49.実家との間で
49.実家との間で
人生には偶然で片づけられないような重大かつ意外な出来事が、しばしば、そして突然に訪れる。
そもそも、徳永さんとの出会いからして松にとっては大変な偶然だった。
東京一部上場の大会社に在籍する、年間の殆どを海外で過ごすような超のつくエリートが、首都から遠く離れた子会社のそのまた支店にあたる小さなビルのオフィスに半年間限定とはいえ出向し、松と隣合わせの席になることなど殆どありえないことであった。
後に松はあの出来事を振り返り、「あれがなければ、今はないわね」と、しみじみと話したことがあるが、徳永さんは、自慢のりりしい眉毛をそびやかせて、偶然はそれだけではなかったよな、と語った。
「あのとき、東京で再会してなければ、どうなっていたのか分からない」
桜の木の下で松に別れを告げた後、ニューヨークに戻ってしまった徳永さんは、松とは全く縁を切った態度を見せはしたものの、組合の規定を盾に日本に戻る画策を立てていた。が、9.11の事件が必然的というべきか―――いやいや偶然に起こり、ニューヨーク支社の体制が変わらなければ、こうも早く東京に戻ることはできなかったと言う。
ましてや、ちょうど、東京の親会社に長期出張で来ていた松と背中合わせの部署に配属されるなど、全く範疇外の出来事であった。
「生きててあの時ほど、驚いた事はなかったし、運命を感じたことはなかった」
と、後に徳永さんはそう回想している。
「運命…」
9.11の事件が起こったあの日、徳永さんはあのビルの瓦礫の下敷きになったのではないかと、恐怖に慄いたあの時、テレビの前で呆然と見つめるしかなかった松もまた、再会したときの衝撃を忘れることはないだろう。
「でもあれだけでは終わらなかった。三番目の偶然が起きなければ、今キミと一緒にここにはいられなかったと確実に思う」
と、彼は言った。
「さっき、プロポーズする半年も前に、なんでショウの親の家に挨拶にいったのかって聞いたでだろ?」
「はい」
「それは、昨年、伯母が亡くなった事が関係していて」
「伯母さん?」
「父の姉にあたる人でね」
と、彼は語りだした。
「伯母は、我が家とはずっと疎遠で、ウチが倒産した後も、殆ど顔をださなかったし、親父の死後に至ってはは葬儀以降は全く交流がなかったんだ。だから、知らせが来たのも死んだ後だったんだよ」
松は目を瞬かせた。
どういうことなんだろ。
何とコメントしてよいか分からず伏し目がちになってしまったが、当の本人は、伯母という近しい身内の死の話をしている割には淡々としている。
「伯母はまだ若くて元気だったし、オレも義己も、こんなに早く死ぬとは露ほども思ったこともなかったんだけど―――まあなんでこんな話をしたのかって言うと、早い話、伯母は、夫と死別していて、子供がいなかったんだ」
「……?」
「オレ達も、伯母を当てにしたことも今まで一度もなかったし、伯母が何をどれほど持っているのか聞いた事も興味もなかったけど、ぶっちゃけて言うと、つまり独り者だった伯母の遺産が、たったふたりの甥である、オレと義己の元にやってきてね」
「え?」
「そのおかげで事態が一変した」
「あ」
松は膝を打った。
そう言えば、『去年の暮に借金を全額返済したので、障害はなくなった』って徳永さん、言っていたっけ。
この前、所有していた土地が売れたって言ってたけど、あれ、伯母さんの遺産だったって事?
「辺鄙で狭くて形も悪くて期待できる代物ではなかったんだけど、偶然にも近くに幹線道路ができて、地価が跳ね上がったのを機にに売ったんだよ。それで借金が返せた。借金を相続したことはあっても、遺産を相続することができるだなんて考えたことがなかったんで、驚いたし嬉しかったね。大金持ちとは言えないけど、あれで父の肩代わりをしてきた借金をすべて返済できたし、遺りを二人で分割しても、これまで食いつぶしてきた預金を補っておつりが出るぐらいできたというわけ。だから―――」
徳永さんはつづけた。
「借金を返せたのを機に、すぐさまキミのお義父さんに連絡をとって、ご両親に会いに行ったんだ」
「・・・・・・・」
「以前、キミのお義父さんには、なんで借金していたのを隠していたのか、それをキチンと話す気になれたら、もう一度来なさい、と言われていた。今行かなければ、いや、今言わなければ、いつ親御さんに挨拶に行けるか分からないと思って、年明け早々に訪ねて行ったんだ。オレは、今度ショウの親御さんに会う時は、今度こそ正式に結婚することを決めたときだと思っていた。だから、(借金を返す事が出来た)今ほどベストなタイミングはないと思ったんだ。まあそれで、お会いしてお二人に、なんで借金をすることになったのか、なぜ金額が増えてしまったのか、誰に返していたのか、なぜ返せるに至ったのか、一から十まで説明したってわけ」
「一から十まで?」
「オレの家が倒産した経緯から、その後野球選手になって解雇されたりした事とかも全部をね」
そんな事まで話したの?
