46.二人きり
46.二人きり
ドキドキドキドキ…
自分かそれとも彼からなのか、誰かの心臓が激しく鼓動する音だけが聞こえていた。
草原のような心地よい温もりの中で、松は、目の前にいるこの男の情熱に押し倒されたい欲求と、それと相反するわずかな焦りを、心の奥底に感じていた。
焦り?
この気持ちは何なのだろう?
彼とは結婚するんだし、愛し合っている男女なら誰もが通る道なのだし、何の遠慮もないはずだ。
後か先かの話なら、今日ここで思い切って彼に捧げてしまって悪い理由がどこにある。
と、心は決まっているはずなのに、彼の力強い腕に強く抱きしめられれば抱きしめられるほど、松の体は一層固くこわばっていくのだった。
徳永さんはじっと松を見下ろし、視線を外そうとしない。
なんだって、こんなにもじっとわたしの顔ばかり見るのかな。
その眼がなんともいえない色香が孕んでいて、それが訳の分からない恐ろしさを松の心に掻き立てていた。
彼は今何を考えているのだろう?
今から抱こうとしているこの女は、自分にふさわしいかどうか最終確認でもしているのだろうか。
それとも女を抱こうとする男というものは、捕食対象の女を視界にいれると、皆、このような顔つきになるのだろうか。
いずれにせよ、男性に押し倒された経験などまったく皆無な松は、彼の胸を押し返さないように手をグーにして震わせるので精いっぱいだった。
ふいに彼は松から視線をはずすと、顔を松のうなじに移動させて、いきなり唇を押し当てた。
熱い吐息が伝わってきて、即座に体温があがる。
これだけで、もうどうしていいか分からなくなってしまう。
が、松が動揺している間もなく、彼の熱い舌が松のうなじから耳のあたり、そして頬のあたりをさまようように移動し始めた。
「・・・・・・・・!!」
ひ、ひ、ひえ~~~~~~!
どどどどどどうしよう…
くすぐったいっていうもんじゃない。
今まで感じたことのないウズウズとした奇妙な感覚が稲妻が這うように背筋をさかのぼっていく。
松は、反射的に身をよじらせるも、ガッチリ背中を捕まえられているので、抗うこともできない。
いや、抵抗する必要なんてまったくないのだけど、なんつーか、こういう態勢になる前に、準備段階というか、前置きといったものが、何もなかったので、松は果たしてこのまま大人しく押し倒されるべきなのか測りかねていた。
だ、だって!!
さっき、徳永さんはベッドかシャワー?って聞いていた癖に、全く松の答えを聞く事なく、今度は唇を塞ごうとしているし!!
「・・・・・・・・・・・・・・!!!」
何コレ?
キスって、唇だけをブチュって重ねるだけじゃなかったんだ。
なんて、感心してる場合じゃない。
松の口の中に入ってくるこの生き物みたいに熱くモゴモゴしているコレは、もちろん、徳永さんの舌なんだよね?
「ん~~~~~~~~~~~~!!」
窒息しそうになって、ぜえぜえあえぎながらやっとこ唇をはなし、松は大きく肺に息を吸い込んだ。
「何?」
松の何か言いたげな視線に、徳永さんは涼しい顔してこちらを向いてこう言った。
何って?何その、シレっとした返事は?
何って、こっちが何っていいたいよ!!
徳永さんは松の抗議を含んだ視線にお構いなく、右手で松の片腕を抑え、もう一つの手で松の背中をささえ直すと、床のラグ上に彼女の体を押し倒そうとした。
うえ~~~~~~~!
いきなりこんな態勢になって、こっちは窒息しそうになってるっちゅーに、何だよ、この男は、まるで電話で仕事の話をしているかのような冷静さではないか。
「徳永さんのようなモテ男は三十過ぎたら落ち着くかもね」
という桐子供の言葉がよみがえってきて、これがモテ男の落ち着きなのかと、ちょっと悔しくなってくる。
ちちちちちょっと!
