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48.来たるべき時

48.来たるべき時



 その日、徳永さんの家に着いたのは夜の七時を回っていた。


 今、松は徳永家のリビングで暖かい焼うどんを食べているところである。


 今日は外出先から家に直帰するから家で待っててくれと言われ、デパ地下で張り切って総菜を買って来たのであったが、そこで待っていたのは愛しのダーリンではなく、育ち盛りのその弟の方であった。



「ち、ちょっと!私の買ってきた晩御飯のオカズ、どどど、どーしてこうなっているわけ???」



 テーブルの上の惨状を目の当たりにして叫びまくる松。


 二人仲良く食べるはずだった晩御飯は、ものの見事にスッカラカンとなっているではないか。


 その横には、兄とそっくりな顔をした弟が、満足気に楊枝で歯茎をシーハーしている。



「あんたが食べたの?」



「あ?」


なんら悪びれてもいない様子。



「徳永さんとわたしの晩御飯、あんたが食べちゃったのかって、聞いてんの!!」



カイ君は、


「美味かったぜ、ごちそーさん」


と、ニコニコと満足気だ。



「ひどいじゃないのよお!これから食べるつもりで、お腹ペコペコなのに…」


あまりの事に、がっくりとうなだれる。



 テーブルの上に食事を置き、トイレに行って、手も綺麗に洗って、ついでに玄関に脱ぎ散らかされた靴(殆どが弟のもの)並べたり、ゴミを掃き掃除したりしていたほんの十数分の間の出来事だった。



「だって、今、兄貴から、晩飯は食べて帰るから、お前先に適当に食ってろってメールがあったからよ、ここに置いてあったのを食べたってわけ」



 え、あ?そうなの??


 慌てて松も自分の携帯を確認すると、同じ内容のメールが届いていた。


 そっか、ゴハンいらないのか。


 一緒に英語で話しながら食べられるのかと期待していたのになあ。


 じゃなくって。



 ギロッ。



「あん?」



 松は、恨めし気に弟を見つめた。


 めったに買わないおこわご飯と和牛のしぐれ煮の総菜弁当は、日ごろ、缶詰と冷凍食品で過ごしている松にとってもちょっとしたご馳走と言えるものだった。 


 今日は徳永さん家での二人きりのゴハンということで、ちょこっと奮発したのだ。


 それが…



「お腹すいた…」


松は、空腹を抱えて床にへたばりこんだ。



 今日はいつにもまして忙しく、またあれこれと悩まされる事が多かった。


 疲れ果て、食事を再び買いに行ったり、作る余力はもはやない。



「え?ひょっとして、あれ、お前の分もあったの?」


松の失望に満ちた、というより、憎悪に満ちた眼差しに、カイ君はやっと気が付いたらしい。



「あっったりまえでしょ!!まったく同じ弁当が袋の中に二食あったら、二人分にきまっているじゃないのよ!!!!」



「オレ、弁当は二人分食べるのが習慣なんで、まさかアンタの分もあるとは思わなくて」


カイ君は別に嫌がらせ?ではなく、本気で二食とも兄の分として買われてきたものだと思ったらしい。



 が、その言い訳が更に松の怒りを煽った。



「食べ盛りのアンタはともかく、徳永さんが二食もの弁当を一回に食べるわけないでしょっ!わたしの分にきまっているじゃないのよっ!!!!」



「ごめんごめん。うまかったからつい」


松の般若のような形相にさすがのカイ君も、大変な事をしてしまったと気が付いたらしい。



「ひどぉ~~~い。アタシ、今晩、晩御飯抜きじゃないのよお!!!」



「ごめんっってば、そんなに泣く事ないだろ」



 そんなわけで、松は、カイ君急遽作った、今夜の彼の晩御飯用だった焼うどんを食べているのだった。



「ホラ、徳永家秘伝の特製焼うどんだ。うめえだろ?」



 普段松が少々わめきたてても、全く動じないのに、今回ばかりは食べ物の恨みのこもった眼差しに恐れおののいたのか、彼の大好きなイカとエビをふんだんに使った焼うどんは、まあまあ美味しかった。


