51.決戦の日
51.決戦の日
翌朝、実家に向かうため早く起き松は、前日から準備していた一張羅に袖を通し、いつもの倍の時間をかけてきっちりと身支度を整た。
ダメ出しの天才の母に隙のある姿を見せるわけにはいかない。
髪も化粧も念入りに整え、最後の仕上げに徳永さんからもらったダイヤの指輪を左手の薬指に嵌める頃には、戦闘態勢に入った武士の気持ちになっていた。
松は、鏡の前でにっこりと笑顔をつくり、意を決して家の外に出た。
凍てつくような寒さといつになくしっとりとした空気が頬をかすめてゆく。寒い日には珍しく、あたり一面に濃い霧が立ち込めていた。
待ち合わせの駅の改札で、徳永さんと挨拶を交わす。
今日の徳永さんは松の見たことない濃紺のスーツに明るいブルー地に薄い黄色のストライプの入った洒落たネクタイをしていた。
「おはようございます」
「おはよ」
こちらを向いてにっこりと笑う徳永さん。
霧のせいか髪がうっすらと湿っているのがセクシーだった。
「緊張しているの?笑顔が固い」
早速彼は、寒さのためかそれとも緊張のためなのか、松の強張ってしまった頬に手を伸ばし、面白そうに口もとのあたりをキュっと抓った。
新幹線の中でふたりは特に何も喋らなかった。
徳永さんの気持ちをほぐすために何か話した方がいいと思いつつも、昨晩眠れなかったせいか、松はいつの間にか眠ってしまった。
一時間ほどで眼を覚まし、慌てて謝ったが、当の徳永さんは、ノート型の小さなパソコンをあけて何やら真剣に作業をしていた。
「すみません、寝ちゃって…」
「いいよ、まだ到着まで時間あるから寝てても。オレもすることあるしね」
「することって」
松は画面をチラと伺った。
「お仕事ですか?」
「まあ、そんなようなもん。眠いんでしょ?寝てなよ。それともハラでも減ったとか?朝飯は食ったのか?」
「あ、あまり」
今朝は、緊張のせいか食べる気にならなかったんだよね。
「じゃあ、サンドイッチか何か後で買っといてあげるよ」
「徳永さんは、朝ごはん食べたんですか?」
「もちろん。朝はしっかり食べる主義だから」
そうか。料理得意だもんな、この人。
「だから、寝てていいよ」
徳永さんはそう言うと、ずり落ちそうになっていたコートを松の体の上に優しく掛けてくれた。
松は、言われた通りに再び目を閉じるふりをして、半開きの瞼の間から、隣の男の麗しい横顔をジッと眺めていた。
見慣れた徳永さんの仕事モードの真剣な表情。
緊張している様子もなく、自信のある時によく表れている爽やかなな真面目さが顔の端々に現れていた。
松は、本当になんてカッコイイ人なんだろうと、心の中でもう何万回目のため息をついた。
あまりの彼の冷静さ、というか何気なさに、これからこの人は、結婚に挨拶に行くというのに、まるで取引先へ赴くつもりじゃないかとさえ、思ってしまう。
私との結婚なんて、この人にとっては、仕事の一環なのかしら、とは言わなくとも、あまりに気軽な様子に、なんだか、自分だけが緊張していて、あれこれ悪いことばかり想像しているのがアホらしくさえ感じてしまうほどだった。
これから結婚しようとしている女の親、しかも自分との結婚に反対していて、自分と娘を引き離そうとしている人達に会いに行くような顔には、どうしても見えなかった。
在来線に乗り換えて、地元の駅に降り立つ頃には、松は真冬なのに冷や汗を体いっぱいにかいていた。膝ががくがくと震えるのを止めることができないほど、緊張してしまい、
「ショウ、もっとリラックスして、リラックス」
と、彼が笑いをかみ殺しながら励ましてくれるくらいだった。
タクシーで家まで乗り付け、インターホンを押す。
自分の家なのにチャイムを鳴らす不自然さを感じている間もなく、家の中から義父が姿を現した。
義父も別段機嫌の悪そうな様子もない。
まあ、実の娘でもないんだし、こんなもんなのかも…
徳永さんは義父とは面識があるので、丁寧なあいさつを交わしていた。
その後すぐに、義父の導きで、私達はしずしずと母屋の客間に通された。
見慣れたリビング、カーテンも壁紙も家具の配置も以前とかわらず同じなのに、入り方が違うだけで自分までもがお客にでもなった気分だ。
部屋の中央に視線を遣ると、いつもの定位置に母が腰かけていた。
私達の姿を見ると、母は、読んでいた新聞から顔をあげた。
そして一瞬、目を見張ってこちらを見た。
松は、何か言われるではないかと身構えたが、母は、
「そんな綺麗な恰好をしているので誰かわからなかったよ。おかえり」
と言って、ものうげに立ち上がると、静かに私達を手招きした。
わたしは徳永さんを誘導して椅子をすすめた。
