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47.驚きの展開

47.驚きの展開



 話は、第29章の「母と天野さん」までさかのぼる。



 手土産とともにやってきた天野さんと松の両親が松のアパートで鉢合わせしたあの日、三人は松の不味い?カレーを食した後、それぞれ帰って行った。


 松は、駅に向かう道の途中まで天野さんを送って行ったが、その後天野さんは駅改札口近くでウロウロとしている両親と再び鉢合わせしたらしい。


 落ち着かない松の両親の様子から何かあったのだろうかと、天野さんの方から声をかけたところ、どうやらタクシーの中で手荷物を忘れてきてしまったとのこと。


 その荷物の中に携帯電話をいれっぱなしにしていたらしく、タクシー会社に電話をしようにも出来ない状態で、非常に困っていたようなのだ。


 話を聞いた天野さんは、快く自分の携帯からタクシー会社に電話をしてくれて、荷物が無事回収できるまで見届けてくれた。


 その荷物には貴重品もはいっていたので、鞄が戻ってきた時の母や義父の喜びは半端のないものだったようだ。



『先ほどは、失礼な事を申してしまってさぞ不愉快だったでしょうに、私共のためにお手間を取ってくださって、お礼のしようもありません』



 と、言ったのか言わなかったのか知らないが、自分は電話をしただけで大したことなどしていないとまっすぐ家に帰ろうとする天野さんを、強引に引き留め、母は、その夜、天野さんをホテルにあるバーの酒の席に誘ったというのだ。



「は?お酒の席に誘ったですって?」



 いったいどういった展開なんだ。


 そんな話聞いていないぞ。


 まあ、母達と天野さんが、あの後、一緒に飲んだだなんて聞かされたところで、にわかには信じられなかっただろうが。



『きつい性格の方で、怒らせてしまってどうしようかと思っていたのに、親切にしてもらっただろ?お母さんとしても、さっきの非礼の詫びをいれたい気持ちもあったんだよ』


と、義父は言う。



 松は、耳を疑った。


 あの母が自分の非礼を詫びるだなんて、やはり(アメ)でも降るんじゃないだろうか。まあもっともあの日は、(みぞれ)が降っていたけど。



「それがどうして、そこから天野さんがわたしと結婚するっていう話になるわけ?」



『まあ、一言で言えば、お母さんが天野さんを気に入ったから、ということなんだろうねえ』


と、義父は説明をつづけた。



「気に入った?」


母があの天野さんを?



『天野さんは、背はそう高くはないけど、好男子(ハンサム)だし、清潔感があるし、黙ってお母さんの話をウンウンと相槌を打って大人しく聞いてくれるだろ?怒らせてしまった相手だったもんだから、そのギャップにちょっとホッとしたところもあったし、それに何と言っても、ご家庭の背景(バックグラウンド)が我が家とそっくりで、とても共感できるって言ってね』



「は?背景(バックグラウンド)??なにそれ」



『なんでも天野さんには、ご先祖に京都の公家の△△家がいらっしゃるようで、ご本人も武家の××家の末裔らしくてね』



「へ?」


なんだそりゃ。



『ほら、××家はうちの先祖の●●家とはそう遠い間柄じゃないだろ?その話がきっかで、我が家も実は●●家の末裔で、××家とは昔、繋がりがあったんですよって話が発展して、それじゃあまあ、そう遠くない親戚でもないですねって、話がもりあがって』



「・・・・・・・」


松は絶句した。



 それが本当なら、これはものすごい偶然?なめぐり逢いなのかもしれないが、××家も●●家も、隆盛を誇っていたのはウン百年も昔のことで、その先祖を引き合いに親戚よばわりするのもどうかと思うのだが。



『まあそれで、なんでうちのお母さんが、最初天野さんにあんな失礼な言い方をしてしまったのか、天野さんも理解できたようでものすごくうちとけてくださってね。お母さんもそれで上機嫌になっちゃて。うちの娘は、ものすごく男の見る目が悪くて、そんじょそこらのどこの馬の骨かもわからない男ばかりを連れてきてとても困っている、自分の体を流れている血の尊さを少しも理解っていないって話をふったら、むこうさんも、あんまりおかしかったのか腹をかかえて笑っていたよ』



「はあ?」



 誰が男の見る目がないって?


