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45.婚約二日目

45.婚約二日目



 食料品店でも、ふたりは黙りがちだった。


 徳永さんはカゴの中に次々とカレーの材料をいれてゆくが、後ろをついてゆく松に話しかけることはない。


 どうしよう、ボーっとしてご機嫌を損ねちゃったのだろうか。


 話を聞いてないつもりはなかったが、今日は別件(・・)に気持ちが削がれて、的外れな受け答えをしていたのかもしれない。



「あのっ」


松は思い切って背中から声をかけた。


「ききき今日は、わたしが食事を作ります」



「へ?」


徳永さんはカゴをもったまま振り返り、キョトンとしている。



「カレー、わたしが作ります」



 徳永さんは、急に何を言い出したんだという顔になった。


 料理下手な松が突然妙な気を起こして料理をしたがるだなんて、やっぱりおかしいと思われたんじゃないだろうか。



「花家ちゃんに料理をしてもらうだなんて」


突然の申し出に、彼は面食らっているようだ。



「ぜんっぜん悪いことなんてありませんよ!」


松はツバを飛ばす勢いで断言した。


「徳永さん、引っ越し明けなのに、今日は一日お付き合いさせちゃってお疲れでしょ?晩御飯ぐらい、わたしに作らせてください。そ、それに」


松は息をのんで、付け加えた。


「これからわたし、お嫁さんになったら、毎日徳永さんのために、お料理することになるんですし、何ていうんですか、その、予行演習ということで」



 必死の訴えが届いたのかどうか、それとも、単に“徳永さんのお嫁さん”というワードが気に入ったのか、彼は


「ああ…なるほど」


とニッコリ笑うと、手に持っていたカゴを素直に松に渡してくれた。


「じゃ、お願いしようかな」



「あ、味の方は保証できないですけど…」



「とんでもない、花家ちゃんの作ったものなら何でも大歓迎。ようやくオレも花家ちゃんのカレーにありつけるかと思うと、感慨深いしね」




 買い物を終え、徳永さんのアパートに到着したころは、すっかり日が暮れていた。


 カイ君はバイトに行っているとかで、いなかった。一階の美容院が営業しているので、階下の暖気のお蔭で少し部屋は暖かった。



「この部屋のメリットだね。光熱費が助かる」


と、彼は笑う。



 松は、エプロンを借りて急いで料理を始めた。


 松が料理をしている間、彼は手際よく部屋を掃除したり、テーブルを片づけたりしていた。その風景があまりに自然で家庭的で松はすっかりくつろいでしまった。



「わたし、今まで、人のために料理したことがなくて」


料理をしながら松は打ち明けた。



「え?」



「こんな素敵な指輪をいただいておきながら言うのもなんなんですけど、わたし、まだ、自分が結婚するっていう実感が湧かないんです。これからわたしは、こんな風に台所に立って、ずっとこうやって、徳永さんの帰りを待ちながら徳永さんのために料理をすることになるんだよなあ、って今、あれこれ未来の自分を想像したんですですけど、それでも全然実感が湧かなくて。でも考えてみたら、当たり前なんですよね。わたし、徳永さんのためどころか、今まで自分以外の人間に、誰のためにだって料理したことなかったんですもん」



 テーブルに二人分のカレーの皿を並べ、彼が松の作ったカレーを食べるのを視界にいれたとき、なぜ今まで“結婚”というものに実感ができなかったのか、松は、その理由が、やっとわかったような気がした。