 

 やっと腹が膨れて満足したところに、彼が気を利かせて淹れてくれた暖かい日本茶とミカンが運ばれてくる時には、やっと気持ちも収まってきた。


 カイ君は普段は態度がでかいが、こういうところがとても甲斐甲斐しくて、かゆいところに手がとどくように、世話を焼いてくれる。


 彼には、外に彼女?もしくは、いわゆる“女”がいるらしいが、もし、本気で惚れた相手がいるならば、彼も兄と同じくきっと良いダンナサマになるのではないかと思われた。



「何考え込んでんだよ」



「は?」



「だから弁当の事は悪かったって。わざと食ったわけじゃねえんだよ」



「別にもう怒ってないよ。焼うどん美味しかったし」



 この家では何回も食事をご馳走してもらっているから、一食分のお弁当ぐらいのこと、怒るほどのことではない。


 究極にお腹が空いている時に、目の前の食事をかっさらわれた事が許せなかっただけで。



「腹、まだ空いてんなら、ほら、ここにミカンのほかに、リンゴもあるし、柿もある。よかったら剥いてやろうか」



「いいよ、今、お腹いっぱいだし」



「食べ物の恨みは怖えからな。遠慮はいらねえぜ」



「いいって。あんたが食べなよ。てか、わたしそんなに食い意地張っているように見える?」



「食い意地っていうか」


カイ君はちょっと首をかしげて、不思議そうな顔で松を見た。


「何か元気ねえような気がしたから」



「え、そう?」



「兄貴と婚約して、ウキウキしているかと思ったのに。何かあったのかよ?」



「…何かっていうか」



「そんなに浮かない顔して、何があったんだよ?」


と、カイ君は言った。



 松は今日の出来事を回想し始めた。










 今日は変な日だった。


 オフィス一帯が奇妙な雰囲気に包まれていた、と言うべきなのだろうか。


 それは、松の居る情報システム課ではなく、隣の海外事業部の空気がものすごく緊迫していたせいかもしれない。



 事は、徳永さんが外出してしまった後、神楽さんにかかってきたニューヨークからの社内電話で始まった。


 彼女は上司と思われる相手にひたすら、


「今回のトラブルに関しては、先方の連絡ミスによるものでこちらに非があるわけではありません、お怒りはごもっともですが」


と、ものすごく深刻な声で、頭が机にくっつくかと思われるぐらいに低身低頭に謝っている。



 隣の島の松には何が起こっているのかさっぱりだったが、そのトラブルの概要が、海外事業部の部長や副部長の耳に及ぶと、“えらいこっちゃ”と言わんばかりに顔を引きつらせ、彼らは一同会議室にこもり、午後いっぱい深刻にに頭を突き合わせ、今後の対策に頭を悩ませていたらしい。



 それが一体何だったのか、当初、松にはあずかり知らぬ話であったのだが、夕方近く女子トイレの個室に入っている間に、手洗い場で行われていた女子社員達の噂話を耳にしてしまったのである。



「どうやら、とうとう来るべき時が来てしまったみたいね~」



「来るべき時って?」



「神楽さんが今日、電話で必死に謝っていた相手、いるでしょ?あれ、どうやらニューヨーク支社長の斎賀さんみたいなのよ」



「神楽さん、何かやらかしたの?」



「ほら、徳永さんがニューヨークでやっていた仕事、今までメインで徳永さんが動いてサブで神楽さんが補佐していたのを、徳永さんがニューヨークに戻んないって主張したもんだから、今では役割が入れ替わっているんだって。ところが取引先の新しいニューヨークの担当者がどうやらひどい男尊女卑者らしくてさ…」



