーツをやっている人間は、普通の人と同じってわけにはいかないんだよ。腕を振り上げる前に、殴ったらどうなるかちゃんと分かっていないといけないんだ」
と、言う徳永さんの顔はとても冷静だ。
松はその顔をじっと見つめずにはいられなかった。
徳永さんは自分がカッとなりやすい人間だと言う。
ところが、松は彼がカッとなったところを殆ど見たことがない。
ということは、普段の徳永さんはそう言った素の部分は隠れている、いや、隠しているのではないか?
胸にツキンとした苦しさを感じた。
このモンモンとした気持ちは、この前ここで感じたときと同じものだ。
松は、このモンモンがよけいな不安を煽ることに気が付いた。
どうして不安になるのだろう?
徳永さんが本音を隠しているからだろうか?
松は、考え事に集中するために何も言わずに、踵を返してキッチンに戻ってゆき、洗い物を再開した。
「ショウ、どうしたの」
黙り込んで洗い物をしている松の背中に、徳永さんが声をかける。
松は、思い出していた。
カイ君が以前、兄が球団をクビになって以降、態度が別人のようにガラリと変わってしまって、自分の内に入りこんで無感動な人間になってしまったと言っていたことがあったっけ。
“自分から手を出して暴力事件を起こしてしまったことを兄貴は今でも恥じているんだ”
と、彼は言っていた。
なぜ恥じる必要があるのか不思議に思った。
理不尽な事をされて、自己防衛をしただけだったのに、なぜ、責められなければならないのか、恥じ入らなければならないのか、松には分からなかった。
彼は今でも、あの事件の事を恥じているのだろうか。
松は、洗い物を終えると、ソファーのところまできて、一緒に並んでコーヒーを飲んだ。
そして、横に座っている徳永さんを目を細めて穴が開くほど、じっと見据えた。
「なんだか怖いね。侍みたいな目になっているけど」
徳永さんは、松の目の前に手のひらをひらひらとかざした。
松はそれを無造作に払いのけた。
松は騙されないぞ、と思った。
「なんで、徳永さんばっかり悪いんですか?」
松は怒りに目を震わせた。
「徳永さんは自分ばっかり非があるようないい方をするけど、悪いのは向こうじゃないですか!なんで、自分が悪かっただなんて言うの?」
「別に悪いと思っているわけじゃない。過失があったと言っているだけで」
「でも、こちらに非があるから過失があるだなんて言うんでしょ?」
松は一層イラついた。
「わたしが言いたいのは、なんで我慢ばっかりするんですかってことで」
「別に我慢しているわけじゃ―――」
「喧嘩したからって、恥ずかしがる事じゃないですか!恥じるのはその女の記者の方じゃないですか!そりゃノせられたのかもしれないけど、だからって、どうしてそれが過失になるんですか?」
「だから、ノせられる事じたい、こっちの脇が甘いってことなんだよ」
「そんなの納得できない!」
松は、自分の事のように腹を立てた。
「徳永さんは悪くない!全然悪くない。なのに、なんでそれを理由にウチの母みたいな何も事情を分からないような人間に善人面されて、裁くような言い方をされなきゃならないわけ?」
「ショウ…」
松が止められないほどヒートアップして行くのを、もう止められないと思ったのだろう。彼は口を閉じて苦笑いを浮かべた。
「責められないといけないわけ?」
松は繰り返した。
「徳永さんは人が良すぎるよ。愛想よくしすぎると、相手をつけあがらせるばっかりじゃない!」
「まるで、鈴木みたいな言い方をするんだな、ショウは」
徳永さんは苦笑いを浮かべたまま残念そうに言った。
「は?どこがですか」
何で鈴木さんがここに出てくるんだ?
「だって、ショウはいつも但馬君にあれこれ言われて、悪くもないのにペコペコ頭さげているだろ?鈴木がそれを見て、そこまでへりくだる必要ないって、そう言っているでしょ?」
な?
松は口をあんぐりと空けた。
なんでそんな事まで知っているんだ。後ろの島まで鈴木さんとのやり取りが聞こえているのか?