 誰がどこの馬の骨だって??


 何がおかしくて腹をかかえて笑っていたって???


 松は額に思いっきり深い青筋が刻まれてゆくのを感じた。



「お義父さんあのねえ…」



『それで、まあ、お酒もはいっていたこともあってね、娘にはあなたみたいな方にもらってもらうのが一番だと思うってお母さんがそう言っちゃたもんだから、話がどんどんすすんでしまってねえ』



「はあ?どう進むっていうのよ!?」



『だから、お母さんがぜひあなたに娘を嫁にもらってもらいたいって、そう申し出たら、そしたら向こうから、じゃあ是非っていう事になったんだよね』



 なんなんだ、そのまるでその猫の子供の受け渡しみたいなやりとりは。



「なんなのよ、それ。本人の居ないところで人の人生の大事をよくもまあ勝手に決めてそんな事まかり通るとでも思っているわけ?それに、酒の席での酔った上でのそんな話、口から出まかせのただのリップサービスにきまっているじゃないのよ!」



 全く天野さんは、何をしてくれてるんだ。


 おそらく彼は、酒を奢ってもらった手前、単に相手を立てるつもりだったのか、酔って気が大きくなっていたのか、適当な事を口走ったのだろう。


 しかしこれは厄介な事になってしまった気がする。


 母はこういった冗談と本音との区別がまったくつかない人間だ。


 気分のよくなるセリフを一度耳にしてしまったら、詐欺だろうが、冗談だろうが、はたまた単純な嘘だろうが、すべて自分に都合よく解釈して信じてしまうタイプだった。



「お義父さんだって、そう思ったでしょ?」


まったくとんでもない事になってしまった。いったいどうしたらいいものやら。


「お母さんの話に、わざわざ天野さんが合わせてノッてあげただけって、わかるでしょ?いちいちそんなバカげた冗談を真面目にとったりしないでよね!アホらしい」



 松は吐き捨てた。


 あまりにも気持ちの悪い話に、本当に吐き気がこみあがってきた。



「天野さんだって、迷惑だって思っているわよ。ただの冗談なのに、そんな話をまじめにとって今でも信じているだなんて、申しわけなくって、合わす顔がないわよ」



『そうは言うけどね、ショウちゃん』


松が悲壮な声をあげているというのに、義父はまったく動じていないらしい。冷静な説明が滔々と続いてゆく。


『わたしも酒の席での話で、その場限りの戯言だと翌日には忘れてしまっていたんだが、実は次の日に電話がかかってきてね』



「電話?」


誰から?



『天野さんからさ。滞在しているホテルに電話がかかってきたんだ。彼が言うには、夕べの話、酒の席の上での話ではなく、本当にそのようにさせてもらってもいいですかって、向こうからそう言い出したんだよ』



「向こうからって、天野さんからってこと?」



『そうとも。お嬢さんにプロポーズさせてもらいたいんですけど、ご両親のご承諾を頂けますかって、本当にそういったんだよ』



「ま、まさか。それ、何かの間違いじゃないの?」


まっさか、天野さんがそんな事をいうだなんて。


「なんで天野さんがそんな事を言うのよ?」



『わたしも、なんだか信じられなくってねえ。お母さんもその時はお酒が抜けていたから、あら、本当にあなたのようなご立派なお家柄の方が本当にうちの娘を嫁にもらっていただけるんですかって、何度も確認していたよ』



「そ、それで相手はなんて?」



『“もちろん、僕は、娘さんの事が好きだから本気です”って、彼はそう言っていたよ』



「はあ?」


なんだって???