「あらら…」



「神楽さん、セクハラされているんだって」



「ええッ、そうなの?」



「それで、抵抗した神楽さんに先方が逆切れしちゃったみたいでさあ、本来、ウチの会社によこすべき大切な連絡事項をスッポかしてきたんですって!それで、斎賀さんがブチ切れて、『いったい、どうなってんだーっ』って、今日、すごい剣幕で電話がかかってきたんだって」



「うわー。サイアクじゃん。でも、神楽さん、セクハラなんて可哀想」



「何でもさあ、先方は徳永さんをめちゃくちゃ気に入っていたみたいで、彼が担当から外れるのをかなり嫌がっているんだって。徳永さんを担当に戻してくて、後任の神楽さんにわざと嫌がらせをしている可能性もあるのかもって言ってた」



「それ、ほんと?」



「セクハラするような会社、取引止めればいいじゃんっって、言いたいところだけど、斎賀さんの個人的なコネクションで繋がりのある相手だから、そうもいかないらしくて」



「コネクション?」



「つまり、斎賀さんの恩のある相手ってこと」



「ありゃりゃ。そんなムツカシイ相手なんだ~じゃ、神楽さんこのまま担当を続ける事になるの?なんか、気の毒ぅ」



「だよね~だから、上の連中も困りかねて、担当をもとに戻そうかって、今日は話していたみたいなんだよ。セクハラは許せないけど、業務に支障が出るようじゃそうも言っていられないからってさ」



「元に戻すって、徳永さんをニューヨーク支社に戻すって事?でも徳永さんは組合の規定を行使して日本に残るって言い張っているんでしょ?」



「だから、徳永さんに、何とかニューヨークに戻ってくれないかって説得しようかって今日は話しをしていたみたい。斎賀さんだって、その方が嬉しいでしょうし」



「でも、徳永さん、折れると思う?」


頑固そうな人だし、無理じゃないの?と付け加えられる。



「そうかなあ。案外、簡単に首を縦に振るかもよ?だって、徳永さんは“心に決めた相手”と結婚したいから日本に居たいだけであって、別にニューヨークの仕事がしたくないわけじゃないんでしょ?結婚して嫁と一緒にニューヨークに行けば済むだけの話だし」



「そうかなあ。そのお嫁さんになる人が、日本を離れられないんじゃ、やっぱ無理じゃないのかなあ」



「…まあ、どういう仕事をしている人なのか聞いていないけど、相手は、社内の女性っていうのは確からしいんだよね」



「へえ、なるほどねえ。いずれにせよ、あの徳永さんを射止めた人って事でしょ?相当な美人かやり手とか?日本を離れられないような女性ってことは、やっぱ総合職なのかな?」



「そうかもねえ。一般職の人間なら、喜んで寿退社するでしょうしね。普通、旦那の仕事の差しさわりになるような事、一般職の女性社員はしないでしょうし」



「そうだよねえ。まあ普通の平社員で終わりそうな人ならまだしも、相手は徳永さんだもんねえ。明らかに出世コースに乗っている人だもん。旦那の出世を阻むようなコト、普通はありえないよね」



「だねえ。もしそんなに意固地な女なら、徳永さん結婚をやめちゃうんじゃないの?」



「そうなると思う?」



「だって、役に立たないどころか、自分の足を引っ張る女と結婚するメリットなんかないでしょ」



「だよねえ」








 徳永さんは夜の九時を回ったころに帰ってきた。静かなリビングで松はうたた寝をしていた。



「風邪ひくから、寝るときは、部屋を暖めて体に何かかけてって言っているのに」


小姑のように口やかましくあれこれ言っている彼の声で目が覚めた。



「あ…おかえりなさい」



「義己は?」


美しい顔が自分を覗き込んでいた。ああ、カッコイイ。



「カイ君は、明日までに仕上げないといけないレポートがあるとかで、部屋にこもってます」


眠気をかみ殺しながら答える。



 あれ、どのぐらい寝ていたっけ?