いつの間にセーターの中に手がはいってきているし。
そして、その手は次第に下に下がって、起用に松のズボンのボタンをはずすと、その中をまさぐり始めた。
いやちょっと待て。
待ってくれ。
と、言う間もなく、彼の指はあの例のレースの紐パンに届きそうになっている。
松の手は彼の手を追い返そうと必死に拒もうとするのだが、彼は一向に言う事を聞いてくれない。
松は、彼がロースハムに巻き付いてタコ糸みたいに尻にくいこんでパンパンになっているパンツの紐を、今更ではあるが、見られたくいなどと思っていた。
「あ、あの…」
「ん?」
徳永さんは返事をするも、松の服の下をまさぐっている手をひっこめようとはしない。
「あ、あのですね、シャワーとか浴びないんですか」
必死にセーターを引っ張り下ろしながら尋ねてみる。
「シャワー?」
「あの、さっきシャワー浴びるかって…」
「ん?花家ちゃん、今日はシャワー浴びてきたんでしょ?オレも昼には浴びたし、大丈夫じゃない?」
え~~気が変わったの??
「あ、あの、じゃあ、ベッドへ移動するとか…」
この硬い床の上ではちょっとね、という気持ちを伝えるつもりだったのだが、徳永さんはしごく冷静な口調で、
「そうだね、じゃ、一回終わったら行こうか」
と、答えた。
「一回?」
「うん、一回ね、一回終わったら次はベッドに行こうか」
は?何が一回?どれが一回??
「だって、今離したら花家ちゃん、逃げそうだし」
「へ?」
「今度こそ据え膳ちょうだいしたいし」
徳永さんはそう言って、強く松の唇に自分の唇をくっつけた。
熱い舌が侵入してきて、失神しそうになる。
ひひひひえ~~~。
もうここで捧げちゃうの?
なんか違う、なんか違うでしょ?
もっと最初は、ちゃんとお風呂に入って、シャワーを浴びて、寝化粧とかきちんとして、ロマンティックな気分になる香りでも焚きながら、ムーディな雰囲気の中でなされるものではないだろうか。
それをこんな半ば強制的に固い床の上でなんて。
それでも松は、これが徳永さんの望みなのだから、拒む理由は何もないのだからと、必死に彼を受け入れようとしていた。
が、どうしても心にひっかかったモヤモヤが邪魔をして、それを許そうとしなかった。
そのモヤモヤの正体が何なのか松にもはっきりとは分からなかった。
単に松が経験がなくて、乙女らしい恥じらいがそうさせているのだと思いたかったが、そうでもないような気がする。
もっと根本的なものが彼女を引き留めていた。
いやいや、松は、徳永さんのためなら何でもしたいのだ。
彼を愛している事には変わりなかった。
それだけは断言できる。
だけど、どうしてもしっくりとこないこの気持ちが何なのか分からない。
分からないだけに、このまま突き進んではいけないような気がした。
彼の手が松のレースの紐パンにかかったとき、松の我慢は限界に達した。
「ダダダ、ダメッ!!!」
松は、自分でも気が付かないうちに、あらんかぎりの力を振り絞って、自分に覆いかぶさる男の胸を押し倒し、いつの間にか彼を突き飛ばしていた。
徳永さんはここまで強く抵抗されると思わなかったのだろう。
そのまま転がりすぐそばのテーブルに背中をぶつけ、しりもちをついた。
「ウッ!」
はっと気が付いたときにはもう遅い。
徳永さんは身をかがめてテーブルにぶつけたところをさすりながら
「いってー」
と唸っている。
痛がっている彼の姿が視界に入ったとき、松は、初めて、自分のしでかしたことに気がついた。
「ごごご、ごめんなさい」
乱れた衣服を慌てて直して、脇腹をぶつけてうずくまっている徳永さんに駆け寄った。が、彼は苦しそうに腹を抑えて起き上がろうとしない。
ああ、強く押しすぎて変なところをぶつけちゃったのかな。
それともまた古傷を痛めてしまったのか。
どうして私はいつも、こう間の悪い事ばかりしてしまうんだろう。
「ごご、ごめんなさい、つい強く押しちゃって。どこをぶつけたんですか?」
松は、徳永さんに近寄り顔近くにかがみこんだ。
すると彼は、ニっと口角をあげたかと思うと、スっと身を起こし、瞬く間に彼女の両手手首をつかんでしまった。
「へっ?」
「捕まえた」
どゆこと?