わたしと徳永さんが母と義父の向い合せに座り、そのまわりに祖母と祖父が取り囲むように席を取った。
母は早速松の薬指にはめられている指輪に気が付いたようだが、それについて何も言わなかった。
祖母がもってきたお茶をひとしきり皆で口をつけると、話がが始まった。
徳永さんは、落ち着いた口調で
「以前もお話ししました通り―――」
と、前置きをおいて、わたしとの結婚の意志があることを滔々と述べ始めた。
松と徳永さんは、徳永さんが最初に話をする事に決めていたので、松は黙って横でそれを聞いていた。
短くはあるが、完結で隙のない徳永さんの話が終わると静かな沈黙が訪れた。
誰もなにも喋らない。
これは拒絶を意味するのか、それともその逆なのか?
あまりにはりつめた空気に、松は自分から叫びたしたくなるのをこらえるのが精いっぱいだった。
「話はだいたい、分かりましたよ」
低い声でそう言ったのは母だった。母は、湯呑茶碗を茶托の上に戻すと、確認するように問うた。
「では、お宅様は、娘がその、社内試験とやらに合格して契約社員になれる見込みがついたら、結婚するつもりだと、そう仰るんですね?」
「はい」
今度は、松も一緒に頷いた。
「なんだかそれは変じゃありませんの?それならば、そういう目途が立ったらウチに挨拶にきたらいいじゃありませんか。なんでこんなにも早くお出でになったのかわかりませんわ」
松は、始まった、と思った。
これからネチネチと嫌味と拒絶の言葉のオンパレードが始まるに違いない。
松は、ここは自分が前に出て頑張らねばと、徳永さんが何かを言う前に口を開いた。
「わたしは、早すぎるとは思わないわ。いずれ結婚する意志があるなら、早く挨拶に着て挨拶するのが筋ってもんでしょ?」
「だって、お前、試験に受かって契約社員になって東京に住む目途が立ったらって、さっき言ったじゃないか。じゃあ、試験に受からなかったらどうするんだい?契約社員になれなかったら?それでもあんたたちは結婚するというのかね?」
「し…試験には絶対、受かります。契約社員にもなります」
「あんたの気合の話をしているんじゃないよこっちは。お前は試験といったら、すんなりと第一希望に合格したこともないし、うまくいっても一発に通ったためしがない。高校や短大の受験も、車の免許にしたってトロトロして早々に親を安心させてくれたことなんかなかったじゃないか。機嫌を悪くするんじゃないよ、本当の事だろ?今の会社だって、あちこち就職の面接を受けて落っこちて、ようやくお祖父ちゃんの口利きで面接にこぎづけて、採用してもらったのを忘れたのかい。そのお前に、“絶対試験に受かります”だなんていわれたって信憑性は薄いと思うがね」
松はうぐぐと唇をかみしめた。
言われた事がまったくの事実なので、否定できなかった。
「今年の五月に予定通り地元に戻ることになったらどうするの。それでもあなた達は結婚するつもりでいるのかえ?」
まるでそんなのありえないでしょ?と言わんばかり。
母は隙なく松の弱点を確実に突いてきた。反撃できずに松は拳を握りしめた。
これは松が一番心配してきた事であり、徳永さんに決して“試験の不合格を考えるな”と言われて、考えることを許されなかった懸案事項だったからだ。
そこに助け舟をだしたのは当の徳永さんだった。
「しますよ」
彼は、静かに言った。
「彼女が試験に受からなくとも、結婚はするつもりでいます」
松は、徳永さんの方に振り返った。
彼はいまだとても静かな顔つきを保っていて淡々としていた。
松は、彼がそんな事を言うとは思ってもいなかったので、ぽかんと口をあけて呆けてしまった。
彼は本当にそう思っているのだろうか。それとも、この場だけの方便なのだろうか。
「まあ、彼女が試験に落ちることはないと思っていますけど。彼女はかなり努力していますし、僕は彼女の才能を信用していますので、心配はしていません」
母は、徳永さんの意見が意外だったのか、しばし目を見開いていたが、気に食わなそうに口の端をくいとゆがめた。
「まあ、いいでしょう。じゃあ、そうなった場合、あんた達は新婚早々別居するってことなのかい?」
「そ、そんな事にはならないわよ!」
松は言った。
「ううん、そういう事態になったら、わたし、今の会社を辞めて、東京で再就職するし」
松のセリフに母はとても呆れたような表情を浮かべさせた。
「は?何言ってんの。地元でさえ就職するの苦労したっていうのに、お前みたいななんの取柄のない、しかも新卒でもない人間をどこが雇ってくれるっていうんだい」
「そ、そんな事ないわよ」
松は、家成さんの兄の会社に誘われた事を思い出して言った。
わたしにだって、わたしの能力と人柄を買って、引き抜きたいって言ってくれる人がいるんだから!