「晩飯は食った?オレは済ませたけど」



「食べました」



「何食べたの?またインスタント?」



「いえ、カイ君が焼うどんを作ってくれたので」



「ああ、あいつ焼うどん得意なんだ。オレより上手に作る。うまかったろ」



「美味しかったです」



「で?」


徳永さんは、ネクタイを外しながらまた松の顔を覗き込んだ。


「なんでそんな沈みこんだ顔しているの。家に電話したのか?」



 ああ、落ち込んでいるの、顔にでていたのか。


 気をつけていたつもりなんだけど。


 家に電話したせいだと思っているんだな。



「いえ、夕方に一度電話したんですけど。母は町内会の集まりがあるとかで、いなかったんです。夜遅くなるらしくて…」



 母に電話をするのは勇気が入ったが、しないわけにはいかない。



「じゃ、何でそんなに落ち込んだ顔しているんだ?」


部屋で着替えを済ませてスエット姿で現れた徳永さんは、かなり寛いで見える。



 松は、息を吸い込んだ。


 今日、女子トイレで聞き及んだ噂が胸につかえたままになっているのが原因なのだが、それをこのまま彼に打ち明けるのは憚られた。


 今日彼は、午後いっぱい外出でずっとオフィスにいなかったし、彼の部署で起こっているトラブルの内容は聞かされていないのかもしれない。


 事実かどうか分からない噂話を安易に彼の耳に入れたくなかった。



「いえ、何も。ちょっと仕事で疲れただけで。徳永さんもお疲れみたいだけど、忙しかったんですか?」



 徳永さんは冷蔵庫から炭酸水を取り出し、封を開けて、ごくごくと喉を潤した。


 男らしい喉仏が上下するのさえ、松の目には、やたらセクシーに見える。



「ああ、色いろあって疲れたよ」


彼はそう言って、ソファーに座り込む。


「単純な出来事を、複雑に解釈したがる連中がたくさんいてさ、説得するのに相当な時間と力を要したよ」



 単純な出来事?


 今日、海外事業部で起こったトラブルの話をしているのだろうか。


 まさか、神楽さんのセクハラの話をしているわけじゃないよね?



「ところで、今日は話があるんじゃなかったっけ?」


徳永さんは再びボトルを傾けながらこちらを向いた。



 そうだった。実家の義父から聞かされた、天野さんにまつわるあの話をしないといけないんだった。例の噂話が尾を引いて、忘れてた。



「・・・・・・」



 言うのは簡単だが、徳永さん疲れているし、なぜだろう、何となく言い出しずらかった。



「え、あ、そうですね。そうなんですけど、徳永さんこそ何か話があったんじゃないですか?」


徳永さんは、ちょっと目を見開いて松の目にジッと視線を定めた。



 あ、逃げたのバレたかな。



「ああ、昨日、君のお義父さんに近々ご結婚のご挨拶にあがりますって電話で話しておいたって、伝えておこうとね」



「・・・・・・は?」



「花家ちゃんの方から、そういう話が近々あると思いますって言ったら、もう電話があったよって仰っていた」



 一瞬、どういうことか分からず、目をパチクリさせる。


 え、何が何だって??



「ち、ちょっと待ってください、意味がよく分からないんですが、徳永さんの方からうちの家に電話をしたんですか?」



「そうだよ」



 そうだよって、どういうこと?



「だ、だ、だって、わたしの方から実家に電話をするようにって、徳永さん言いましたよね?」


 連絡をしなくちゃいけないのは、わたしじゃなかったの?



「当たり前だろ。結婚相手を連れて行きますって、普通は子どもが親に伝えるものだろ?」



「い…い、いやあの、そうでなくて、いやそうなんですけど。というか、なんで徳永さんが敢えてうちの実家に電話をいれる必要があるんですか?」



「だから、花家ちゃんから電話がありますよって、それを知らせておこうと思って、その連絡を」



 はぁ?事前連絡の、そのまた事前電話??


 なんだかよく分からないんですけど????