『娘さんの事が好きだから、親御さんのご承諾さえいただければ、プロポーズして我が家のお嫁さんとしてお迎えしたいんですって、そうはっきりと言っていた』



 ・・・・・・・??


 いったいどうして、彼がそんな気分になるのか、さっぱり分からなかった。


 天野さんがわたしを好きってどういうことなのだろう…?



「…お母さんは、何て言ったの?」



『まあお母さんも、半信半疑でねえ。ちょっと考えさせくださいって事になって、いったん話を保留にして、こっちに戻ってから色いろ調べたんだ。ほら、相手がいくら一部上場会社の社員だからと言って、嘘をついていないとも限らないだろ?それで、本当に天野さんが△△家と××家とつながりのある人なのか調べたんだよね』



 松はハーッと息を吐いた。


 まったく母親のヤツ、また調べたのか。



『で、天野さんの言っている事が本当の事だってちゃんとわかったもんだから、お母さんはもう天地がひっくり返るほど喜んじゃって。ほら、今までいろんな名家のご出身の方との見合い話はあったけど、どれもぱっとしなかっただろ?年が離れすぎていたり、離婚経験があったりさ。それにくらべて天野さんは好青年で性格も竹を割ったようにすっきりとしてさわやかだし、何といってもお母さんの話にあわせられるほど忍耐強い。これほどショウちゃんのお婿さんに合う理想的な人はいないって決め込んじゃってねえ。で、今度はこっちから天野さんに連絡をとったというわけ。もしあなたが娘と結婚するというのなら、反対はしない。条件付きで許可するって言ったんだよ』



「条件付き?」



『そりゃ、一人娘を実家から遠く離れた東京にだすことになるんだ。結婚して子供が生まれたら男女かかわりなく、ひとりをウチの養子に迎えたいって』



「何なのそれ?」



『むこうさんも一人っ子らしいから、我が家に養子に来てくださいってさすがに言えないだろ?だけど、このまま“はいそうですか”って娘をポンと嫁にくれてやるわけにもいかないじゃないか。だから、ショウちゃんの生んだ子供の一人を花家(はないえ)家の養子に…』



 さっきから黙って聞いてりゃ好き放題なことをベラベラと喋りおって…


 松は驚きあきれて閉じたままになっていた口を開くと、嫌みたっぷりにこういった。



「取らぬ狸の皮算用ってやつね」



『なんだねそれは?』



「ほら、時代劇で悪代官と商人が悪だくみするときよく使うセリフがあるでしょ。越前屋おぬしも悪よのぉ~って、悪事が成功した暁にはどれぐらい儲かるかって、悪代官が悪だくみを計画しているシーンがあるじゃないのよ、あれよあれ」



『お母さんが悪代官だって言いたいのか?』



「本人をすっ飛ばしてよくもまあ、そんな話をしゃあしゃあとしてくれたもんねって言っているのよ!わたしは絶対に天野さんとは結婚しないからね」



『ふぅん』


義父はなるほど、といったふうに驚きもせずにそう相槌を打った。


『なるほどねえ』



 あれ?もっと反対されると思ったんだけどな。



『でも、ショウちゃんは近々結婚するつもりでいるんだろ?』



「そ、そうよ?」



『相手は、やはり徳永さんって人かね』



 あれ、何で分かったんだろ。



「なんで徳永さんだって思うの」



『そりゃ前に一度ウチに訪ねてきたことあったし、わたしも彼にはもう一度きたらいいってそういった事があったから、そう思ったまでだよ。彼とは本当に結婚するつもりでいるのかね?』



「そ、そうよ、そのつもり」


何、反対だっていうの?反対なんてしたら、もう二度と家になんて帰ってやったりしないんだから!