と、思いながら。
「頑張って探せば、どこか見つかるわよ」
「わたしが言いたいのはそういうことじゃないよ」
母は娘がムキになっているのを少しも介さず糺ように話し始めた。
「どんなに高学歴で仕事ができる人間だって、職にあふれる事はあるんだよ。あんただって例外じゃないし、あんたの平凡な肩書じゃそうなる可能性は他の人より高いじゃないか。働き口がなくて食うものもなくて、路頭に迷いそうになった時、いったいどうするつもりでいるんだいと、言っているの。聞けば、今、あんたは会社にいつリストラされるか分からない状況にあるんだってね?どうせ、何かあったら実家を当てにするつもりでいるんだろ?」
母は松がリストラされそうな事さ知っているのか?
いったい母はどこから情報を仕入れてくるのだろうかと、松は心底不思議に感じた。
徳永さんはこの最後の母の言葉を聞き逃す事はなかった。
松をさしおいて早速話し始めた。
「―――お言葉ですが、ショウさんが路頭に迷うような事になるとは思いません。わたしと結婚すれば、彼女は専業主婦になって私が彼女を養ってゆけばいいだけの話ですし」
彼はそう言って一呼吸置いた。
「わたしの稼ぎであれば、彼女と一緒に暮らしてゆけるぐらいの余裕はあります。ご実家の方々がご心配されるのはわかりますが、先ほどもそして、前回も申し上げた通り、今ではわたしも少しは貯蓄もあります。皆さま方にご心配や負担をさせるつもりは全くありません」
“貯蓄があるから大丈夫”
その貯蓄とはこの前言っていた伯母さんからの遺産の事を言っているのだろう。
が、松は彼にそんな言い訳をさせる事を申し訳なく思った。
彼は母が、彼の懐事情を結婚の反対の理由にしていたのを知っているので、敢えてその話を持ち出してくれたのだろうけど。
が、母はそんな話で少しも納得していないようだった。
「あなたの話を信用しないと言っているわけではないですよ。だけどねえ」
と、はーっと深いため息をつくと、
「松、お前もわかっているだろうけど」
身をぐいと乗り出して、今度は徳永さんに向かって話し始めた。
「わたしはさっき、どんな高学歴の人でも職にあふれたり、食うのに困る可能性があると申しましたが、わたしは娘だけでない、あなたの事も申し上げているんです。徳永さん、あなただって、いつ、いかなる時にでも、職を失う可能性があるってもんじゃありませんの?」
「は?わたしですか?」
徳永さんは、どうしてそんな風に言われるのか分からないようであった。
「こんな事、あまり申し上げたくないんですがねえ。あなたは、以前に一度、最初に就職したところを解雇されてらっしゃいますわね?聞けば、暴力事件で同業者の方に怪我を負わせたとか―――ご自分もお怪我をされたようですし、一方的なものではなかったようですけど、あなたに負があったからクビになったわけでしょう?今後もそうならない可能性がないとは、誰も言えないんじゃありませんかねえ」
「ちょっと待ってよ、お母さん―――」
「お前は黙っていなさい、わたしが話している最中だよ」
母は松の顔を見もせずに話をつづけた。
徳永さんは反論もせず、黙って話を聞いていた。
「それにあなたの弟さんも」
母はつづけた。
「あなたの弟さんも、暴力事件を起こして何度も警察にご厄介になっていたそうじゃないですか。血気盛んで、喧嘩っ早いのはお血筋なんでしょうかねえ。その弟さんが、今後も傷害事件やら、暴力行為を起こさない可能性がないとは限らないじゃありませんか」
「弟はご指摘の通り、十代の頃に何度も警察に補導された過去はありますし、隠しもしません。が、今では国立大学に進学して、学業も仕事にも熱心な大学生ですよ」
と、徳永さんは静かに答えたが、ちょっと気分を害したのは隣にいてる松にはわかった。自分の事でなく、弟を非難の対象にされたからだ。
「へえ…まあ、そうなんですの。国立大学にねえ。それはようござんしたねえ」
という母の顔は、少しも“よかった”などと思っていないようだった。
母は、弟が問題児だった事まで把握していても、国立大学に進学するほどの秀才になっているところまで、知らなかったようだ。