「まあね。キミの実家というより、お義父さんの携帯に電話をしたというか、まあ、前々から、そのうち娘さんをお嫁にいただきますって話していたから、この度、そういうことになりましたからって連絡したんだよ。それだけ」



 松は、目玉を三倍ぐらいに大きくして、徳永さんを眺めた。


 初めて聞く話に頭がまとまらない。



「待ってください。それって…いつの事ですか?」



「は?」



「前々から娘さんをお嫁にいただきますって、徳永さんがうちの親にそう言ったのって、いつの事ですか?」



「今年に入ってからだよ。この前、海外出張から帰った後、有給をとったでしょ。あの時に花家ちゃんの実家に行って、近々娘さんにプロポーズするつもりですって、ご両親に会って、そういう話をしたんだ」



 松は思考を巡らせた。


 この前の有給って、引っ越しの直前の時か。


 引っ越しの手伝いに行きましょうかって申し出たら、私用があって出かけるからいいって断られたっけ。


 まさかあの時に、徳永さんが松の両親に会いに行っていたとは。



「近々といっても、今年中という意味だったんだけどね」



 あまりにも訳がわからず、頭を抱える。


 今まで、徳永さんを親に会わすべきか、どうか、散々悩んで来たというのに、もう、親に会っているだと?



「まあ、突然訪ねて行ったんで、お母さんもお義父さんもかなり驚いていたけど」



「それじゃ、母にも会ったんですか?」



 義父だけじゃなくて?



「当たり前だろ?君のお母さんに話をしないで、いったい誰に話をするんだ」



 そりゃそうだけど。



「母は、何か、言っていましたか?いえ、それより、徳永さん、大丈夫でしたか?」



「大丈夫かって?」



 キョトンとしてるし。



「母が何か失礼なコトを言って、徳永さんを傷つけたのではないかと…」



 徳永さんは炭酸水を再び口に含んで、ゴクリと飲んだ。



「まあねえ。花家ちゃんからそういうのを聞かされていたし、かなり覚悟して臨んだつもりだったんだけど、意外とあっさり…」



「あっさり?」



 認めてくれたとか?



「“お話しの趣旨はわかりました。そういう事でしたら、娘が承諾してからもう一度おいでください、当方が賛成するかしないかはその後考えます”って言われたよ」



「はあ?」



 どういう意味だ。



「そ、それだけですか?」



「それだけ」



「………」



「ま、そういう成り行きだったんで、この度、娘さんにプロポーズして承諾してもらったんで、近いうちにお宅に挨拶に伺いますからお母さんにお伝えくださいって、昨日お義父さんに電話をいれたというわけ」



 実家の固定電話にかけても留守だったから、お義父さんの携帯に電話したんだよ、と彼は付け加えた。



「は……」



 松は、腰が抜けると思ったが、まだ大丈夫だった。


 大事な徳永さんを傷つけやしないかとあれこれ気をもんでいたというのに、裏でそういうやり取りがあっただなんて、まったく予想だにしない話であった。


 しかし。



「覚悟していた割には、結構淡々としていらっしゃったんで、拍子抜けだったけど、あまり好かれてもいないのも確かだね。固定電話に何度も電話しても留守電になるのは、避けられているせいなのかもしれない。お義父さんにも、そう言われれたし…」



「義父がですが?」


松はくいついた。


「義父が何を言ったんですか?」



「ショウの母親は、“ショウは君ではなく他の男性と結婚することになると確信している”って、昨日の電話で仰っていたからさ」



「ええっ」



 義父がそんな事を?