「悪い?」



『わたしは悪かないが、まあ、わたしからアドバイスがあるとすれば、それは自分からお母さんにの耳に入れた方がいいということだね』



 あ、お母さんに伝えておいてもらおうと思ったのに、見破られたか。



「なんで?」



『ほら、この前東京に行ったときね、お母さんは、本当にショウちゃんを家に連れ戻すつもりでいたんだよ。東京でわけわかんない仕事に夢中になって、無駄に時間を過ごさせるくらいなら、連れ戻して、こっちで結婚相手を無理にでも見つけさせるって、息巻いていたんだ。そのためには、会社に乗り込んでショウちゃんの上司にそれを訴えるつもりでいたんだよ。だけど天野さんが現れて、ショウちゃんをお嫁にもらってくれるって思わぬ方向に話が流れたから、お母さんはそれを断念したんだよ』



 …じゃ、あの時、冗談じゃなく、本当にお母さんは会社に乗り込んでわたしの上司に会うつもりだったのか。


 あの後、あの母が大人しく家に帰ったのが不思議で、半分肩透かしにあったように感じていたが、実はそういう事があったからだったのか。なんか本当に危なかったかも…



『お母さんは、ショウちゃんが天野さんと結婚するつもりでいるから、今は大人しくしているけど、もし、そういうつもりじゃないって聞かされたら、今度こそ、本気でショウちゃんを連れ戻すつもりで、東京まで出かけていきかねないよ』



「ち、ちょっと待って」


松は、あまりの事に頭が割れるような頭痛を感じていた。


「なんでお母さんは、わたしが天野さんと結婚すると思いこんでんの?承諾すると思ってんの??」



『天野さんが絶対、承知させますってそう言っていたから、それを信じているんだろう。だから、いつショウちゃんから電話が来て、“天野さんと結婚することになった”って知らせがくるのかウキウキして待っていたんだよ』



「でもわたしは…」



『なるほどねえ』


と、義父は何度もうなずいていた。


『どっちに転ぶだろうかって、思っていたけど、まあ、ショウちゃんの人生だからな』



「え?」



『わたしから言えることは以上だけど、お母さんならもうすぐお風呂からでてくるだろうから、こっちから電話するように伝えておくかね?』



「う…」



『それとも、改めるかい?もっと別の日に自分の口から話すつもりでいるのなら、今、電話があったことは黙っておいてあげてもいいけど』



「・・・・・・」



『わたしはどちらでもいいけどね』



 義父は気を回してくれているのだ。


 今母に、徳永さんと結婚するつもりでいると伝えたりしたら、ホントに東京までやってきて会社に乗り込んでくるかもしれない。


 それが嫌なら、天野さんと結婚すると約束しなさいと、無茶なコトを言いかねない。


 ダメだ。今、お母さんに会社に乗り込んでこられたりしたら、いったいどんな事になることか。まわりにどれほどの迷惑を、いや、何より、徳永さんにどれほど恥をかかすことになるのか、想像するだけで背筋がゾッとした。



「お母さんには、言わないでくれる」


と、松は言った。


「この話は、改めてわたしからするから、今日の事はお母さんには黙っていてくれる、お義父さん」



『その方がいいだろうな』


と、義父は言った。


『わかった、お母さんには黙っておくよ。また電話しておいで』



「ありがとう」


今日電話に出てくれたのが義父でよかったと思った。母に直接この話をしていたら、とんでもない事になるところだった。



 松は電話を切った。


 徳永さんに言わなくっちゃ。


 知らせなくっちゃ。


 こんな話、黙っていて隠し通せるわけない。


 ちゃんと相談して今後の事を話し合わなくちゃ。


 本当なら、こんな恥ずかしい話、隠しておきたいところなのだが、天野さんがこんな形でかかわってきているのなら、黙っておくわけにもいかない。


 それに松は徳永さんと夫婦になるのだ。


 松は徳永さんと約束した。今後は絶対、どんな事も内緒にしないと。



「しっかし、天野さんはどういうつもりなんだか…」



“社内の売れ筋商品をふたりもキープしたら女の恨みを買うわよ。花家さんはもっとはっきりと態度に出さなきゃ”