「ええ、そうなんです」
徳永さんは、すぐに母の言葉を利用して言った。
「弟も、当時は、両親が離婚したばかりできっと、気持ちが荒れていたんだと思います。今は落ち着いて、兄のわたしが見ても頼りがいのある男になったと感心するぐらいなんです」
「そうですわねえ、そういえばお宅様はご両親が離婚なさっていたとか。親が二人とも揃っていないというのは、何かと子供に悪影響があるのは、わたくしも否定できないところですわ。今では、お母様ともご一緒にお暮しじゃないんでしょう?更生されているとおっしゃったって、あなた方ご兄弟は、やっぱり今でも後ろ暗い思いをなされているんじゃありませんの?」
松は、今の言葉に両眉を吊り上げて母を睨み付けた。
まるで徳永さんやカイ君が、後ろ暗い思いをしなきゃならないような悪事を働いたことのあるような言い方じゃないか。
松は黙っていられなかった。
母は、徳永さん自身ばかりでなく彼の努力ではどうしようもない、親兄弟に範囲を広げて非難をして彼をやりこめようとしているのだ。
「お母さん、そんな言い方やめてよ!言いがかりもいいところじゃない。それにお母さんだって、お父さんと離婚しているじゃないの。他家様の家庭の事をあれこれ文句つける筋合いじゃないじゃない!」
「何言っているんだい。お前にはちゃんとここに、りっぱな義父さんがいるじゃないか」
「お母さんが再婚したのは、つい数年前のわたしが就職した後の事じゃない。それまでずっと私は片親だったじゃないのよ!」
母は思い切り意外そうに(なぜ意外に感じるのか松には分からないが)目を見開いた。
自分が再婚した時点で娘に片親の苦労をかけた事は、どうやら母の中ではチャラになっているらしかった。
「じゃ、何だね、お前は引け目を感じて生きてきたとでもいうのかい?そんな思いなど微塵もさせたつもりなどなかったつもりだがね」
松はここで本当の事を言ってやるいい機会だと思った。
「お母さんはどう思っていたかしらないけど、わたしはずっとそう思ってきたわ」
松は断言した。
「片親の寂しさを感じて生きてきたのは、わたしは徳永さんと一緒なの。だから私達はとても気持ちが理解しあえるの」
場はシーンとなった。
誰も何も言わない。母以外の花家家の人達は、脇役どころか観客のような顔で成り行きを見守っていて、会話に参戦するつもりなど少しもないようである。
義父はともかく祖父や祖母も話に割って入って、母を加勢しそうなものなのに、今日に限って、少しもそんなぶりを見せないのだ。
「そりゃあまあ、そういったところが少しは気持ちが理解しあえるのだと、その辺のところは、わたしにもそれなりに感じますけどね」
母は、落ち着いた様子で言う。
「人間、共通する辛い思い出があると親しく感じやすいものですからね。だけど、あなた方の共通点はその辺だけじゃないの?育った土地柄、環境やご先祖の職業や、得意分野がまったく相反するあなた方が結婚してうまくやっていけるだなんて、わたしは全く想像できないんですよ。特に、徳永さん、あなたは大変外見のよい方ですし、学歴もお高くて、しかもスポーツも万能でプロになろうとしたことすらおありなんでしょ?女性に人気がおありになるのは聞かなくともわかりますが、そんなあなたがなんで、うちの松みたいな平凡なのと結婚したがるのか、わたしにはわからないんです。そうでなかったらお金目当てとか、なんだとか、別な理由があるのではと疑ってしまいたくもなるってもんですよ」
松は言葉を飲み込んだ。
攻撃の刃先が今度は松に向けられてしまったので、松は文句が言えなくなってしまった。
徳永さんが高学歴、高収入、高身長と、独身サラリーマンの鏡の様な人で、しかも社内でも出世頭の先頭に立っている人である。
その彼がなぜ、松のようなまさに母の言う、平凡を絵に描いたようなのと結婚したがるのか(松が平凡であるというのは謙遜ではない。友人の桐子の冷静な眼から見ても、じゅうぶん松は平凡と言われる部類にはいると言われた事がある)今も昔も、疑問のままだ。
松はチラと徳永さんを見た。