ああ、彼はシレっとしているけど、そんな超プライベートな事を口にしなきゃならなかっただなんて、さぞ言い辛かったに違いない。
それなのに、ウチの親は徳永さんに愛想もくそない対応を…
「すみません」
「?なんで花家ちゃんが謝るんだ?」
「だって、そんな事、本当は誰にだって言いたくなかったでしょ?」
「でも、オレの懐事情はとっくにバレているんだし、向こうは興信所使ってオレですら忘れているような仔細な事柄も知っているようだったし、今更だろ?それなら、向こうが納得できるまでちゃんと説明してやましい事がないって事を理解してもらう方がいいに決まっているじゃないか」
そりゃそうだけど。
そうだけど!
でも、やっぱり、プライドの高い徳永さんにとっては、辛い作業ではなかったのだろうか。
しかも、自分を見下し嫌っていると分かっている人達に向かって、自分の金銭問題を事細かに話すだなんて自分だったら耐えられないよ。
松は頭を掻いた。
あ~~~我ながら情けない。
自分の知らないところで、また、徳永さんに苦労をかけてしまった。
松の表情で何が言いたいのかわかったのだろうか。
徳永さんはポンポンと優しく松の頭を叩いた。
「ほらまた気にしている。言っただろ。他人のオレが頭下げたり説明したりするのなんて、簡単なんだよ。こんなこと、仕事でしょっちゅうやっているんだから」
相変わらずの徳永さんだよなあ。
寛容というか、強いというか。
松は涙を拭いた。
徳永さんがとても気をつかってくれているので、心配かけたくなかった。
「それに、お義父さんからは、よかったね、おめでとうと言っていただけたし、運がいいね、とも褒めてもらったしね」
「本当ですか?」
義父がそんな事を言ったのか。
松は、少し胸をなでおろした。
「母は何か言っていました?」
「さっきも言ったけど、別に、キミが心配するような事は何も仰らなかったよ。むしろ機嫌はよかったように見受けられたけど」
徳永さんの話を一通り聞いた母は、本当に一言
『娘が承諾したらまたおいでください。承知するかしないかはその後に決めます』
と言っただけだったという。
その口調は一見、この結婚を歓迎しているかのようにさえ見えるぐらい、明るかったらしい。
「上機嫌だった?」
松は首をひねられずにはいられなかった。
なんで?
そんな事ありえるわけない。
「なんで母は機嫌よかったんでしょう?」
「さあ…」
本当は、私達の結婚を心から望んでいるからとか?
と、言いそうになったが、徳永さんの顔は明らかにそんな事は思っていないようだった。
当日、いったい何があったんだろう?
松の心臓はまた早く鼓動をし始めた。
「おそらく、お母さんが機嫌がよくって、余裕だったのは、ヤツの事が念頭にあったからじゃないかな」
しばらく間をおいてから徳永さんは言った。
「えっ…」
「今の今まで分からなかったけど、さっきの話でやっと理解できたよ。まさか、伏兵がこんな近いところに潜んでいたとは、まったく予定の外だったよ」
ズキン。
伏兵…。
天野さんのことを言っているんだ。
徳永さんはわかっているのだ。
松から松の両親がどんな風に自分がミソクソのレッテルを貼られているか聞かされていたから、おそらく彼は、相当な気構えで行ったに違いないのに、愛想笑いを浮かべ、条件付きとはいえ
『また、おいで』
とさえ言われたのである。
何かおかしいとずっと感じていたに違いない。
母は、自分が勝てる見込みでなければ決して機嫌よくふるまうような人ではない。
勝算があるから、笑って余裕をかましていたのだろう。
つまりは、母は天野さんが松に結婚を申し込みさえすれば、間違いなく“受け入れる”と信じているということである。
それが当人にとってどれほど不都合であろうが、道理にあわなかろうが、あの人の目には、それが、まっすぐに伸びた間違いのない一本の道に見えているのだろう。
(はぁ…)
母の性格をよく知る松は、だんだんと見えてきたような気がした。
母は、天野さんと娘がうまく“くっつく”ものともはや決まったものと見做して、徳永さんの事など鼻にもかけていないのではないか?