 

 南田さんに、天野さんへの曖昧な態度を注意されたことがあったが、松は天野さんが松に“気持ち”があるとは一度も感じたことはなかった。


 親切で丁寧で何度も助けてもらったが、恋愛のそれとは違う気がした。


 以前に瀬名さんからも交際を申し込まれた事があったが、瀬名さんの方がもっと情熱的だったような気がする。


 今、仮に天野さんに目の前で「愛している」と、コクられても少しも松の心は動じないだろうと確信できるほど、天野さんにからそんな感情を受けたことも、こちらから持ったこともなかった。



「どういうつもり?」



 天野さんの話を出せば、徳永さんはまた嫌な顔をするに違いない。


 また不快にさせてしまうだろう。


 松はため息をついた。


 いったいどんな風に切り出せば彼を傷つけずにすむだろうか。


 そんな事を考えながら、松はいつのまにか眠ってしまった。









 翌日の月曜の朝、松はいつものように始業三十分前に会社についた。


 始業前の貴重な時間を徳永さんとデート…ではなく、英会話の授業をするためである。



 昨日の一昨日の余韻が残っているのか、どこかふわふわとしている。


 金曜の夜は、徳永さんが他の女と結婚するものだと聞かされ、地の底を這いつくばる気持で仕事をしていたのにいまでは雲の上を散歩するかの如く気分が良い。


 まあ良いといっても、コトがコトに及ばなかったわけだし、“二度とこんな事はしない”って宣言されてしまったし(おそらく暫く?の間だけだと思うが)、実は何も変わっていなかったりするのだが。朝、目覚めた後も、小説の中のヒロインがよく言う「昨日とまったく違った朝に感じられるわ!!」といった感覚もなかったし、家においてきたあのダイヤの指輪がなければ、松は、未だに自分が徳永さんと婚約しただなんて信じられなかったかもしれない。



 そんなこんなで頭はぼーっとするわ、瞼も半分しまっているわで、英会話の気分でもないのたが、松が到着して一分もたたない間に、徳永さんはいつもの隙のないビシっとした姿でオフィスに現れた。


 ああ、今日の徳永さんも相変わらず麗しい。


 どんなにセットしてもあちこちハネて言う事のきかない松の髪と違って、サラサラヘアーはきれいに整髪料で整えられているし、キリっと光る目の下にはクマなど少しもない。


 淡い黄色のシャツにスミレ色のネクタイ、ミッドナイドブルーのスーツは磨かれた鎧のようであった。


 颯爽とした歩き方も、美しい姿勢も相も変わらず素晴らしくって、松は、目の前にいるこの高スペックな男性を「ああ、この人がわたしの夫になるんだなあ」と、他人事のように見惚れた。



 が、未来の夫たる徳永さんは、その日、いつもと違っていた。


 いつもと違って甘く優しい恋人のようだった…と言いたいところだが、婚約したことなど記憶からふっとんでしまうほど、鬼のように厳しかった。


 ほんのちょっとの間違いを重箱の隅をつつくかのようにネチネチと指摘し、自分の思った通りの答えが返ってくるまで容赦なく突っ込んでくる。


 朝の三十分レッスンは、ふたりともまだ眠気が残っていることもあって、比較的ユルい準備体操的な会話になるのだが、この日は、エンジン全開で、しょっぱなから高速道路を飛ばしているいような感じだった。



「ほら、また間違えた」



「同じ言い回しばかりだな」



「ツジツマの合わない事を言っているの、自分でもわかっているのか」



 最後の方は、殆ど涙目になってしまい、最後には、いったい何だってこんなに月曜の朝からシゴかれなきゃならないんだと、違う意味で地面に埋まりたくなった。



「じゃ、今日はこれで」


徳永さんは始業ベルの音とともに、自分の席に戻って行った。



(はぁ~~なんなのよぉ。急に厳しくなっちゃってびっくりするじゃないのさあ)



 月曜の朝一からすでにヘロヘロである。


 わたし、この人と本当に結婚するのかな、なんかちょっと早まったかもしれない。


 昨日はロマンチックな雰囲気で、なにやら床に押し倒された気がするけど、ひょっとしてあれも夢だったりとか?