「“お母さんは、君ではないとある別の男性をものすごく気に入っていて、ショウちゃんがその人と結婚するものと、ものすごく確信しているようだ、って。まあ、ショウちゃんがキミのプロポーズに承諾したのなら、事実はそうではなかったんだね”っとも仰っていたけどね」



「義父がそんな話を徳永さんにしたんですか?」



「はっきりとは仰られなかったけど、そういうニュアンスの事をね」



 松は、義父との電話を思い出していた。


 義父は松が徳永さんと結婚することを、積極的に賛成もしなかったけれど、特に反対もしなかった。


 義父はとりあえずの敵、もしくは障害ではないことに、少しほっと胸をなでおろす。



「そ…ですか」



「まあ、それ以上は何も聞かなかったので、その相手がどんな人で誰なのか、教えて貰えなかったけど」



 ドキン。


 ものすごく嫌なものを感じた。


 義父の話から母が“徳永さんでない相手”が誰の事を言っているのか、心あたりがあったからだ。


 

 松は、徳永さんの顔を見た。


 普通の顔だ。


 が、この無表情顔は怒っている事が多い。


 怒っていないフリをして、かなり不機嫌なのは経験上よくわかっている。



「その顔は」


ひとつだって見落としはしないよ、という口調。


 ああ、勝てる気がしない。


「覚えがありそうだね」



「は、はい…」



「相手が誰だか知ってるの?」



 うわっ、コワい顔。



「あ、あの」



 松は思いっきり後悔した。


 こんな成り行きになるのなら先に話をきりだしておいたらよかった。


 ああ、わたしのドジ。


「実は、ですね」


 おずおずと話しだす。


「わたしも、つい昨日聞いばかりの話なんです」



「昨日?」



「昨日の夜に実家に電話をして、徳永さんと結婚するからって、義父に話をしたんです。」



「昨日の夜にその話をしたのか?」



 あ、怒っているのかな。


 最初は、しばらくは親に話をするのはヤメておこうって言っていたもんな。



「ごめんなさい、徳永さんからはああいわれていたけど、やっぱり親にはだまっていられないなあって思って…それで、電話したんです。母がたまたまその時いなくて、電話に出たのが義父だったもんで、義父から伝えてもらおうと思って」



 徳永さんは炭酸水を片手に、松の話にじっと聞き耳をたてている。



「お母さんは、わたしがそのですね、天野さんと結婚するつもりでいるって、ものすごく信じ込んでいるみたいで、その報告がくるのを心待ちにしているって言われたんです」



「天野?」


その名前に、徳永さんの両眉がおもいっきりつりあがった。


 うわ、怖いよ~~



「なんで天野がキミと結婚するんだ?」


徳永さんはようやく感情を露わにした。


ウワッ、地響きみたいな声。



「どうしてそんな話になっているんだ?」


前のめりになって詰問される。


セクシーだけど、コワイ。



「そ、そんなの知りませんよ!わたしが聞きたいぐらいです。天野さんがなんでウチの親といつのまにか懇意になっているのか、なんで、わたしと結婚することになっているのか、わたしも昨日初めて聞かされて、腰が抜けるほどびっくりして」



 しばらく立ち直れなかったんですもん、と言うと、徳永さんは、怒りマックスに声を高めた。



「なんでその話をすぐにしなかったんだ!」



「だから!!昨日の夜に聞いたばかりなんですってば。それに、今話しているじゃないですか」



「クソッ!!!」


 

 徳永さんはそう言い捨てソファーから立ち上がったかと思うと、その辺を歩きまわり始めた。


 なんか、犬みたい。



 松は、たどたどしくではあるが、義父の話を最初から最初まで詳しく話した。


 親が上京してきた際、松の部屋で天野さんと鉢合わせしてカレーを食べたこと。


 松と別れた後、駅で失くし物をして天野さんに助けられた事などを、それはそうこと細かに。



「ですからね…」



 怒っている人にあれこれ細かい事柄を話すのは勇気がいるが、徳永さんは元来優しい性格で(女性に限定するが)松が怯えているのが伝わったのだろうか、目元をゆるめて大人しく話を聞いていた。



「義父が言うにはですね、母はわたしが天野さんと結婚するつもりでいると、どういう根拠か分からないですけど、ものすごく確信していて、それを楽しみにしているから、徳永さんと結婚するだなんて言ったら最後、わたしを東京から地元に連れ戻すために、会社に乗り込んでいきかねないだろうって。だから、もし、話をするのならば、タイミングを見はからってからの方がいいと、そう助言されたんです」