浮かれやすくて、信じやすくて、我が道を行く頑固者の母の事だ。
こうと決め込んだら、絶対自分の思った通りに事が進むと思い込んでいるのだから、外野があれこれ何を言ってもまったく気持ちが揺らがないのだろう。
こうなれば、自分がはっきりと「天野さんと結婚することはない」と断固とした態度を取らなければならない、と、松は思った。
なぜなら、母のその思い込みは、母が
「娘は絶対わたしの言う通りにする」
という強い信念に基づいているからだ。
確かに松は、人生の節目節目ずっと母の言いなりだった。
従順で扱いやすい人間であったと思われても仕方のないふしがあった。
ならば、いや、だからこそ松は、今回こそは、母には真実を知らせねばならいと思った。
新たな経験を―――娘は意志のある民主権を持つひとりの人間であるという太い楔を、母の胸にしっかりと打ちつけ、新しい価値観を持ってもらわねばならなかった。
「わたし、ちゃんと言いますから」
松は、キッと頭を上げて言った。
「わたしが結婚するのは徳永さんで、天野さんじゃないって。そして、社内試験に受かって、親会社の契約社員になるつもりでいるって、そう言いますから、安心していてください。ですから―――」
松は、徳永さんの顔を真正面に見据えた。
「徳永さんも覚悟を決めてくださいね。わたし、このまま徳永さんの胸に飛び込んで、二度と家に帰ろうだなんて思いませんから。ちゃんと受け止めていてくださいね」
「疑っているのか?」
面白そうに口の端があがる。
「まさか。でも、もし徳永さんが引き返したいなら、今しかチャンスはないですって言っているだけです」
「へえ?オレはもう引き返せないところまで来ているとおもっているんだけどね」
松の意志の強い眼差しに安心したのか、徳永さんは、表情をゆるめて優しく微笑んだ。
松は安心した。
ふたりは顔を近づけると、労わるように優しくコツンと額をくっつけあった。
徳永さんの暖かな吐息と、静かな眼差しは、松のささくれだった心をとても癒してくれた。
しかし松は同時に、彼がとてもつない重いもの、大きいものを抱えているのだという事を、頭ではわかっていても、この時からだんだんと実感として気づき始めていた。
彼は大きい人間だ。
きっと彼が、松の親に説明した一から十の中には、喧嘩が元で怪我をして野球選手を辞めざるを得なかった事とか、投機に手を出して失敗し借金を増やしてしまった事も含まれているのだろう。
だのに、義父は彼の事を『運がいい』と言った。
義父は、“運を引き寄せるのも実力の内”などと言って、人を褒めるときにこの言葉をよく使う。
義父も徳永さんの高潔さ、懐の深さに気が付いて来ているのではないだろうか。
松は大丈夫だと思い、一層固く決心をしていた。
わたしは大丈夫、絶対に大丈夫。
そう思っていた。少なくとも、この時は。
決戦は、次の週末に決まった。
週末までの一週間、コトは何も進まずに、のろのろと日々は過ぎて行った。
相変わらず、仕事と試験の勉強といっぱいっぱいの生活であったが、時折耳に入ってくる噂話が素通りしてゆくわけでもなく、隣の海外事業部では斎賀さんを怒らせたことについて、徳永さんを加えた上層部で何やらケンケンと話し合われていたようだが、それがどのよう内容でどのように決着がついたのか―――つきそうになっているのか、それとも暗礁に乗り上げているのか、松には全く分からないままだった。
「今日は帰り一人?」
ある夜、デスクで荷物をまとめていると、フロアの向こう側からコート姿の天野さんが声をかけてきた。
「地下鉄の駅まで一緒に帰らない?花家ちゃん」
「いえ生憎ですけど、今日は隣の××駅まで歩いて帰ろうと思っているので」
「ちょうどよかった。僕も××駅の駅前に用事があったんだ。そこまで一緒に歩こうよ」
松はたちまち顔に渋面を浮かべた。