 午前中はいつも通りに忙しく過ごした。


 午後近くになって、今日じゅうに片づけねばならない作業をするためにあらかじめ資料を運び込んでおいた会議室に入っていった。


 が、そこには先客がいた。


 その男は椅子に座って、悠々とコーヒーを飲んでいた。



「天野さん」


意外な人物に松は眉を顰める。


「こ、こんにちは」



「あ、お疲れ」



 いつものニカっとした屈託ない笑み。


 それがどこか意味深で、松は視線を外すことができなかった。



「・・・・・・」



「何、僕の顔になにかついている?」


ニヤニヤしながら問いかける天野さん。この余裕な表情は、わかっていてやっているな。



 松は、昨夜の義父との話を思い出していったいあなたはどういうつもりなんだと、一瞬、責める言葉を気持ちのままぶちまけてしまいたくなったが、どうにか思いとどまった。


 今は仕事中だし、ここは会議室だ。


 こんな話誰かに聞かれたくないし、それに、今こちらから話を切り出せば、相手の思うつぼのような気がした。



「いえ、何も」


松はそっけなく答えた。



 背後のドアが開く音がして、人が入ってきた。


 振り返ると、コートを着てカバンを持った徳永さんだった。


 その顔は朝の鬼仮面はナリを潜めていて、いつもの徳永さんだった。



「あ、徳永さんも外回りだったんですか?」


松に向けられていた視線を、そのまま徳永さんに向ける天野さん。



「いや、これから出るところだ」


と、徳永さんは無表情に答えた。


「天野君もか?」



「いえ、今帰ってきたところです」


そう言うと天野さんは、気を利かすように



「じゃ、僕はこれで」


と言って、二人の顔を交互に見てから飲みかけのコーヒーを手に会議室を出て行った。



「・・・・・・」



「相変わらずこざかしいやつだな」


ドアが閉まってしばらくしてから、徳永さんは苦々し気につぶやいた。



「え?」



「何を話していたんだ?」



 何って言われてもな。



「私もついさっきこの部屋にはいってきたばかりで、別に何の話していませんけど?」



 徳永さんは、チッと舌打ちした。


 え、何か疑われているの、私?