「ふうん、なるほどね」



 話終わる頃には、徳永さんはすっかり落ち着いていて、納得したように頷いていた。



「会社に乗り込むだなんて、そんなバカな事をって思うかもしれないですけど、前に、お見合いしに実家に戻らなければ、わたしの上司に掛け合ってでも連れ戻すとか、とんでもない事言っていた事もあったんです。もしそうなったら、わたしはともかく、徳永さんにもご迷惑をかけてしまう事にもなりかねないし…」



「迷惑?」


徳永さんはその言葉に引っかかったようだ。


「何が迷惑なんだ?」



「え、だって。わたしが東京に居つきたがるのは、徳永さんのせいだって、まわりにばれるし…」



 何よりも、未来の奥さんの親が、自分との結婚を反対している事が周囲にばれるのは、あまりにも体裁が悪いではないか。



「それで、わたしと結婚することが、周りにバレちゃったら、斎賀さんに…」



「ああそうだな。まあ、そういう事態になったら、斎賀さんに事後報告するしかないけど、まあ、それは大した問題ではないよ」



 松は、そうなのだろうか、と思った。


 徳永さんは今、斎賀さんと微妙な関係にあるのではないかと、松は心配していたのだけど。



「今日、言ったでしょ」


徳永さんは、炭酸水をテーブルに置くと、松の体をクイっとこちらに向かせて、しっかりと視線を合わせて話し始めた。


「近いうちに―――次の週末でいい、早く君のご両親のところへ、挨拶に行こう」


その視線は力強く定まっていて、迷いはない。


「挨拶に行って、ショウが結婚するのは天野じゃなくて、オレだということを、ご両親にしっかり知ってもらう」


そして彼は、さらに続ける。


「驚かれたり、反対されたりしても、意志を翻すつもりがないって事を、ちゃんと理解してもらわないと」



 松は、徳永さんのその力強さに圧倒されそうだった。


 ものすごく自信にあふれた態度。



「―――嫌?」



 あまりに松が言葉を発しないので、答えを促された。



「まさか。そう言ってくださって、嬉しいし、わたしもそうした方がいいと思います。でも、やっぱり」



「やっぱり?」



「母が逆上して、何するかわからないなと思うと…」



「おそらく、そういう事にはならないと思う」


と、彼は言った。



「え?」



「お母さんが、逆上してウチの会社に乗り込んでくるような事にはならないと思うよ」


徳永さんはまた、確信しているかのように、サラっとそう言う。



「何でそう思うんですか?」


この人は何か知っているのだろうか。



「そんな事をしても、何の役にも立たないとお母さんにだってわかるだろう。僕たちが本気だと言う事を知ればね。そうじゃなくて、オレが心配しているのはショウの方だよ」



「わたし?」


なぜ、わたしなの?



「オレは幸か不幸か、自分の結婚にあれこれ口を出す親族はいない。他人に―――結婚したら他人ではなくなるが、その他人に頭を下げて、娘さんをくださいというのは、反対されている実の両親に頭を下げるよりずっと簡単な事だ。だけど、ショウは違うだろ?ショウがオレと結婚して幸せになるには、何が何でも、ご両親の賛成と祝福が必要になってくる」



「そんなこと」


反対されても強行するつもりでいた松は、彼の言葉にハタと立ち止まった。


「最悪、賛成されなくても…」



「それでも、やっぱり賛成されたほうたいい」



 彼の言っている意味は分かる。


 本当に賛成されたいって思うからこそ、祝福されたいと思うからこそ、たとえ反対されていたとしても、挨拶に行こうとか、承諾してほしいとか、そういう気持ちになるのだけど。



「今回は、オレよりキミの方が何倍も苦しい作業になると思う」


と、彼は言った。



「それはそうですけど、でもっ」


何か案じているような徳永さん。


松は気持ちを奮い立たせた。


「反対されても、わたし、気持ちが変わるようなことなんて」



「それはわかっているよ」


彼は言った。


「わかっているし、信頼もしている」



 じゃ、何で怪訝そうに眉をひそめているんだろう。


 何で不安げに松を見下ろしているのだろうか。



「何か気になることでもあるんですか?」


松は言った。


「わたし、何か不安にさせていますか?」



「別にないよ」


と、彼は簡単に言った。


「今はない。ただ」



 ただ?