「あ、あれは仕方ないじゃないですか。仕事を円滑に進めるために、多少の事は我慢しないと」
松は、しどろもどろに言い訳する。
「それはオレだって一緒。人間関係を円滑にするためには、多少の事は目をつぶらないとね」
大事なものを引き換えにするぐらいなら、愛想笑いぐらいお安い御用だよ、何ていっている。
「大事なものって、仕事って事ですか」
「あの時はね。借金があったのに失業してしまって本当に焦った。これからどうしようか、最悪クビを括らなくちゃならないのかと本気で考えた。もちろん、ショウが今言ったように、なんで自分ばっかり我慢しなきゃって何度も思ったもんだよ。でも、腹をたてたからって、事態が好転してくれるわけでなし」
「だから、自分の殻にこもるようになっちゃったんですか?」
「え?」
「徳永さん、何か不満があったとき、いっつも表情を殺しちゃうでしょ?顔に出さなくなるし、むっつりと黙り込んじゃうし」
「…そんな事ないよ」
「徳永さん、バレてないと思っているかもしれないけど、皆分かっているよ?カイ君だって心配してたし」
「心配してた?」
「兄貴が心を閉ざしちゃったんだって、そう言っていた事あった…」
徳永さんはさっと顔色を変えた。
松はまた、不味いことを言ってしまったと思った。
カイ君を話のダシに使うのは卑怯だったかな。
「そうか…」
徳永さんは顎に手をあてて、考え込んだ。
「自分ではそんなつもりはなかったけど、無意識に無口になってしまっていたのかな」
無意識?
無意識だったのかな。
彼が、あまりに真面目に考え込んでしまったので、松は心配になってきた。
またシーンとなってしまった。
顎に手をあてて考え込んでいるその姿が、また彼を遠い存在にしてしまったような気がした。
何を考えているか分からない。
それがまた、松の気持ちに不安を落とすのだ。
「あ、あの」
「ん?」
「今、わたしに、何か我慢していませんか?」
「今?」
「言いずらい事を黙っていることとか。そりゃ、一般的な人付き合いでは、無理に頭をさげたりしないといけない事もあると思いますけど、あのせめて私には、我慢してほしくないなって、思って。まあ、無意識なら仕方ないですけど」
自分でも何を言っているのか、分からないような日本語を紡ぐ。
が、徳永さんは松の言いたい事は完全にわかっているようで、
「言いずらい事を黙っているのは、ショウの方でしょ?さっきも言いずらいからって、聞いてほしいことを言ってくれなかったでしょ」
と、返されてしまった。
「う…」
そうだった。
逆に気を使わせてしまったんだ。
なんか、言い訳できない。
「それにオレは、ショウに対してはかなり本音を態度に出していると思うしね」
「へ?どこがですか?」
「そりゃあ、まあ、色いろと?プロポーズした次の瞬間に別れを切り出して置いてけぼりをくらわせたりとか、社内試験を強引に受けさせたりとか、それにホラ今回だって、親御さんに賛成されてもいないのに無理に挨拶にいったりとか、わりとしたい事をしたいようにしているような気がしているけどね」
「でもそれは…」
「泣かせてばっかりいる。今だって泣いていたでしょ。ショウの方こそ、何か我慢して言いたい事を言っていない事ないか?」
そんな事あったっけな?
と、考えた瞬間松の頭に浮かんだのは、彼がニューヨークに連れ戻されるのではないかという例の人事のことであった。
頼みの綱の斎賀さんが焦れて、徳永さんをニューヨークに戻そうとしているというのは公然の噂になっていた。
だが、松は敢えてをれを聞くのが嫌だと思っていた。
こちらから尋ねることをは、徳永さんより噂を肯定するような気がしたのだ。
「そんな事ありません…」
二人は、そのまま見つめ合っていた。
徳永さんは途中まで飲んでいたコーヒーのカップをテーブルに置いた。
そして右手で松の前髪を優しくなでつけ始め、左手で松の手の上で放置されていたカップを取り上げると、テーブルの上にそっと置いた。
「じゃ、お言葉に甘えようかな…」
「え?」
「我慢しないで、したい事をしてもいいかな?」
徳永さんはそう言って、長くてきれいな指をついと伸べると、松の長い髪を後ろの方にかき分けた。
露わになった白いうなじに、彼の唇が近づいてゆく。
この流れは…
「いいかな?」
と、徳永さんは問うたが松が返事をする間もなく、あたたかな唇が松の首筋に触れた。
キスはやむことなく深く早くなっていく。
熱く湿ったそれが、ものすごくくすぐったかった。
一気に鼓動が早くなる。
「ええと…あのいや、そのもちろん…」
「もちろん、いいよね?」
徳永さんは、片方の手を松の後頭部に伸ばし、もう片方の手で松の二の腕をつかんで静かに、ソファーに押し倒そうとした。
熱い吐息が耳元にかかって、徳永さんの香りが鼻孔に入り、麻薬のように松の理性を溶かしてゆく。