「そういえばこの前、面白い噂話を耳にしてね」


徳永さんは、咎めるような低い声を松に向けた。


「なんでも花家ちゃんは、天野に自宅でカレーを食わせてやったことがあるんだってね?」



「な?」


松は、飛び上がるほどびっくりした。


「な、なんでそんなこと徳永さんが知っているんですか?誰に聞いたんですか?」



「知っているも何も、天野と花家ちゃんのことはかなり社内で噂になっているみたいなんだよね」


口元は笑っているが目はおっそろしく不機嫌に吊り上がっている。こ、これはヤバイ。


「オレですら食べたことのない花家ちゃんの手料理をアイツが先に食っていたとは、オレもちょっと耳を疑ったけど」


と、彼は言った。



 松は、頭を高速に回転させた。


 そういえば昨日、徳永さん、『花家ちゃんのカレーを食べられるなんて、感慨深いしね』なんて大袈裟なこと言っていたけど、あれはこういう意味だったのか…



 松は、慌てて、恋人であり婚約者でもある目の前の男に、天野さんにカレーをご馳走した理由を詳しく弁明…ではなく説明した。


 徳永さんは黙って聞いていてくれていたが、あまり納得していないようだった。



「い、いったい誰がそんな噂話を」


広めたんだ。



「そりゃ本人だろ」



「わたしじゃありませんよ!」



 なんでまた、私がそんな事をあれこれ吹聴する必要があるんだよ!松は思いっきり顔をしかめた。



「そんな事はわかっているよ。まあ、アイツも噂になるようにしているんだろうけど」


と、徳永さんは冷静に言った。



「どういうことですか?」



「多分、周りから攻略していくタイプなんだよ」



「は?」



「つまり、自分でわざと噂になるようにしているんだ」



「ええっ?」



「それがあの男のやり方なんだろうな」



 松は、ひきつり笑いを浮かべた。


 攻略って何を攻略?


 背筋を冷たいものが走って行く。



「そ、そんな、まさか、天野さんがわざとだなんて」


顔がひきつる。



「じゃ何で、ヤツが花家ちゃんのアパートで手作りカレーを食べただなんて、そんなプライベートな話が社内で出回るわけ?意図して吹聴しているに違いないよ。花家ちゃんの方こそなんか心当たりないの?」



「あ」


ハタと立ち止まる。


「心当たり、あると言えばあるかも…」



「何」



 あ、徳永さんものすごく興味深そう。



「いつか人通りの多いエレベーターホールで天野さん、だしぬけにカレーをご馳走になってありがとうとかなんとか言ってたことがあったんですよ。誰かに聞こえるような大きさの声だったので、かなり気まずかった記憶があって」



「それだよ」


そう言って、徳永さんはハアーとため息をついた。



「じゃ、なんですか。あの人、噂になるように、わざと人に聞こえるようにあんな所であんな事を言ったってことでしょうか」



「そうだろうね」



「な、何でまた?」



「それをオレに言わすわけ?」


徳永さんは思いっきり嫌そうな顔になった。


「そりゃアイツが花家ちゃんとお近づきになりたいからじゃないのか?」



「お近づき?」



「つまり好きなんだろ、花家ちゃんの事が」



 松はあんぐりと口をあけた。


 徳永さんからもこのセリフを聞くとは思いもよらなかった。


 意図して噂を流すつもりだったっただなんて。


 こんなプライベートな出来事が表に出回るなんて。松は、昨日の夜の電話の内容を思い出した。これは悠長に構えている場合でははないのかも…



「花家ちゃん、あのね。天野は花家ちゃんと仲良くしたがっているの。だから偶然を装ってあれこれ近づいてくるんだよ。だから余計に注意してほしいんだよ」



「偶然を装うだなんて、何でまた、そ、そんな面倒くさいことを」



「面倒くさいことあるもんか。今だって、ここにキミが来るのわかっていて、嬉しそうに待ち構えていたじゃないか」



 え、そうなの。


 松ははっとした。



「じゃ、あの時私のアパートにきたことも」



「ん?」



「偶然じゃなくって、計算だったりとか?」



「え?」



「・・・・・・」



「どうしたの、花家ちゃん、何の話?」



「あ、いえ」


 あまりの落ち込みように他に言葉がでない。


 ま、まさかウチの親がくるのを見計らって、天野さん、アパートに缶詰もって現れたとか?