 つまりは、結婚後のふたりの生活が少しもイメージできていなかったのだ。



「へえ?」


徳永さんは、松の告白にちょっと驚いたらしい。おもしろそうに方眉をそびやかしながら、こんなことを言い出した。


「ふーん。じゃ、花家ちゃんの想像では、僕たちが結婚した後は、花家ちゃんが料理をして、僕に食べさせることになっているんだね?」



「違うんですか?」



「そうだなあ。それも悪くはないけど、オレが作って、花家ちゃんを食べさせるっていうパターンもあるかもしれないだろ?」



「へ?徳永さんがですか?」



「オレ料理するの苦にならないし。自分で言うのもなんだけど、結構上手な方だと思う」



 そういえば、カイ君が、兄貴は俺より料理が上手だって言ってたような。



「花家ちゃんのカレーも美味しいけど」


彼は、松のカレーをほおばりながら言った。


「もちろん、花家ちゃんが作ってくれるっていうのなら、大歓迎だけど。でも料理が苦手なら、敢えてする必要もないよ。得意な方がすればいい。それに、花家ちゃん残業が多いでしょ。家に先に帰った方が料理や家事をするのが理にかなっていると、オレは思うんだけどね」



 松は、ボーっとしてしまった。


 徳永さんが料理をする?


 家に帰ったら、すでに徳永さんが帰宅していて、彼がゴハンを作って待ってくれているのだ。


 なんだか、夢のような話。



「アハハ、嬉しそうな顔になったね」


笑った彼の顔が目の前にあった。


「やっぱり、そっちの方がいいでしょ?」



 途端に松は真っ赤になった。


 いやいやいや!徳永さんに料理を任せちゃうだなんて、考えた事なかったけど、そんなのってアリ?



「なんか、そんな、それは申し訳ないような」



 いや、簡単に浮かれていていいのだろうか。


 彼は今、松の作ったカレーを食べてくれてはいるが、ひょっとしてわたしの料理がマズくて食べられる代物じゃないと思っているとか?


 だから、わたしに料理をさせない方がいいと考えていたりして。



「料理は女がするべきだなんて、気負わなくってもいいって言ってんの。花家ちゃんは、花家ちゃんの得手な事をすればいいんだし」



「わたし得手なことって?」


なんかあったかな。



「さあ、掃除とか?」



「掃除は、徳永さんも不得意じゃないでしょ」



 引っ越しの時、徳永さんの荷物を見たけど、きれいに整頓されてあったし、清潔で、無駄なものはほとんどなかった。三十年も生きてきて、持ち物、これだけなのかと目を疑うぐらい少なかった。弟のカイ君は正反対で、思い出の品と必要なものとゴミと思しきものがごっちゃになっていたけど。



「花家ちゃんは、人の気付かない事によく気が付くでしょ。忘れ物届けてくれたり」



「はあ、まあ」


それって得手な事と言えるのかな。



「オレはどうやら、テンパってくると、忘れ物をする頻度が高くなるみたいなんだよね。だけど花家ちゃんはそういうとこすぐに気が付くみたいだし。だから、花家ちゃんのそういうところは尊敬しているし、これからも期待しているんだよ」



 ナヌ?


 つまりわたしは、忘れ物に気が付いて届ける能力の高さを買われて、お嫁さんに選ばれたってことなのか??



「ぷっ!」



 夢心地から一転して、不満げに膨らませたほっぺたがあまりにおかしかったらしい。徳永さんは、腹をかかえて笑い始めた。



「な、なにがおかしいんですか?」



「今、花家ちゃん、これから自分はどれだけこの人の忘れ物を届けてあげなきゃならないのかって、考えただろ」



「え?」



「早まった決断をしたって、思わなかった?」



 ますます真っ赤になる。


 ああ、徳永さんのいつものパターンにハマってしまった。



「べっ、別に、そんな事少しも考えなかったですけど。で、でも、わ、忘れ物ぐらい、何てことないですよ。いくらでも、どこへでも届けにいきますよ!」



「へえ、ほんと?どこにでも来てくれるのかい?」



「ほほほ、ホントです!なんなら、上海にだって、インドへだって、ニューヨークへだって」



「そりゃ頼もしいな」



 面白そうに、唇をヒクつかせている。ああ、また笑いかみころしているし!