生き物が地を這うように、うなじから額、頬の上をさまよい始めた徳永さんの唇は、労わるようで、それでいてねだる様にさえ感じられた。
どきどきどき。
心臓の鼓動がうるさかった。
だけど、モヤモヤは心から消えていた。
いきなりの展開で、強引であるのにかかわらず、前回感じた焦りの様な気持ちは今回は感じられなかった。
それは、松が
“我慢しないで”
と、言ったからかもしれない。
とりあえず母親の承諾を得たからかもしれない。
理由は分からないが、今日の松と徳永さんは、いつもより一層身近に感じていた。
松は、彼には自分に対して何も我慢してほしくなかった。
自分が彼を癒せるのならなんだってしたかった。
「いいですよ」
松は、コクンと頷いた。
「もちろん…」
「ほんと?」
徳永さんは、黒い睫毛におおわれた星のような瞳を見開いた。
それは期待と喜びに震えているように見えた。
それを見て、松は一層心が落ち着くのを感じた。
わたしは彼を喜ばすことができるのだ。
彼を喜ばせるためなら、何だってしたかった。
松は、両手を伸ばして彼の背中にまわそうとした。
温もりが近づいてくる。
そして、そっと抱きしめた……はずだった。
「はい、ここでおしまい」
「へ?」
徳永さんはそういうと、いきなりにっこりと口の端をあげて笑い、両手を座面についてよいしょ、と、体を起こした。
彼の背中を抱きしめようと伸ばしていた手は、背中から離れてしまい、抱きしめるものがなくて空をさまよっている。
徳永さんは、体を起こして、ばらけた前髪をかき上げた。
「ああ、あぶなかった」
と、彼は本当に危なかったような顔をして息をはいた。
よくみると額に汗をかいているようだ。
「ええ?」
「ショウが煽るから、我慢できなくなってつい襲いそうになってしまったじゃないか」
徳永さんはそういうと、未だソファーの上に押し倒されかかっている妙な姿勢で固まっている松の方を見向きもせず、落ちつかな気に、背中を向けてその辺を歩き始めた。
「な、なん、なんで…」
昂ったこの気持ちをどうしてくれるんだと思いながら、訴えた。
「なんで、やめちゃったんですか?」
「だから、言っただろ?試験が終わるまで手はださないって」
ええ~~~!!!
あの約束、まだ守ろうって思ってんの????
松は心底撃沈した。気持ちはとうの昔に固まっているというのに。
「ここで試験におちたら、身も蓋もない。計画そのものが一からやり直しになってしまう。せっかくお母さんから許可をもらったのに、こんなところでイチャイチャしているヒマはないはずだった」
ずごーーーん……
徳永さんは本当にそう思っているのか、声は鋭く、顔つきももとにもどっていた。
彼は冷蔵庫から炭酸水を取り出すと、コップに注ぎ松にももってきてくれた。
松は、体を起こして大人しくコップを受け取った。
さっきとは違う種類のモンモンが湧き上がる。
「・・・・・・・」
「何恨めしそうな顔してんの」
徳永さんは、言った。
その声は尖っていて、その言葉を発した唇がさっきまで松のうなじのあたりを這いまわっていたとは到底思えなかった。
こんのぉ~~~ばかやろう!
松は、心の中で毒づいた。
「さ、やろうか」
「は、何をですか?」
「英語の勉強に決まっているだろう」
「エイゴ?」
「せっかく、誰も家にいないんだ。この機会を利用しなくちゃ、あいつの心遣いを無碍にすることになる」
その日、松は遅くまで英語の勉強をした。
やっている間、知らない間に寝てしまったようで、目が覚めたら朝になっていた。
翌日は日曜日で慌てて起きることはなかったけど、カイ君が家にもどっていたので、遅くまで寝ているのは申し訳なかったので起きることにした。
家に泊まった松を見て、カイ君は何か言いたげにニタニタしているのが癪に障った。
「おはよ」
「おはよう」
「昨夜はよく眠れたか」
そんな顔で尋ねないでくれる。
「よく眠れなかったかも」
松は、正直に答えた。
「スーツのまま寝ちゃったんで、寝心地悪かったし…」
松は皺だらけになってしまった一張羅のスーツを彼に見せた。
着替えもせず、いや、英語を話しながら寝ちゃったんで、着替える必要もなかったというわけだ。
「カイ君が気を利かせてくれたおかげで、夕べは英語の勉強がたっぷりできたよ、ありがとうね」
松は、腹立ちまぎれに、すご~く残念そうに聞こえるように感謝を述べた。
彼に罪はないのだが。
が、彼も松が何を言っているのか理解したようで
「オレは別に、そっちの方向で気を利かせたわけじゃねえんだけどな」
と、残念そうにつぶやいた。
眉間のよったその顔は、まるで「アホか」と言っているように見えた。
松は、「分かっている」と、思ったが、初心な松はそうとは言えるはずもなかった。
そんな事、乙女な自分が、自分から言えるわけがないと、そう思ったのだった。
<53.斎賀さんの帰国>へ、つづく。