彼は、両手を膝の前で組み合わせて、いつもの得意の能面をかぶってはいたが、さっき弟の事を言われた時以上に、気分がよくないらしく、こめかみのあたりを、分かるか分からないぐらいにピクピクと震わせていた。
松は、母の失礼三昧の質問にいい加減あきれ果てて、モノが言えなくなっているのではないかと思った。
沈黙が流れる。
あまりにも長い間があったので、松は、彼が、母の言い分に少しは共感しているのではないかと心配するぐらいだった。
「お褒めいただきありがとうございます」
と、徳永さんは静かに言った。
「わたしは少しも自分が特別な人間だと思った事はありませんが、そのように評価していただいて大変うれしく思いますよ。ですがね、人間には、見た目や経歴では測れない内面があって、わたしにも多くの欠点があります。ショウさんに、素晴らしい長所がたくさんあるように。彼女がわたしにとって平凡な女性だった事は一度だってありません。彼女の事を心から慕っていて、尊敬もしていますし、一緒にいることが自然に思えるので、一生側にいたいとシンプルに思っているだけです。わたしは一度結婚して離婚しておりますが、今お母さまが仰られたような理由での結婚でした。あの頃はわたしはまだ借金を返済している最中で、就職したばかりで大変な時期でした。少しでも金銭的な気苦労を軽くしたくて、かつて父の仕事仲間だった方の娘さんと、条件だけを考慮して結婚したんです。ところが、それはうまくはいきませんでした。彼女は高収入で社会的地位も高い人でしたし、私自身、むこうの両親に気に入られていることもあって、わたしは彼女と結婚さえすれば、幸せになれると単純に考えていたんです。ですが、そういった条件に甘えて、人間的に近づく努力を怠ってしまって、その結婚は失敗に終わってしまったのです」
「は?人間的に近づく努力?」
「はい。条件がそろいすぎて、それに甘えてしまったのか、お互いを労わったり、もっと理解する努力を怠ってしまったのですよ」
「はぁ…?」
母は、なんのこっちゃと馬鹿みたいに口をあけて呆けていたが、短い言葉の中に、松は彼の言いたい事が、透けて見えたような気がした。
というか、今初めて、彼と元妻との間柄がどんなものだったのか、ようやく知ったような気がした。
元妻の一家は、彼が借金をしていた亡き父の友人で、徳永さんがなぜ借金をするに至ったのか、家庭内の事情も含めて全て知っていて理解している人達だった。
借金があることを不名誉に感じて隠したがっていた徳永さんにとって、借金の存在は、結婚に対する高い障害だったのだろう。
そこに現れたのが、彼の負の部分を理解して受け入れてくれる元妻だ。
彼女は、誰もが認める美人で、日本語と英語以外の複数の言語を話し、政治記者というものすごく知的な職業に就いている。
彼にとって、妻にするに申し分ない女性であったに違いない。
少なくとも見た目的には。
が、結局彼はその妻と離婚した。
カイ君の話によれば妻の方が
“自分の父親が夫の借金の肩代わりをしている事に胡坐をかいて、常に追いかけるのが兄貴の方であの女は少しも自分から兄貴のために動こうとしなかった”
かららしい。
「人間的に近づく努力を怠ってしまった」
というのは、ここからきているのかもしれない。
彼は、結婚というものは、条件がよくてもお互いを理解しあえる努力がなければ、ダメになるのだと、そう言いたいのではと、松は思った。
松は彼の顔を見た。
先ほどの母からの攻撃をものともせず、淡々としている彼の表情は、さっき列車で見たときと同じで、自信があふれていて冷静だった。
が、その落ち着きは松と同世代の男のものではなく、人生経験の積んだ―――どこか悟りを拓いた若さを通り過ぎた中年の風情が感じられた。
沈黙が続く。
松は何か言うだろうかと黙って対面にある母の表情の移り変わりを観察していた。
母は、おそらく徳永さんがあからさまにこのような最初の結婚の失敗談を披露されるとは、思ってもいなかったのだろうし、彼の言う“人間的に近づく努力”と言う意味も分からないのだろうと思う。
少なくとも、この言葉は母の辞書の中にはない。
外国語を聞いたかのように、何それ?と、目をまるめて次の句を考えているようだった。