徳永さんが出張でいない日に限って、いや、きっと徳永さんがいないのを確認してだろう―――彼は声をかけてくるのだ。
「そんなあからさまに嫌そうな顔しないの」
「そんなにひっついて歩かないでください。天野さんのファンの財務部のお姉さま方に、睨まれているんで、私」
松は、勝手に横を歩き始めた天野さんと距離を保つために、足を速めた。
「ははは、そうなの?そりゃ光栄だね。アげて頂けてありがたいけど、もうこんな時間だし、フロアには誰もいないよ」
クスクス笑いながら天野さんが追いかけてくる。
「花家ちゃんこそ、帰り道は、特にアパートの近くは暗くて人気がないんだから、気をつけなきゃ。早く家に帰ったほうがいいよ」
そんな事ぐらいわかっている。
だけど最近は、徳永さんが泊まりの出張以外の日は、彼の家に必ず寄ってから車でアパートに送ってもらっているので、夜の帰宅は以前よりずっと安心だった。
「徳永さんがいない日は、残業する事が多いみたいだね」
と、彼は言った。
なんで他部署にいるくせに、そんな事まで知っているんだ。
監視しているのか?
「ええ、徳永さんがいらっしゃる日は英語のレッスンがあるので、そうでない日は仕事を詰めているんです」
「へえ、そうなんだ」
天野さんはいつもの呑気な調子でつづけた。
「徳永さんと言えば、最近会議が多いみたいだよね。しょっちゅう部屋にこもって上の人と打ち合わせしているみたいだし」
は?
何でアンタがそんな事まで知っているんだ?
「あ、僕ね、今月からの研修の異動先が、海外事業部の隣の営業部になってさ。徳永さんの席とわりと近くなんだ」
どうやら松の部署とは反対側の、海外事業部の隣の営業部に、天野さんは異動になったらしい。
「最近、徳永さん、上とエラく揉めているみたいだよね。他部署にまで噂になっている。なんでもニューヨークに戻されるっていう話があるみたいだけど」
ああ、この人もその噂を聞いたんだ。
松は心の中でため息をついた。
徳永さんの口からそれについてはまだ聞かされていないが、松は、彼の方から話してくれるまで話題にしない事にしていた。
「そうなんですか」
松は、無関心を装った。
「その話、かなり信憑性が高いって、人事の奴らが言っていたよ」
「え?」
「ニューヨーク支社って、9.11の件で配置換えが起こっただろ?取引先の移動に伴って商権をあちこちにバラしたに伴って、ニューヨークの増井さんっていう課長がロンドンに移っちゃってさ、ニューヨーク支社ではもともと人手が足りていないんだよ。今本社に戻してきている商権を、ニューヨーク支社に戻すことになったら、やはり、徳永さんに戻ってきてもらって課長職に就いてもらいたいんだって。斎賀さんもその意向が強いと、人事の部長が言っているみたいだね」
斎賀さんの意向…
「本来なら、栄転なんだから徳永さんも喜んで行くべきだというのが、周りの判断みたいなんだけど、本人は嫌がっているみたいだし、そのあたり、モメているんじゃないかな」
天野さんは何でその話をわたしにするんだろう。
しかも、なんでこの人がこんな話を知っているんだろうか。
「人事の部長が本当にそんな事を言っているんですか?」
「どうだろう。僕も、人事部長がそう言っているっていう噂を人事部の奴らから聞いただけだから。むしろ花家ちゃんの方がそういう話に詳しいんじゃないの?誰かから聞いてさ」
誰かからって、徳永さんからっていう意味なんだろうか。
「…聞いたことないですけど」
「そう。まあ、本人は意外とそういった噂は知らないものかもしれないよな」
「何でですか?」
「何つうの?噂っていうのは、当人の耳に入るのが一番最後って言うでしょ?」
「・・・・・・」
そうなんだろうか。
徳永さん、本当は上の決定でニューヨークに戻る事が決まっているのに、本人がまだ何も知らされてないだけとか。
そんな事あり得るんだろうか。
そしたら私達の結婚話はどうなってしまうのだろう?