「嘘言いませんよ!今では、ひ、飛行機だって簡単に乗れますもん!そのころには、わたしもきっと英語がペラペラになっているだろうし…」



「英語。そうだよ、まずは社内試験に合格しないとな」


 徳永さんはいきなり表情を元に戻して、真面目に言い始めた。


「結婚するまで、することが山積みだ。何よりもちゃんと親会社の契約社員になってもらわないと」



 ふたりはカレーを食べ終わっていた。


 松は言い出すのがいいころ合いだと思って、今まで気になっていたことを思い切って切り出した。



「あ、あの」



「うん?」



「徳永さんと結婚するなら、わたし、徳永さんのご家族にご挨拶に伺った方がいいですよね?」



 お父様は亡くなっているのは知っているが、松はまだ、徳永さんの親類縁者は弟のカイ君以外に知らなかった。



「オレにはキミを煩わすような家族や親戚はいないんだ。母親とは殆ど絶縁しているし、親戚とも疎遠だし。義己さえ承諾してくれたら、問題ないよ。ただ」



「ただ?」



「斎賀さんには報告しないと」



 そりゃそうだ。斎賀さんは、徳永さんを引き抜いた上司にあたる人だもん。当然だよね。



「斎賀さんには、すぐに報告するんですか?」



「そりゃ、すぐにでも知らせたいところだけど。斎賀さん、この前、ニューヨークに帰っちゃったばかりだからなあ」


 徳永さんは顎に手をあてて考え始めた。


「オレもしばらくはあっちへの出張はないし。まあ、電話かメールで言ってもいいんだけど。だけど、あの人、自分が一番最初に紹介してくれないとスネそうだし」



「は?」



「斎賀さんのいないところで婚約を公表したら、なんか後からネチネチ言われそうで」



「そんな事を言う人なんですか?」



「あの人、普段は気さくというか大雑把なところがあるくせに、意外と細かいところもあるんだよなあ。となると、いつ報告することになるか」



 徳永さんは本当に困っているようだった。


 そういえば、指輪を渡すときも"本当は、斎賀さんに報告してからプロポーズするつもりだった"なんて言っていたっけな。


 そういう意味では、彼にとって斎賀さんは、ご家族と同じぐらいか、それ以上に重要な人なのかも。



「じゃ、公表するのはその時の方がいいですよね?斎賀さんに直にお会いできるのいつになりそうなんでしょうか」



「今年の六月頃に、定例の役員会が東京であるから、その時になるかな」



 六月。社内試験の後か。


 そういえば、彼もプロポーズは社内試験の後にするつもりだったって言っていたっけな。


 ほんとは、松の社内試験が終わって合格を確認してから、彼は松にプロポーズするつもりだったに違いない。


 そして、東京で斎賀さんに報告して公表するつもりだったのだろう。ひとつの予定が変わると、こうやって、ほかの予定も少しづつ影響がでてしまうんだ。



 

 松は空の皿をもって立ち上がった。そして、ふたりでキッチンにならんで洗い物をした。

 

 時折英語をまぜながら、会話をした。


 ふたりで買い物し、彼の部屋で松が料理したものを二人で食べ、二人で片づけをする。夫婦とまで言わなくとも、やっと、普通のカップルらしさが出てきて、ようやく実感がじわじわと湧いてくる松であった。


 が。



「あ、あの…」



「ん?」



 シンクの前に立って洗い物をしている隣で、徳永さんが布巾で食器を拭いてくれるのだが、どうしてこんなに距離が近いのだろう。


 さっきから徳永さんの息が耳にかかってくすぐったいんですけど。



「ち、近くないですか?」



「近くないだろ」



「肘があたりそうになっていますけど」



 肘どころか、彼の胸が松の背中にくっつきそうになっているし、それにさっきから、食器を拭く片手間に、徳永さんのきれいな指が松のウエストのあたりをふらふらしているのはなぜなんだろう。



「ああ、ごめんね。ここのキッチン狭くって。二人はやっぱりきついよな」


と、彼はシレっと答えるだけで、離れようとしない。


 そればかりか、無意味に背中から腕をまわされて抱きしめるようなしぐさを見せるので、松は、洗い物をしながら卒倒しそうになっていた。


 いやいやいや!確かに後ろ側に隙間はないけど、横にだったらいくらでもズレることできると思うんだけど!