「逆に、あまりに境遇が違いすぎるとそれを乗り越えるために、お互いを理解する努力をするものなのかもしれませんね」
と、徳永さんは補足した。
「ま、まあ、大変な体育会系なご意見でいらっしゃいますこと」
母は、ようやく口をひらいた。
「じゃあ、その“人間的に近づく努力”とやらをすれば、お宅様は、どんな障害をも乗り越えられる…とおっしゃるんですの?」
「誰とでもというわけではありません。ショウさんとなら、そうできるとわたしは思っています」
母は、意外にもクククと口の端を上げて笑い始めた。
あまりに奇妙なタイミングで出てきた笑いだったので、松の方がギョっとするぐらいだった。
どうしたのだろうか。お腹の具合でも悪いのだろうか。
「そんなの、あなたが私の質問をさっきはぐらかした答えにはなってないと思いますけどねえ」
「はぐらかした?」
松は、母が変になったかと思った。
今日の母は、とにかく松と予想していた変さではなかったけど、今は一層変だった。奇妙な自信が母側にあるようで、何を言われても、何が起こっても、自分が敗けるわけがない絶対的な勝因を掴んでいるようにさえ見える。
いったい母は何が言いたいと言うんだろう?
「徳永さんは何もはぐらかしてはいないわ。聞きたい事があれば、もう一度聞けばいいじゃない。お母さんはいったい何が知りたいの?」
「最初にご質問しましたわよねえ。あなたは一度、暴力事件を起こして勤め先をクビになっているじゃありませんかって。素晴らしい肩書をお持ちで、いくら将来有望でいらしっても、一度そういった事件を起こしてしまった人間を容易く信じる事など、どうしてできるでしょうか。あなたは、二度そういう事を起こさない保証はございますの?」
「つまり、こういう事でしょうか?一度問題を起こした人間は、二度同じ事を起こす可能性が高いと。ですから、信用ならぬと、そう仰るんですね?」
徳永さんは静かに尋ねた。
「普通、そういった悪い経歴があれば、日常的にそういう事をやらかす人間だと思われても仕方ないんじゃありません?」
「それは考え方の違いでしょうね」
と、彼は少しも動ぜずにニコリと笑う。
「わたしはこう思います。若い頃にヤンチャをした人間ほど、大人になるほどまともになるものだと。確かにわたしは、まあ、喧嘩は弱くない人間だと思っております。が―――それなりに場数を踏んでおりますので、自分がどういった気分の時に手をあげてしまうとか、どんな力の入れ加減で相手にどれほどのダメージが与えてしまうのか、喧嘩の後、どういった結果を招いてしまうのか、経験上予想がつきます。騒ぎを起こせば、すべて両成敗というわけにはいきません。仕返されたり、わたしのように最悪、解雇されてしまう場合もあります。借金がある身でありながら、職を失う大変さは、わたしは身に染みて感じております。そのわたしが、二度同じ過ちを犯すとお思いですか」
「そ、それは…」
論理的に滔々と反論されて、母はひるんでいるようだった。
母は相手の急所をついてジリジリと追いつめるのは得意だが、彼が少しもそれに動じない上に、ポジティブな話を苦手とする母にはふさわしい反撃の持ち札がなかった。
逆手に取られて母は、視線を泳がせ始めた。
「だっ、だって、普通そう思うもんじゃありませんか?親としては当たり前の事でしょう?経済状態や、人間の素養は財政状況や、これまでの経歴でさぐるもんじゃありません?あなたは今、遺産をたまたまま相続できたから、今では涼しいお顔をなさっているようですけど、伯母様がお亡くなりにならなければ―――財産を手に入れられなければ、結婚だって考えられなったでしょうに」
「ねえお母さん、逆に考えてみてよ」
あまりにイライラさせられる話の振り方に松は、口を出さずにはいられなかった。
「じゃあ、お母さんの言う経歴に何も傷のついていないような、調べても何もでてこないような人間が、結婚相手に相応しい人間だなんて、どうして言えるわけ?徳永さんだって、もし借金を背負う前に遺産を相続できていれば、経歴に傷がついたりしなかったんじゃないの?そしたら、お母さんだってそこまで、こだわって徳永さんを悪くいったり見做したりできなかったはずよ。それに、徳永さんの借金は徳永さんのお父さんが作ったもので、徳永さんとはそもそも関係なかったことは、お母さんだって知っているじゃないの。お母さんは、なんでそこまで徳永さんの事を嫌がるの?悪く言うの?まるでさっきから、徳永さんのあら捜しばかりしているように見えるんだけど」