「相変わらずスキだらけだね、花家ちゃんは」
「は?」
「さっきから言ってるだろ?今日は据え膳をちょうだいするって」
「な?」
「どんなに抵抗してももう逃げられないよ?」
たちまち形勢逆転して、再びさっき押し倒された床に組み敷かれてしまう。
今度は両手を奪われているので、抵抗することができない。
真下から徳永さんを見上げる格好になった松は、恐怖に慄き震え始めた。
だ、だめだよ松!
怖がっちゃだめだって!!
と、自分に言い聞かせるが、徳永さんの射るような視線が、何を考えているか分からなくて、不安は一層募って行くのだった。
「怖い?」
徳永さんは、低い声でひどく真面目に尋ねた。
「オレが怖い?」
「こ、怖くなんか…ないです」
松は必死に、唇の震えを抑えようとするが、歯がカチカチと震えているのを隠すことはできなかった。
「怖いんだろ?震えているじゃないか」
「ふ、震えてなんかいません」
「じゃ、どうしてこんなに唇が痙攣しているのかな?」
そういうと、徳永さんは身をかがめて松の真っ青になっている唇にキスをした。
まるで食べるようなキスだ。
さっきカレーを食べたばかりなのにまだ食べ足りないのか…
などと呑気に考えている場合ではない。
ああ、ワタシはここで覚悟を決めなるべきなんだ。
徳永さんと私は結婚するんだもの、彼をここで受け入れるべきなんだ…と、諦め?半分目を閉じた時、いきなり覆いかぶさっている徳永さんから力が抜けた。
え?
びっくりして瞼を持ち上げると、徳永さんは身を起こして両手をだらんとぶら下げていた。
さっきの色気のある眼差しから一転して、徳永さんは驚きに満ちたと眼差しを松に投げかけ、眉間は悲し気に狭められていた。
なんだ?
何が起こったというんだ?
「ごめん」
いきなり謝られて、わけがさっぱりわからない。
「え?」
「怖がらせたね、ごめん…」
徳永さんはそう言って、美しい指を伸べて松の頬をなぞり涙を拭った。
松はいつの間にか泣いていたようだ。
徳永さんは優しく松を床から抱き起こした。
そして、乱れた衣服を丁寧に直してくれた。
「私、泣いてた…?」
何で泣いていたのか自分でも分からない。
だって、そんな事ありえないでしょ?