 ほんのちょっとの洗い物だったのに、ものすごい疲労を感じながら、松は逃げるようにもとの食卓のあるスペースに戻って座ろうした…いや、座ろうとしたが、徳永さんが真横にピタリと寄ってきそうな気配がしたので、慌てて、そして何気ない感じを装いながら向かい側の席に移動した。


 徳永さんはちょっと寂し気に唇を結んでいたが、松は気づかないふりをした。


 これはもしかして、いや、もしかしなくとも、朝から期待…じゃなかった、予測していたような、のっぴきならない事態にコトが発展しそうになっていているのだろうか?


 そう思うと、体中の毛穴から汗が一気に吹き出しそうだった。


 彼は正面の椅子に座って、悩まし気に松の方ばかりを見ている。


 こんな風にみられるのは初めてだ。


 まるで上から下まで値踏みされているかのようじゃないか。




 松は、視線を落として膝の上で手をもみ絞った。


 こんな場合、どうすればいいんだろう。


 徳永さん、そんな風に眺めていないで何か言ってくれたらいいのに。


 それともわたしから何か言うのを待っているのかな。


 どうしよう…この雰囲気って、シましょうっていう合図なの?


 とはいっても、まさか松の方から


「徳永さん、その気になっているんですか?じゃあシましょうか」


と、言えるはずもなく。



 徳永さんは不自然なぐらい強烈な視線をこちらに向けていた。


 優し気でいやらしくはないが、何か意図をもって見ている目だ。


 見られれば見られるほど、心臓の鼓動が早まり、松の頭はぐらぐらし始めていた。


 いや、呼吸が耳にふれただけで真っ赤になって硬直してしまうのに、今のわたしに“そんなこと”できるのだろうか、と、自問自答している自分もいる。


 どうしよう。


 ここは思い切って、徳永さん、何考えているの?


 と、尋ねるべきなのだろうか。


 経験のない松にはさっぱりわからない。


 彼は今、私の方から、わたしのハジメテをささげましょうか、と言うのを待っているのかもしれない…




 松は何を思ったのか、いきなりマジメな英語のトークをやり始めた。


 授業でもないのに松が自ら、ベラベラと英語を話しだすなんて珍しいことであったが、この重苦しい雰囲気が耐えられず、文法や喋り方が合っている事など気にもせず、立て板に水の如く喋り続けた。


 彼は最初、ものすごく意外そうな顔になっていたが、そのうちいつもの会話授業になって、松の文法や間違いを厳しく指導し始めた。


 その後一時間以上もそれが続いた。


 松は、まるで挑戦者のように、彼に食いついて行った。


 彼との会話は、気を抜くと瞬くまにワードが遠方に飛んで行ってしまうので一瞬たりとも気が抜けない。


 なんとか必死にくらいついてこなす事一時間以上頑張ったところで、今日一日色んな意味で緊張しまくっていた松の神経は、一気にこと切れた。


 彼女は口を閉じると、ぐったりとした頭を顔をテーブルにつっぷして、目を閉じた。



「ちょっと休憩にしようか」



 徳永さんは、さっきの食料品店で買ったミカンを食卓に出してくれた。


 松は、ミカンの皮をむいて口にいれ、フルーティーな酸味を下の先で感じながら、徳永さんの眉間のあたりをぼんやりと眺めていた。


 相変わらずりりしい眉である。


 さっきのものうげな表情はナリを潜めて今は英語教師のモードになっており、危険な雰囲気はまるで感じられない。



 ちょっと残念に思っている自分は、いったい何なんなのだろう。


 せっかくいい雰囲気になっていたのに、自らぶちこわしてしまった。


 最初から、素直に従ってここで彼に“差し上げて”しまえばよかったんじゃないの?