松は急に不安になってきた。
「まあ、受けるか受けないかは、組合の規定がある限りは本人に選択権があるけれどさ。事情もあるだろうし」
「事情…」
「それは、徳永さんだけでなくて、神楽さんにも言えることだけど」
「神楽さん?」
「知っているでしょ?神楽さん、徳永さんの代わりにニューヨークに行く事になっていたみたいだけど、お父さんが脳梗塞されて以来、自由に動けないらしくてさ。しばらくの間は日本を離れられないようだよ」
あ、そうか。そういう事情もあるよな。
セクハラ云々だけではなくて。
「ま、そうは言っても、徳永さんと神楽さんの事情を天秤にかけて、どちらをニューヨークに行かせるかという判断は会社はしないとは思うけどね」
天野さんは、松の反応を待たずにどんどんと話を続ける。
「え、そうなんですか」
「そりゃ、会社は、適任と思える人選をするよ」
「それは、やっぱり本人の都合は考慮されないって事ですか?」
「そうではなくて、むしろ、そういう事すべて判断材料にするという意味だよ。心残りを持たせたまま無理な配置をしたところでいい仕事ができるとは限らないだろ?そういう事をすべて考慮にいれて、適任者を選ぶんだ。だから」
だから?
「本人が頑なに嫌がったとしても、会社の判断ひとつで辞令は降りることはある」
それってどういう意味?
いくら神楽さんに体の不自由な家族がいてたとしても、徳永さんが、いくら組合の規定を振りかざしても、会社が必要な人事だと判断すれば、そんな権利なんか無視されて、ニューヨークへ行けと命じられる可能性があるという意味なんだろうか。
二人は、隣の駅までの道のりを黙って歩き続けた。
話の趣が暗くなってしまって、松は急速に徳永さんのことが恋しくなってきた。
早く顔を見て安心したい。
なんでわたしは、今、繁華街のネオンが華やかな都会の一角で、徳永さんでなくてこの男とこんなところを歩いているのだろう。
「それはそうと」
天野さんが沈黙を破った。
「はい?」
「花家ちゃん、あの話考えてみた?」
「あの話って何の話ですか?」
「え、やだなあ。忘れちゃったの?家成さんから、家成さんのお兄さんの会社で働いてみないかって、誘われていたでしょ?」
ああ、あの話か。
全く忘れていたよ。
「ああ…そうですね」
受ける気はないけど、別に、受ける気がない事を、この人に話さなくてもいいよね。
「そうですね、ちゃんと家成さんに返事をしておいたほうがいいですよね」
「先行きの見えない不安定な契約社員の身分よりも安定しているし、何よりお給料も上がって一石二鳥じゃないかって、言われていたでしょ」
徳永さんに再会する前に聞いた話だったら、喜んでホイホイついて行ったと思う。
何と言っても、松の在籍する子会社は、若い社員を戸惑いもなくバッサバッサとリストラしているらしいし、そうでなくても、いつ会社自身を身売りされるかもわからない状況にある。
そんな状態で、一人暮らしができる環境でしかもお給料もupの勤め先があるだなんて、こんな都合のいい幸運な話はないであろう。
「家成さんね、花家ちゃんの事をとても褒めていたよ。仕事熱心なコだって」
「え?」
「あの後、あの日の飲み会でさ、ちょっと話したんだよね。今時めずらしいマジメで誠実で、頑張り屋さんだって、後ろの部署から見ていてとても好感が持てるって、家成さん、そう仰っていたよ」
「本当ですか?」
「うん、本当。自分の仕事ぶりを自分の知らない人に認められているだなんて、嬉しくないかい?」
嬉しくないかいだって?