「ごめん、本当にごめん」
彼は、きれいに松のセーターを整えズボンのボタンまではめてくれた。
「すごく強引だったよね」
「そ、そんな」
やだ、そんな悲しそうな目で見ないでほしい。彼が悪いことなんて何もないじゃないか。
「徳永さんが悪いことなんてない」
「いや、悪かったよ。強引に押し倒して、しかもしょっぱなからこんな床の上で済ませようとだなんて、オレは何をしているんだろう」
「徳永さん、謝らないで。わたしが悪かったの。わたしが怖がっちゃったから」
「嫌がっているのに、オレは何をやっているんだ」
「ごめんなさい。嫌がっているわけでは。ただ、びっくりして」
「嫌がっていたでしょ?」
「そうじゃなくて」
ああ、どうしよう。
徳永さんはわたしが拒絶したと思っているんだ。
いや、拒絶したんだけど。だけど嫌だったわけではなくて。
「ただ、突然だったんで、その、わたしその」
「その?」
「わたし、ハジメテだったから」
松は、経験のあ有る無しを彼に告白したことなど一度もしたことがない。
こんなことを、口にするのはとても恥ずかしかったけど、今言い訳するのに、これぐらいしか都合のいい理由を挙げることしかできなかった。
徳永さんは、ちょっと目を見開いていたが、さっきよりもっと悲しそうな顔つきになった。
「初めての女の子を、いきなり床に押したのかオレは。ほんっと最低だな」
と、呟いた。
「と、徳永さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。別に嫌ではなかったんです。本当にハジメテで、あたし、どうしていいか分からなくて、心の準備ができていなかったから」
「心の準備ができていないのならなおさらだ」
「で、でも、今はもう準備はできたから」
松は徳永さんの機嫌を元に戻したくて、必死だった。
「だ、だからね。さ、最初からもう一度しよ、ね?」
こんなはしたない事を言っているのは果たして自分の口なのだろうか松は疑ったが、松はどうしても徳永さんに笑顔になってもらいたかったのだ。
「いいんだよ、無理しなくても」
今度は、徳永さんの方が無理な微笑みを返してきた。
それがなんとも自嘲的で。
ああ、何と彼はプライドを傷つけられたことだろう。
「で、でもわたし」
松は、徳永さんの腕にすがりついた。
何といえば、納得してもらえるのかな?
「わたし…」
「ん?」
「徳永さんの事が好きだから」
そう言って松はもじっと下を向いた。
「好きだから、その、いつかはその、そういう事をすることはわかっていたし、嬉しい気持ちはあったのだけど」
ぎゃあ、嬉しいとか言ってしまった。でも、本心だし!
「ただ、本当に突然で驚いただけで」
松は顔をあげて恐る恐る彼の顔を見た。
眉間には皺がより、唇も固く結ばれていて、まだ松の言葉を疑っているようだ。
ど、どうしよう、わたしの言う事、信じてくれないの?
今日はこのまま、この気持ちのまま、お別れしなくちゃならないんだろうか。
たまらなくなって松は、両手を伸ばしていきなり徳永さんの寮頬を掴んだと思うと、こちらに向かせて、いきなりブチュっとキスをした。
あまり、ロマンチックなキスではなかったけど(ロマンチックなキスというものがどういうものか分かっていなかった)とにかく、そうせずにはいられなかったのだ。
「何、今の」
徳永さんはキョトンとしている。
「あ、あのですね。好きという気持ちを表現したくてですね」
なんか、わたしにしては、ものすごく大胆な事をしてしまった…かも。
「好き?」
「ですから、わたした徳永さんを好きだという事をわかってもらいたくて」
徳永さんの眉間からやっと皺が消えた。
彼は松の両手をそっとつかみ、彼の手の中に包み込んだ。
どうやら、少しは納得してくれたようだ。が。
「だから、そんな事していいの?そんな事されちゃうと、こっちもまた押し倒したくなっちまうんだけど?」
「え、ですから」
松は、もう覚悟を決めようとおもった。
ええい、腹にパンツのヒモが何本食い込んでいようがかまうもんか。
徳永さんにこんな顔をさせるぐらいなら、ここで捧げてしまえ。
「今は、気持ちの準備はできましたので」
だが敵?は、あまりにもあっさり引き下がってしまった。
「いや、いいんだよ」
「え?」
「僕が間違っていたんだ」
なんですと??
「結婚しようと言ったの、つい昨日の事だろ?それなのに翌日にはガッついてほしがるなんて、オレはなんて節操がないって話だよ」
え、ウソ。だって今…
「据え膳は食べる主義だなんて言ってしまって、花家ちゃんには余計なプレッシャーをかけちゃったね。まだ気持ちの整理もできていないうちに、迫るべきではないよな」
そんな事ないよ。
もう、気持ちの整理はつけたから。
と、ここで徳永さんに引っ込まれるぐらいなら、押し倒される気満々になっていた松は、血の気を引いた。
「ぷ、プレッシャーなどでは」
「花家ちゃんはこうしてほしいって言われれば、拒めないタチだろ?それが分かっていて、押し倒したんだ。ごめん、二度とこんな事しないから」
ちがうちがうちがうーーーーー!!!