 まさそんな事、するわけないと思いつつも、ありえない事ではないかもと、眩暈がしてくる。



「花家ちゃん?」



「あ、あの、今度から、アパートに天野さんが来ても、家には上げないようにしますから」



「・・・・・・?」



「いえ、そうじゃなくって。誰も家に、徳永さん以外の男性を家に招くような事はいっさいないように、今後は、気を付けます」



「そこまでションボリしないでもいいけど」


いきなり消沈してしまった松の頭を、徳永さんは慰めるようにポンポンと叩いた。


「確かに、若い男性を気安く私室にあげるのは褒められたことではないけど、今後は気を付けてくれたらいいから」


と言っているけど、徳永さんの表情は、未だ忌々し気にいら立っているようだった。



 結婚を考えている女性が社内のほかの男性と噂になっているのをを耳にしたら、いい気分なわけがない。



「花家ちゃん、どうしたの、考え事?」



「え?」



「さっきから呼んでいるのに。考え事を始めると、何も耳に入らなくなるみたいだね」



「あ、すみません」



「オレの言っていたこと聞いていなかったみたいだね」


と、彼は苦笑いを浮かべた。


「こうなったら、やっぱり、ご両親に早々に挨拶に行った方がいいよなって言ったんだよ」



「え?」


松は、目をパチクリさせた。



 なんでやっぱりなのかわからなかったからだ。



「花家ちゃんのご両親に結婚の報告をしておいた方がいいだろうなって言ったんだよ。昨日はご両親への挨拶は、先伸ばししようかって言っていたけど、やはり善は急げだと思うし」



「え、あ、そ、そうですよね。でも…」



「嫌?」



「そんな。嫌なわけじゃないですけど、いや、そうじゃなくて」


松は、何といったらいいだろうか。



 今、彼に実家にこられたらとても困る。


 何かいい言い訳がないだろうか。



「徳永さんが、わたしの親に嫌なを思いをさせられるのかと思うと、それが嫌というか」



「それでも、避けては通れないでしょ。どうせしなくちゃならない事なら、さっさと済ませてしまった方がいい」



「・・・・・・」



「ご両親に、近いうちにお邪魔したいって、知らせておいてくれる?」


と、徳永さんは言った。



 松は彼の顔を見た。


 前回の時とはうってかわって、当の本人は顔は少しも怖気づいていなくて、淡々としていていた。


 まるで何の問題もないかのようだ。


 ほんとに、彼は、何て事のないように思っているのだろうか。



「もっとも、花家ちゃんが今がダメだっていうなら、先でもいいけど」



 松ははっとして顔をあげた。


 せっかく徳永さんがその気になってくれているのに、ぐずぐずと先延ばしにするなんて申し訳ないような気がした。


 この状況で徳永さんを家に連れて行ったら、どんな事が起こるのか、あの母親が徳永さんを前にしてどんな言葉を発し、どんな態度に出るか想像するのも恐ろしいしが、こことこに至ったらさっさとコトを済ませてしまうほうが得策な気もした。


 だって、徳永さんを会わせてしまえば、両親だってわたしが徳永さんに本気であることが伝わるだろうし、そうなれば天野さんだって諦めるはずだ。


 それに松は、以前とは違う頼もしさを徳永さんに感じていた。彼なら、今の彼とわたしならなんとか乗り切っていけるかもしれないという気持ちに松はなっていた。


 あれこれ気をもまずに、ここは流れに任せてしまった方がいいかもしれない。



「そ、そんな事ありません。わたしもこういうことは先延ばししない方がいいと思いますし」


 松は明るく答えた。


「親に言っておきます」



「じゃ、よろしく頼むよ」


と、徳永さんはニッコリと笑った。


「ああ、今日は、これから外出だから、昼はレッスンできないんだ」



「あ、そうなんですね」



「なんだその顔は。シゴかれずに済んでホッとしているのか?」



 あ、バレた?



「ハハハ、いえ、そうじゃなくてですね、ちょっと話したいことがあったので、それで」



「急ぎじゃないのなら、今日の夜か明日でもいいかな。話ならオレもあるし…」



「え?」



「また、メールするよ。あっと、もうでなくちゃならないから」



 そう言うと、彼は松の髪をすくい上げたり絡めたりして弄んでいた手を離し、最後に、松の旋毛のあたりに唇をあてて、名残惜し気に会議室を出て行った。


 松は余韻とともに残された。


 毛先がうなじにあたって、くすぐったかった。


 松は、まるで、自分が徳永さんに飼われている小動物か何かのように感じた。




<48.来たるべき時>へ、つづく。



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