「状況は、逐一変わるからね。昨日と今日、今日と明日では変わっていないようでも、同じだと思っていたものが、すっかり変わってしまうこともあるから…」



 言葉が切れた。


 徳永さんは小さくため息をつくと、松の体を引き寄せてこめかみの近くに唇をあてた。


 彼の言葉は、今日、トイレで耳にしたあの噂話を思い起こさせた。



“昨日と今日、今日と明日では状況が変わることがある”



 斎賀さんは、昨日まで徳永さんが日本に留まる事を許していたけれど、今日の彼の気持ちも、取り巻く状況も、明日はかわっているかもしれない。


 彼がいくら組合の権利を行使したくても、どうしようにもならない事もあるのかもしれない…



 そう考えると、松は訳の分からない不安にかられ、ねだるように、いい香りのする彼の胸に、そっと体重を預けた。


 彼の心音が自分のそれと共鳴していた。


 彼の腕の中は暖かった。



「そうであったとしても」


松はハッキリと言った。


「状況がどんなに変わっても、私の気持ちは変わりませんから」



 今度は、松の方から彼の体を抱きしめた。


 彼は、まるで傷ついた動物が痛みを訴えるかのように、身体を預けて来た。



「あの…」


しばらくじっとして、心が落ち着いてくると松は静かに口を開いた。


「ひとつ聞いていいですか?」



「何?」



「この前プロポーズしてくれた時、本当はもっと先の…社内試験が終わった後にするつもりだったんだって、言っていましたよね?斎賀さんに報告してから、その後にって」



「ああ、社内試験の前に、あれこれ気を使ったりさせたくなかったからな」



「本当は、もっと後の予定だったのに、この前、わたしがワーワー泣いて、困らせてしまったから、それなら仕方なくって、結婚しようって言ってくださったんですよね?」



「まあ、ちょっとニュアンスは違うけど、そういうことだね」



「…じゃ、どうして、ウチの親に年明け早々に、会いに行こうだなんて思ったんですか?」



「え?」



「社内試験が終わって、わたしと結婚できそうな段取りが固まってからでもよかったんじゃないですか?」



 両親に、会いに行ってくれていた、という事実は嬉しい。


 だけど、あからさまに娘との結婚反対していて、自分の出生や背景(バックグラウンド)にミソクソをつけた人達の家に、単身乗り込もうなどと、あまりすすんでしたい事柄ではないはずだ。



「うちの親と、どんな話をしたんですか?」


松は、改めて尋ねた。



「―――どんな話って?半年後に、娘さんにプロポーズするつもりですって、そういう話をしたけれど?」



「だから、普通は、半年たってからそういう話をするもんでしょ?どうしてそんな早くから、年明け早々の出張明けの忙しい時期に、そんな話をしにいったんですか?」



「何?その半年の間にオレの気持ちが変わるかもしれないって、思うのか?」



 今度は、松が、じっと徳永さんを見据えた。


 彼は唇の端を挙げて笑っていた。



「はぐらかさないでください、わたしの言いたい事、わかるでしょう?」



「花家ちゃんに嘘はつけないな」


と、彼は視線をそらして、フッと笑った。



 彼は、松を体から話すと、とつとつと話し始めた。


 それは、彼の最初の告白だったように思う。


 松が知りたかったこと。松がこれまで知らない本当の彼を、彼は静かに語り始めたのだった。



<49.実家との間で>へ、つづく。







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