と、叫びたかったが、どうしても言葉にならなかった。
なんで?
「に、にどと、こんな事はしないんですか…?」
松はオウムのように繰り返した。
まさか、これから先、二度とエッチをする気ないって意味じゃないよね?
「うん、二度としないよ。約束する」
彼は大真面目に言った。
「はあ…」
気の抜けた風船のように生気が抜けていく。
彼は立ち上がると、
「あ゛~」
と唸りながら、頭髪を両手でゴシゴシと掻いた。
いったいどういう意味の雄叫びなんだか…
「花家ちゃんの試験の邪魔をするわけにはいかないからね」
と、彼はくるりとこちらに振返って言った。
「最初からそのつもりだったんだ。結婚の約束をしてしまったら、あれこれと考えることが多くなって、試験どころじゃなくなっちゃうだろうと最初から思っていたんだよ。だから、プロポーズも試験の後にするつもりだった。あやうく、フライングをするところだった」
フ、フライングなの?
婚約したっていうのに、エッチするのはフライングなのだろうか。
彼の理屈がいまいち理解できずに、松は首を傾げずにはいられなかった。
「二度と邪魔するような事はしないから、安心して。もう絶対、こんな事はしないから」
彼はまた大真面目に、松に向かって宣言するが、
「そ、そで…すか」
彼の意志の強いその言葉に、ひきつった笑みしか浮かべることしかできない松である。
「花家ちゃんは、試験に受かることだけを考えていて」
と、彼は続けた。
「それとさっき、花家ちゃんのご両親にご挨拶したいって言ったけど、それも試験が終わったからにしよう。花家ちゃんの地元も遠いし、相手がオレだとご両親からまたあれこれ言われて大変だろ?そういうのも、全部試験が終わってからにしよう。どうせ斎賀さんに報告するのも六月以降になるしことだしね」
「で、でも」
え、せっかく両親に会ってくれるって言ってくれていたのに、それも後回し?
なんかショック。
「じゃ」
松はおそるおそる尋ねた。
「公に公表するのも、その後って事ですか?」
「そうだなあ、皆には暫くは黙っていようか。その方が花家ちゃんに迷惑がかからずにいいと思う。ごめんね。オレとしてはすぐにでも発表したいところなんだけど」
「べ、別に迷惑では」
「だって、オレが誰かと結婚するとかなんとか社内で噂になっているんだろ?神楽がその相手を探し回っているんだろ?相手が花家ちゃんだと知られたら、またアイツが花家ちゃんにあれこれ言ってくるに違いないしさ。そういったゴタゴタも避けるためにも黙っていた方がいいんじゃないかな」
黙っているって、否定しろっていう意味かな。
今度神楽さんから「徳永さんの結婚相手はあなたでしょ」って言われたら、今度は、違いますだなんてハッキリ言える自信あまりないんだけど。
「あ゛~~」
と、彼はまた苦しそうな雄叫びをあげた。
「そういうことで、花家ちゃんの試験を何より優先しよう。今後はこういった事は一切なしにする」
「あ、あの、こんな事を聞いちゃいけないとは思うんですけど」
さっきから試験試験と繰り返し言われるので松はほんとに心配になってきた。
「試験に受からなかったらどうするかって質問はナシだよ」
と、彼はズバリ言った。
なんでわたしの言おうとしていることが分かるんだ。
「試験に受かることは決定事項だ。そんな事絶対口にしちゃだめだ。わかったね」
そんな事言われても、気になって仕方ないよ。
これじゃあまるで試験に受からなければ、徳永さんは松にプロポーズしなかったのかと、疑ってしまう。
なんかの間違いで求婚してしまったものだから、焦っているとかじゃないよね?