これまで徳永さんの方に向けられていた視線が、松の方に向けられた。
松と母はハブとマングースのように睨み合っていた。
どちらか先に視線をそらしたほうが負ける、と、松は本能的に感じた。
決して退くわけにはいかない。
わたしが徳永さんを守る。
守り切りる。
これ以上彼を侮辱するって言うのなら、こっちにも、考えがあるんだから、という勢いで。
母もまた、躊躇せず松を睨み返していた。
唇はきつく噛み締められ、眉間に深い皺が寄っていた。
が、その赤く血走った目は、不安に揺らめいて震えていた。
松は、今日、母をはじめとする実家とのすべての絆を永遠に喪失するかもしれないと、覚悟を決めてここまで来たが、母は今初めて、永遠に娘を失う可能性について考えてたのではないだろうか。
松が職を追われ、実家と断絶し、食うものに困っても、結婚して養ってくれる頼りがいのある伴侶が現れたのである。
母親が承諾しなくとも、娘はそうするつもりでいることを、今日の娘の態度を見て感じたのだろう。
夫になろうとしている男も、心を決めていて、それについては一歩も退かない考えてでいるようだ。
彼はどうしても松の実家のご両親の承諾がいるのだと、腰を低くして頭をさげているけれど、明らかにボールは母側に投げられていて、選択しなければならないのは、母の方であった。
母は、徳永さんでないもう一人の男性を娘の婿にと予定していたが、娘は頑として譲ろうとしない。
娘は、見目震わしい上に、三拍子そろったこの男と結婚するつもりでいるのだ。
他の男なぞ眼中にないのだ。
松は、こんな母の顔を見たのは初めてのような気がした。
「どんな台詞を並べたって―――」
母は膝の上で拳を握りしめてブルブルと震わせ始めた。
「わたしを説得できると思ってもらっては困りますよ」
「お母さん?」
母は、拳を握りしめるだけでなく、体をブルブルと震わせ始めた。
目の血走りはますますひどくなり、眉間の皺はこれでもかというぐらい、激しくきざまれている。
きっと結ばれていた唇は、体以上に震えていた。
要するに、猛烈に怒り狂っているわけだが、その怒り具合はいつもの比ではなかった。
今回ほど余裕のない、切羽詰まった様子の母を、松も見たことがなかった。
が、それが、母の冷静さを失わせてしまった証拠でもあった。
―――止めなくちゃ。
と、思った時には遅かった。
松が何か言い出す前に母は、椅子の上からすくっと立ち上がると、徳永さんに向かって、思いのままを一気にぶちまけ始めた。
「愛だの何だと言ったって、それが何だと言うんです?わたしがそんなものを信じて納得するとでも?我が家は、徳川幕府を支え続けた○○家に仕えた家老とつながりのある、由緒ある武家の出身で、御一新後も、この地いったいは全て花家家のものだったんです。ずっと、花家家が統率し、花家家が治め、花家家が守ってきたんです。そうやって高貴な血筋を守ってきたのです。それが何者にも代えがたい、我々の誇りです。それに引き換えあなたは、どんなに見た目がよかろうが、高学歴だろうが、四代前までどん百姓をしていた、どこの馬の骨とも分からないただの平民じゃありませんか。そんな卑しい身分でありながら―――過去に暴力沙汰を起こして他人様に迷惑をかけた身でありながら、借金をした身でありながら―――よくもまあ、私どもの前に出て、ウチの娘と結婚したいなどと言えたものね。こうやって目の前に座られているだけでも、腹立たしいのに、結婚させてほしいなどと!よくもまあ、しゃあしゃあとほざいたもんだと思いますよ。さっさと帰ってくれと、さっきから言いたいのをこっちはさっきから、ずっと我慢しているのに、それにも気が付かないなんて、なんて厚かましくて、気のまわらない鈍感な人間なのだろうかと、やはりそういったレベルの人間なのだと、わたしはさっきからずっとそう思っていたのですよ」