嬉しいに決まっているが、家成さんのような、松とは縁もゆかりもない人から褒められて、安易に喜んでいいものだろうか。
「でも、(勧めてくださった会社は)まったく違う職種らしいですし」
「経験のある職種のある人がよかったら、そういう人を探しただろうけど、全く経験のない花家ちゃんのような人がいいっていうってことは、花家ちゃんの人柄とかひたむきさを買ってもらったって事じゃないの?」
前向きな評価として受け止めろっていうことなんだろうか。
でも、やはり素直には受け止められなかった。
家成さんは徳永さんの上司の斎賀さんと、徳永さんを取り合っている清野専務派の人だと聞いているし。
「普通、こういう話って誰にでもないよ。派遣社員ならいくらか機会はあるかもしれないけど、社員に望まれるだなんてあまりないことだよ」
「・・・・・・」
「それだけ、花家ちゃんは、仕事ぶりを認められているっていう事なんだ。それ、ちゃんと分かっているのかなあって、僕は思っている」
「それは、もちろん、仰る通り、めったにないありがたい話だとは思ってはいます。でも、今わたしは親会社に長期出張で来ている身ですし、社内試験も佐伯部長からも勧められて、わたしの一存で安易に試験を辞めるわけにはいかないんですよ。ましてや、転職だなんてすぐには決められません」
「何言ってんの?」
僕の言っている意味、全然通じていないよな、といった声。
「自分の人生に関わることでしょ?一生仕事をもって、定年まで続けたいって思っているんでしょ?採用されて一年契約でその都度、契約を解除されてしまう不安定な身分の契約社員より、正式な社員として認めてくれる会社に、どうして少しでも興味を示さないの?花家ちゃんの仕事に対する熱意ってそんな程度のものなの?佐伯部長が、花家ちゃんの五年十年先の人生を心配してくれるって言うの?」
「エッ…?」
「花家ちゃんの仕事に対する姿勢って、その程度のもん?」
「そ、そんな」
「それとも何?いずれは結婚するんだし、旦那の稼ぎを当てにして暮らしていくつもりだから、当面の仕事さえ手に入れられればいいと思っているの?」
「そ…そんなつもりは」
松は、かなり驚いた。
そんな風に、まさか天野さんから言われるとは思わなかったからだ。
「そんなつもりじゃなかったら何?もちろんあれこれ気をつかわなきゃならない人もいるだろうけど、目先のことだけじゃなくて、もっと周りに自分の素養を理解してくれる人もいる事をちゃんと理解しておいた方がいいよ。家成さんは清野専務の部下で信用できる人だし、お兄さんの会社も小規模だけど、安定した商権があるって言ったでしょ?」
「は、はあ」
「何ならオレが調べてあげようか?」
「?何をですか?」
「家成さんのお兄さんの会社のことだよ」
「調べるって、ど…どうやって」
「そりゃ、調書とかとってさ」
お母さんみたいに、興信所とか使って調べるっていう意味なのかな。
「そ…、そんな手間には及びませんから、大丈夫です!!」
「じゃ、自分でちゃんと調べる?」
ずいと、近づいてまるで命令するかのように、天野さんは言った。
「なんで、天野さんはそこまで言うんですか?何をどうしようと、わたしの勝手でしょ?」
「見ててイライラするんだよね」
と、彼は言った。
「は?」
何言ってんの?
アンタにイライラさせられているのは、わたしの方なんだけど!
「目先の事ばかりに気をかけて、周りが全然みえてないように見えるんだよね、花家ちゃんは。自分の人生について、真面目に長い目で考えてみたことある?ちょっと状況や気持ちが変わっただけで、花家ちゃん、自分の行く先をすぐに変えちゃうし、本当の意味で自分の人生に何が有利で何が損かちゃんと考えてみたことないんじゃないの」
「は?そんなことないですよ」
何を根拠にそんな事を言うんだ、失礼な人だな。
「だってさ、社内試験の話だって、佐伯部長から勧められたから、受けるんでしょ?逆に言えば、勧められなかったら、家成さんの誘いにもっと積極的に考えていたんじゃないの?」
「それは…」
「佐伯部長は、花家ちゃんを評価して試験をうけろと言ってくれているの?」
え?
「評価してくれているから、契約社員に推薦してくれているのか?」
何が言いたいの、この人。
「それを言うなら、家成さんだって」
わたしの何をわかっているというんだ。
「家成さんは、ちゃんと知っているよ」
え?
「理解して評価して、それで、就職先を世話しようって言ってくれているんだ」
「・・・・・・」
「わかってるのそこのところ。だから言っているんだよ、本当にちゃんと考えているの?」
何なんだこの人は。
何で、ここまで断言するかのように否定されなくちゃならないのか、分からない。
「―――んな言い方」
「え?」
「そんな言い方、まるでわたしが、目先の事ばかり気にして、長い目でマジメに人生について考えていないかのようじゃないですか」
松は、思いっきり相手を睨みつけながら言った。
「わたしだって、ちゃんと自分の人生はちゃんと考えていますっ」
「そうかな?」
この場にそぐわない、おどけた声で彼は応じる。
「本当にそう?」
「いったい、何がいいたいんですか?」
「だって、そうだろ?、現にキミは無計画な契約をしようとしているんじゃないのか?」
「え?」
無計画な契約?