「じゃ、会社では今まで通りっていうことですか?」
と、松は言った。
「そうだね、誰にも言わないでおこう。神楽から何か言われても、自分は知らないと言っておいてくれ。オレもそう答えるから」
彼はそういうと、これ以上“据え膳”を目の前にしておくのが耐えられないと思ったのかどうか、ピシリと会話を切り上げると、すぐに
「送っていくよ」
と立ち上がり、車のキーをとりに背中を向けてしまった。
え、もう帰らなきゃならないの?
せっかく今夜は記憶に刻まれた歴史的な夜になると覚悟を決めて出てきたのに、何という幕切れなのであろう。
「じゃ、明日、会社でね」
そう言って彼は機嫌よく去って行ったが、松の心は、彼の車を見送りながら、激しく荒れ狂っていた。
部屋に到着すると、耐えかねたように玄関先でペタンと座り込んでしまった。
「は…」
気の抜けたため息しか出ない。
今日はどこで間違ってしまったんだろう。
チャンスは何度かあったのに。
それを拒んだのは松だ。
松があのとき、避けてしまったから、こんな事になったのだ。
拒んでしてしまったから、こんな事になったのだ。
泣いてしまったから、彼はヤル気を失ってしまったのだ!!!
松はばたっとその場に撃沈した。
さっきとは違った意味の涙が湧き上がってくる。
これは明らかに悔し涙である。
はぁ~~~~…。
「せっかくヒモパン履いていったのに…」
なんであの時泣いてしまったのかな。
気が付いたら涙が出ていて…悲しくなかったのに涙って出るものなのだろうか。
そして、それよりも何よりも、あの時胸に湧き上がってきたモヤモヤの正体が分からなくて、松は、数時間前の自分に向かってアレは何だったのかと、突き詰めるべく暫くの間ひとりで悶絶していたが、はっきりとした答えは出ず、イライラは一層つよくなる一方であった。
彼女は、ガバリと立ち上がると、激しくツメを噛み始めながらあたりを歩き始めた。
あの時、わたし、徳永さんとどんな話をしてたっけ?
やたら眠くて、ここで寝ちゃだめだよって、毛布までかけてくれて、泊って行ってもいいって、そう言ってくれていた。
彼はすごく優しくて幸せだった。
その後、夢に母が現れた。
最初母は松と徳永さんの結婚を祝福してくれていた。
が、次に現れたとき、母は、凍り付いたような微笑を浮かべて『試験に受かって、親会社さんの契約社員に採用されたんだね?まさか、何の予定も立てずに勢いで結婚しようだなんて、そんな厚かましい考えでいるわけじゃないだろうね?』
と、そんな言葉を口にしたのだった。
夢に出てきた母は、実在の母とは少し違っている。
以前、母がこの部屋に来た時、母は松が親会社の社内試験を受けたところでまったく無意味だとバカにしたことがあったが、それは単に松が東京に居つかず早く地元に帰るべきだと考えていたからであって、松と徳永さんとの結婚話云々とは関係ない。
仮に今すぐ松が徳永さんと結婚する意志を伝えたところで、母は“別の理由”で徳永さんの事が気に入らないのだから、松の社内試験の合否を結婚を反対する理由などにしたりはしないだろう。
では、この夢は何を意味するのか?