 松は薬指に煌めく白い輝きに視線を移した。


 バカだなあたしって。


 こんなんじゃ、どんなにセクシーでエッチな紐状のレースのパンツを履いたところで何の役にも立たないじゃないか。


 ホッとするようながっかりするような妙な気持ちが胸の中でもやもやと渦巻いていた。


 時計を見ると、夜の八時をまわっていた。



「疲れたかい」



「あ、いえ、徳永さんの方がお疲れでしょ?わたしそろそろお暇します」



「まだそんな時間じゃないだろ」


ちらと時計を見やりながら徳永さんは言った。


「ここからキミの家までそう遠くないし、もっとくつろいでいけば?ハーブティーでもいれよう。そこのソファーにでも座って待っていて。話したいこともあるし」



 松は言われた通りに、食卓からソファーに移動した。


 話?


 何を話すことがあるのかな。


 まさか、 「今からシようか」なんて改まって言われたりするんじゃないよね。


 徳永さんは台所でお湯を沸かし、いい匂いのするハチミツ入りのカモミールティーをテーブルにもってきてくれた。


 そして、自分も微妙な間をとって松のとなりのソファーに腰かけた。



「どうしたの、顔が赤いけど」



「えっ、そうですか?何でもないですけど」


松は慌てて否定した。



「これ、頂きもののブッセなんだけど、口に合うかな?」



 松は顔をほころばせた。


 疲れた頭にブッセは嬉しかった。


 甘いものは大好きだ。


 一つ目のブッセを瞬く間に平らげ、二つ目に手を伸ばしながら、二杯目のハーブティーを飲み終わったとき、だいぶくつろいできて、瞼がトロンと重くなってきた。



「寝たかったら、寝ていいよ」



「寝ませんよ。ちゃんと起きています、家に帰らなくちゃならないし」



「時間になったら、起こしてあげるから、寝てていいよ」



 目の前のイケメンは、さっきの鬼教師とうってかわってとても親切だ。


 松は、この人と結婚して、この人の奥さんになって、この人が本当に自分の夫になるんだなあと夢見心地で何度も何度も心の中でつぶやいた。


 仕事人間でロボットと言われていて、家庭のことなどまるで顧みないと言われていたこの人が、実は料理が得意で、夕食を準備して家で奥さんの帰りを待ってくれるという。こんな贅沢な話があるだろうか。



「そのまま寝たら風邪ひくから」


 いつの間に毛布が用意されていて、ふわりと松の体にかぶせられた。


 その感触が心地よくて、松は、繭のように体を丸め、毛足に顔をうずめクンクンと鼻をならした。


 まるで草原のような…これが徳永家の香りなのかな。



「花家ちゃん」


と、遠くの方で呼びかけているのが聞こえるが、眠くて舌が動かない。すると


「ショウ」


と、彼が松を呼びなおすのが聞こえた。



「ちょっと話してもいいかな」



「はい?」


あ、そうだったっけ。話があるって言っていたっけ。


 重い瞼をもちあげながら、松は答える。


 ああ、ここで眠ってしまったらだめだ。


「何でしょう」



「さっき、斎賀さんに報告しないといけないって話をしたでしょ」


 


「はい」



「オレ、その前に花家ちゃんのご両親に挨拶したいと思っているだ」


と、彼は言った。



「うちの親にですか?」



「うん、そう。結婚の挨拶に伺いたいからいつがいいか聞いておいてくれる?」



 結婚の挨拶?