何なのそれ?
と思った瞬間、目の前の男が何を言っているのか、すぐにわかった。
分かったと同時に猛烈に腹が立った。
彼はわかるように言ったのだ。
なんなんだろう、この人!
なんて失礼な。
「―――やめてください」
「は?」
「わたしが、無計画な契約をしようだなんて思ってもいません!そんな言い方、やめてくださいって、そう言っているんです!!」
松は、天野さんに向かって、
「失礼します」
とそ言うと、足早に立ち去ろうとした。
彼は追いかけてこようとはしなかったが、そのかわり背後から声をかけた。
「家成さんのお兄さんの会社のこと、調べておいてあげるから、また話そう」
松は、何も反応せず、そのまま走り去っていった。
まるで、徳永さんと結婚することを、批判されているかのようで、松の怒りは収まらなかった。
隣の駅の地下に入っている弁当屋で弁当を二人分買って、電車に乗り、いつものように徳永さん家に向かった。
カイ君はおらず、松は合鍵で部屋をあけた。
部屋は暗かった。松はストーブを点けて、しばらく徳永さんを待っていたが、八時半をまわっても戻ってこなかったので、一人寂しく弁当を食べた。
結婚したら、こんな感じで夫の帰りを待つことになるのかな、と思いながら。
徳永さんは九時半ごろにようやく帰ってきた。
「おかえりなさい」
松は玄関まで出迎えた。
「遅くなってごめん」
疲れてはいたが、松の顔を見て彼は笑顔をみせてくれた。
「晩御飯、先に食べてしまいました。徳永さんの分のお弁当も買ってありますよ」
「ありがとう、着替えてくるよ」
そう言って、彼はコートとビジネスバッグを持って部屋に入って行った。
松はその間に、弁当を暖め、お茶を淹れ、彼を待った。
彼はいつものスエット姿になって、現れた。
そしてすこし日本語で話した後、いつものように、食べながら英語での会話が始まった。
松は時計を見た。彼が食べ終わる頃には十時半をまわっているだろう。
そうすれば、すぐに帰らないといけない時間になってしまう。
時間になれば、彼は、車のキーをもって、
「送って行くよ」
と、自分から立ち上がるだろう。
松は、ついこの前、自分が押し倒されたリビングの床にちらりと視線を遣った。
あの時以来、彼が宣言した通り、二度と彼は手を出してくることもなく、おやすみのキスやハグはあっても決して、その先に進もうとはしなかった。
彼は、
「試験が終わるまで手は出さない」
と宣言した事を、固く守っているのだだろう。
ああ、本当にアホな事をしてしまった。
あの時、なんで拒絶してしまったのだろうか。
あんな事さえなければ、今、もっともっとラブラブでいられたかもしれないのにな…
「どうしたの?」
知らず知らずのうちに、ため息が出てしまったらしい。
松は慌てて笑顔を作ったが遅かった。
「今度は何を抱えているんだ?」
「徳永さん」
松は言った。
「何?」
「わたし、決して、目先のことに目が行って、徳永さんと結婚するんじゃありませんから」
「は?」
「別に、気分で徳永さんと結婚するつもりになったんじゃありませんから」
「…何の話?」
「いえ、単に、それをちゃんとわかっていて欲しくて…」
「・・・・・・・?」
「それだけです」
「・・・・・・・」
松と徳永さんは次の土曜日に松の実家に挨拶に行く事になっていた。
松はもう、本当に覚悟を決めていた。
その場の気分でどんな困難な出来事が起こっても、松は二度と気持ちを翻すつもりはなかった。
誰かに遠慮して、尻込みしたり、立ち止まったりするのなんて二度とごめんだった。
(自分の人生をマジメに考えているから、わたしは徳永さんと結婚するのだ。気分であれこれちょっかいをかけてくるのは、そっちの方じゃないか)
と、松はひとり呟いていた。
<50.嵐の前の噂話>へ、つづく。