おそらくは、母が、決して松が試験に受かりっこないと自分を否定した事の不快感が、夢という形をとって、表層に現れたものだろう。
正確には、母の言葉の影響を受けて、松自身が社内試験に合格できないかもしれないと心に不安を感じているからなのだが、ネガティブな思考に支配された松の頭では、母こそ悪者で自分はその被害者なのだという単純な分析しかできなかった。
さらに悪いことにそれは、徳永さんが「結婚することを公にするのは社内試験が終わるまでやめておこう」と言った言葉とリンクした。
松は、徳永さんが松の能力に不安を感じていて、試験が終わる六月まで結婚話をオフレコにするべきだと思っているのではないだろうか。
そして、万が一松が試験に落っこちた場合、婚約を破棄できる可能性を残しておこうとしているのではないだろうか。
松は突然怒りに燃えて立った。
何でこんなに自分を低く見られなくてはならないのか。
確かに松は、英語は苦手だし、子会社でも一度社内試験に落ちている。
かといって、人よりめちゃくちゃ英会話が苦手なわけではなく、試験に落ちたのは試験勉強をする時間がとれなかったからだ。
簿記に関して言えば、松は二級まで持っているし、多少上下することはあっても安定した点をとれているし、時間をとって専門の先生について習えば、貿易実務もだってもっと得点をとる自信はある。
そう思うと、松は一層いらいらしてきた。
「オレと結婚すると言ったらキミのご両親があれこれ言って大変だろ?」
あれこれ言うのは、今更な話だ。
親が自分達の結婚を嫌がるのは最初からわかっている話ではないか。
おそらくあらん限りの力をもって反対するだろう。
彼らが徳永さんを嫌う理由はひとつだけではないのだから、徳永さんの借金がなくなったところで、ネチネチグチグチいちゃもんのオンパレードがどれほど並べられることか、今から目をつぶってたって容易く想像できる。
だからと言って松は、それを理由にしたくなかった。
誰からどんな反対をされようが、松は、試験に合格してやると思った。
親に反対されたところで、動揺して試験に落ちるなんぞと思われたくなかった。
特に、徳永さんからはそう思われたくなかった。
もっと松を信用してもらいたかった。
心配してくれているのはわかるか、松には彼が考える以上に能力があるのだと思ってもらいたかった。
松はむんずと携帯電話を掴むと、電話帳もひらかずにボタンを操作して家に電話をかけた。
桐子には知らせはしたが、婚約をこれ以上誰にも打ち明けずに、試験が終わるまで黙っているだなんてできそうになかった。
斎賀さんに報告する都合上、社内の人にふれてまわることはできないのなら、松は自分の身内にだけは報告してやろうと思った。
誰がなんと言おうと、どんな反対しようと知ったことか。
わたしは徳永さんと結婚するし、試験にだって受かって見せる。
母はいくらでもワーワーと喚けばいい。
わたしの結婚は、わたしのもの、わたしの人生はわたしのものだ。誰にも邪魔なんぞさせるものか。
電話は数回のコールで繋がった。
『もしもし』
という聞きなれた声が聞こえてくる。
あ、この声は義父だな
「もしもし、お義父さん、わたし松だけど」
『ああ、ショウちゃんかい、久しぶりだね。元気にしてたかい?』
お、思ったより機嫌のいい声。
「元気だよ。そっちは皆元気?」
『元気だよ。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも。お母さんも、ショウちゃんからいつ電話があるなあって、今日も言っていたところなんだよ』
わたしからの電話を待っていたの?何で?
「お母さんは今いる?」
『お風呂に入っているよ。後でこっちから電話するように伝えておこうか?』
「そうだね…」
母は長風呂だった。
話は明日にするか。
いや待てよ。
「あのね、お義父さん」
いきなり母に徳永さんと結婚すると言えば、刺激が強いかもしれない。
電話口であれこれやかましく一時間以上は説教が始まるであろう。
今の時間はもう遅い。
松も風呂に入りたいし、明日は会社なのだから今日は早く寝たかった。
ここはワンクッションおいて、義父から母に伝えておいてもらってもいいかもしれない。
少しは衝撃が和らぐかも。
「わたしお母さんに、いや、お義父さんや皆にも話すことがあるの」
『結婚するのかい?』
間髪入れずに、義父はそう言った。
「え?」
『結婚することにしたんじゃないの、お母さんがそう言っていたけどね』
「いや、あの」
どうして、わたしの言おうとしている事がわかるんだ。エスパーか?