ああそうか、徳永さんがウチの両親に会いに行くって言っているんだな。


 松は、コクリと頷いた。


 すると彼は、満面の笑みを浮かべて、


「頼むよ」


と言った。



「眠たそうだね」



「そうですね、帰るの面倒くさくなっちゃう」



 松は体を起こして座りなおした。時計は九時半を指していた。



「もうちょっと寝てる?」



「でも、もう遅いので帰らなきゃ。明日は仕事だし」


松はそういうと、椅子からズルリとずれて起き上がろうとしたが、膝に力が入らず、床に座り込んでしまった。



「大丈夫?」



 徳永さんが慌てて松の体を支えるために近寄ってきた。どうしたんだろ。急に疲れがでたのかな。ものすごく、眠くてしかたないんですけど…



「別にウチは泊まっていってくれてもいいけどね。明日ここから出社してもかまわないし」



 松はアハハと軽く笑った。


 そうだよね、どうせ結婚するのなら今から一緒に暮らしたっていいわけで。


 あ、でも、着替えがないかな。



「花家ちゃん?」



 松は床の上で座りこんでひざ掛けを抱きしめた状態で、くるんとまるくなってしまった。


 お酒を飲んだわけでもないのに、どうしてこんなに眠いの。



「花家ちゃん、ここで寝ちゃだめだって」



 徳永さんの声が聞こえる。



「そうですね…」


松はぼんやりと言った。


 が、一向に立ち上がろうとしない。


 どうしちゃったの、あまりに居心地よくて体が床に縫い付けられたみたいに動かなくなってしまった。



 松は半分夢を見ていた。


 松は自分が彼と一緒に両親の前で並んで


『私達結婚します。私達はとても愛し合っているのです』


と宣言している姿が浮かんできた。(父親は義父だったのか、実父だったのかわからなかったが)。


 母は嬉しそうに目じりをよせて、


『それはおめでとう』


と、心からの祝福の言葉を口にしていた。


 それを聞いて松は幸福をかみしめた。


 徳永さんの唇が近づいてきて、ふたりは近いのキスをしようとした。


 が、その空想だか夢のような光景は、霞が消えるようにすうっと失せてしまった。


 どうしてだろう。何が起こったというのだろうか。



「徳永さん」


と、松は言った。



「ん?」



「わたし、夢を見ていたんです。結婚の挨拶にいったら、うちの親がとても結婚を喜んでくれているの」



「へぇ、そりゃよかったな」



「それでね…」



 再び意識が遠くなる。


 喜びに満ちた母の顔がまた瞼の裏に現れた。


 母は手を差し伸べ、松を手招きしていた。


 そしてこういったのだった。



『じゃあ、社内試験には受かったんだね?』



『え?』



『試験に受かって、親会社さんの契約社員に採用されたんだね?』



『え…』



『まさか、何の予定も立てずに勢いで結婚しようだなんて、そんな厚かましい考えでいるわけじゃないだろうね?』



 母の顔は、ニコリと笑ったまま固まっていた。


 それがとても恐ろしくて、思わず松は徳永さんの胸にしがみついてしまった。


 冷や汗を感じながら、松は、目を見開いた。


 

 気が付いたら、徳永さんの胸が目前にあって、なぜか松の腕は彼の広い背中にまわされていた。


 松はなぜ、いつの間に、このような体制になったのかわからなかった。



「まいったなあ」


徳永さんは小さくつぶやいた。


「前にも言ったでしょ?オレ、据え膳は食う主義だって」



「へ?」



「今度こそ遠慮しないけど、それでもいい?」



 なにがいいのだろうか。


 据え膳っていったい何のこと?



「ここじゃ嫌?」


彼は大真面目に尋ねた。


「ベッドに行こうか」



 ベッド?



「ああ、その前にシャワー浴びてくる?」



 シャワー?



 その言葉に何かを連想した松は、一気に正気を取り戻した。


 松はガバリと身を起こし、姿勢を正そうとしたが、たくましい男の力でがっちりと捕まえられてしまっていて、身動きひとつできそうになかった。




<46.二人きり>へ、つづく。



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