ダムが決壊したかのように、母は、毒を吐き捨てた。
母はぜえぜえと喘ぎ、額から汗まで垂らしている。
が、思っている事をぶちまけた割には、スッキリした様子もなく、むしろ焦りはピークに達し、母はその場で動物のように足を踏み鳴らし始めた。そして繰り返した。
「なんて、厚かましい―――!なんて―――!!」
その場で、ジタバタともがいているのは母だけだった。
祖父と祖母は横で青くなって固まっていた。
頭の中はおそらく母と同じ思想が流れているはずの母の親であるけれど、世間並の分別を持ちあわせている彼らは、母がそれを口にしていることにショックを受けて呆然としていた。
義父は他人事のようにわれ関せずと、横で静かに眺めている。
そして当の徳永さんと言えば、この場にいた人間の中で、一番冷静であった。
その平然とした顔が、母の怒りに一層火を点けたらしい。
「そんなつもりなら、分かったわよ!」
と、母は吐き捨てた。
「は?」
何が分かったんだ。いったいどうしたんだ。
「あんたが、その社内試験とやらに受かったら、結婚を許してあげるわ」
今度は松が、目を白黒させて驚く番だった。
母の本心を探ることができない。
どういうつもり?
「それ、ほんとうなの?」
突然の承諾に、声にならない声をあげる。
「めだたく契約社員に採用されたら、結婚を許してあげると言っているのよ」
「本当に、本当なのね?嘘じゃないわよね?後であれはナシって言わないわよね?」
「もちろん、武士に二言はありませんよ。契約社員になれたら、お母さんがあんたを花家家から立派にお嫁に出してあげますよ」
と、母は受合った。
「お母さんを武士だと思った事はないけど、今の言葉、わたし本当だと受け止めるからね。信用するからね?」
どういう話の成り行きで母が決心したのか分からないが、母の気が変わったのなら、それを受けない手はない。
「その代わり、試験に受からなかったら、絶対に許しませんからね」
と、母は言った。
「え?」
「チャンスは一度だけだから!もし、試験に落ちてあんた達、結婚するつもりでいるっていうなら、あんたは金輪際この家に帰ってこれないつもりでいなさい」
松は隣の徳永さんの顔を見た。
いつもの能面をかぶっていて本心は見えないが、どこか余裕のある感じさえある。何考えているんだろう?
「わかったわ」
松は、うなずいた。
が、母の言葉はそれだけでは終わらなかった。
「お母さんは少しも心配なんかしていませんからね」
「―――は?」
「お前が一発で試験に受かるわけがない。そんなのまったく信じていないから」
「・・・・・・」
「いずれお前は、この家に帰ってくるに決まっている」
またか。
結局母の無意味な自信は、松のコンプレックスが土台にあるのだと思うと、何とも言えない気持ちになる。
いつまでこんなやりとりが続くんだか…
「帰りなさい」
母は、そっけなく言った。
「今にあんたが、ひどい過ちをしたことに気が付いて泣いて帰ってくるのがわたしには目に見えるようですよ」
「・・・・・・・?」
「あんたの隣に座っているその男が、女に暴力を振るった事があることを、あんたは知っているの?」
「え?」
「女に怪我をさせて、入院させたことがあるのを聞いたことがあるの?」
「お母さん?」
「いつかお前も、その男に暴力を振るわれて、その女みたいに捨てられる事があっても、お母さんは知りませんからね」
母は最後の爆弾を投下させて気が済んだのか、それだけ言うと、スタスタと私達の前を通り過ぎて、部屋から出て行ってしまった。
取り残された私達は、何もいう事もできず、ただ沈黙をかみしめていた。
「もう、帰った方がいいんじゃないかな。日帰りで来たんだろう。遅くなったら電車もなくなるし。駅まで送って行こう」
暫くたってから、義父がそう言って立ち上がって、車のキーを取りに行った。
わたしと徳永さんは祖父と祖母に見送られて家の外に出た。
車に乗ってからも、松は麗しい彼の横顔をチラチラと眺めていた。
徳永さんはさっきと同じ能面をかぶったままで少しも表情の変化はなかった。
<52.嵐の後>へ、つづく。