『そうなんだろ?お母さんが近々ショウちゃんから連絡があるはずだから、って楽しそうに言っていたけどね。そうじゃないのかい?』
「そ、そうだけど…」
言おうとしていたことを向こうから言ってくれたので、話は早い。
こちらから説明する手間が省けてよかったって、安心するのは安直すぎる。
今、“楽しそうに待っていたって”言わなかったか?
母が楽しみにするわけがないじゃないか。
『その人と、こっちに挨拶にくるんだろ?』
と、義父は言った。
『いつになりそうなんだい?』
「あ、あの、あ、挨拶はね、今いろいろゴタゴタしているから、今年の春の社内試験が終わってからになりそうなんだけどさ」
とりあえず、話をつなぐ。
『ああ、そういえば親会社の社内試験を受けるとか言っていたね、それに受かれば契約社員になれるっていう話だったっけ?』
「うん、そうなんだけどさ」
『お母さんも正式には契約社員になってからそうなるだろうねって言っていたよ。それまで結婚式は無理かなって、少なくとも来年の春まで待つしかないかなってそう言っていたけどね』
「お母さんが待つって!?」
松は、素っ頓狂な声を出した。
「待つって言ったの?じゃ、賛成してくれるって言う事?」
『へ?そうでなかったら、そんな事言うわけないじゃないか』
「じ、じゃ、お母さんは、結婚したらわたしが東京に永住することになることもわかっていて、賛成しているの?」
『そっちに勤務地がある人なら仕方のないことだろうって、そう言っていたけどね』
ますます話がおかしい。
母はどういう事情で松の結婚を賛成しているのだろうか。
いや待て、それ以上にこの会話はどこかおかしくはないだろうか。
意を決して告白しようと電話したというのに、なぜ実家サイドにこういった情報がズズもれになっているんだ。
『結納とか結婚式とかそう言った段取りも考えなけりゃならないから、早めに決めてほしいってそう言っていたけどね。新居をそっちで構えるのなら、せめて結婚式ぐらい地元でしてほしそうだったけど、こればっかりはこっちの希望だけでは決められないしな』
「そ、そうね」
疑わし気な声しかでない。
『あちらさんも、由緒あるおうちだから、きっとそれ相応な規模の事を考えていらっしゃるだろうしって』
「え・・・・・・・・・」
由緒?
『向こうのご両親とちゃんとご挨拶しなきゃならないしね』
ご両親??
「・・・・・・・・」
『もしもし、ショウちゃん、聞いている?』
「お義父さん、ちょっと、聞いて良い?」
『何?』
「向こうさんのご両親って、いったい、誰の両親の話をしているの?」
『は?』
「だから、お義父さん達の言っている、“向こう”の“由緒あるご両親”って誰のご両親の事を言ってんの!!!」
松は、隣の住人に筒抜けになるのも構わずに大声で叫んだ。
『…今更何を言っているんだよ。天野さんに決まっているだろ?』
「……は?」
『だから、天野さんだよ』
いったいどちらの天野さんの話をしているんだ?
「お義父さん、何を言っているの?」
『お母さんは、ショウちゃんが天野さんと結婚することになって、こんなに嬉しい事はないってものすごく喜んでいたよ。今までさんざんお見合い話があったけど、適当な相手に決めずに、今まで待っていた甲斐があったって』
「な、な、な」
松は心臓が止まるかと思った。
いや、間違いなく数秒の間、鼓動を忘れていたに違いない。
「なんですって?」
人生で生きていてこんなに驚いたことはないと思ったのは、この年齢になるまで何度かあったが、つい昨日徳永さんから二度目のプロポーズをされた時もそのひとつだ。
だが、その翌日に、また違う人間からの結婚話を、電話で、しかも義父の口越しに聞かされるなど、いったい誰が想像できたであろうか。
<47.驚きの展開>へ、つづく。




